goo blog サービス終了のお知らせ 

愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題473  歌と漢詩で綴る西行物語-25 心と身と

2025-06-16 09:36:38 | 漢詩を読む

 “雲居の月”とは、宮中の高貴な女性を想像させ、また涙に濡れた“袖に宿る月影”は、恋しい想いが遂げられず、萎れているさまを思わせる。さほどに西行が想い焦れる女人とは、先人の誰しもが待賢門院璋子(タマコ)を挙げており、異論を挟む余地はなさそうである。

<和歌-1>

知らざりき 雲居のよそに 見し月の 

  影を袂に 宿すべしとは  [山617] 、千載集十四 

 なお、『山家集』中、掲歌と並んで、次の歌を載せている。≪哀れとも見る人あらば 思いなん月の面に宿る心を [山618]≫ (概意)「月を慕う我が“心”は我が“身”から離れて、月に行き、宿っているのだ、これを哀れと思う人がいたなら、それもよし」と。「わが想いに揺るぎはないよ」と。

 

 待賢門院璋子は、仁和寺法金剛院において出家 (1142)、その3年後没する(45歳、1145)。女院に仕えていた女房たちは、一周忌の明けるまで女院の三条高倉御所で喪に服していた。喪が明ける春、桜の頃、待賢門院の女房・堀河の局に贈った西行の歌である。

<和歌-2> 

尋ぬとも 風の伝(ツテ)にも 聞かじかし

  花と散りにし 君が行くへを [山779] 

 この西行の歌に答えて、堀河の局は≪吹く風の行方知らするものならば花と散るにも後れざらまし [山780]≫ (概意)「風が花の行方を知らせてくれるものなら、後れることなく院と連れ立っていますよ」と、殉死を厭わない思いを訴えている。

 

 

和歌と漢詩

ooooooooo

<和歌-1>

  [歌題] 月

知らざりき 雲居のよそに 見し月の 

  影を袂に 宿すべしとは  [山617] 、千載集十四、

 [註]〇雲居のよそ:空のかなた、“雲居”は月の縁語、宮中にもいう; 〇影:光の意、“影を袂に 宿す”とは、“涙に濡れた袖に月光が映ること”の比喩である。

 (大意) 思ってもみなかった。遠い空の彼方に仰ぎ見る、月にも比すべき人に思いをかけ、叶わぬ恋故の涙に濡れた袖に、月を宿さなければならないとは。

<漢詩>

  遥遠恋人  遥か遠くの恋人    [去声二十六宥韻]

出乎意料啊, 出乎意料(オモイモヨラヌコトデアル)啊, 

雲外月清透。 雲外に月 清らかに透(トオ)る。

恋慕只増強, 恋慕は只(タダ)に増強(ツヨマ)り,

知月宿予袖。 月が予(ワ)が袖に宿るを知る。

 [註]〇出乎意料:<成>思いのほか、出乎:…の範囲を超える、意料:予測する; 〇啊:感嘆詞、驚きや賛嘆を表す; 〇雲外:空のはるか遠くのところ、雲上。

<現代語訳>

  手の届かぬ恋人

思いも寄らぬことであるよ、

雲外に見ている 清く澄んだ月影。

その月への恋慕は 只に強まり、

今や、我が袖の涙に宿るようになっている。

<簡体字およびピンイン>

     遥远恋人      Yáoyuǎn liànrén 

出乎意料啊, Chū hū yìliào a,   

云外月清透。 yún wài yuè qīng tòu.   

恋慕只増强,Liànmù zhǐ zēngqiáng,    

知月宿予袖。zhī yuè sù yú xiù.   

 

<和歌-2> 

  [詞書]:待賢門院、かくれさせおはしましける御あとに、人々またの年の御はてまで候はれけるに、南面の花散りける頃、堀河の局の許へ申しおくりける

尋ぬとも 風の伝(ツテ)にも 聞かじかし 

  花と散りにし 君が行くへを [山779] 

 [註]〇待賢門院:鳥羽天皇皇后藤原璋子、崇徳・後白河院の御母、藤原公実の女。久安元年(1145)八月崩御、45歳; 〇御あと:待賢門院の三条高倉御所;〇またの御はてまで:一周忌の喪のあけるまで; 〇堀河の局:待賢門院に仕え、門院の落飾の際、従って尼となった。『金葉集』以下の勅撰集作者。中古六歌仙の一人; 〇風の伝にも:風の便りにも。

 (大意)花となって散ってしまった君の行方は 如何に尋ねても、風の便りにも聞くことはできないでしょうね。 

<漢詩> 

 哀悼院薨     院の薨(コウ)ずるを哀悼(イタム)          [上平声二冬韻]

君散為花去, 君 花に為(ナ)って散り去る, 

誰知此行蹤。 誰か知らん 此の行蹤(ユクエ)を。 

縦令尽全力, 縦令(タトイ) 全力を尽くすとも, 

連風不能逢。 風 連(サエ) 逢うこと不能(デキナカ)ろう。 

 [註]〇院:待賢門院; 〇行蹤:行方。

<現代語訳> 

 待賢門院の薨御を悼む  

君は花となって散ってしまった、

この行方を誰か知らないでしょうか。

たとい全力を尽くして尋ねまわっても、

風でさえ逢えず、行く先を伝え聞くことはできないでしょうね。

<簡体字およびピンイン>

 哀悼院薨     Āidào yuàn hōng 

君散为花去, Jūn sàn wéi huā qù, 

谁知此行踪。 shuí zhī cǐ xíngzōng.

纵令尽全力, Zònglìng jìn quánlì, 

连风不能逢。 lián fēng bù néng féng.

ooooooooo  

【歌の周辺】

 西行出家前の20歳前後、徳大寺家に仕えていた頃、徳大寺実能(サネヨシ)の随身として、または鳥羽院の北面の武者として院の身辺に侍していた、また安楽寿院三重塔の落慶供養に先立って、鳥羽院の下検分に当たって、実能と義清だけがお供をするなど、鳥羽院に近づく機会は多々あった。すなわち、待賢門院を垣間見る機会はかなりあったと想像される。

 美貌で、非常に魅力的であったと評判の待賢門院璋子、その姿が脳裏に焼き付いて離れない、いや、“心”が“身”から抜け出て、出家後に至ってもなお、待賢門院から離れない、“身”に帰って来ないという状況でしょうか。 

 亡くなった待賢門院は、自らの御願で、仁和寺の近くに建立された法金剛院三昧堂に祀られた。後に法金剛院では歌会が催されているが、ある秋の歌会で、西行は、袂を濡らす涙が燃えている紅葉の色に似ている と詠っている。ことほど左様に、西行の待賢門院への思慕は激しいものであった。

 なお、仁和寺には待賢門院の第2の皇子・覚性(カクショウ)親王が出家して御室門跡(オムロモンゼキ)となっている。待賢門院の没2年後には、実能が、仁和寺の東・衣笠山の麓に徳大寺を建立している。仁和寺を中心にして、東に徳大寺、南に法金剛院と密接な関連をとって配置されており、血の繋がりを大切にしていたことが伺える。

 保元の乱の際、崇徳院が戦を逃れて仁和寺に至り出家し、西行が馳せ参じたことは先に触れた。またその乱の直前に、徳大寺は放火され、灰燼と化している。

                     

井中蛙の雑録

〇待賢門院堀河の局は、優れた歌人である。1150年、崇徳院は14名の歌人を選び、百首の歌を 詠進させ、『久安百首』の編纂を藤原俊成に命じた。堀河の局も詠者の一人に選ばれ、その折の作は、後に定家が編んだ『百人一首』にも撰ばれた。『百人一首』80番の次の歌がそうである。非常に官能的な歌であるが、歌会での題詠であり、創作歌であろう。 

ながからむ 心も知らず黒髪の 乱れてけさは 物をこそ 思へ

 (大意)あなたは ‘私への愛は長しえに変わりませんよ‘と仰せられたが、これから先は計り知れず、今朝の乱れた黒髪のように、心が千々に乱れる私です。

    本歌については、かつて漢詩化を試みていますが、やはり漢詩にすると固くなります。なお、堀河の局は、女房三十六歌仙および中古六歌仙の一人に選ばれている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題472  歌と漢詩で綴る西行物語-24  心と身と

2025-06-09 09:10:44 | 漢詩を読む

 出家直後、都の周囲の山々で、東山から鞍馬にと庵を結んで過ごしてきた。いずれも満足のいく場所とは言えず、特に、鞍馬では、生活に支障をきたす厳寒に遭い、都の春に思いを遣るという経験をした。

 北山には初夏の季節にもいたようで、病にかかり、「死出の山路」に一人でいることを想像する歌を残している。北山で幾年過ごしたかは不明であるが、早い時期に嵯峨に移動している。ここに読む歌は、嵯峨の小倉山の麓に庵を結んだ折の作である。

 小倉山の麓近く、庵に住まい、鹿の鳴き声を快く聞くほどに、こころ穏やかな状況になったようである。

<和歌-1>

牡鹿なく 小倉の山の すそ近み

  たゝひとりすむ 我が心かな  [山436]

 

 出家したとは言え、昔の仲間との交わりを断つわけでもなく、また隠れ住むわけでもない。なお都恋しさが胸の内に沸々として湧きあがり、世を捨てきれずに嘆いている西行である。これではならじ との反省の想いから、改めて初心に帰って、きっぱりと世間との繋がりを断つことにしよう と詠っています。

<和歌-2>

捨し折の心をさらに 改めて 

  見る世の人に 別れ果てなん  [山1418] 

 

和歌と漢詩

ooooooooo

<和歌-1>

 [詞書] 小倉の麓に住み侍りけるに鹿の鳴きけるをきゝて

牡鹿なく 小倉の山の すそ近み 

  ただひとりすむ 我(ワガ)心かな  [山家集436] 

 [註]〇小倉の麓:西行は出家直後、鞍馬や東山あたりに住んだが、その後(25,6歳頃)また嵯峨に移った。今も小倉の麓、二尊院の手前に結庵の跡という; 〇ただひとりすむ:「住む」に心「澄む」を掛けた。

 (大意) 小倉の山の麓近くに庵を結んで一人で住んでいると、牡鹿の鳴く声が聞こえてきて、心が洗われて澄んでくる。

<漢詩> 

  心沈着   心 沈着(シズマ)る     [下平声十蒸韻] 

真想小倉麓、 真想(シンソウ) 小倉(オグラ)の麓、

結庵唯枕肱。 庵を結び 唯(タダ)に肱(ヒジ)を枕にす。

呦呦聞接近、 呦呦(ヨウヨウ) 接近(マジカ)に聞き、

婉婉覚心澄。 婉婉(エンエン)として 心の澄(ス)むを覚(オボ)ゆ。

 [註]〇真想:本来の自己を全うしたいという思い、隠逸への希求; 〇呦呦:鹿の鳴き声; 〇婉婉:ゆったりと落ち着いたさま。

<現代語訳>  

 心静まる 

隠逸への想いを胸にして小倉山の麓に住み、

庵を結んで 独り住み肘を枕に横になる。

ヨウヨウと、牡鹿の鳴き声が間近に聞こえて、

落ち着いて、心が澄んでくるのを覚える。

<簡体字およびピンイン> 

 心沉着             Xīn chénzhuó 

真想小倉麓。 zhēn xiǎng xiǎocāng lù.  

結庵唯枕肱、 Jié ān wéi zhěn gōng,      

呦呦聞接近、 Yōu yōu wén jiējìn,   

婉婉覚心澄。 wǎn wǎn jué xīn chéng.  

 

<和歌-2> 

捨し折の心をさらに 改めて 

  見る世の人に 別れ果てなん [山1418] 

 [註]〇捨し折:世を捨てた時; 〇さらに 改めて:心をもう一度新たに奮いおこして; 〇みる世:目前の俗世; 〇別れ果てなん:別れきってしまいたい。

 (大意)世を捨てて出家した時の心を改めて思い起こし、世の人々とは、はっきりと別れきってしまおう。

<漢詩>  

 完成遁隱行        遁隱行を完成せん       [下平声八庚韻]

我已実行元宿願, 我 已(スデ)に元(モトヨリ)の宿願を実行した、 

重新回憶初志誠。 重新(アラタメ)て初めの志誠を回憶(オモイオコ)そう。 

須傳夥伴我深意, 須(スベカラ)く夥伴(ナカマ)に我が深意(ムネノウチ)を傳えん, 

然後完成遁隱行。 然後(ソコ)で遁隱の行(ミチ)を完成(ナシハタ)そう。 

   [註]〇重新:改めて; 〇回憶:思い起こす; 〇志诚:まごころ; 〇夥伴:仲間、同僚;〇深意:深い含み、深い意味; 〇遁隱:隠遁する; 〇行:道。

<現代語訳>

  隠遁を果たす 

私は元々抱いていた出家するという宿願を果たした、

改めて初心の想いを思い起こそう。

仲間たちに我が胸の内を伝えて、

そこで隠遁の道を完遂(カンスイ)しよう。

<簡体字およびピンイン>

 完成遁隐行       Wánchéng dùn yǐn xíng 

我已实行元宿愿, Wǒ yǐ shíxíng yuán sùyuàn, 

重新回忆初志诚。 chóngxīn huíyì chū zhìchéng.  

须传伙伴我深意, Xū chuán huǒbàn wǒ shēnyì,  

然后完成遁隐行。 ránhòu wánchéng dùn yǐn xíng.

ooooooooooooo

【歌の周辺】

出家と遁世について:

 出家とは、仏教関連用語として、一義的には、家を出て家族や氏族との血縁を断ち、仏教教団で受戒して、頭髪を髻で落として修行僧になることである。以後、身は教団組織に属していて、将来、僧衣・僧官の衣を身に纏う道がある。

 遁世とは、家を出て家族や氏族との血縁を断つという点では、出家の意に重なるが、何らの教団組織に属することなく、山間での孤独な修行を積むことである。すなわち、教団組織の拘束から脱出して、心を自由な世界に遊ばせるという風雅な趣が感じられる。

 西行は、遁世の道を行きつつあるように思われる。<和歌-2>では、一義的な意味での“出家”は果たしたが、ここで立ち止まって、隠遁の世界に進むよう、決意を新たにしたように読んで、漢詩としました。

 

≪呉竹の節々-12≫ ―世情― 

 これまでに世の中の大きな流れを”保元の乱” (1150)を経て“平治の乱”(1159)まで見てきました。西行の歌の遍歴の時間軸に比して、はるかに先を行く進行です。ここで立ち止まり、西行が出家(1140)後、都周辺の草庵を転々としていた頃から数年間の西行並びに周りの世の中の動きを整理しておきます。

 鳥羽上皇が出家して法皇となる(1141)。法皇の意により、崇徳天皇が譲位し、近衛天皇が3歳で即位するが、この際、崇徳天皇は上皇としての資格なしとして、院政を敷くことができなかった。ここで保元の乱勃発の種が撒かれたことは先に触れた(閑休454~460)。

 近衛天皇の母御、女御藤原得子が皇后となり、美福門院と号する。1142年1月19日、美福門院を呪詛したとして、待賢門院に仕える夫婦が流罪となる。何らかの闇を思わせるできごとではある。同2月26日、待賢門院璋子は、仁和寺法金剛院において出家します。院に仕える堀河局および中納言の局も出家する。 3月15日西行は、『台記』の著者・藤原頼長を訪れ、待賢門院結縁の一品教書写を務めたことは、先に触れた(閑休449)。『台記』は、西行の出家年齢を知る貴重な資料であった。

  5歳の娘を葉室家の冷泉殿に養女として預ける。一方、妻は高野山麓の天野に出家する。

 

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題471 歌と漢詩で綴る西行物語-23 心と身と

2025-06-02 10:08:12 | 漢詩を読む

 出家後しばらくは都の周りに庵を結んで住まい、転々と遁世の生活を送っていたが、次に読む歌は、いずれも出家直後、東山に庵を結んでいた頃の歌のようである。時に都の生活に未練の気持ちが湧いてくるのである。今にも戻ろうかと思う反面、それはならぬ と自ら言い聞かせて、危ないことであった、木曽の懸け橋を渡るようなものだ と思いとどまる。

<和歌-1>

ひときれは 都を捨てて 出づれども 

  巡りてはなほ  きその懸橋(カケハシ) [山1415]

 

 『山家集』では、和歌-1に続いて、≪捨てたれど隠れて住まぬ人になれば 猶世にあるに似たるなりけり [山1416]  (概意)世を捨てたとしながら、遁世と言うにはほど遠く、出家前と変わらぬ生活を送っているではないか≫と、自ら反省している風である。恐らくは、仲間の来訪が多かったのでしょう。

 

 葛藤に苛まれながらも、心を静めて自省して思う。次の和歌-2では、気持ちの上では、身をも捨てなくては としながらも、身ごと都を離れるのは難しいことであるよ、と。先に(閑休458)、“心”はすでに身を離れて山奥にいっているよ、と“わが身”自らに出家を催促する風であったが、今や、“身”が都を離れるのにしり込みしているよ、と歌う。

<和歌-2>

世の中を 捨てて捨てえぬ 心地して

  都離れぬ 我が身なりけり [山1417] 

『山家集』中、和歌-2は、上の2首に続いて載っている歌である。義清は、決心の上、出家を決行したとは言え、出家・遁世することの難儀さを思うのである。

 

和歌と漢詩

ooooooooo

<和歌-1>

ひときれは 都を捨てて 出づれども

  巡りてはなほ きその懸橋(カケハシ) [山家集1415]

 [註]〇ひときれは:一時は、“ひときりは”と同意;〇巡りては なほ きその懸橋:木曽の桟道などをめぐって、再び都に帰って来る、という意。「きそ」に「木曽」と「来そ(来るな)」とを掛ける:〇きその懸橋:木曽の懸橋、危ないことの譬え。

 (大意)いったんは都を捨てて出家したけれども、巡りめぐってまた戻ってきそうな危ういところながら、戻ってはならぬのだと悟る。

<漢詩>

 覚醒在迷路   迷路で覚醒       [下平声十一尤韻]

片刻出家捨都啊,片刻 出家し 都を捨てしや,

時遷流浪不堪愁。時遷(ウツ)りて 流浪し愁(ウレイ)に不堪(タエズ)。

来到旁辺木曽桟 木曽の桟(カケハシ)の旁辺(ホトリ)に来到(イタ)り,

認識渡桟不対頭。桟を渡るは不対頭(マチガイ)なること認識す。

 [註]〇片刻:しばらく、片時;〇木曽桟:木曽の懸け橋;〇不対頭:見当違いである。

<現代語訳>

 迷路に目覚める

しばらく前に、都を捨て、出家したのではなかったか、

彷徨い、時は巡って、愁いに堪えず。

木曽の懸け橋のほとりに差し掛かって、

橋を渡り、都に帰るは、間違いであると悟り、思い留まる。

<簡体字およびピンイン>

 在迷路觉醒   Zài mílù juéxǐng

片刻出家舍都啊,Piànkè chūjiā shě dū a,

时迁流浪不堪愁。shí qiān liúlàng bù kān chóu.

来到旁边木曾栈,Lái dào pángbiān mùcéng zhàn,

认识渡栈不对头。rènshi dù zhàn bù duì tóu. 

 

<和歌-2>

世の中を 捨てて捨てえぬ 心地して

  都離れぬ 我が身なりけり [山1417]

 (大意)。世を捨てたつもりだが、捨てきれない心地がして、都のことが懐かしく偲ばれて、都を離れない我が身であるよ。

<漢詩>

 懐念故都心 故都(ミヤコ)を懐念(シノブ)心     [上平声四支韻]

我想舍塵世,我は思う、塵世を捨てし と,

看来何所之。看来(ミ)るに 之(ユ)く所は何(イズコ)か知らず。

懐念故都屡,故都(ミヤコ)を懐念(オモイシノブ)こと屡(シキリ)にして,

余身猶住茲。余が身は、猶(ナオ) 茲(ココ)都に住(トドマ)る。

<現代語訳>

 都を思い偲ぶ心

私は、憂き世を捨てたつもりでいるが、

これから先、行くべき所を知らず。

しきりに都が想い偲ばれて、

我が身は猶ここ都を離れず、留まっているようだ。

<簡体字およびピンイン>

 怀念故都心  Huáiniàn gù dōuxīn 

我想舍尘世、  Wǒ xiǎng shě chénshì,

看来何所之。  kàn lái hé suǒ zhī.

怀念故都屡、  Huáiniàn gù dōu lǚ,

余身犹住兹。  yú shēn yóu zhù . 

ooooooooooooo

【歌の周辺】

 藤原俊成(トシナリ/シュンゼイ)は、平安末、子・定家とともに、当時の歌壇に君臨し、歌道の御子左(ミコヒダリ)家を確立した人である。父・俊忠(トシタダ)の没後、義兄の葉室(ハムロ)家・顕頼(アキヨリ)の許へ養子となり、顕広を名乗っていたが、54歳時(仁安二年)、俊成に改名して実家に復帰した。なお、俊忠には顕頼(アキヨリ)の妹(1)が嫁ぎ、一方、俊忠の女子が顕頼に嫁いでおり、葉室家と御子左家との間は、非常に縁深い関係にあった。

 さて、徳大寺家と葉室家および御子左家との関係を見てみます。徳大寺家・実能(サネヨシ)に顕頼の妹が嫁ぎ、両者の間に公能(キミヨシ)が誕生している。一方、俊忠と顕頼の別の妹の間には女子・豪子(コウコ)が誕生している。公能と豪子の間に誕生したのが実定である。すなわち、実定は、前回の【井中蛙の雑録】で紹介した歌名“後徳大寺左大臣”である。のちに佐藤義清は、娘を顕頼の女子(冷泉殿)に養女として預けている。

 かように、葉室家を挟んで、徳大寺家・御子左家の三家の間は、深い縁続きの関係にあり、ひいては歌世界の面でも交流は蜜であったように想像される。晩年に西行が編んだ『御裳濯河歌合』の判者・俊成は、同書物中、義清(西行)が14,5歳の頃から歌道を相携えてきた旨、述べている。[この項、主に『西行の心月輪』高橋庄次、に拠った]。

 

井中蛙の雑録】  

〇木曽の懸橋(桟、カケハシ)について:

 長野県、木曽八景のひとつ。現在は旧国道の下の石積みにわずかに街道の面影をとどめ、往時の木曽の桟を偲ばせる史跡となっている。かつては、危ういものの代名詞として古くから歌枕にも詠まれ、中山道一の難所と言われた場所。建造当時の構造は不明であるが、木曽川に掛け渡した橋ではなく、木曽川沿いの急峻な渓谷斜面に貼り付くように架けられ、棚のような形をした橋で、岩の間に丸太と板を組み、藤づるで編んだ桟橋であったと考えられている。 

 中国では、「蜀道(ショクドウ)の険」として知られる、成都市から漢中に通ずる難所がある。垂直に切り立った 岩 肌に取り付くように築かれた桟道は、木曽の桟を思わせる、がその規模は遥かに大きく、雄大である。李白が「蜀道の難は、青天に上るよりも難し」と歌った難所である。何より、「三国志」物語での蜀-魏間の“五丈原の戦”に繫がる数度の戦における諸葛孔明の活躍を思い出させる険路なのである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 470  歌と漢詩で綴る 西行物語-22  心と身と

2025-05-26 09:03:36 | 漢詩を読む

  西行は、保延6年(1140)10月15日出家する。以後、都周辺を転々と移動するが、この年末、まず庵を結んだのは東山であった。新年を迎える準備を考えているのであるが、全く生活環境が異なり、どのような準備をしたらよいのか迷っている様子である。

  取り上げた<和歌-1>では、具体的に如何に対処されたかは触れず、皆目不明である。ただ、これまでとは様変わりした準備をされたようではあるが。『西行物語』(桑原博史 全訳注)では、<和歌-1>と並び、次の歌が挙げられている。

    参考までに付記します。≪昔思ふ 庭に浮き木を 積みおきて 見しにもあらぬ 年の暮かな≫(大意)昔のことを思い出しながら、庭に薪ならぬ浮き木(修行)を積んでいて、昔とは全く異なる準備をしたことよ [注:薪/浮き木を積む:仏教用語]。<和歌-1>の内容を示しているようです。 

<和歌-1> 

年暮し その営みは 忘られて 

  あらぬさまなる いそぎをぞする (『西行上人集』310) 

 

  東山は、都に近く、昔の仲間たちが頻りに訪ねてきていた。恐らくは歌会も頻繁に催されていて、出家前とはほとんど変わらぬ生活を送っていたかと思われる。諸々の事柄を振り捨てて出家した身としては、内心割り切れない思いがあったのではないでしょうか。同年冬には鞍馬の奥に庵を結び移りますが、早速、寒冷の山奥で厳しい事態に遭遇します。

<和歌-2> 

わりなしや 氷る筧(カケヒ)の 水ゆえに 

  思い捨ててし 春の待たるる (『山家集』571) 

 

和歌と漢詩 

ooooooooo    

<和歌-1>

 詞書:世を遁れて東山に侍りしころ、年の暮に人々参(マウ)で来て述懐し侍りしに、

年暮し その営みは 忘られて 

  あらぬさまなる いそぎをぞする (『西行上人集』310) 

 [註] 〇忘られて:“忘られで”と、“て”は、清音と濁音いずれの読みもあるが、ここでは、清音を採った(注*参照); 〇いそぎ:準備。

 (大意) 年暮れて、在俗のころの準備事は忘れられて、以前とはまったく違ったかたちの準備をすることにするよ。

   注*:窪田章一郎『西行の研究』。

<漢詩> 

 準備新年  新年の準備する   [下平声一先韻] 

亹亹欲年暮, 亹亹(ビビ)として年(トシ)暮(クレ)んと欲(ホッ)するに, 

遑遑忘古伝。 遑遑(コウコウ)として昔の伝えは忘れる。 

即時臨設法, 即時に設法(タイサク)に臨(ノゾ)む, 

迎接穏新年。 穏やかなる新年を迎接(ムカエ)できるように。 

  [註]〇亹亹:ずんずん時が進むさま; 〇遑遑:忙しく慌ただしいさま; 〇古伝:在俗時にやっていた準備事; 〇設法:対応策を講ずる; 〇迎接:迎える。

<現代語訳>  

 新年を迎える準備 

時は移り、年は暮れようとしているが、

せわしない年末 これまでどのような準備をして来たかは忘れたよ。

直ちに新たな対応策を工夫することにより、

穏やかな新年が迎えられるように準備をする。

<簡体字およびピンイン> 

 准备新年    Zhǔnbèi xīnnián

亹亹欲年暮, Wěi wěi yù nián mù,

遑遑忘古传。 huánghuáng wàng gǔ chuán. 

即时临设法, Jíshí lín shèfǎ,  

迎接稳新年。 yíngjiē wěn xīnnián. 

 

<和歌-2> 

  詞書:世を遁れて鞍馬の奥に侍りけるに、筧(カケヒ)氷りて水参(マウ)でござりけり。春になるまでかく侍るなりと申しけるをきゝてよめる。

わりなしや氷る筧の水ゆえに 

  思ひ捨ててし 春のまたるゝ  [山571] 

 [註]〇参(マウ)でござりけり:流れてこなかった; 〇かく侍るなり:このままの状態である; 〇わりなしや:いたしかたのないことだ、辛いことだ; 〇出家直後、保延六年冬頃の作か(川田順『西行』) 。 

 (大意) 致し方のないことだ、筧の水が氷ったことで、思い捨てた筈の俗世の春が待たれるとは。

<漢詩> 

变故                  变故         [上平声十一真韻]

真豪無辦法, 真(マコト)に辦法(ヤリヨウ)が豪無(カイム)だよ,

水管結冰晨。 水管(カケヒ)に結冰(ケッピョウ)した晨(アシタ)。

欲待融冰季, 融冰(コオリノトケル) 季まで待(マ)つことになる,

曾棄暖氣春。 曾(カ)つて棄てた暖氣(アタタカ)き春まで。

 [註] 〇变故:思わぬ出来事; 〇豪無:少しも…ない; 〇辦法:やり方、手段; 〇水管:筧; 〇冰:氷。

<現代語訳>  

 思わぬ出来事 

真に何とも仕様のないことだ、

朝に 筧の水が氷っていた。

氷の融ける時期まで待たねばならない、

曽て棄ててきた 俗世の暖かな春まで。

<簡体字およびピンイン> 

  变故                 Biàngù 

真豪无办法, Zhēn háo wú bànfǎ,  

水管结冰晨。 shuǐguǎn jié bīng chén. 

欲待融冰季, Yù dài róng bīng jì, 

曾弃暖气春。 céng qì nuǎnqì chūn.    

ooooooooooooo   ooooooooooooo     

【歌の周辺】

    これまで読んできたように、出家に至る間にも、義清は個性的な多くの歌を残しています。その才能はさて置き、いかなる“環境”で育ち、花開くに至ったかは、常々、興味の対象として胸の底に蟠っていました。先(閑休-457)に少々触れましたが、改めて“歌人西行誕生”について 整理していきたいと思います。

 義清(ノリキヨ、西行)は、出家前、14,5歳の頃、閑院流徳大寺家の祖・左大臣実能(サネヨシ)の許に家人として出仕します。徳大寺家にあっては、実能自身そうであったが、実能の父・公実および兄・実行、並びに子息 (猶子?)・公重(キミシゲ)ともに歌人であり、歌人的雰囲気が強かったであろうし、その影響は計り知れないものがあったと思われます。 

 先に(閑休450) 紹介した、洛南鳥羽の離宮・仙洞御所における菊の会において、義清に参加を呼び掛け、誘ったのは、実能の子息・公重であった。恐らく公重と義清は同じ年頃であったでしょう。事ほど左様に、実際の作歌活動にあっても、義清は、徳大寺家の一員としての作歌活動に参画する機会がしばしばあったであろうと想像されます。

 一方、その頃、義清は、藤原俊成(18歳)と親友の契りを結んでいます。藤原俊成は、義清より4歳年上である。晩年、西行は、自歌合『御裳濯河歌合』および『宮河歌合』を編んでいますが、それぞれ、藤原俊成および定家にそれらの判者をお願いしています。

 

井中蛙の雑録

〇後年、藤原定家が編んだ『百人一首』81番に、後徳大寺左大臣の名で次の歌が撰されている:

 ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば ただ有明の 月ぞ残れる 

 作者・後徳大寺左大臣とは、本名 藤原実定(サネサダ)である(拙著『漢詩で詠む百人一首』参照)。実定は、実能の孫で、俊成の母違いの甥に当たる。歌世界での徳大寺家の活動ぶりが伺い知れます。併せて徳大寺家に身を置くことによる義清の作歌活動の広がりが思われます。 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 469歌と漢詩で綴る 西行物語-21  心と身と

2025-05-19 09:33:01 | 漢詩を読む

  終に出家の決心をします。既に“心”は“身”を離れて山奥に行っている。その先陣を切っている“心”に対し、成り行きをしっかりと見守っていてくれよ、続いて“身”が出て、遂には“我全体”が、世を遁れて行きます から、と決心のほどを詠んで、訴えています。

<和歌-1> 

さてもあらじ今見よ心思ひとりて 

      我が身は身かと我もうかれむ  [松屋本山家集 雑から] 

  

 行きつ戻りつ、諸々のしがらみを断ち、また色々と悩みながら、健気に憂き世を遁れて、新しい世界へと飛び出しました、23歳である。将に鈴鹿山の峠を越した思いでしょう。しかしこの先、如何なる事どもが待ち構えているかと、胸中、希望と不安とが交錯した状況にあるようです。

<和歌-2> 

鈴鹿山うき世をよそにふり捨てて

  いかになりゆく我が身なるらむ   [山728]、新古今十七  

 

和歌と漢詩 

ooooooooo    

<和歌-1>

  詞書:思いをのぶる心五首人々よみけるに 

さてもあらじ 今見よ心 思ひとりて 

  我が身は身かと 我もうかれむ     [松屋本山家集* 雑から] 

 [註]〇さても:それにしても、そのままでも; 〇思いとる:思いを定める、決心する、; 〇浮かれる:浮かぶ、出て行く。

 (大意) さてさて ”心“は已にここにはない、心よ 今に見ていてくれよ 思い定めて、追ってわが身は”身“として世を捨てるよ、そこで”我“も世捨人として、浮かばれることになる。

 注*)松屋本 :文明社刊西行全集所引小山田与清旧蔵本

<漢詩> 

 下決心遁世              遁世の決心を下す                    [上平声四支韻 ] 

応見心真不在茲,    応(マサ)に見るべし心は真に茲(ココ)には不在(ナ)きことを, 

心啊監視事推移。 心(ココロ)啊(ヨ) 事の推移を監視していてくれ。

随後我懷吧身舍、 随後(ツイデ) 我身を舍(ス)てようと懷(オモ)う、

終于遁世為法師。 終于(ツイニ)は世を遁(ノガ)れて法師と為(ナ)らん。

 [註] 〇茲:此処、塵埃の世; 〇随後:継いで、続いて。

<現代語訳> 

  出家の決心する

まさに我が心は、此処塵埃の世から離れているのだ、

心よ これから事の推移をよく見ていてくれ。

継いで私は身を捨てる心算であり、

終には遁世して法師となるのだ。

<簡体字およびピンイン> 

 下决心遁世               Xià juéxīn dùnshì  

应见心真不在兹, Yīng jiàn xīn zhēn bùzài ,    

心啊监视事推移。 xīn a jiānshì shì tuīyí.   

随后我怀吧身舍     Suíhòu wǒ huái bǎ shēn shě,    

终于遁世为法师。 zhōngyú dùnshì wéi fǎshī.  

 

<和歌-2> 

  [詞書]世を遁(ノガ)れて伊勢の方(カタ)へまかりけるに鈴鹿山にて、 

鈴鹿山 憂世をよそに ふりすてて 

  いかになりゆく 我が身なるらん [山728];    新古今十七 

 [註]〇伊勢の方へまかりけるに:出家して間もなくのころ; 〇鈴鹿山:伊勢国鈴鹿郡、伊勢への道; 〇憂世をよそに:憂き世を我が身に関わりのないものとして; 〇「ふり」「なり」は共に「鈴」の縁語。

 (大意) 自分は、この世を捨てて今、鈴鹿山を越えて行くが、さてこの先、どうなって行く身なのだろうか。 

<漢詩> 

     起程                  起程(タビダチ)         [上平声十五刪韻]

遁世赴伊勢, 世を遁れて伊勢に赴(オモム)く, 

将翻鈴鹿山。 将(マサ)に鈴鹿山を翻(コエ)たところだ。 

拋棄憂塵俗, 憂(ウ)き塵俗(ジンゾク)を拋棄(ホウキ)して, 

我身天地間。 我が身は天地の間にあり。

 [註]〇翻:乗り越える、登る; 〇拋棄:捨てる、捨てて顧みない; 〇天地間:どうなるか分からない。

<現代語訳>  

 旅立ち

世を遁れて伊勢の方に行くに、

鈴鹿山を越したところだ。

憂き俗世を捨ていくが、

これから我が身はどうなるのであろうか。

<簡体字およびピンイン> 

  起程                Qǐchéng         

遁世赴伊势, Dùn shì fù yīshì, 

将翻铃鹿山。 jiāng fān línglù shān.  

抛弃憂尘俗, Pāoqì yōu chénsú, 

我身天地间。wǒ shēn tiāndì jiān.     

ooooooooooooo     

 先(閑休-458)に、“身”は俗世にあるまゝで、“心”は、既に“身”を離れて山深くに行っているよ、と詠う歌がありました。今回の<和歌-1>は、それに続く歌と言えよう。すなわち、既に山奥に出ている“心”に向かって、「よく見ておけよ、やがて“身”も出て行き、 “心”と“身”が揃い、遂には“我/私(構造体)”が憂世を離れることになるのだ」と。遁世の身になったことを詠っている。

 なお、“心”、“身”および両者が揃った“我/私(完全構造体)”の関係については、前々回(閑休-467)および前回(閑休-468)にも触れております。併せてご参照下さい。

 さて、遁世を思い立ち(山723、閑休449)、実現するまでの“心の履歴”が『山家集』723~728の6首で語られており、<和歌-2>は、それらの締めくくりの歌である。遁世は果たしたものの、先は如何なろうか と不安は消えない。

 

≪呉竹の節々-11≫ ―世情― <平治の乱> 

 保元の乱(1156)を経て、後白河上皇の施政下、近臣信西(藤原通憲)の働きで内裏の再建をはじめ、都の再興がなりました。男色関係を通して、院の寵愛を受けている佐兵衛督(サヒョウエノカミ)藤原信頼(27歳)は、信西から昇進を妨げられ、信西に対し恨みに思う。さらに信西は、武門の平清盛と源義朝に対する対処に差があった等々、信西は“反信西派:信頼・義朝”の結束を促す結果となった。

 清盛一族が熊野詣でで、都を留守にしている間、平治元年(1160) 12月9日夜半、信頼・義朝軍勢が院の御所・三条東殿(三条烏丸殿)を急襲、焼き討ちにして、内裏を占拠した。信西は事前に察知して、脱出し、奈良方面に逃れる。

 異変を知った清盛は、17日には帰京し、六波羅の館に入る。25日、二条天皇を六波羅に迎え、 “信頼・義朝”追放の宣旨を出させ、六条河原で合戦に至る。信頼は、捕えられて、斬首。義朝親子は、それぞれ東国を目指して逃げるが、三男・頼朝は、捕らえられる。後日、清盛の前に引きたてられるが、池禅尼の取りなしで救われ、伊豆に流される。平治の乱である。

 勝利した清盛は、公卿に列せられる。

その頃西行は: 

 最初の陸奥の旅(1947)から帰った後、1149年(32歳)から高野山に庵を結んでいる。1180年伊勢に移るまで30余年、高野山を拠点にして、吉野に、また四国(1167)へと修行に励む。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする