“雲居の月”とは、宮中の高貴な女性を想像させ、また涙に濡れた“袖に宿る月影”は、恋しい想いが遂げられず、萎れているさまを思わせる。さほどに西行が想い焦れる女人とは、先人の誰しもが待賢門院璋子(タマコ)を挙げており、異論を挟む余地はなさそうである。
<和歌-1>
知らざりき 雲居のよそに 見し月の
影を袂に 宿すべしとは [山617] 、千載集十四
なお、『山家集』中、掲歌と並んで、次の歌を載せている。≪哀れとも見る人あらば 思いなん月の面に宿る心を [山618]≫ (概意)「月を慕う我が“心”は我が“身”から離れて、月に行き、宿っているのだ、これを哀れと思う人がいたなら、それもよし」と。「わが想いに揺るぎはないよ」と。
待賢門院璋子は、仁和寺法金剛院において出家 (1142)、その3年後没する(45歳、1145)。女院に仕えていた女房たちは、一周忌の明けるまで女院の三条高倉御所で喪に服していた。喪が明ける春、桜の頃、待賢門院の女房・堀河の局に贈った西行の歌である。
<和歌-2>
尋ぬとも 風の伝(ツテ)にも 聞かじかし
花と散りにし 君が行くへを [山779]
この西行の歌に答えて、堀河の局は≪吹く風の行方知らするものならば花と散るにも後れざらまし [山780]≫ (概意)「風が花の行方を知らせてくれるものなら、後れることなく院と連れ立っていますよ」と、殉死を厭わない思いを訴えている。
和歌と漢詩
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<和歌-1>
[歌題] 月
知らざりき 雲居のよそに 見し月の
影を袂に 宿すべしとは [山617] 、千載集十四、
[註]〇雲居のよそ:空のかなた、“雲居”は月の縁語、宮中にもいう; 〇影:光の意、“影を袂に 宿す”とは、“涙に濡れた袖に月光が映ること”の比喩である。
(大意) 思ってもみなかった。遠い空の彼方に仰ぎ見る、月にも比すべき人に思いをかけ、叶わぬ恋故の涙に濡れた袖に、月を宿さなければならないとは。
<漢詩>
遥遠恋人 遥か遠くの恋人 [去声二十六宥韻]
出乎意料啊, 出乎意料(オモイモヨラヌコトデアル)啊,
雲外月清透。 雲外に月 清らかに透(トオ)る。
恋慕只増強, 恋慕は只(タダ)に増強(ツヨマ)り,
知月宿予袖。 月が予(ワ)が袖に宿るを知る。
[註]〇出乎意料:<成>思いのほか、出乎:…の範囲を超える、意料:予測する; 〇啊:感嘆詞、驚きや賛嘆を表す; 〇雲外:空のはるか遠くのところ、雲上。
<現代語訳>
手の届かぬ恋人
思いも寄らぬことであるよ、
雲外に見ている 清く澄んだ月影。
その月への恋慕は 只に強まり、
今や、我が袖の涙に宿るようになっている。
<簡体字およびピンイン>
遥远恋人 Yáoyuǎn liànrén
出乎意料啊, Chū hū yìliào a,
云外月清透。 yún wài yuè qīng tòu.
恋慕只増强,Liànmù zhǐ zēngqiáng,
知月宿予袖。zhī yuè sù yú xiù.
<和歌-2>
[詞書]:待賢門院、かくれさせおはしましける御あとに、人々またの年の御はてまで候はれけるに、南面の花散りける頃、堀河の局の許へ申しおくりける
尋ぬとも 風の伝(ツテ)にも 聞かじかし
花と散りにし 君が行くへを [山779]
[註]〇待賢門院:鳥羽天皇皇后藤原璋子、崇徳・後白河院の御母、藤原公実の女。久安元年(1145)八月崩御、45歳; 〇御あと:待賢門院の三条高倉御所;〇またの御はてまで:一周忌の喪のあけるまで; 〇堀河の局:待賢門院に仕え、門院の落飾の際、従って尼となった。『金葉集』以下の勅撰集作者。中古六歌仙の一人; 〇風の伝にも:風の便りにも。
(大意)花となって散ってしまった君の行方は 如何に尋ねても、風の便りにも聞くことはできないでしょうね。
<漢詩>
哀悼院薨 院の薨(コウ)ずるを哀悼(イタム) [上平声二冬韻]
君散為花去, 君 花に為(ナ)って散り去る,
誰知此行蹤。 誰か知らん 此の行蹤(ユクエ)を。
縦令尽全力, 縦令(タトイ) 全力を尽くすとも,
連風不能逢。 風 連(サエ) 逢うこと不能(デキナカ)ろう。
[註]〇院:待賢門院; 〇行蹤:行方。
<現代語訳>
待賢門院の薨御を悼む
君は花となって散ってしまった、
この行方を誰か知らないでしょうか。
たとい全力を尽くして尋ねまわっても、
風でさえ逢えず、行く先を伝え聞くことはできないでしょうね。
<簡体字およびピンイン>
哀悼院薨 Āidào yuàn hōng
君散为花去, Jūn sàn wéi huā qù,
谁知此行踪。 shuí zhī cǐ xíngzōng.
纵令尽全力, Zònglìng jìn quánlì,
连风不能逢。 lián fēng bù néng féng.
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【歌の周辺】
西行出家前の20歳前後、徳大寺家に仕えていた頃、徳大寺実能(サネヨシ)の随身として、または鳥羽院の北面の武者として院の身辺に侍していた、また安楽寿院三重塔の落慶供養に先立って、鳥羽院の下検分に当たって、実能と義清だけがお供をするなど、鳥羽院に近づく機会は多々あった。すなわち、待賢門院を垣間見る機会はかなりあったと想像される。
美貌で、非常に魅力的であったと評判の待賢門院璋子、その姿が脳裏に焼き付いて離れない、いや、“心”が“身”から抜け出て、出家後に至ってもなお、待賢門院から離れない、“身”に帰って来ないという状況でしょうか。
亡くなった待賢門院は、自らの御願で、仁和寺の近くに建立された法金剛院三昧堂に祀られた。後に法金剛院では歌会が催されているが、ある秋の歌会で、西行は、袂を濡らす涙が燃えている紅葉の色に似ている と詠っている。ことほど左様に、西行の待賢門院への思慕は激しいものであった。
なお、仁和寺には待賢門院の第2の皇子・覚性(カクショウ)親王が出家して御室門跡(オムロモンゼキ)となっている。待賢門院の没2年後には、実能が、仁和寺の東・衣笠山の麓に徳大寺を建立している。仁和寺を中心にして、東に徳大寺、南に法金剛院と密接な関連をとって配置されており、血の繋がりを大切にしていたことが伺える。
保元の乱の際、崇徳院が戦を逃れて仁和寺に至り出家し、西行が馳せ参じたことは先に触れた。またその乱の直前に、徳大寺は放火され、灰燼と化している。
【井中蛙の雑録】
〇待賢門院堀河の局は、優れた歌人である。1150年、崇徳院は14名の歌人を選び、百首の歌を 詠進させ、『久安百首』の編纂を藤原俊成に命じた。堀河の局も詠者の一人に選ばれ、その折の作は、後に定家が編んだ『百人一首』にも撰ばれた。『百人一首』80番の次の歌がそうである。非常に官能的な歌であるが、歌会での題詠であり、創作歌であろう。
ながからむ 心も知らず黒髪の 乱れてけさは 物をこそ 思へ
(大意)あなたは ‘私への愛は長しえに変わりませんよ‘と仰せられたが、これから先は計り知れず、今朝の乱れた黒髪のように、心が千々に乱れる私です。
本歌については、かつて漢詩化を試みていますが、やはり漢詩にすると固くなります。なお、堀河の局は、女房三十六歌仙および中古六歌仙の一人に選ばれている。