良記事紹介 みんかぶマガジンより
この国は未だ羽生結弦を正当に評価していない…『阿修羅ちゃん』によって解き放たれた羽生結弦の「肉体の反乱」私たち”共犯者”と共に
羽生結弦という存在だからこそ語りうる、芸術史における「試論」
-----改めて、羽生結弦の手によるコレオグラフィー『阿修羅ちゃん』を語ろう。
言うなれば「試論」でもある。羽生結弦という存在だからこそ語りうる、芸術史における「試論」である。
唯一無二のジャンプを封印して、「エッジの極み」を存分に発揮したプログラムこそ『阿修羅ちゃん』であることは、拙筆『等身大の羽生結弦青年が溢れ出す『阿修羅ちゃん』にファンがやられてしまったワケ…純粋に最上級のエンタメとして楽しむ!』でも書いた。
羽生結弦は常に「フィギュアスケートたる必然性」を命題に
いや、封印したは余計か、羽生結弦のセルフコレオに、羽生結弦の創造する『阿修羅ちゃん』というプログラムには必要なかった、それだけだ。
何でも盛り込めば点数を嵩上げできると調和と美とを二の次にしたプログラムも散見される中、羽生結弦は常に「フィギュアスケートたる必然性」を命題としてきた。
羽生結弦という存在に必要か、否か、あまりに崇高なその美学を理解し得ない者たちもいた。多くの羽生結弦と共にあり続けた方々にとっては当たり前の、そしてまさに「崇高」な理想であったにも関わらず、である。
しかし名実ともにプロのアスリートとして、表現者として羽生結弦がまたたく間に稀代の成功を収め続けている今となっては、その理解し得ない者たちに構う必要はもはやなくなったことは幸いである。
伝統派からすればまさに「特異」
その発露こそ羽生結弦がエッジに託したプログラム『阿修羅ちゃん』なのだが、ここでは細部の解説は不要のように思う。
技術的な面はこれまでも触れてきたことであり、繰り返し触れることはとても大切なのだが、私がここで試みたく思うのは『阿修羅ちゃん』の「前衛」的側面についてである。繰り返すが、ゆえに「試論」でもある。
ある意味、『阿修羅ちゃん』は極めて特異なプログラムだ。
これまでのフィギュアスケートの常識を、ともすれば「こうあって欲しい」という伝統派(便宜上使う)からすればまさに「特異」である。しかし、特異であることが芸術史上の重要性を帯びた時、それは「前衛」と呼ばれる芸術運動となる。
羽生結弦のエッジは極めて基本に忠実で、ある意味で「クラシカル」
競技会時代(ここで「アマチュア」という言葉は使いたくないため便宜上置き換える)から、羽生結弦の革新は前衛性を帯びていたと思うが、誤解しないで欲しいのは芸術における前衛とは伝統を踏まえた先にある。伝統を土台としない前衛とは極めて軽薄な、独りよがりで力のない、おおよそ歴史に残ることも、人の記憶に残ることもない幼児性ばかりの「先走り」でしかない。『阿修羅ちゃん』とは安易な先入見にとらわれようのない伝統と前衛とを内包している。それはフィギュアスケートの伝統と、その革新ということになる。
羽生結弦のエッジは極めて基本に忠実で、ある意味でクラシカル=伝統的なそれ、として成り立っている。伝統に従い基本を忠実に再現する、それはまったく当たり前の行為ではなく、そこに「伝統に従い」とつくことで難易度は極めて高くなる。基本を基本のままに再現することほど難しいことはない。そしてそれを本当の意味で再現できる、ましてや昇華して、革新にまで至る、前衛として成立させる者は多くない。むしろそれが芸術史における「偉人」である。
フィギュアスケートという伝統と羽生結弦の地平、その地平には私たちもいる
羽生結弦の凄さとはフィギュアスケートの歴史に従い、基本を忠実に再現することにある。ゆえに『阿修羅ちゃん』ほどに前衛としての逸脱があろうとも「フィギュアスケートたる必然性」は保持される。
少し読み解くに忍耐の必要な書き方となるが、伝統(この命題は「フィギュアスケート」である)とは保持である。
保持とは受諾され、涵養されることである。伝統は把握によって是認され、消化されることで伝統となる。人間の行動の中にその伝統を把握し、受託し、それが我が事=羽生結弦のフィギュアスケート、となる。
こうした伝統は主観を伴わず、伝統と結びつける「共同性」から自然に導き出される。共同性とは「地平」である。フィギュアスケートという伝統と羽生結弦の地平、その地平には私たちもいる。
まだこの国の羽生結弦に対する一部の評価は正当でない
過度の逸脱は「フィギュアスケートではない何か」になってしまうし、伝統に従い基本を忠実に再現することが前提になければ「フィギュアスケートのようなもの」になってしまう。
例えば羽生結弦は「静止」のある、現代では極めて好ましいフィギュアスケーターである。表面的な流ればかりを追って静止を蔑ろにしてしまう、2秒の静止すらなおざりにする、そうした伝統からの逸脱は決して前衛性へと飛躍することもなければ、革新を生むこともない。フィギュアスケートに限った話ではないが、羽生結弦のフィギュアスケートは何が凄いのかという点は、このように非常に高度かつ複雑な芸術性と歴史性を確かな基礎により内包していることにある。
これほどに羽生結弦が評価され、成功している現在においても、まだこの国の羽生結弦に対する一部の評価は正当でない。いまだ羽生結弦の類まれなる「基礎」の確かさを蔑ろにする向きのあったこと、あることは哀しむべきことだろう。むしろ日本こそ今世紀を代表する世界的な表現者である羽生結弦を理解し得ない方々ばかりでは、とすら思わされてしまう。
つまり、従来のフィギュアスケートという概念を超えている
また安易な先入見を以て『阿修羅ちゃん』はフィギュアスケートではない、スケーティングが見れない、とするのは極めて表層的な誤りとしての「権威」に囚われた思考である。芸術における良質の権威とは、その自由な承認によって理性的に支配された権威である。それがフィギュアスケートの「伝統」という「権威」とするなら、羽生結弦の『阿修羅ちゃん』は伝統を踏まえた前衛であり、羽生結弦のエッジワークとステップワークは「羽生結弦」という芸術における前衛運動の一端、ということになる。
つまり、従来のフィギュアスケートという概念を超えている。ゆえに「前衛」である。そして芸術、とくに前衛とは、それを享受する「complicity(共犯者)」が必要となる。『阿修羅ちゃん』を受け入れることのできる私たちもまた、共犯者ということになる。それほどまでに刺激的なメタファーもまた、高次の芸術的観念たる証左となる。
「世俗的な何か」すら最終的に超越した「肉体の反乱」
また羽生結弦のスケートとは、常に羽生結弦という肉体の「反乱」であったように思う。代表的な事例はクワッドアクセルだろうか。内なる精神が跳ぶことを要求するのではなく、内なる肉体が、精神が跳ぶことを要求するのだ。
その消失点には当初の栄光とか、メダルとか、そうした「世俗的な何か」すら最終的に超越した「肉体の反乱」があった。羽生結弦の当時の言葉に倣うなら、そこにいたのは9歳の羽生結弦で「翔べ!」とずっと言っていた、ということか。『阿修羅ちゃん』もまたこの延長線上、消失した先の「出現」にある。それは決して歌詞が反抗的な内容だから、という表面的な理由でも、フィギュアスケートという伝統を壊したい、といった凡庸なルサンチマンでもない。
『阿修羅ちゃん』によって解き放たれた羽生結弦の「肉体の反乱」
手さばきから指先、アイソレーションのすべてはエッジ捌きから生まれていると以前書いたが、さらに加えるなら『阿修羅ちゃん』は、私たちの視覚という「空間」を心地よく専有する振付に昇華している。
『阿修羅ちゃん』は、これまで抑え込んできた羽生結弦の中の怪物としての「肉体」の反乱という開放のコレオグラフィーである。羽生結弦の芸術は「思考」と「肉体」の両輪にあるが、常に彼の肉体は彼の思考に反乱を起こしている。だからこそ、羽生結弦のフィギュアスケートは今もなお革新を続け、『阿修羅ちゃん』という前衛を生んだ。
いよいよ11月から『Yuzuru Hanyu ICE STORY 2nd ”RE_PRAY” TOUR』が始まる。私たちが待ち望んだ羽生結弦の革新が、再び始まる。
そして前衛運動とも言うべき『阿修羅ちゃん』によって解き放たれた羽生結弦の「肉体の反乱」もまた続く。次は何を進化させてくれるのか。私たち「complicity(共犯者)」と共に。-----
ANAさんのインスタグラムやYoutube・TikTok動画から羽生選手のダンスがプロダンサーさん達に見つかり、レゾン、阿修羅ちゃん、if などが大絶賛されているようです。
それがきっかけでファンになって羽生沼にハマった方もいらっしゃるようで嬉しい限りですね。ことに男性ファンが増えているように感じます。