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西南戦争 生き残った者たちの証言【2】 薩軍将士の逸話

2020年07月02日 22時06分45秒 | 征西戦記考
 
 特集第2回。
 今回は西郷以外の諸将に関する逸話を主に紹介していきます。

第2回 薩軍将士の逸話

【私学校党の心事】(四)
問:(明治六年政変で)西郷が帰国した際、一緒に帰国した者は、西郷と生死を共にせんと互いに約束したのか。
答:確かに約束したわけではなかったが、暗にその心もちであった。のちに私学校の規則2カ条を定めた際も、別段誓約のようなものはなかった。《野村》

 私学校党の間には、一種の空気感・一体感のようなものが存在していたことが分かります。西南戦役は、年月をへてそれが先鋭化していった果ての挙であったといえるでしょう。

【吉野開墾】(五)
問:(私学校党が)吉野村・寺山の地を開墾したのはなぜか。
答:吉野の地は平原より杉山に続き2~3里四方以上、開けたところは40~50町の広さで、菜種・陸稲・薩摩芋などを栽培していた。もともとは壮士たちが筋骨を鍛えるために開拓した地であり、自分の家も同地に近かった。ゆえに(開墾に)始終従事した。《安藤》
問:西郷が馬に肥桶を載せ、自ら引いて日々吉野に赴き、小木を剪伐し、穀物類を栽培していたいうのは事実か。
答:西郷はときどき馬を引いて来た。大根など野菜を載せ、周囲の人の食事などに用いた。肥桶を載せていたのは見ていないが、そういうことを厭う人ではなかった。(吉野は)開けたところは平原だけで、杉山まではまだ手が及ばなかった。西郷が吉野に来る目的は主として人々を誘うためであり、自ら鍬を手に1~2時間も作業したのはせいぜい2~3回程度のことだった。《安藤》

 吉野は鹿児島市街地北方の小高い山の上に位置する台地で、西郷は同地の寺山一体を開墾するため、吉野開墾社を設置させました。司馬遼太郎の『翔ぶが如く』序文に登場する展望台は、この寺山の突端にあります。
 尋問にあるとおり、西郷自身もたびたび吉野を訪れていたようで、西郷の引いていた馬が落ちたとされる場所の付近には「駄馬落」の碑なども残っています。

[参考]吉野・寺山公園展望台からの眺望(筆者撮影)


【諸将の指揮】(三)
問:5大隊の長はそれぞれどの方面を受け持っていたのか。
答:当初、5大隊の長は各自部隊を指揮していたが、熊本城攻囲以降は互いに独自に応援などしており、(部隊は)混淆していた。《野村・鮫島・大野》

 薩軍第一陣(「一番立」)は5個大隊に編成されていました。しかし、間もなくこの編制は有名無実化し、諸将が大隊の枠にとらわれず適宜必要な兵員を運用したため、熊本撤退後にあらためて編制の刷新が行われることとなりました。

【桐野と青竹】(四)
問:桐野(利秋)ははじめの出陣の際、青竹を切って握りしめ、「この竹の先の色が変わらないうちに東京に到達せん」と言ったのか。
答:一切聞かないところである。《野村・鮫島・大野》

 青竹をふるって気炎を吐く桐野の姿は、西南戦役をえがいたドラマなどで必ずといっていいほど取りあげられます。しかしこの逸話も、実際には創作である可能性が高いことが分かります。

【桐野の愛刀】(四)
問:桐野の佩刀は如何。
答:桐野は二刀を佩びていた。大小とも拵は頭から小尻まですべて銀張りにして、金をもって筋を入れていた。刀身が誰の作は知らない。《野村・鮫島・大野》

 桐野の派手好きな性格はよく知られているところで、きらびやかな軍刀も多くの人の記憶に残っていたようです。

【桐野の酒癖】(五)
問:桐野は酒を飲んだときは泣く癖があったというのは事実か。
答:知らない。《大野・田中・安藤》

 「天資英邁、気宇宏闊」と称される桐野。この質問はあまりにくだらなかったためか、大野らに一蹴されてしまっています。

【桐野と愛妾】(二)
問:桐野の愛妾が投降したという話があるが事実か。
答:陣中に婦人を連れていたという話は聞かない。もちろん薩摩では妾をかかえていたのだろうが。(陣中に婦人を連れていたというのは)虚説であろう。《野村》
答:長い陣中のことゆえ、日向あたりで婦人に酌をとらせるといったことはあったので、そのことを言っているのだろう。《長倉》

 女性関係にまつわる逸話も多い桐野。婦人に酌をとらせて云々というくだりは、辺見十郎太を題材にした海音寺潮五郎の小説『南風薩摩歌』も彷彿とさせます。

【城山の桐野】(二)
問:鹿児島へ入ったとき、桐野は喜んで家に入り、酒など飲んでいたというのは事実か。
答:そうではない。桐野は城山の哨兵線を巡視すること、1日約3回くらいであった。《野村》

 最後まで闘志を捨てず、城山で壮烈な戦死を遂げた桐野の姿がしのばれるエピソード。なお、野村は戦術戦略をめぐって桐野と対立しがちだった(『野村忍介自叙伝』)のですが、そのわりに『懲役人質問』では全編を通じて桐野を擁護するような証言が多く、薩摩男児の意地と潔さを感じさせます。

【篠原の断乎攻城策】(一)
問:篠原が建議した、「一挙に熊本城を抜けば、兵を半数失うに過ぎない」という策が実行されなかったのはなぜか。
答:西郷もその策を可とし、すでに人員を選び攻撃の手配を行っていた。そのとき、熊本県の同志が来て、「城中は兵糧が尽き、もはや三日持つこともできないだろう」と言った。西郷はその言葉を聞いて「多くのわが将兵を殺すのは不可である」と言ったため、攻撃は中止とした。《野村?・長倉?》

 熊本城をめぐる薩軍の方針変更の内実にせまった問答です。篠原国幹は元陸軍少将で、桐野と並ぶ薩軍の大幹部。なお、『西南記伝』ではこの顛末について、篠原の強攻策がいったん決定したのち野村と西郷小兵衛が反対意見を強く主張したため、最終的に西郷・桐野が後者を採用したとされており、やや趣が異なります。

【篠原の戦死】(三)
問:篠原戦死の状況は如何。
答:兵が進まないゆえ抜刀して真っ先に出て、弾丸に当たり即死した。《野村・鮫島・大野》

 篠原が赤い裏地の外套を翻して前線に立った逸話も有名ですが、「進まない兵を督戦していた」という事実はやや意外かもしれません。

【辺見の統帥】(四)
問:辺見(十郎太)は兵を指揮する際、退く者を斬ったというのは事実か。
答:斬ったことはない。棍棒で殴っていた。《野村・鮫島・大野》

 辺見十郎太は元陸軍大尉、雷撃隊隊長。薩軍随一の猛将として知られますが、実際にはそれなりに思慮深いところがあったことが分かります。この証言を裏付けるものとして、「退く者は斬る!」とすごむ部下に対し辺見が「兵をみだりに斬るな」と耳打ちした、という逸話も残っています(『西南記伝』)。

【熊本撤退後の戦略①】(二)
問:熊本連絡後、議論が5つに分かれ、豊後に進出すべきとか、鹿児島に割拠すべきとか、島津氏を擁して上京すべきなどという意見が出たというのは事実か。
答:議論が5つに分かれたというのは聞いたことがない。《野村》
問:島津氏を擁するという策については、村田か別府が建策したところ西郷が大いにこれを叱ったという話があるが如何。
答:そのようなことは一切聞かない。《野村》
答:国事犯としてこの監獄にいる者は500人ばかりだが、そのような噂をする者は1人もいない。《長倉》

 西南戦役において島津久光は基本的に私学校党に与せず、政府に恭順する姿勢をとり続けました。私学校党がわとしても、島津家への接触を憚っていたようです。

【熊本撤退後の戦略②】(五)
問:人吉にあるとき、(島津)久光公が(薩軍に対し)人を派遣し説諭したというのは事実か。
答:そのようなことはない。《大野・田中・安藤》
問:熊本城連絡ののち、渕辺(高照)・別府(晋介)・辺見(十郎太)らが久光公に何か説こうとし、これを西郷に報じたが、西郷はこれに反対し戒めたという説があるが如何。
答:そのことは知らない。《大野・田中・安藤》

 前掲と同じく、島津家の戦役への関与を否定する問答です。ちなみに、錦絵において薩軍は島津家の「丸に十の字」の旗印を掲げていることが多いですが、これも当然ながら事実ではなかったとされています(『西南戦場逸話』)。



 次回で最終回。
 戦場の生々しい実相に関する証言を取りあげます。
 
 
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1 コメント

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Unknown (ti280585)
2021-06-21 01:39:40
笑えました
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