前稿の続きです。更新遅れましたが。
Ⅱ.洛南燃ゆ ―伏見ノ戦
あそこは市街が碁盤の目のようになっているから、どっちからやって来るかも知れぬ。それで長州は南の方へ向って撃つ。薩摩は横の方から西に向って砲撃してくれというので、ちょうど十文字に撃ったからビチリビチリいったものだ。そうした所が先方の兵隊は騒動するばかりで怖れて出て来ぬが、士官はヒョイヒョイと進んで来るからみな撃たれて斃れてしまう。それが日没頃であった。(…)
市街戦だ。所でこっちは馬関の戦などがあって巧者になっている。伏見の市街の住人は皆な逃げてしもうて残らず空家になっているから、その畳を引き揚げて来て道の傍らへ七、八枚ずつ重ねて、横に立て懸けて盾にした。それを右側と左側と差い違いに六、七間ごとにやって、その間から撃ったので怪我人や死人の数が割合に少い。畳の上に頭を出して撃つから眉間をやられた者ばかりだったが、しかしその数は至って少い。そのうちに向こうの陣屋が焼け出したから、向こうは火を後背にしたので、こっちからはよく動くのが見えるけれど、こっちは真闇で向こうからは少しも見えぬ。
鳥羽で京・幕両軍が衝突した、慶応4年1月3日夕刻。南東約3kmほどにある伏見の地でも、激戦の幕が切って落とされました。
例によって、やっつけ。
幕軍は伏見の南がわ、奉行所を中心に布陣。主体は歩兵隊や、精強で知られる会津藩兵です。また土方歳三指揮する新選組(局長近藤勇は、数日前に発生した狙撃事件のため大坂で療養中でした)も、ここぞとばかりに馳せ参じていました。
写真①:伏見奉行所跡地 現・桃稜団地。入口脇に伏見奉行所跡の碑あり。
これに対し京軍は、御香宮に薩摩藩兵400名を、またその西がわの市街に長州藩兵300名をそれぞれ展開。
薩摩藩伏見藩邸付近(藩邸は乱戦のなか焼亡)に土佐藩兵も200名ほどおりましたが、これはすでに記したごとく実質的には中立軍で、戦闘に加わることはありませんでした。
写真②:薩摩藩伏見藩邸跡地 現在は酒造の敷地となっている。入口脇に薩摩島津伏見屋敷跡の碑あり。
開戦は、鳥羽方面のそれとほぼ同時でした。
御香宮の京軍砲兵は、鳥羽の砲声に呼応するかのように、眼下の奉行所にむけ一斉に砲撃を開始します。
これをうけ、幕軍も負けじと応射。また奉行所の門からは決死の壮兵が我先にと飛び出し、京軍陣地にめがけて突進しました。
写真③:御香宮 京軍砲兵隊が布陣したこの地は、小高い丘陵となっており、伏見奉行所を見おろせる。
勢いよく出撃した幕兵でしたが、畳などで築かれた京軍の射撃陣地をまえに、苦戦を強いられます。土塀に囲まれた狭い路地では、せっかくの大兵力も活かすことができません。また、京軍の陣地が奉行所よりやや高台にあったことも、幕軍にとって不利にはたらきました。
何度となく強行された幕兵の斬り込みは、結局すべて失敗に終わります。洛中では敵なしだった新選組も、もはや剣客集団としての限界を認めざるをえませんでした。
写真④:伏見の戦跡碑 御香宮境内にある。
日が暮れたのちも、両軍の激闘は果てるともなく続きます。
午後8時頃には、慶喜追討大詔が出たとの情報が京軍陣地に入りました。「われわれは官軍となったのだ!」 士気を高めた京兵は、まさに死力を尽くして戦います。おりしも味方の砲弾が敵の弾薬庫に命中し、大爆発を惹起。以後幕軍の攻勢は、しだいに下火となっていきました。
写真⑤:民家に残る弾痕 市街戦の凄絶さを物語る。
午後10時ごろ、機を見計らった京軍は、伏見奉行所めがけて攻撃前進を開始。
老将林権助率いる会兵は必死に防戦しますがかなわず、後退を余儀なくされます。林をはじめとする多くの勇猛な将兵が、この戦いで傷を負い、斃れていきました。
午前0時ごろ、長州藩兵が奉行所に突入するに至り、幕軍はついに伏見市街での抗戦を断念。
紅蓮の炎に包まれる奉行所を背に、南へ退却することとなったのでした。
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伏見篇、終了です。橋本まで書きたがったけど、力尽きてしまいました。また気が向いたら…。
Ⅱ.洛南燃ゆ ―伏見ノ戦
あそこは市街が碁盤の目のようになっているから、どっちからやって来るかも知れぬ。それで長州は南の方へ向って撃つ。薩摩は横の方から西に向って砲撃してくれというので、ちょうど十文字に撃ったからビチリビチリいったものだ。そうした所が先方の兵隊は騒動するばかりで怖れて出て来ぬが、士官はヒョイヒョイと進んで来るからみな撃たれて斃れてしまう。それが日没頃であった。(…)
市街戦だ。所でこっちは馬関の戦などがあって巧者になっている。伏見の市街の住人は皆な逃げてしもうて残らず空家になっているから、その畳を引き揚げて来て道の傍らへ七、八枚ずつ重ねて、横に立て懸けて盾にした。それを右側と左側と差い違いに六、七間ごとにやって、その間から撃ったので怪我人や死人の数が割合に少い。畳の上に頭を出して撃つから眉間をやられた者ばかりだったが、しかしその数は至って少い。そのうちに向こうの陣屋が焼け出したから、向こうは火を後背にしたので、こっちからはよく動くのが見えるけれど、こっちは真闇で向こうからは少しも見えぬ。
(長州藩兵の回想 『維新戦役実歴談』)
【旧字・難読字・カナ改】
【旧字・難読字・カナ改】
鳥羽で京・幕両軍が衝突した、慶応4年1月3日夕刻。南東約3kmほどにある伏見の地でも、激戦の幕が切って落とされました。
幕軍は伏見の南がわ、奉行所を中心に布陣。主体は歩兵隊や、精強で知られる会津藩兵です。また土方歳三指揮する新選組(局長近藤勇は、数日前に発生した狙撃事件のため大坂で療養中でした)も、ここぞとばかりに馳せ参じていました。
写真①:伏見奉行所跡地 現・桃稜団地。入口脇に伏見奉行所跡の碑あり。
これに対し京軍は、御香宮に薩摩藩兵400名を、またその西がわの市街に長州藩兵300名をそれぞれ展開。
薩摩藩伏見藩邸付近(藩邸は乱戦のなか焼亡)に土佐藩兵も200名ほどおりましたが、これはすでに記したごとく実質的には中立軍で、戦闘に加わることはありませんでした。
写真②:薩摩藩伏見藩邸跡地 現在は酒造の敷地となっている。入口脇に薩摩島津伏見屋敷跡の碑あり。
開戦は、鳥羽方面のそれとほぼ同時でした。
御香宮の京軍砲兵は、鳥羽の砲声に呼応するかのように、眼下の奉行所にむけ一斉に砲撃を開始します。
これをうけ、幕軍も負けじと応射。また奉行所の門からは決死の壮兵が我先にと飛び出し、京軍陣地にめがけて突進しました。
写真③:御香宮 京軍砲兵隊が布陣したこの地は、小高い丘陵となっており、伏見奉行所を見おろせる。
勢いよく出撃した幕兵でしたが、畳などで築かれた京軍の射撃陣地をまえに、苦戦を強いられます。土塀に囲まれた狭い路地では、せっかくの大兵力も活かすことができません。また、京軍の陣地が奉行所よりやや高台にあったことも、幕軍にとって不利にはたらきました。
何度となく強行された幕兵の斬り込みは、結局すべて失敗に終わります。洛中では敵なしだった新選組も、もはや剣客集団としての限界を認めざるをえませんでした。
写真④:伏見の戦跡碑 御香宮境内にある。
日が暮れたのちも、両軍の激闘は果てるともなく続きます。
午後8時頃には、慶喜追討大詔が出たとの情報が京軍陣地に入りました。「われわれは官軍となったのだ!」 士気を高めた京兵は、まさに死力を尽くして戦います。おりしも味方の砲弾が敵の弾薬庫に命中し、大爆発を惹起。以後幕軍の攻勢は、しだいに下火となっていきました。
写真⑤:民家に残る弾痕 市街戦の凄絶さを物語る。
午後10時ごろ、機を見計らった京軍は、伏見奉行所めがけて攻撃前進を開始。
老将林権助率いる会兵は必死に防戦しますがかなわず、後退を余儀なくされます。林をはじめとする多くの勇猛な将兵が、この戦いで傷を負い、斃れていきました。
午前0時ごろ、長州藩兵が奉行所に突入するに至り、幕軍はついに伏見市街での抗戦を断念。
紅蓮の炎に包まれる奉行所を背に、南へ退却することとなったのでした。
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伏見篇、終了です。橋本まで書きたがったけど、力尽きてしまいました。また気が向いたら…。
(なお読むさいに野口武彦『鳥羽伏見の戦い』を片手にさせていただきますwこのあたりの戦況の文章を読んでるとなんかまっ白い発砲炎と硝煙の臭いが立ち込めてくるようです…)
写真を見る限り、当時とはすっかり変わったしまってますね(当たり前だw)
臼砲、小銃で撃ちまくる薩摩軍に対して伝習隊も結構反撃しているのに、当の陸軍奉行の竹中さんはさっさと撤収しちゃったみたいですね…(なんかこの人って…やっぱり幕軍って上司に恵まれないなあ)。
弾痕も残ってるんですね。各所の碑とこういう小さな痕跡が当時をひっそりと物語っているように思えます。(行ったことないけれど…修学旅行必須スポットに入れてくれないかなあ…)
>野口武彦『鳥羽伏見の戦い』
この一連の記事を書くにあたり、最も利用している参考書ですw(このほかには大山柏『戊辰役戦史』、学研『図説 幕末戊辰西南戦争』、同『歴史群像アーカイブ 幕末戦史』なんかを使っとります)
詳細が書かれていて助かりますよね……というか、ほとんどこの本の受け売りになってしまってる観があります(汗
鳥羽伏見の戦いって名前は有名なのに、実情に関しては知られてない事柄も多いですよね。今回の特集は、多くの人にそれを知ってもらえたら……という思いをもとに組んでいるつもりです。
>幕軍の上司
これまた、京軍との差が顕著ですよね。たとえば薩軍を見ると、総司令官の西郷隆盛はいうまでもありませんが、小隊長クラスでも篠原国幹、辺見十郎太、村田新八、川村純義、野津鎮雄・道貫兄弟……と、まさにキラ星のごとき顔ぶれで、あれだけの幕軍を撃退できたのも大いに納得できます。
竹中さんといい滝川さんといい、少なくとも適材を適所に置いていなかったことは否定できないでしょうね。幕軍としては、惜しいことだったと思います。
>弾痕
御香宮まえの路上に史跡マップが設置してありまして、その記述により存在を知ったポイントです。ホントはこのような場所がもっとあったみたいなんですが、戦禍で多くが消失してしまったんだとか。
しかしこの弾痕のある場所って、ごくふつうの民家(商家?)なんですよね。こうやって観光客に提供してくれるのは、本当にありがたいことだと思います。