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17年間のボッチ自宅介護を振り返る

1人で自宅で認知症の母親を介護、その間、父親も6年間の介護のすえ、どちらも家で看取る。その17年間はなんだったのか? 

久しぶりの九段下秋葉原散歩

2025-04-28 14:35:26 | 思い出
地下鉄の九段下で降りて、神保町、その先、小川町、秋葉原と歩いてきた。私にとっては、学生時代から40代半ばまでよく通った道だ。

介護生活に入って、神保町は来たことなかったか? かなり久しぶりなのは確かだ。古本屋の数は確かに減っているようだが、雰囲気はまだまだ古本屋街の感じが残っていた。去年の暮れ、それこそ何十年ぶりに行った早稲田古本屋街は、もはやあの古本の匂いがなくなっていたから、大違いだ。

やはり外国人の多さが目立つ。もはや古本を買う気もない(本読まないから(笑))私がどうこう言っても・・・。次の担い手はグローバルということだろう。

スキーブームが去って久しいが、夏でも人通りが多かった小川町あたりのスキー屋さんもあるんだか、ないんだか。冬は人の多さに閉口してわざわざ迂回して秋葉原に向かったのが嘘のようだ。

そして、がっかりした、というか、予想通りだったのが秋葉原。

一応、理系の学生だったので、秋葉原は聖地みたいなところで、むかしなら、電子バーツや電気製品だろう。次のパソコン時代になって、PCパーツ。

パソコン本体はもちろんだが、ここを歩き回る目的は、DOS/Vパーツと呼ばれたPCパーツを扱う店をひやかすことだ。

歩き回る? Windows95が出る少し前ぐらいから、そんなものを売る店がうようよ出てきて、もとは何だったのか、小さい会社の事務所や倉庫が多かった(?)地域がDOS/Vパソコン、パーツ店の街に一変してしまった。

そういうとこって、小さい店が、儲かるんだろう、無秩序にどんどん出来て、統率のない街になる。そこに人が集まり群れて、店の中も外も人でいっぱいだ。そうなると、もはや電気ともPCとも何の関係もない怪しいものまで売る店も増えてくる。大概、通りからそれた、こんなところにまでという脇道を入ったところにあるのだが。

そのごちゃごちゃした怪しい雰囲気がいい。それに釣られて行く訳だ。あの文房具屋のプラモデルと同じだ。めったにお金は使わない。電車賃だけ。

それが、全くなくなっていた。メインの通りには、わずかにパソコン屋さんが残っているが、それも最盛期と同じ店なんだかどうか?

あの怪しさを支えていた脇道の小さな店もほとんどない。残っているのは、ひげ根がなくなった、今にもかれそうな根っこ本体だけか。

「予想通り」と書いたが、介護生活に入るちょっと前か。駅前にできた巨大ビルの1階に入っていた(だと思うが)パン屋さんでパンを買った。どこか食べるところがないかと見たら、すぐ近くにベンチがあったのでそこで買ったばかりパンを食べていた。そしたら、そこの警備員さんが来て、ダメだと言われてしまった。う・う~ん。そんな街になったんだね。

電気屋の一角でアイドル(?)のイベントとかよくやっていたが、そんなのも、どこに行ったのか、見当たらなかった。次は何なんだ?

末広町でまた地下鉄に乗って帰るのが定番だったが、その日は総武線で新宿の出て帰った。

パソコン街の写真があったのだがみつからない。あったら載せたい。



10 最後の五日市

2025-04-11 11:31:34 | 思い出
前回、じいさんがつくった墓の墓地の管理事務所から、草ぼうぼうだ、なんとかしろと苦情が来たので、2006年10月9日に、じいさん、ばあちゃん、私の3人で墓掃除に行ったところまで書いた。

この墓、じいさんが1989年5月につくって、この時までで17年間、そして、これから9年後、2015年7月、じいさんが入るまで、26年間、空き家状態。8年たって、2023年9月に、ばちゃんが入り、早2年。

1989年から今年で36年。そのうち、約3分の2が空き家(こういう墓を正式には何と言うのか? 空墓じゃないだろう)。使用期間はじいさんが入ってからの、まだ10年間だけ。

そして、後を継ぐのは私だけ。私には家族がいない。ということは、私がこの墓に入ることはまずない・・・墓じまいだ!

じいさんよ。作るのも楽ではなかったとは思うが、処分するのも、何だぞ~。そこそこお金もかかるぞ(苦笑)。

この時、この3人の誰も、19年ったら、なんて思いもしなかったろう。

多高齢多死社会真っただ中の現実がここにある(笑えない)。まあ、それがただ負担だけの暗澹たる未来じゃないよ、高齢者なりに各自が出来ること(私にとっては、この墓じまいも)を取り組むことで、そこから得られるものも何かあんでしょうよ、という思いで書いてるんだけど。

この後、またタクシーを頼んで、ばあちゃんの生まれ故郷に行った。電車だったら、五日市線の武蔵五日市駅なんだが、タクシーで五日市街道を西に進んだ。駅でいったら、2つほどなんだが田舎の駅でもそんなに遠くはない。車ならすぐだ。ここからは、ほぼぐるっと山に囲まれる山ん中だ。

全く関係ないんだけど、じいさんが昭和34年(1959年)に撮った我々が後にタクシーで通った五日市街道の写真があったので、載せてみる。

これは、まだ山に入る前。

何故か、じいさんが駅の下、秋川沿いにあるバーベキューランド(?)にタクシーを行かせた。どこまで行くのかと思ったが、秋川にかかる歩行者用の大きなアーチ型のきれいな橋のすぐ近くまで入ってくれた。

私がここに来るのは初めてだった(子供の時、来ているかもしれないが、辺りが一変しているのでよくわからない)。じいさんとばあちゃんは、前に来たことがあったようだ。

この橋を渡れば、向こうが、ばあちゃんが子供のころ遊んだ「小庄のたんぼ」(本当は「下田のたんぼ」っていうのか?)だ。「ばあちゃんの「村祭」」で書いた、NHKの「みんな童謡」の「村祭」の農作業の場面の撮影がされたと思っていたところだ。実際は、もっと秋川の下流の方だったが。

多分、橋の上で、じいさん、ばあちゃんの写真は撮っただろう。小庄のたんぼでは数枚撮ったに違いない。

たんぼ、といは言うが、今は田んぼはない。「ばあちゃんの「村祭」」で書いたところもそうだが、私の子供のころの数十年前はこの辺一帯、川沿いが田んぼだらけだった。春になると、かえるの鳴き声がすごかったろうなあ。

こんな感じ。残念ながら「小庄のたんぼ」が田んぼだったころの写真はない。これは、上の写真と同じ、じいさんが昭和34年秋に武蔵増戸辺りで撮ったものらしい。

今は、みんな畑、または宅地になっている。

ここから、川沿いに遡って、ばあちゃんの実家の墓に行くという手もあったが、この時は行かなかった。年寄りの足だと20分はかかるだろう。畑の中を真っ直ぐ北に通って、林の中の街へと上がっていく坂道を登っていった。

今考えて、ばあちゃんにとって、これが最後の「小庄のたんぼ」だった。感想みたいものがあったのか、ここでよく遊んだよ、ぐらいは言ったか?、覚えてない。

このちょっと前、2006年3月に撮った「小庄のたんぼ」。奥に見える(?)木々の中の坂道を上がっていく。

坂を上り(じいさん、ばあちゃん、よく登ったなあ)一段上ったところから見た「小庄のたんぼ」。

これは2023年9月に撮った。奥にアーチ型の遊歩道の橋も見える。

街に入って、街道沿いのうどん屋に入って昼食にした。

寿美屋さん。これも2006年3月撮影。

昔からあるうどん屋さんで、店のホームページによると創業150年だそうだ。当然、ばあちゃんが五日市に居た時にはあった。私が子供ころよく来ていた時に、ばあちゃんが親戚の家に持っていくのにだか、ここで買っている記憶があるような気もするが、食事が出来るようになっていたのかどうか知らなかった。私はもちろんそうだが、じいさんもばあちゃんも、ここの店で食べるのは初めてだったんじゃないのか。

じいさんとばあちゃんが2人並んで、向かいに私が座った。
何を食べたのか全く覚えていない。まあ、うどん屋なんだから、うどんだろう。

この時の写真がある。 それを見ればわかる。

おそらく、じいさんが注文をしたのだろう。

都心の立ち食いそばじゃないんだら、少しは待たされただろう。

ここで、ようやっと気づいた。 カメラにフィルムが入っていない! フィルムカメラにフィルムがはいっていないことに、どうして気付かないかな~(笑)。

デジカメもあったんだが、調子が悪く、何を撮ってもハナカマキリのような芸術写真になってしまう。それで、フィルムカメラの一眼レフにしたんだった。失敗した(泣)。すぐ、フィルムを入れた。

食べたのは、うどんだ!

後は、帰るだけ。ここからどう返ったかさっぱり覚えていない。歩いて駅まで行って、電車に乗って帰って来たのは間違いない。

じいさん、ばあちゃんにとって、五日市はこれが最後。ばあちゃんには電車に乗ってかなり遠くに行った、最後の外出になった。それが自分の生まれ故郷、五日市だった訳だ。

そんなことは、ずっと後になってわかることだ。実家の墓参りは、しておけば、と思うわな。

これを書いている私以外、じいさんもばあちゃんも死んじゃってるんで、どうしても最後ネタ、ああしておけばよかったネタが多くなる。悪しからず。

この後は、行動半径が狭くなり、ちょこちょこ小トラブルが起こるようになってくる。


9 墓参り、本人、最初で最後

2025-04-04 10:44:59 | 思い出
退院の後の病院通いは、すべてじいさんに任せていた。自分では、朝早く診察の順番取りに行って、待つことが出来ないばあちゃんのご機嫌取りなど、すべて自分がやってたと思っていたのだが、それはもっと後の事の様だ(笑)。
まだ何もしてなかった。


その墓石には、平成元年5月吉日と彫ってある。

わたしとばあちゃんは、ここに来るのは初めて。じいさんも多分2回目ぐらいらしい(手帳に墓を作ってから一回も来ていないと書いてある)。そして、その日は平成18(2006)年10月9日(月)。

平成元年は1989年だから、完成してから、10数年ほったらかしという訳だ(苦笑)。まわりの景色もちっとは変わってたかも知れない。

じんさん、自分で作った墓に10数年ぶりで、さぞ、感慨深かかっただろう(それはないか(笑))。

私は、多分あるんだろうが、何処にあるのかも知らなかった。ここなのか。まあ、いいところだ。 ばあちゃんは、我関せずか?

霊園の管理事務所から、おたくの墓が草ぼうぼうで、隣のうちの墓まで伸びて迷惑しているから、なんとかしろ、と苦情のハガキがじいさん宛てに来ていた。じいさん、草取り料を払い忘れてたか(笑)?

それで、そこへ、じいさん、ばあちゃん、私の3人で墓掃除に行くことになったのだ。駅からタクシーに乗り、10数分。着くと管理事務により、軽く挨拶してじいさんを先頭にして墓に向かう。

この辺(って、どの辺よ?(笑))にありがちな急斜面につけられた、かなりの急な鉄の階段を登っていく。81歳のばあちゃんもよくあそこを登ったと今にして思う。

確か、この辺だったか・・・ああ、ここだ、ここだ、とじいさんは言ったかどうか(笑)。でも、ちゃんと覚えていた。

おそらく、その草ぼうぼうの我が家の墓を、草取りをする前に1枚。その後、草取りをした墓を背景にじいさん、ばあちゃんの写真も撮っただろう。ついでに、迷惑をかけていた、隣のお墓の草も少々抜かせていただいと思う。
 
最寄り駅は五日市線の武蔵引田というところ。今こそちょっと変わってきたが、当時は360度畑の中にある駅で、トイレが駅のその外にある。今もある(最近立て直してきれいになった)。ここから歩くと20数分かかる。

高校の時だったか、山に行くのに夜が明ける前、朝早く家を出て、この駅に着くころ、ようやく日が昇り出して薄暗い朝霧の中、畑に植えられた大きな梅の木に真横から陽の光が差してるのが幻想的だった(もう一度見てみたいが、もう梅の木がない(悲)。でも、40年後この駅に頻繁に乗り降りすることになるなんて!)。

そんな駅前にタクシー乗り場なんかない。今もない。

タクシーは一つ都会よりの秋川駅から乗った。

じいさんは、お寺さんでやっている霊園墓地を買った。檀家ではない。このお寺さん、由緒あるかなり古い寺らしく、霊園とは本堂をはさんで東側に立派な檀家さんの墓地がある。急坂をうまく利用してすり鉢状に上から下にと墓が連なっている。上に行くほど墓石は大きくご立派、古そう。その家のこの地域での家格を表しているのだろう。下の方の下々を見下ろしている感じだ。

西側の我が家の墓の方は、同じ斜面でも新しく広く切り開いてならした感じ。まあ、普通、はなっから下々。でも、山が近くて、景色はいい。すぐ前に秋川がながれ、反対側にサマーランドがある。営業時期はその喧騒が聞こえるほどだ。その近くに、地質に興味のある人しか興味ないだろうが、山肌が崩れた露頭もみえる。奥多摩の山々もほど近い。

帰りも、また、あの鉄の急階段をおりる。81歳と84歳、よくおりたなあ(笑)。

タクシーがくるまで少し時間があり、門の前で記念に写真を撮ったか、どうだか。

タクシーが来て、この後、ばあちゃんの出身地の五日市に向かう。じいさんも、ばあちゃんも、もう、ここに来ることはなかった。今は、二人で墓の中にいるけど。


1961年(昭和36年)10月。今、サマーランドがあるあたりらしい(じいさんが言ってた)。町内会の慰安旅行だかでいった栗取り。池は川を堰き止めて観光用に作ったものか。露頭しているところは、今でもお寺から見えるところか?



ひょっこりひょうたん島の・・・

2025-03-31 10:01:35 | 思い出
ネットになくて、見れるなら、もう一度ぐらいは見てみたいもの、2つ目。

”ひょっこりひょうたん島のプラモデル”は、小学校の校門の前にあった小さな文房具屋で売っていた。近所にプラモデルを売っている店は、ここを含めて3軒あって、ここが1番小さく、入れば何畳もない道路に面した普通の民家の一間を売り場にした狭い店だ。私は、ここでプラモデルを買ったことはなかった。むしろ外から見えるゴム動力の模型飛行機の幾つも並んだ、たてに長い紙の袋に引き付けられて見ていた。その中からグライダーのやつを一度買ったことがあったぐらいか。

小さな文房具屋の北側、外から見る上の方の細長い小窓。下のガラス戸じゃないんだよなあ。

小学校の校門真ん前(どうしてこんなうまい所に文房具屋あるんだろう?)といこともあって、朝、えんぴつがない、消しゴムがない、ノートが・・・とい子供相手だったんだろうが、ちびまる子ちゃんによく出てくる、あやしいおじさんがインチキ臭いものを売りに来るのは、たいがい通りの向かい側、小学校の校門の脇のちょっと離れたところ。

砂絵には興味を引かれたが、ばあちゃんはこいうものは絶対に買ってくれなかった。こういう投資もしておいてくれたらなあ(苦笑)。

そこへ、夏休みだったか、近所の悪ガキ何人かが遊びに入った。ひやかしのつもりだ。ところが、その時は、プラモデルなんか興味あるとは思えなかった、隣の静ちゃんが、その”ひょうたん島のプラモデル”を見つけて買ったのだ。

プラモデルが好きだった私は、なんで、こんもん、と思ったかもしれない。

でも、これが違った。

家の脇、静ちゃんちと私んちの間の狭い通路に、縁台と称して親たちが作った簡単な長椅子があり、そこで子供が集まって夕方まで遊んだ。

静ちゃんが買ったプラモデルの小さい箱を開けると、人形が何体か(はかせ、ドンガバチョ、とらひげ、サンデー先生あたりか?)作れるパーツが入っていて、静ちゃんの温情で、私もちょっと作らせてもらえた。

今見たら、子供だましの簡単なものだったかもしれない。でも、テレビで見たのおんなじで、手に棒がついていて、糸で止めらていたのか、腕が自由に動かせるのだ。

それは、作った後、子供がみんなで遊べるやつだった。そのことが他のプラモデルとは違った。おそらく番組でやっていた歌なんかを、いいかげんに歌って、それに合わせて、今作った人形にみんなが勝手に動きをつけて、ゲラゲラ笑いながら楽しんでいた。縁台に夕日が差すまで、ものすごく楽しい夏休みの一日だった。

でも、次の日には、それで遊ぶことはなかった。それがどうなったかも知らない。ただその日、一日だけのことだった。

私は、2~3か月あとか、それとも学年がかわってからか、あの楽しさをふと思い出したのか、あのひょうたん島のプラモデルを作ってみたくなって、あの文房具屋に一人で行ってみた。

実は、ここのおばさん、ちょっと子供受けしない人で、私一人で入るには度胸が必要だった(笑)。おばさんがすぐ出てきて、あやしい(だったと思う(笑))感じで私を見ている。あまり置いてなかったプラモデルの箱を一通り見まわして、あのプラモデルがないことを知ると、いつもはそんなことしないで出ていくのに、その時は、「あのー、ひょこりひょうたん島の・・・」とおばさんに聞いてみた。

おばさんにしてみれば、なんのこと? だったろう。
聞けたのは、もう売ってないよ、だけだった。

隣の静ちゃんは、私より2つ上で、長く地元の市役所に勤めたが、今、隣家をついでいる長男さんによると、もう何年も前に亡くなったそうだ。知らなかった。山猿のようにはしっこく、いつも日焼けして真っ黒で、近所の悪ガキの中では一番長生きしそうだったが・・・

当然、これに関した写真なんてない訳だが、もう少し前の時代、じいさんが撮っていた広場の縁台将棋が雰囲気をよく写しているのであげることにする。

うちの脇もこんな感じだ。あの「食べる紙」を、私が”ぺっぺっ”やってたのもここだ(笑)。この写真から5~6年は後だが。


「うちの畑」

2025-03-17 09:59:24 | 思い出
サツマイモをふかしてみた。

商業写真みたいに湯げ、ほっくほっくのふかしたて感を出すのは難しい。

レンズが曇った(笑)。

味の方は、昔、子ともの時、食べた味と変わっていない、ふかし芋の味だ。何十年ぶりだ。

そもそも自分でサツマイモをふかすのは初めてだ。

そもそも自分で生のサツマイモを買うのが初めてだ。

子供頃は、ばあちゃんがよくふかしてくれて、しょちゅう食べていた気がする。

安かったか?

う~?、うん。それもあるが、「うちの畑」が2か所あってそこで取ってきたからだ。

このカッコつきのうちの畑は、うちの土地じゃない、誰か知らない人様の土地に、断りもなく勝手に作った畑だ。もちろん今だったら許されない。昔のおおらかさか、まだたくさんあった広大な空き地、土地管理のあまさから、戦中戦後の食糧難から続いて、そんなことが昭和30年代のまで許されていたんだなあ。

雑草が大人の背丈ほど伸びたところをかき分けて入っていくと、そこに何坪もない畑が出来ていて、トウモロコシやサツマイモが植えてある。隣の畑も、何処か知らないご近所さん(親は知ってたろう)だ。それぞれ竿を立てたり工夫を凝らしている。今だったら、市の家庭菜園ってとこか。

行くのは、大概、ばあちゃん、兄と私の3人。じいさんと行った記憶がない。じいさん、土いじりが好きだったんだけど。

そいうところが、いつの間にかダメになって、宅地になり、「うちの畑」もなくったころから、とれたてのトウモロコシとも、ふかしたサツマイモとも縁がなくなっていった。ばあちゃんが買ってきたのを食べていたんだろうが、そんなに食べたいものでもなかった。そのころにはもっと美味しいお菓子がたくさんあったからか。

いもは、やっぱ焼き芋なんだが、石焼き芋というと、高かったのか、めったに食べられなかった。その代わり、つぼ焼きってゆうのがあって、しょっちゅうではないが、時たま、買ってくれた。

店の前に(そこが店なんだが)大きな壺があって、下で薪でも焚いていたのか、中にかぎ状の針金を差した芋が入っている。芋は中で釣るってあったのか(中は見たことない)、買うと言うと、おじさんが軍手をした手で壺に頭をつっこんで(頭はさすがに入れなかったろう(笑))取り出してくれる。

味は、ふかしたものより全然甘かった。石焼き芋と同じ感じだが、お値段が高い石焼き芋の方がうまったんだろう。

不思議と子供だけで買った記憶がない。大人が買ってくれるものだった。

その壺焼きも今は全く見なくなってしまった。それだけじゃなく、石焼芋屋も見ない。リヤカー、車。売り声、スピーカー、録音と変遷して、かつては冬の風物詩だったが。

スーパーで焼いた芋がお値段も手ごろで味もいい。それが普通に買えるようになって、何回かばあちゃんに食べされたことがある。美味しそうに食べていた。動画もあるかもしれない。本編の方でその時になったら、あげてみたい。

でも、ある程度の歳になったら、たいして甘くない、ふかし芋の甘さがちょうどいいかも、と思えた。懐かしい甘さだ。

ばあちゃんにも食べさせれやればよかった。ばあちゃん、何と言っただろうか?

「うちの畑」の一つがあった空き地。なんだが、撮ったのが昭和41年の冬で、翌年には宅地化されているので、もう自由勝手は許されていなかったか?