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17年間のボッチ自宅介護を振り返る

1人で自宅で認知症の母親を介護、その間、父親も6年間の介護のすえ、どちらも家で看取る。その17年間はなんだったのか? 

ばあちゃんの「ああ、戦争は怖かった」(下)

2025-04-21 11:45:57 | 戦争体験
ばあちゃんが、戦後50年、今から30年前に市の「わたしの戦争体験手記」に自分の戦災体験を投稿した分の2回目。


それから警報がでると本村の方へ避難するようになった。

四月十九日だったと思う。警報でトラックにのせてもらい正門を出たら、もう艦載機が何機も来ている。この頃は敵機が来るのが早く空襲警報ではたいてい本土の上空に来ていた。慌ててトラックから飛び下りる。

P51の兵隊が見えた。私は敵機の真下にいた。後で考へて兵隊が見えるものだろうか、でもあの時は見た。

畠の中で身を小さくしたつもりだがホーレン草だか麦だかみんな丈が短かく身をかくすようなものはない。顔をその中にうめた。

撃ってくる音に背中に穴が今度か、背中に穴が今度か、今度か、今度か、サラサラと畠に何か降っている。背中に穴があくことしかなかった。他のことはなんにも頭にも体にもなかった。

今でもあの感触が背中に残っていてあの時のことを思うと固くなる。

P51が去りトラックに戻り貯水池の方へ避難した。一緒に乗って出た人達どこへ行ったか、十人と戻らなかった。それぞれ逃げたらしい。翌日一人後の方で撃たれて亡くなったと聞いた。工場内でも何人か、この日亡くなった。

その後何度も恐い思いをした私に今の平和は夢のよう。恐い思いはもうたくさん。したくない。させたくない。


この後、もう1回、4月24日に3度目の空襲があり、今度はB29の爆撃でぼこぼこにやらて工場は壊滅状態。 そのことには、ばあちゃん、何も書いていないが、話にはきいたことがあるような。3度の空襲で合わせて100人近い方が亡くなったそうだ。

ばあちゃんたちが逃げて行った本村の方。よーく見るとぶどう棚がある。本村までずっと畑。本村は丘の麓で、丘の向こうが貯水池(多摩湖)。

昭和36年9月

こんな道を逃げて行ったか?

昭和35年8月 方向は違うが、こん感じだったと思う。

ばあちゃんの認知症対策として、ここに載せた手記をばあちゃんに読ませていた。また、認知症の進み具合を記録するために動画も撮っていた。それをYouTubeにあげている。ご興味おありの方は。ちょっと長いけど。
ばあちゃん91歳の時のもの。この後どんどん悪くなっていく。その変化を示したいのだが(一応元教育者)、SNS向きじゃないね。





ばあちゃんの「ああ、戦争は怖かった」(上)

2025-04-18 12:23:22 | 戦争体験
このブログ11月で終わりか~・・・

さて、どうする。困ったもんだ。今年から始めた新参者としは、どっち向いていいんだか、さっぱりわからん!!

この機会に「もうやめる」という選択肢はないんだけど、どっか移るにしても、何処へ?、いつ?、どのように?
誰か、力強い人の尻にでもついていくか(笑)。

さて、金曜日は本編を載せているのだが、80年前の4月19日は、ばあちゃんが空襲にあって、あぶなく死にかけた日だ。そのことを、戦後50年、今から30年前に市の「わたしの戦争体験手記」に投稿している。

それを今回と次回(月曜日)の2回に分けて掲載したい。原文は縦書き。

   噫、戦争は恐かった。

     戦中の建物残る公園は
       来るたび痛し、 わが胸の中

日立航空機時代の変電所、給水塔の残る公園の近くに住む私は散歩しながら、よくこの場所に来る。給水塔を見上げては、三十年、四十年と我が胸を押さえて来た。今年は五十年、とりわけ込み上げるものがある。 

日立航空機で一緒に働いた皆さん、お元気でいるだろうか。

大和村の日立航空機工場で働くようになった親に連れられてこの地に来たのは昭和十四年だった。家事手伝いをしていた私も親にすすめられて十七年暮に入社、戦士の一員の誇りをもって働き始めた。十九年空襲警報がたまにあった。防空壕に入り解除を待つ間は休憩時間おしゃべりを楽しんだ。歌もうたった。湖畔の宿、愛染かつら、愛国行進曲、あすはお立ちか、父よあなたは強かった などなど。ああ、そうそう、若き乙女こんな歌も唄った。

  大佐、中佐、少佐、じじくさい
  それに大尉にや 妻がある
  粋な少尉にや 金がない
  女 泣かすは 中尉殿

でも、いつまでもそうはいかなかった。

昭和二十年二月十七日、空襲警報で外へ出たらもう敵機が上空にいるではないか。慌てて壕に入り身をかがめていると、ひゆうん、バシヤ、バシヤ、ひゆうん、バシヤ、バシヤと撃ってくる。壕の土がその度サラサラと落ちる一緒に入った中の一人がお母さんお母さんと泣いている。私も身を小さくし頭を手で押さえていた。敵機が去り外へ出たとき、あ、あ、命あったと思った。家へ帰ったら、母に無事だったか、工場まで見に行ったんだよと言われた。(つづく)

ばあちゃんと変電所 

手記を書いた時は70歳、写真は85歳。すでに認知症が始まってたが、ここに来て、ここ知ってるか?と言うと、知ってるよ、よく覚えてるよう、この前よく通ったよ、と自慢げに言っていた。