ばあちゃんが、戦後50年、今から30年前に市の「わたしの戦争体験手記」に自分の戦災体験を投稿した分の2回目。
それから警報がでると本村の方へ避難するようになった。
四月十九日だったと思う。警報でトラックにのせてもらい正門を出たら、もう艦載機が何機も来ている。この頃は敵機が来るのが早く空襲警報ではたいてい本土の上空に来ていた。慌ててトラックから飛び下りる。
P51の兵隊が見えた。私は敵機の真下にいた。後で考へて兵隊が見えるものだろうか、でもあの時は見た。
畠の中で身を小さくしたつもりだがホーレン草だか麦だかみんな丈が短かく身をかくすようなものはない。顔をその中にうめた。
撃ってくる音に背中に穴が今度か、背中に穴が今度か、今度か、今度か、サラサラと畠に何か降っている。背中に穴があくことしかなかった。他のことはなんにも頭にも体にもなかった。
今でもあの感触が背中に残っていてあの時のことを思うと固くなる。
P51が去りトラックに戻り貯水池の方へ避難した。一緒に乗って出た人達どこへ行ったか、十人と戻らなかった。それぞれ逃げたらしい。翌日一人後の方で撃たれて亡くなったと聞いた。工場内でも何人か、この日亡くなった。
P51が去りトラックに戻り貯水池の方へ避難した。一緒に乗って出た人達どこへ行ったか、十人と戻らなかった。それぞれ逃げたらしい。翌日一人後の方で撃たれて亡くなったと聞いた。工場内でも何人か、この日亡くなった。
その後何度も恐い思いをした私に今の平和は夢のよう。恐い思いはもうたくさん。したくない。させたくない。
この後、もう1回、4月24日に3度目の空襲があり、今度はB29の爆撃でぼこぼこにやらて工場は壊滅状態。 そのことには、ばあちゃん、何も書いていないが、話にはきいたことがあるような。3度の空襲で合わせて100人近い方が亡くなったそうだ。
ばあちゃんたちが逃げて行った本村の方。よーく見るとぶどう棚がある。本村までずっと畑。本村は丘の麓で、丘の向こうが貯水池(多摩湖)。

昭和36年9月
こんな道を逃げて行ったか?

昭和35年8月 方向は違うが、こん感じだったと思う。
ばあちゃんの認知症対策として、ここに載せた手記をばあちゃんに読ませていた。また、認知症の進み具合を記録するために動画も撮っていた。それをYouTubeにあげている。ご興味おありの方は。ちょっと長いけど。
ばあちゃん91歳の時のもの。この後どんどん悪くなっていく。その変化を示したいのだが(一応元教育者)、SNS向きじゃないね。