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17年間のボッチ自宅介護を振り返る

1人で自宅で認知症の母親を介護、その間、父親も6年間の介護のすえ、どちらも家で看取る。その17年間はなんだったのか? 

4 ボッチ介護の始まり

2025-02-28 10:30:04 | 介護
ばあちゃん、耳が悪いのと、物忘れが若い時からひどくて、2006年当時、すでに言われていたであろう認知症と、どうとらえていいのかよくわからなかった。

「プロローグ(1)八高線毛呂駅」から、ここまでは、もの凄くゆるい下り坂の動く歩道(そんなのないか(笑))の上を歩いているみたいなもんだった。

それが2006年4月の中旬以降、ばあちゃんの具合が急に悪くなったので、認知症なのか~?とようやく疑わざる負えなくなっていった。

後に医師の診断を受け、慢性硬膜下血腫と言われて、点と点がつながって線になった訳だが、その前に、いろいろ変な事が起り出し、私たちには、自分の居る場所が何なのか、何処なのか、右に行けばいいのか、左に行けばいいのか、わかりようがなかった。

ここから先は対数曲線を0に向かって(例えが悪いか?)滑り降りるみたいなもんで、あたふたするばかりだ。その「あたふた」振りを当時書いたものでたどってみたい。

でも、考えてみると、あの時は、ちょっと急な別の曲線に乗り換えただけだったんだなあ。すぐ元に戻れた。続きの戻ることのできない本当の急坂はこの10年後にやってくる。


(以下、父=じいさん=父親、母=ばあちゃん=母親)
2005.4月頃
半年ぐらい前に預金通帳がないと騒いでいたが、箪笥の上においてあるのを父がみつけた。母にきいても、知らないという。

2006.3.2(木)
母の保険証(カード)がなくなったと、父と母が騒いでいる。先週受けた貧血の検査を今日聞きにいく予定だったのだが、そのカードを母がどこに置いたか、わからないと。

結局、いつも置かないようなところにあるのを父がみつけた。保険証がカードに代ったという意味が理解できていないようで、大事なものと思い通帳などと一緒にしまったのか?

2006.3.15(水)
自彊術の年度末の食事会に出席するとのことで、本当は帰宅が遅れるはずだったが、父が、食事会は今日ではなかったらしく、11時ごろに帰ってきたと言う。 母の勘違いだったんだろうと、母にも直接尋ねてみたが、母にはよくわからないようだった。その時は、母の顔に異常は感じられなかった。
(このころ市民サークルでやっている自彊術に通っていた)

2006.3.16(木)
昼食のとき、父が弁当を買ってきたので、いつでも都合のいいときに食べないか、と私(学校は試験休みで家にいたか?)に言ってきたので、下におりっていてみると、目の前に座っている母の顔の左目あたりが、ひどくはれていることに気付いた。どうしたのかと聞いてみると、きのう、体操(自彊術)からの帰りにころんで、顔をぶつけたという。朝も、気づかなかったし、急になったように感じたので、ちょっと奇異に感じた。

夕食時、かなり腫れがひどくなってきたので、そのことをまた聞いてみたが、やはり転んだとのこと。目のまわり、腫れている部分に多少に痛みを感じるが、そんなにひどくはないという。左目の見え方は、問題なさそうだ。傍目にみて、ちょっと痛いという程度ではないようにみえる。恐らく、自分では感覚がにぶくなってきていて、痛みを感じないのではないか。

その時は、明日、とにかく医者にいくということにした。どこにいったらいいのか。外科か?内科か? 母が眼科はどうなのか、この辺だとどこにあるのかと、聞くので、私が駅の近くにある眼科に連れて行くことにした。

少したって、父が風呂から上がってくるときに、母との話で、撲られたのではないかと言っているのが聞えて、もしかしたら、誰かに殴られ、金品でも取られた? 下におりると、母は横になっていた。具合がわるいのか?聞いてみても、大丈夫だというだけ。ちょっとおかしいので、きのう、誰かに襲われたのではないか?何か盗まれていないか?ときいたみたが、そんなことはないと言う。体操の時にいつも持っていく道具を一応、調べてみたが、財布はあるし、手提げもよごれているようではなかった。
気分は悪くないが、風呂には入りたくないと言う。何かおかしいので、今夜は様子を見て、父が明日、近くの医院(外科)に連れて行くことにした。
(この医院は、そのころじいさんが腰の治療に超音波だかをかけに日常的に行ってたところ。じいさんが連れて行った。レントゲンを撮って異常なし。その他、特別な注意なども受けなかったようだ)

( 「2 119番」の写真のように、3月下旬には顔のあざも治って、しばらく、こんなことは忘れていた。それが・・・)

2006.4.16(日)
夕食後のデザートにイチゴを食べることになっている。母が自分で用意して冷蔵庫にいれて、忘れないようにイチゴ用のスプーンをテーブルの上に出してある。それなのにそれを忘れ、目の前にあるみかんを食べようとする。そうじゃない、イチゴを食べるんじゃないのかと、注意すると一端はおさまるが、またすぐ、みかんを食べたらどうだと言い出す。

2006.4.18(火)
夕食が終わって、足が痛くて立つことができないと言う。私が後から抱えて起そうとしたが、痛くてだめだと言う。

2006.4.19(水)
午後、1人で買い物に出かけて行ったのだが、帰ってきて、疲れたといって横になっていた。どこに行ったのか、聞いてもわからない。

2006.4.20(木)
今日は、午前中は自分で動くことが出来たようだ。しかし、よろよろしている。午後、1時過ぎに、お使いに出かけると言う。どうみても外にでられそうにないので、今日は買うものはないからと言って、止める。足が痛くて、座れなくて、ずっと台所で立っている。

夕食の支度をするのに、後ろから見ていて、だんだん足で身体を支えられなくなり、流しに寄りかかりながら、足が曲がってくるのがわかる。倒れそうになったので、椅子にすわらせる。夕食も、椅子に座りながらとる(そのころ脚の低いテーブルで座って食べていた)。

(この時まで、私が、じいさんはもとより、ばあちゃんのことに介入する事は全くなかった。それは、恐らく、じいさんがいやがるだろうし、じいさんがやるべきことだと思っていたからだ。ところが、ここ何日で、ばあちゃんの認知面での具合が急変しているのに、じいさんが動こうとしない。ここでさすがに悟った。じいさんは優柔不断で決断力、実行力ないダメなやつだと。この時、じいさんを完全に見限った。以降、家のことをほとんど私が決めていく。今思うと、これがわたしのボッチ介護の始まりだった。その時は、まだ、ある人物(こいつが、じいさんに輪をかけようなダメなやつだった。それがわかるのはずっと後)を信頼していたので、1人でやるはめになるとは思っていなかったが。私が認知症の病院にばあちゃんを連れて行くとじいさんに告げた。すると、じいさんがしぶしぶ、自分で何とかすると言って)

父が、いつも自分で通っている外科の医院から、隣の市にある、この辺では大きな〇✕△病院の紹介状をもらってきた。

(それで、そこに連れて行こうという矢先だった 翌21日の朝、どん と。「1 どん から始まる」へ)


写真は、「2 119番」の写真とほぼ同じ、一連のうちの一枚。3月30日に撮ったもの。左目の腫れが引いているのがよくわかるかと(他に写真がなかっただけだが)。

でも、ころんで頭を打ったとしても、その時はなんでもなく、次の日から腫れてくることがあるだろうか? これを書いていて気付いたんだが、もう確かめようもないね。


文房具店のプラモデルの箱

2025-02-24 11:26:01 | 思い出
初めて自分でプラモデルを作ったのは、多分4,5歳で、駄菓子屋で買ったものだった。駄菓子屋で売られいていたものは、あのプラスティック枠(ランナーというのか?)がなくて、すでにばらけた部品状態で子袋に入っていた簡単なものだった。箱のも少しはあったか。買ったものは戦艦だったと思う。

それから少し歳がいって、箱に入って少し上等(?)なプラモデルに興味を持つようになった。

うちの街には、おもちゃ屋というのがなかった。私が子供のころ、昭和40年ごろの話だが。それじゃ、おもちゃは何処で買って来ていたんだろう? よくわからない(苦笑)。

大人は、隣町まで行ってデパートで買ったんだろうか?

でも、プラモデルは売っているところがあった。
それが文房具屋だ。

文房具屋でプラモデルって、当時はごく普通の事だったんだろうか? 他を知らないんでよくわからないが。

文房具屋はうちの近くに2軒あった。1軒は老舗ふう、もう1軒は小学校の門の前で、そこのおばさんがやっている、こじんまりしたところ。老舗ふうの方が間口が広く入りやすいし、プラモデルもたくさん置いてあったのでよく同い年の従弟と見に行った。

作るのも好きだったが、あの棚に積まれているたくさんの箱を見ているのが良かった。そして一箱、中を見る。これが至福の時だ。

めったに買わなかった(買えなかった)が買う時は、箱の前で、どれにするかさんざん悩んで、ねばって、ようやく一箱。あとは握りしめた、なけなしのこずかいを何日か貯めたお金を払って、急いで家に帰ってくる。あのわくわく感(と言いたいがそこまでは思い出せない(笑))。

家につくと、早々に箱を開け、設計図も見ずに(字が読めない!)作り出す。途中でなくなる、あのちっちゃいチューブの接着剤には困ったもんだった。

でも、楽しみはそこまでで、作ったあとは途端に興味がなくなった。ほとんど未完成で終わっちゃうんだが、何を作って、その後どうなったか全く思い出せない(笑)。子供はそんなもん飾ったりはしなかった。

少し遅れて交番のある交差点の所にもう一軒、新しい文房具店ができた。こっちは、店も広く交差点側に大きなショーウィンドウを構えていた。なんとそのショーウィンドウがプラモデルの箱で棚一杯に埋まっているのだ。

背の低い子供には、上を向いても全部見渡せないような(実際にはそんなことはない(笑))プラモデルの箱は圧倒的で魅了された。外からでもいい、中に入ればもっといい。間口も広く、天井まで、プラモデルだ。箱たちは整理とは無関係で雑然とした空間。箱、箱、プラモの箱。ここは夢の世界だ(あくまで昭和40年代初めのド田舎の話(笑))。いつまでも見ていたい。いつまでも居たい。

これは、プラモデルの一つの箱を開けてみる感覚とは別のもっと広い、もっと崇高なものだ。一から多に拡張された世界だ(子供がそんなこと思ったか(笑))。

従弟ともよく行ったが、1人でもよく行った。1人ときは、店の中に入る勇気がなくて、大概、交差点側、外から箱を眺めていた。不思議と1人で行くときは、他の子供に会うことがなかった。

そこの店主のおじさんが、ちょっと怖い人で、苦手だった。子供が、プラモデルの箱を開けて中を見ようとすると怒られた。外で見ていると、中からガラスをたたき、し、しっと、あちへ行けとやる。それで臆病者の私は逃げるように走って帰るのだが、何日かたつとまたあそこへ行っている。

ある寒い日、いつものように1人、外で見ていると、おじさんが出てきて、寒いから中に入れと言う。私は言われるままに中に入った。おじさんは子供が苦手そうだった。私も、こういう大人にどういう対応をしたらいいのかわからない不器用な子供だった。ただ、まる顔のおばさんは優しそうだった。

保育園の時、従弟とは別によく遊んでいたやつがいた。外側からあのショーウィンドウを見ているとき、上の方にあったロボットのプラモデル(鉄人28号だったか、違うような)だったと思う、そいつと、もうすぐ来るクリスマスに同じものを買ってもらう約束をした。

クリスマスになるとそいつは親にそのロボットのプラモデルを買ってもらった(後で、完成させたものも見せてもらった)。私は何故か隣町のおもちゃ屋まで行って白いヘルメットを買ってもらってしまった。

白いヘルメット? って、そのころそんなのはやってたか(笑)。何故、俺は、約束を破ってまでそんなもの買ってもらちゃったんだ(泣)。もちろんそれで遊んだ記憶もない。ずっと靴箱の上に置きっぱなしになっていた。

大人になってから、大して興味もないのに都心の大きなプラモデル専門店に入ったこともあった。あの文房具店とは比べものにならないくらいの量のプラモデルが置かれている。でも、子供の時、あの交差点の文房具店でプラモデルの箱を見ていた感覚は起きなかった。

作った後のプラモデルの箱は、学習机の下を占領していた。プチ文房具屋のプラモデルの箱状態。でも、プラモデルも小学高学年でまったく興味をなくし、机の下も、中学になると生意気にも大人が読むカメラ雑誌に置き換わっていた。

今でも、その箱だけ、一つ残っている。戦車や戦闘機、せめてサンダーバードじゃないんだ!


今でいうと「角川武蔵野ミュージアム」か。
まだ行ってないが、実際、あの本棚の前に立っても、もうなにも起きないかもしれない。

あの本を全部、プラモデルの箱に置き換えたらどうだろうか。あの感覚がよみがえってくるだろうか?



3 慢性硬膜下血腫

2025-02-21 11:17:52 | 介護
相変わらず、救急外来の長椅子に居るのだが、いつまで待たされるのか、随分長かったような気がする。検査に出る時に看護師さんに、衣類、入れ歯などばあちゃん(母親)が身につけていたものを入れてくれた袋を渡されていた。一度、じいさん(父親)に携帯から電話してみた。携帯の記録では、それが12:27となっている。確か、家に帰れたのは夕方で、すでに薄暗くなっていたような。

ようやく検査を終えて、救急外来の大きなドアが開いてまた入っていった。しばらくすると看護師さんが来て、名前を聞かれ、医師から説明があるから中に入って、ばあちゃんのところで待っていてくれと言われる。

ばあちゃんはベッドに寝かされていた。点滴をしているところが気になるらしく、それをいじろうとするのを何度もダメだと言わなければならなかった。自分がどういう状態なのかわかっていない。看護師さんが言うには、意識(ボケてるからとは言わなかった)がはっきりしていないようだから、点滴をはずしたりするので、注意して欲しいと。

これは、この最初の救急から最後の入院まで何度も続く私の仕事になっていった。

しばらくして医師がきて、母の両腕を上げさせ様子をみている。左と右に違いがあるという。その後知ったが、これは脳梗塞なんかでもするやつだ。

別室に入り、PCの画面にCTスキャンの画像が映っている。それを見ながら説明をうける。

なんとかという難しい病名で一度には覚えられない。なんとか膜、なとかかんとか出血とか、なんとか。う~ん(苦笑)。

その画像で頭部の右側(左脳か?)に大量の血液が充満しているという。実際、見てみて右側の4分の1ぐらいが、色が変わっているのがわかる。この血液が脳を圧迫して、左脳を右脳の方へ押しやっているということだ。だから、この溜まっている血液をすぐに手術して抜かないといけないという。そうしないと悪くなる一方だそうだ。

同意するしかない。その場で、お願いした。

CTに続いて、MRIの画像。こちらは脳の形がよくわかり、左脳、右脳の本来は真ん中にあるべき境界線がかなり左側に寄っていて、その境界線も分りずらい。

検査前に、ここ1ヶ月ぐらい前にあったことを話してあった。転んで頭を打ち、近所の医院に連れて行き、レントゲンをとったが異常はなかったこと、その後、だんだん物忘れがひどくなっていったことなど。

そのことが原因で、今回のことが起こったのではないかという。頭部を打って、その時はなんでもなくても、しばらくすると、内部にじわじわ出血してくることが、特に高齢者には多いそうだ。

病名は、「慢性硬膜下血腫」で、初めて聞く名だ。2度ぐらい聞き返した。そうしたら、医師の方で紙に書いてくれた。

医療従事者はもちろん(これがそうでもなかった(苦笑)。12年後ちょっとした事件がおこる。それは、その時また。)、老人施設などで働く人たちも知っておいた方がいい病名・症状だろう。

というのは、足腰が弱っているお年寄りがころんで、頭打ったりすることもあるだろう。その時は、けがをしただけで済むかもしれないが、1,2か月たって認知症の症状が現れたり、歩けなくなったりするかもしれない。

でも、この病気のことを知っていれば、もしかしてと、医者に見せれば大事にいたらずに済むだろう。また、適切な処置をすれば、認知症の症状が改善する、治せる認知症の一つらしい。

ケアマネさん、ヘルパーさん、うちに来てくれた何人かに聞いてみたが、知っている人、いなかったなあ。まあ、病名もいっぱいあって切りないからなあ。

以前、テレビドラマでも、取り上げらていたこともあった。

それで、次回は、ここまで、この1ヶ月ぐらい前に何が起こっていたか振り返ってみることにする。


あの時、医師が病名を書いてくれて紙がまだあるのでは、と今回探してみたが、見つからなかった。残念。

その代わり、「プロローグ(2)介護保険ってなに?」 で書いた、風呂椅子を買った時の明細書と椅子の取説が出てきた。

買ったのは、2009年8月で、この3年後。アマゾンじゃなくて、楽天だった! 私の記憶力そんなもんだろう(苦笑)。





食べる紙

2025-02-17 10:58:53 | 思い出
と言っても、紙を食べるヤギの話ではない。
食べるのは人間だ(笑)。

今年は昭和100年になるのか。
テレビで言ってった。

昔、明治100年ってのがあって、記念切手も出てた。
昭和100年の記念切手も出るのだろうか(大正100年って、いつだった?)。

その明治100年の少し前、昭和30年代終わりから、40年代はじめ、私の幼少期にあったもので、今、ネットで検索しても出てこない物、出来ればもう一度見てみたいものが3つある。

その一つが、駄菓子屋で売ってた、「食べる紙」。

白い紙の上に、赤だか黄色だかの食紅(?)で絵が描かれていて、その紙を小さくちぎって口に入れる。

すると、ニッキだかハッカだかの少しつ~んとした、辛いような甘い味がほんのり口に中に広がる・・・幼かった純真無垢の思い出が・・・

な~んていうほどの情緒ゆかしき上品なものではない。塗ってあったものは何かあやしいどぎつい色をした食材だ。味もしかり。子供はそれを口のなかでさんざんくちゃくちゃやって、その高級とは言い難い味がなくなるまでしゃぶり尽くす。そして、もうなんの味もしなくなったら、そのくちゃくちゃになった紙片を、ぺっと地面に吐き出すのだ。絵は消えている。

昔の広場(というより空き地、公園なんてない)は、こんなんだからさぞ汚かったろう。

でも、あちこちでやっていた道路工事、無造作に置きっぱなしされたドラム缶、マンガに出てくるコンクリートの大きな土管(土じゃないけど)、使われなくなった木の電柱とか、雑草と土とあい混ざって許されて光景だったのだろう。

その食べる紙なんだが、意外と知っている人がいない。大人、40代後半になってから、同世代の人に聞いてみたが知っている人がいない。ばあちゃんが死んだとき、何十年ぶりかにうちに来てくれた同い年の従弟に、そのことを聞いてみたが覚えていない。いつも一緒に遊んでいたのに。また、ばあちゃんのところに来てくれていたヘルパーさんのお母さんが、その方が小学生のとき駄菓子屋をやっていたというので、聞いてみたが、知らないとのことだった。

教育的・環境的によくない(それはないか)とか、チクロ・サッカリンの時代だ、塗られていたものに健康被害をもたらすようなものが含まれていたとか衛生面での問題で、すぐ発売禁止になったのかもしれない。

多分、大人になった私が思っていたより、売られていた期間はずっと短かったのだろう。

どんな絵が描かれていたのだろうか? まったく記憶にない。
駄菓子屋も小学校の中高学年になると足が遠のいていたし、食べる紙も口することはもうなかった。

あとの2つは、いずれまた。

写真は、1958年(昭和33年)の5月にじいさんが撮った裏の空き地(他で既出だが)。大正時代の絵葉書か?(笑 持ってないけど)

上の話の少し前で、まだ牧歌的で、高度経済成長の波にうす汚れる前のものか。ここに一時期、街の工事現場に集まった人たちが出入りするプレハブなんかが建ったりもしたが、それも上に書いたような次の時代の1つの風景だったのか。でも、この時の子供も、きっと”ぺっ”ってしていただろ(笑)。



2 119番

2025-02-14 12:34:47 | 介護
2006年4月21日(金)、授業を終えて早々に職場を出て、また自転車をこぐこと30分、家に着いた。

もしかしたら、という私のかすかな希望とは逆に、ばあちゃん(母親)は、家を出たときより、さらにぐったりしていた。前回書いたように、帰ってくる時どうするか考えていて、よくなっていなかったら119番しようと私の中では決めていた。じいさん(父親)は、相変わらずリクライニングの椅子でぐったりしていた。じいさんに、119番することを告げると、病院に連れて行くにも方法がないので、それでいいと。

119番。

「火事ですか救急ですか」と言われたかどうか、覚えていない。私にとって、その後、何度もお世話になる初めての119番だった。

母が具合が悪くなったので、とだけ言ったら、すぐ救急車をよこすと言ってくれた。理由は聞かれなかった。

すぐに電話があり、救急車からで、サイレンの音がものものしく受話器から聞えてきた。病人の容態をきかれる。足が痛くて歩けないと伝えた。年齢など聞かれたかもしれないが、その時、ばあちゃんの歳とか生年月日、知らなかったかも。

“せいぶ”救急です、と言ったので、西武でやっている民間の救急車かと思った。有料? 来てみて“西部救急”で消防署の救急車だとわかった(この後知るようになるのだが、救急車っていろんなところから来てくれるんだね)。

救急隊員の方が3名ほど家の中に入り、いろいろばあちゃんの容態をみたり、こちらも、ここ2~3日の出来事を話したのだが、どうも病気じゃないのではないか、という言い方をする。

一番偉そうな人が、脚をさわって痛いかどうか確かめたり(ばあちゃんもこういう時は、そう答えるからなあ(苦笑)、本当に痛くなかったかもしれないが)、腕に力が入るかどうか確かめたが、異常はないという。力が全体的に弱そうなので、栄養がたりてないのではないか、ちゃんと食事させているか、のようなことを言う。栄養失調だろう、はては老人虐待とてでも言いたげな感じだ。

こちらとしては、ここ2~3日の異状な状態からそうは思えないので、このときの救急隊員の方の応対にはちょっと不愉快な印象をもった。また、朝、便所で倒れていた時なぜ、119番しなかったのか、どうして、仕事から帰ってきから電話したのかなどきかれ、何とも返答しようがなかった。こんなのに救急車を呼ぶな、自分で病院に連れていけ、という印象を受けた。

これは病院に連れて行ってくれない? 自分でやるしかないのか? という不安も私の中で少しかすめていた。

それでも、救急車をだしてくれるこになった。隊員の一人の方が、じいさんに、「お父さんも、具合悪そうだし、大変だね。」と声掛けしてくれる。ばあちゃんの身の回りのものを簡単にまとめて、救急車に乗り込む(初めての体験、狭い)。この時は、わが家の玄関までの通路が狭く、ばあちゃんは担架に乗せられ庭からで出たんだったか?

サイレンの音に気付いた近所の人たちが何人かこちらを見ていた。

これで案外すぐ出るのではなくて、行く先の病院とやり取りしているらしい。個室しかあいていない、それでもいいか、と聞かれた。いいですとしか言いようがない。この時は、目の前に横になっているばあちゃんのことを思うより、自分がどうなっていくのか、不安は不安なんだが、ちょっと何かが違うという、先が見えない、ぼーっとした感じだった。


19年たって、今思うことだが、なぜすぐ119番しなかったのか。脳梗塞だったら 何時間以内に適切な処置をすれば助かる、逆にそれを超えると危ないとかいうが、そんなことは知らなかったと思う。知らなくてもすぐ通報しなけりゃダメだろう。

実は、この3年後、脳梗塞と思われる事例に2度遭遇するのだが、その時は、脳梗塞じゃないのかと思いすぐ救急車を呼んだ。それぐらいのことは私もしている。

でも、それでも、後で書くことだが、この少し前にいろいろあったことも関係して、緊急は緊急だが、脳梗塞のような緊急性を要する病気でもないかなあ、という迷いがあった。でも、なんかおかしい。それで当時すでに言われていたであろう、安易に救急を利用するな、という思いもあって、119番に躊躇していた。全くの素人考えだが・・・要するに大事(119番)は少しでも後回し(どん が起こるまでは)に、ってことだね。

また、動けない年寄りを病院に連れいくということが、どういうことなのか、わからなかった。全く初めてのことだ。

どやって? うちにはクルマがない。後で知ったが介護タクシーなんてあることも知らなかった。7119も知らない。

また、病院に救急外来と一般外来があることも知らなかった。これも後で、知ることになるのだが、動けなくなったじいさんを介護タクシーで病院に連れ行ったら、救急では受け付けてもらえず、一般外来扱いで、えらい大変なことになった。


どこに連れていかれるのかわからなっかたが、進行方向を見ているとすぐに近所の病院だとわかった。着くと救急隊員の方が、まず受付で手続きをしてくれという。これがわからない。私がこの病院に入るのは子供時以来何十年ぶりだ。当然建物も違う、とこが入り口なのか、警備員の人にきかないとわからなかった。ようやく受付で聞いてみると、救急の場合、受付はしなくていいとのこと。う~~、といった感じ。

ちなみに、この病院で母方の祖父(ばあちゃんの父親)が死んでいるんだが、私は入院中一度も見舞いに行かなったというじいさん不幸者だった(苦笑)。

救急の入り口の所で待っていてくれというので、そこの長椅子に座り、ちょっと待たされる。この長椅子もこの後、何度もお世話になる。

少し呼ばれて、医者に容態をきかれるが、印象は救急隊員と同じ。脳梗塞などの簡単な検査はしたのだろう。どこも悪くないようだ、あとはCTかと、と言う。一通りのことを話し終わると、また、外で待っていろと。もしかして何でもないのかも、ここでダメならと少し不安になる。

外でまた待っていると中から聞えてくる。どうやら立たせた状態を見ているらしい。それで、ようやく、どうも様子がおかしいと、流れが変わったのが外に居ても分かった。

ばあちゃんがトレイに載せられて検査に連れて行かれた後だっと思うが、さっきの偉いさんではない救急隊員の方が帰ると言いに来たので、外に出て礼をいう。救急隊の方にも伝わっていたのか、その時はもうぞんざい態度ではなかった。

実は、この後、検査で病名がわかるんだが、救急隊員でも一応症状など知っていなきゃいけない病気なんじゃないかと思う(医者でも即断はしなかったが)。年寄り(とは限らないが)には、ありがちな病気のようだ。急性じゃいが、ほっておいたら命にかかわる病気だ。栄養失調はわかっても、素人じゃわかんないと思う。最近、たまに耳にするが、私は、その時が初めて聞く病名だった。しかも一度で何を言っているのかわからず紙に書いてもらった(笑)。

まあ、この後、17年間、ええ!? そんなこと素人には無理でしょう、ということが結構あった。まあ、十数年も前の事だから、その辺の素人への対応は今とは違うだろうが。広い意味での教育、情報伝達の問題だね。


救急車というと、昔、赤痢が流行ったことを思い出す。小学校でも、どこのクラスでも何人かかかり、入院した。その子たちにお見舞いに絵描いて送ろうと言うことになった。なかなか何を描いたらいいか浮かばない。病気ということで、私たちのグループは救急車の絵を描くことした。上手く画けたと思った。ところが担任の岩本先生に大目玉をくらった(笑)。病気で大変な思いをしている人たちに対して何だ、という事だったらしい。今だったら、どうなのか? 今でもそうか? ほかのグループの描いた絵を見て、子供心にもうまいこと描くもんだなあと思ったが。

写真は、この3週間前の3月30日。下から雑草が生えてきたのが面白く、撮ってみた。この時は、全く分からなかったが、すでに兆候はあったんだなあ。