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17年間のボッチ自宅介護を振り返る

1人で自宅で認知症の母親を介護、その間、父親も6年間の介護のすえ、どちらも家で看取る。その17年間はなんだったのか? 

3月10日、11日は

2025-03-10 10:53:28 | 思い出
今日は、3月10日、東京大空襲。明日は、3月11日、東日本大震災。偶然とは思えない。そして、やっと本編の方で、1日目を書き終えた。これは偶然でもなんでもない、何にも関係ない先週のことだ(笑)。

去年の4月から(だったか?)出向たり、郵便で頼まなくても、地元の役所で全国どこの戸籍でも取れるようになった。
 
じいさん、ばあちゃん、死んで、普段、あまり縁のない戸籍を見る機会があった。これがそこそこ興味深い。そうすると自分のルーツ(昔、テレビドラマであったなあ、見なかったけど)に興味が出て、たどれるところはたどってみた。

しかし、父方の祖母(じいさんの母親)は、すぐとん挫した。これも別のところですでに書いたことだが、東京大空襲で実家が全滅しているからだ。戸籍がない。区役所の方で、そのことの証明書のようなものを出してくれるとのことだった。それをもらってもしょうがないので、その手続きはしなかったが。

この父方の祖母の母親(私から見たら父方のひいばあさん、曾祖母))は、能登(これは偶然か)の方から出てきたということと、結婚したあとの姓しかわかっていない。こんなことは昔は珍しくもないことか。そして、もっとわからないのは、この人の相手、だんな、私から見たら、ひいじいさん。苗字以外、どこの誰だか、さっぱりわからない。たった3代前なのに(笑)。

あとは、能登に行くしかないか。なんの当てもないが。

東日本大震災。あの揺れはトラウマになっている。去年の正月、能登の地震の時も、あの長い横揺れを感じた。ああ、これは、と思った人も多かったのではないか。被災地の方はそれどころではなかったと思うが。

それで、そのトラウマなんだが・・・このブログに移ってきて早2か月、こんな拙文も、読んでくれる方がいて、有難い次第です。現在進行形で介護などに大変で切実な思いをされている方が多いのでしょうか。ここにお礼申し上げます。うちでも、そうだ、こんなことがある、介護は戸惑いと自己満足ばかり、こいつバカだなあ、とか感じていただければ幸いです。

「はじめに(2)」で書いたようなことだが、

あなたの死にかかわらせてくれて有難う。

と言える何かがあれば。 でも、介護って、ゴールは死なんだろうが、生きるためにやってんだよね。

事故や事件、災害で大切な方を亡くされた場合、いつまでも忘れることはないと言う。お子供さんなど若い方を失くされた場合も同じだろう。
(「自分が欺かれた」からか?)

じいさんも、ばあちゃんも寿命を全うして死んでいったので、あの苦しい喪失感と言うのは1年半ぐらいだろうか(10年前に死んだじいさんの経験から。個人差あって、一般的な限定なんてないと思うが)? それで今からなら、書けると思って、自分の17年間を振り返るために書きだした。 また、今、そうしないと、今度は、どんどん忘れていく。あれだけ大変な思いをしていた毎日だったのに。それもまずいなと。

それを感じて、まだ苦しかったころの去年の6月、ばあちゃんが死んで1年の時に、ばあちゃんの死の場面(この本編の最終回)は書いてしまった。最後のエピローグに載せる動画も決めてある。

なんだが、この2か月半ばかり、「データマイニング」の所でも書いたが、あの紙の山や写真など、じいさん、ばあちゃんのデータの中に埋もれている。そうすると、私のこころの奥底に丁寧にしまわれていたはずの記憶が、思い出がだんだんにじみ出てくる。

その時の記録として書いてあることは、案外淡々としていて、素っ気ないないのだが・・・あ、これ、と自分の思い出に今の自分が共感して、芋ずる式に情感的なものが湧き出てしまう。これが重い。

まだ、17年間の1日目しか終わっていないのに。 これって大丈夫なのか(笑)?


1961年5月5日
このばあさんが私の父方の祖母。じいさん(私の父方の祖父)はあの埼玉県八潮の人。ついでで、かなりのむちゃぶりなんだが、ジャッキー吉川とブルーコメッツってご存じだろうか? 今、60代後半、70代の方でないとそもそも知らないと思うが、そのリーダーがジャッキー吉川という人だった。 そのジャッキーさんの家が、この写真の右奥にあったそうだ。叔父さんたちはよく知っていると言っていた(本当か?(笑))。


文房具店のプラモデルの箱

2025-02-24 11:26:01 | 思い出
初めて自分でプラモデルを作ったのは、多分4,5歳で、駄菓子屋で買ったものだった。駄菓子屋で売られいていたものは、あのプラスティック枠(ランナーというのか?)がなくて、すでにばらけた部品状態で子袋に入っていた簡単なものだった。箱のも少しはあったか。買ったものは戦艦だったと思う。

それから少し歳がいって、箱に入って少し上等(?)なプラモデルに興味を持つようになった。

うちの街には、おもちゃ屋というのがなかった。私が子供のころ、昭和40年ごろの話だが。それじゃ、おもちゃは何処で買って来ていたんだろう? よくわからない(苦笑)。

大人は、隣町まで行ってデパートで買ったんだろうか?

でも、プラモデルは売っているところがあった。
それが文房具屋だ。

文房具屋でプラモデルって、当時はごく普通の事だったんだろうか? 他を知らないんでよくわからないが。

文房具屋はうちの近くに2軒あった。1軒は老舗ふう、もう1軒は小学校の門の前で、そこのおばさんがやっている、こじんまりしたところ。老舗ふうの方が間口が広く入りやすいし、プラモデルもたくさん置いてあったのでよく同い年の従弟と見に行った。

作るのも好きだったが、あの棚に積まれているたくさんの箱を見ているのが良かった。そして一箱、中を見る。これが至福の時だ。

めったに買わなかった(買えなかった)が買う時は、箱の前で、どれにするかさんざん悩んで、ねばって、ようやく一箱。あとは握りしめた、なけなしのこずかいを何日か貯めたお金を払って、急いで家に帰ってくる。あのわくわく感(と言いたいがそこまでは思い出せない(笑))。

家につくと、早々に箱を開け、設計図も見ずに(字が読めない!)作り出す。途中でなくなる、あのちっちゃいチューブの接着剤には困ったもんだった。

でも、楽しみはそこまでで、作ったあとは途端に興味がなくなった。ほとんど未完成で終わっちゃうんだが、何を作って、その後どうなったか全く思い出せない(笑)。子供はそんなもん飾ったりはしなかった。

少し遅れて交番のある交差点の所にもう一軒、新しい文房具店ができた。こっちは、店も広く交差点側に大きなショーウィンドウを構えていた。なんとそのショーウィンドウがプラモデルの箱で棚一杯に埋まっているのだ。

背の低い子供には、上を向いても全部見渡せないような(実際にはそんなことはない(笑))プラモデルの箱は圧倒的で魅了された。外からでもいい、中に入ればもっといい。間口も広く、天井まで、プラモデルだ。箱たちは整理とは無関係で雑然とした空間。箱、箱、プラモの箱。ここは夢の世界だ(あくまで昭和40年代初めのド田舎の話(笑))。いつまでも見ていたい。いつまでも居たい。

これは、プラモデルの一つの箱を開けてみる感覚とは別のもっと広い、もっと崇高なものだ。一から多に拡張された世界だ(子供がそんなこと思ったか(笑))。

従弟ともよく行ったが、1人でもよく行った。1人ときは、店の中に入る勇気がなくて、大概、交差点側、外から箱を眺めていた。不思議と1人で行くときは、他の子供に会うことがなかった。

そこの店主のおじさんが、ちょっと怖い人で、苦手だった。子供が、プラモデルの箱を開けて中を見ようとすると怒られた。外で見ていると、中からガラスをたたき、し、しっと、あちへ行けとやる。それで臆病者の私は逃げるように走って帰るのだが、何日かたつとまたあそこへ行っている。

ある寒い日、いつものように1人、外で見ていると、おじさんが出てきて、寒いから中に入れと言う。私は言われるままに中に入った。おじさんは子供が苦手そうだった。私も、こういう大人にどういう対応をしたらいいのかわからない不器用な子供だった。ただ、まる顔のおばさんは優しそうだった。

保育園の時、従弟とは別によく遊んでいたやつがいた。外側からあのショーウィンドウを見ているとき、上の方にあったロボットのプラモデル(鉄人28号だったか、違うような)だったと思う、そいつと、もうすぐ来るクリスマスに同じものを買ってもらう約束をした。

クリスマスになるとそいつは親にそのロボットのプラモデルを買ってもらった(後で、完成させたものも見せてもらった)。私は何故か隣町のおもちゃ屋まで行って白いヘルメットを買ってもらってしまった。

白いヘルメット? って、そのころそんなのはやってたか(笑)。何故、俺は、約束を破ってまでそんなもの買ってもらちゃったんだ(泣)。もちろんそれで遊んだ記憶もない。ずっと靴箱の上に置きっぱなしになっていた。

大人になってから、大して興味もないのに都心の大きなプラモデル専門店に入ったこともあった。あの文房具店とは比べものにならないくらいの量のプラモデルが置かれている。でも、子供の時、あの交差点の文房具店でプラモデルの箱を見ていた感覚は起きなかった。

作った後のプラモデルの箱は、学習机の下を占領していた。プチ文房具屋のプラモデルの箱状態。でも、プラモデルも小学高学年でまったく興味をなくし、机の下も、中学になると生意気にも大人が読むカメラ雑誌に置き換わっていた。

今でも、その箱だけ、一つ残っている。戦車や戦闘機、せめてサンダーバードじゃないんだ!


今でいうと「角川武蔵野ミュージアム」か。
まだ行ってないが、実際、あの本棚の前に立っても、もうなにも起きないかもしれない。

あの本を全部、プラモデルの箱に置き換えたらどうだろうか。あの感覚がよみがえってくるだろうか?



食べる紙

2025-02-17 10:58:53 | 思い出
と言っても、紙を食べるヤギの話ではない。
食べるのは人間だ(笑)。

今年は昭和100年になるのか。
テレビで言ってった。

昔、明治100年ってのがあって、記念切手も出てた。
昭和100年の記念切手も出るのだろうか(大正100年って、いつだった?)。

その明治100年の少し前、昭和30年代終わりから、40年代はじめ、私の幼少期にあったもので、今、ネットで検索しても出てこない物、出来ればもう一度見てみたいものが3つある。

その一つが、駄菓子屋で売ってた、「食べる紙」。

白い紙の上に、赤だか黄色だかの食紅(?)で絵が描かれていて、その紙を小さくちぎって口に入れる。

すると、ニッキだかハッカだかの少しつ~んとした、辛いような甘い味がほんのり口に中に広がる・・・幼かった純真無垢の思い出が・・・

な~んていうほどの情緒ゆかしき上品なものではない。塗ってあったものは何かあやしいどぎつい色をした食材だ。味もしかり。子供はそれを口のなかでさんざんくちゃくちゃやって、その高級とは言い難い味がなくなるまでしゃぶり尽くす。そして、もうなんの味もしなくなったら、そのくちゃくちゃになった紙片を、ぺっと地面に吐き出すのだ。絵は消えている。

昔の広場(というより空き地、公園なんてない)は、こんなんだからさぞ汚かったろう。

でも、あちこちでやっていた道路工事、無造作に置きっぱなしされたドラム缶、マンガに出てくるコンクリートの大きな土管(土じゃないけど)、使われなくなった木の電柱とか、雑草と土とあい混ざって許されて光景だったのだろう。

その食べる紙なんだが、意外と知っている人がいない。大人、40代後半になってから、同世代の人に聞いてみたが知っている人がいない。ばあちゃんが死んだとき、何十年ぶりかにうちに来てくれた同い年の従弟に、そのことを聞いてみたが覚えていない。いつも一緒に遊んでいたのに。また、ばあちゃんのところに来てくれていたヘルパーさんのお母さんが、その方が小学生のとき駄菓子屋をやっていたというので、聞いてみたが、知らないとのことだった。

教育的・環境的によくない(それはないか)とか、チクロ・サッカリンの時代だ、塗られていたものに健康被害をもたらすようなものが含まれていたとか衛生面での問題で、すぐ発売禁止になったのかもしれない。

多分、大人になった私が思っていたより、売られていた期間はずっと短かったのだろう。

どんな絵が描かれていたのだろうか? まったく記憶にない。
駄菓子屋も小学校の中高学年になると足が遠のいていたし、食べる紙も口することはもうなかった。

あとの2つは、いずれまた。

写真は、1958年(昭和33年)の5月にじいさんが撮った裏の空き地(他で既出だが)。大正時代の絵葉書か?(笑 持ってないけど)

上の話の少し前で、まだ牧歌的で、高度経済成長の波にうす汚れる前のものか。ここに一時期、街の工事現場に集まった人たちが出入りするプレハブなんかが建ったりもしたが、それも上に書いたような次の時代の1つの風景だったのか。でも、この時の子供も、きっと”ぺっ”ってしていただろ(笑)。



ゾウと水族館の思い出

2025-01-27 10:18:43 | 思い出
1月25日(土)、朝日新聞のBの「サザエさんをさがして」にゾウのことが出ている。記事の内容は動物園の入場料値上げの話なんだが、マンガの方はそれとゾウに芸をさせていることと絡めている。

どこの動物園なんだか? まあ、上野なんだろう。

私が上野動物園に初めて行ったのは、高校生ときだ。そのとき、ゾウを見たという記憶はない。いなかったのか?覚えているのは、動かないパンダと堀の前を何往復しても踏み足を一歩たりと間違えないノイローゼ(今だったらなんていう?)気味白クマだけだ。

私が初めてゾウを見たのは井の頭動物園(正式には「井の頭自然文化園」か)らしい。写真がある。1960年(昭和35年)の11月。

このゾウも、マンガのゾウのように頭をさげる芸をしたのだろうか?

この時のことは当然ほとんど覚えてはいないが、10円(5円?)入れて動く馬に乗ったのをなんとなく覚えている。写真があるから、たまに見て、記憶が補強されているのかもしれない。

私の記憶で興味あるのは水族館だ。この時の記憶と、後に保育園行った時の記憶がないまざっているのかもしれないが・・・

それは確か、動物園の入り口を入ってすぐの所にあったような。なにやら薄汚いコンクリートのかたまりような建物。公園の便所か?って感じ。今なら公園のトイレだってもっときれいだ。中は狭く暗い。おまけに水槽の窓は小さく、藻だかで青く薄汚れている。子供の私にはこのガラスの向こうに何があるのかわからなかったし、何かいるとは思えなかった。入ったらすぐ終わりで、トンネルのように出口の光が明るく差していた。

これが水族館と言われて、私の中の水族館は、かなりまで、薄汚れた公衆便所のような所だった。

あれは何だったんだろうか? 残念ながら、その写真はない。

同じ井の頭のゾウを撮った写真がもう一枚ある。じいさんが初めてカメラを手に入れ最初に撮ったフィルムにある一枚だ。構図を意識しているらしい。

左下に「いんどぞう」と手書きしてある。1956年(昭和31)年1月 このゾウは、上の1960年(35年)の時と同じゾウだろう。それなら、私もあのお手製の看板を見ていたかもしれない。