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17年間のボッチ自宅介護を振り返る

1人で自宅で認知症の母親を介護、その間、父親も6年間の介護のすえ、どちらも家で看取る。その17年間はなんだったのか? 

28 じいさんの脳梗塞その後(2)

2025-08-29 11:01:12 | 介護
2009年9月28日(月)
前日にじいさんが脳梗塞で入院したんだが、この日は仕事で私は見舞いに行けなかった。

その代わりという訳ではないが、兄が遠方からわざわざ仕事を休んで来ることになっていた。

しかし、私が仕事から帰って来た夕方になっても、この兄はまだ着いていなかった。心配になり兄の家に電話すると、もうとっくに着いている時間だという。

まあ、このあと現れたのだが、寄り道してきたとのことだ。

この後、いや、ばあちゃんの硬膜下血腫のときからのことだから、以前から、こいつの行動はこうだ。普通、親が病気になって知らせを受けて来るのに直接来ないで寄り道してくるかね。

この頃はまだそう思っていなかったが、こいつにとって親の病気は、東京に出てくる都合のいい口実だったんだろう。だいたいこの時だって、わざわざで来なくてもいいと私に言われておきながら出て来たのだから。

以下「」内は、当時のメモ帳からの引用。 「父」は、じいさん、「母」は、ばあちゃんのこと。


夜になって兄が見舞いに行く。

父はかなりよくなっているとのこと。普通に話しができ、歩くともできるとのこと。

帰りにばあちゃんの実家にもよってきたとのこと。


じいさんの病状には私としては、へぇー、そうなの? と少し意外な気もした。

9月29日(火)
私が仕事から帰って夕方に


兄、母、私の3人で父の見舞いに行く。4階のエレベータを出た所、ナースステーションで面会の用紙を書いていると、父がこちらに気づかず自分の部屋の方に歩いていく。

ナースの方に、勝手に出歩くなと注意されている。兄が、お父さんと声をかけても気づかなかった。

父の印象は日曜日よりはいいが、なにか反応が悪く、生気が欠ける感じがした。

自分で歩ける、トイレも行ける、とのことだが、予想していたほど回復しているようではない。

自分の下着は何を着ているのかもわからなかった。あまり話もしない。こちらから聞かれたことに答えるのが精一杯という感じだ。

これから、ずっとそうなのか。

母が車いすに乗っているのを見て「お母さん、今日はなんだ」と、まだ入院していると思っていたらしい。お見舞いに来たというと、「いつ退院したんだ」といっている。

また自分は1週間ぐらい入院していると思っているようで、まだ3日だというと、そうかと言っていた。

どの言葉にも力がなく、はっきりしない。全体にボーっとした世界の中にさまよっている感じだ。


9月30日(水)
午後は仕事がなかったので、昼過ぎにじいさんの見舞いに。

昨日より具合はいいようだが、元気がないのは相変わらずだ。

入院した時のことを覚えているかときいたら、めまいがしたとか言い、脳梗塞をおこした時のことを全く覚えていなかった。

兄が、おととい来たことも覚えていない。病室についているトイレの水を流せずレバーもわからないと言っていた。

気になったのは、昨日はこの携帯電話も私が置いた場所になかったし、その隣においた財布もなかった。今日は、携帯は何故かあったが、財布はなかった。病室を探したがどうもありそうもなかった。

携帯や財布は看護師さんがしかるべきところに置いておいてくれたようだ。

3人で見舞いに行った時の写真



27 じいさんの脳梗塞その後(1)

2025-08-22 11:07:00 | 介護
2009年9月27日(日)の朝、じいさん、家で脳梗塞の発作を起こし、救急車で病院へ。救急センターで診てもらっているところまで書いた。

その後は、じいさんは病室に連れていかれ、私は、ばあちゃんの分を含めて何度目か(3回目?)の入院の手続き。それも終わって、いったん家に帰ることに。

あちゃんと昼食を食べて、必要な物の買い物をすませて、午後3時過ぎに、また病院へ。

病室に入ると、同室の人が横になっている。2人部屋だ。じいさんはどうしたかというと、近づいていって声をかけても、ボーっとしたような感じで、やっと私が来たのがわかっている、という感じだった。

普段使っているメガネ(老眼鏡 後で聞いたらこれじゃないと言われた(苦笑))を持ってきたので、かけさせてみる。字が読めるかときいても「うん」というだけで、その他の言葉が全くない。

手はグローブのようなものがはめられている。どうやら点滴の管をはずさせないためらしい。自分ではずしてしまうということらしい。

ええ!、この”じいさん”がそんなことするのか、と。

気づくと、じいさん、自分の手をじっとながめて、そのグローブをなんとかはずそうとしている。どんなにやってもはずれない。

見ていて痛々しい。

点滴をしているらダメだと言ってもきかない。わからない。

人が変わっていて、ちょっと怖い感じがした。

ばあちゃんの方は、もとからちょっと変わっている人だったので、それなりに変化を受け入れてった。このじいさんは、認知面ではこの時、87歳、まだしっかりしていた。この急な変わりようは異様に感じた。

やはり脳の方に障害が出ているのだろうか? 午前中よりはかなりまた悪くなっているように思えた。やはり、なんらかの後遺症は出ると覚悟した方がいい。

3人で下ってきた、歩くエスカレーター(動く?)、何とか年寄り二人を両脇に抱えてこらえてきたが、ここで、すとーんっと落とし穴におっこった感じだ。でも、幸い岩の出っ張りがあって、それに引っかっている。

命拾いはしたが・・・物語だと、そういう出っ張りは、大概、すぐ崩れることになっている(笑)。



26 じいさんの脳梗塞

2025-08-08 11:58:58 | 介護
前回は、じいさんが脳梗塞の発作を起こし、はじめは普通に話ができたので軽いものかと深刻さはなかったが、救急隊の人が来た時には、気づいたら意識が遠のいていくところで、呼びかけににも応じることが出来なくなっていた。これは死んでしまうのか・・・

結果から先に言うと、この時、じいさんは死ななくてすんだ。しかし、この時の脳梗塞が元で、あっちこっち痛い思いをして、5年後に再発作を起こして約1年間の寝たきり闘病生活を経て死んだ。

じいさん、我が家のチーム介護には戦力になってないと(今回、じいさんの手帳を読み返して、結構やっていてくれたんだと知った)思っていたのが、これからは、ばあちゃんに加えてじいさんまでを私一人で面倒見ることになっていく。

じいさんが、あの時私を呼んだ携帯電話がまだ残っている。これが、それ。

もちろんガラケー。

この携帯、何度と使っていないと思うが、唯一この時、自分の命を救うために役に立った。このために買っておいてよかった!

この時の履歴が残っていないかと、電源を入れてみたが、なかった。10年ぶりぐらいだけど電源入るんだね。

前にも書いたが、解約したのは私で、家族割だかの1万円以上の違約金をとられた。払ったのも私。なんだよ、それ!

2009年9月27日の現場に戻る・・・

救急車は7時45分ごろ家をでて、50分ごろには病院についた。その時、救急センターの前で少し待たされたが、じいさんの顔を見たらさっきより口が動いている。目も何かを見ているように思えた。また、救急隊の方が話しかけて「おとしはおいくつですか」ときいたが、それに対する反応は全く感じられなかった。

それからすぐドアが開き、じいさんはセンターの中に入っていった。

いつも通り私は、外のソファーで待される。これで何回目? これから何回くる?

家を出る前に兄のところへ電話しておいた。奥さんがでて、じいさんがたおれたことを伝える。どうしようもないのだが、ばあちゃんが1人になってしまうことを伝えた。

8:23 検査に行くとのことでトレーに乗せられて出てくる。少しよくなったとのことで、男性の看護師さんが「T(苗字)さん」と話しかけたら目をあけ答えることができた。私が、わかる、大丈夫、と言うと「あー」と少ししっかりした口調で答えた。しかし、口がきけるような感じはしなかった。

これからどうなるのかという不安とともに、いろんなことが頭に浮かんでくる。

自転車で左足を着こうと思ったら、左足で支えることができずそのままたおれたこと。これは5月ごろだったか、それでI医院で坐骨神経痛と診断され治療していた。

最近、病院のカードを入れておいたカード入れを落としたことに気づかないということがあった。話をきいたのは、おとといか?

この病院の診察券があるので、なんで病院に行っていたのかときかれたが、MRIの検査ぐらいだろうと答えた。最近、泌尿科に行っていたことを忘れ伝えなかった。

左脚がむくんでいた。

「はじめ左側が痙攣した。左側がずるずる傾いて起き上がれなくなった。」←じいさんが今朝、言っていた。

私にとって、じいさんの脳梗塞は青天の霹靂だった、週に何回も医者に行っていたような人が・・・本人次第、なるようにしか、ならないか。

検査から戻ってきて、しばらくすると中に入って、じいさんに付き添っていてくれと言われれる。少しして医師が現れる。「おばあちゃんに付き添っていた、おじいちゃんじゃない。息子さんも」と、ばあちゃんで慢性硬膜下血腫、脳梗塞とお世話になっている脳外科T先生だ。

先生によると、

脳に出血はないとのこと
脳梗塞らしい
心臓に不整脈があり、それが原因とみられる

とのことだ。

日曜日にもかかわらず、脳外科の先生にすぐ見てもらえたのは、ラッキーだった。じいさんも死んで、ずっと後になってからの事だが、この病院で救急で来て、ばあちゃん、受診拒否されたことがある。それはその時にまた触れたい。

午後に兄から電話がある。休みをとって帰ってくるという。私はさっき見た目で、それほど重態ではないと思っていたので、わざわざ遠くから来なくてもいい、と伝えたが、飛行機がとれたら大丈夫とのことだ。

実は、3月初め「(心の、人の)底の問題」で我が家の家族事情について少し触れたが、我が家にはもう一人いる。もうそろそろこの辺で登場したもらおうか。この兄貴だ。このころは兄弟として信頼していた。遠方にいるので実践力にはならなくても精神的に頼りになるやつと思っていた。



25 2回目の どん

2025-08-01 07:40:00 | 介護
2009年の9月末ごろまでの、ばあちゃんの頻尿と蜂窩織炎に振り回されていたことを書いてきた。でも、その中に、じいさんの手帳に記されていたこととして、じいさん自身の具合に関することも書いている。

この、じいさんのことは、ここで、このブログを書くために、じいさんの手帳を開いてみるまで、10数年も全く知らないことだった。こんなことがじいさんに起きてたなんて初めて知った。

確かに歩き方なんかはよちよち歩きになっていた(あの動く椅子を買ったってことはそういうことだったんだあ)が、歳も歳なんでそういうものかと思っていた。それに、もう若い時か病院好き薬好きだったので、異常な状態になっていたなんて気づかなかったなあ。

手帳をよく見てみると、かなり前から、いろいろ起きていたことがわかる。まあ、こっちは、ばあちゃんの事で精一杯だった。

やっぱ前兆ってあるんだね。

脳梗塞だ!

2009年9月27日(日) 朝 7時20分ごろ(後でじいさんの携帯で確かめたら7時27分だった)どすん、という大きな音が(前にも同じようなことが、とは思わなかった(笑))。一瞬どこから聞こえたのわからなかった。隣か? と。 その時、ストレッチ(朝の日課だった)をやっていたので、まあ、いいかと、そのまま続けていた。でも2~3分すると、携帯電話が鳴った。今ちょっとなあ、と思いながら出てみると、じいさんからだった。

「変なんだよ~。来てくれないか」

と言う。

「今の音、お父さん(このころは「お父さん」だった)だったのか、すぐいく」と言って電話を切り、下に降りていく。このときは音の大きさの割に切実感はなかった。

行ってみると、じいさんが、回転いすから左側に落っこちたような恰好で冷蔵庫い寄りかかっていた。

「左側にかたむくんだよ」と言う。

じいさん、自分で自分の今の状況が把握できていないようだった。これは、ちょっとやばい状態かもだ。

「脳梗塞だなあ、いま救急車呼ぶから」と言うと、じいさんも「脳梗塞かなあ~」と答える。

ばあちゃんも軽いとは言え、一回脳梗塞をやっているし、このころはそれなりに私も緊急事態なれしていた。早く治療に当たれば大事に至らないことも知っていた。やるべきことを淡々に。

すぐ119番。 じいさんの状態を話し救急車に来たもらうことに。

話の方は普通に話せたので、あまり重症ではないのかも。でも、動かさない方がいいと、どこかで聞いていたので、救急車が来るまで、そのまま椅子の下に倒れたままにしておいた。

その間、着替え、保険証を用意する。要領は心得たものだ。また電話があり、今度はこちらに向かっている救急車からだ。より詳しく現状を伝えた。

ほどなく救急車がきて、救急隊の方が父の状態をいろいろ探っている。私にもいろいろ聞かれるが、聞かれたことわからないので、じいさんに聞いてみようとしたら、

え、え!!

さっきと様子が一変。

じいさんに声がけしても、何も答えない。肩を少したたいてみたが何の反応もない。

どっ、どういうこと??

この時、さっきまでの自分の印象とは全く違う、大変なことになっていると気づいた。

「さっきまで、普通に話していたんですが・・・」、言い訳がましい現状を否定したくなるようなことを言ってしまう。

死にかけている。私が目を離して間に、どんどん、じいさんの意識がなくなっていったのだろう。

その後、救急隊の方がいろいろじいさんに話しかけたが、返事はなかった。

目は開いているようだが、見えているのかわからない。口はかすかに動かしている。何かを言いたいのかとも思えるが言葉には全くなっていない。

救急隊の方が、「レベル3」と言っている。

じいさんが、椅子から落ちて、倒れていたところ。冷蔵庫のところ。

写真は、大分後になってから、奥のサイドボードを処分するときに撮ったもの。じいさん、脚の高い椅子から落っこちて、痛かったろうに。何も感じなかったか。





24 蜂窩織炎なんだけど・・・

2025-07-25 11:18:27 | 介護
ばあちゃん、近くの診療所で「蜂窩織炎」と言われ、薬を飲んでも治らないので、H病院への紹介状を書いてもらう。

この「蜂窩織炎」が、ばあちゃんの頻尿状態を切り抜けるため、これから我々3人がたどって行く長い道のりの入口だった。

まさか、あんなことになるとは・・・

じいさんの手帳によると(ここから手帳などの引用部分は、私の地の文と区別をつけるため「 」でくくることにする)、

「2009年9月1日(火) 今日久しぶり(6月初旬)自転車に乗ってみた。何となくぎこちない感じでペダルが重く感じた。」

「2009年9月3日(木) 今日は久しぶり(約3ヶ月)に自転車に乗った。」

じいさん、何故か同じようなこと、続けて書いている。次回、その理由がわかる。

「2009年9月5日(土) ペダルが重いのでタイヤの空気圧が下がっているのかと思ったがそうでもないらしい。足の力が低下しているらしい。」

薬局の前で、自転車ごと倒れて、薬局の方に助けてもらったのは、この頃だったか?

「2009年9月7日(月) H病院へ、ヒ尿科 明朝 CT。 妻 水曜 午後検査 」

じいさんも、頻尿だかで泌尿器科に行っていたようだ。膀胱炎だったか? ばあちゃんは整形。

「2009年9月8日(火) H病院で、CT検査(ヒ尿科)」

「2009年9月9日(水) 妻、 14:20よりエコー検査」

この時は、私も同行したのを覚えている。 人当たりのいい検査技師さんで、何故かいろいろ説明してくれた。最後に、「蜂窩織炎だと思います」、と。医師だったのか? 

「2009年9月10日(木) 妻 脳外科と整形外科とかけもち 帰宅11:50頃となる。 明日も整形へ」

「2009年9月11日(金) 心臓血管センター循環器科へ 」

まず整形に行くと、これは、整形の病気じゃない、血液の病気かもしれないと言われて、今度は、循環器科へ。

「X線、心電図、CTとまた検査して。入院 3階312号室。 14:00頃病院の点滴の針を抜いてしまって床が血だらけ」

この時は、私は仕事で同行できず、事情は知らなかった。この時期、唯一メモに書いているのは、
「仕事から帰ってきて、家に入ろうとすると、カギが上下2重にかかっている。変だな、まだ父母は病院から帰ってきてないのだろうかと思いながら中に入ってみると、母がまた入院したと父の書いたメモ書きがあった。結局心臓血管外科にまわされ、CTスキャン、心電図の検査をして血糖(?)の疑いで入院することになったそうだ。この後、私が病院へ行き医師の説明を聞いてきた。」

あっちこっち回されると、同じような検査をまたやることになる。これがまだまだ続く(苦笑)。

「2009年9月12日(土) 午後2時頃病院へ 何故入院しているかわからないが、食事の心配をいつもどおりしている。私、足もとがふらつく」

「2009年9月13日(日) 6:15頃あお向けに倒れそうになった。足もとふらつきは同じ、7:20。午後S(息子の名前)が病院へ。変りなし」

「2009年9月14日(月) 15:30頃 医師より病状、経過の説明の後点滴が最善の治療らしいが針を抜いてしまい治療ができないので退院を宣告された。今後通院のみ薬での治療となる。明日13:00頃退院」

「2009年9月15日(火) 10:00頃 病院へ。早く行きすぎた 昼食後退院 入院前より体調は悪くなっていた。立ち上がれない。」

「2009年9月17日(木) H病院 ヒ尿科 M先生」
じいさんがかかっていた。

「2009年9月23日(水) 朝起床時 前にやっていた起床時の体操をやったら1日中腰痛。」

「2009年9月24日(木) 10:30 I医院へ。のみ薬終。昨日の腰痛よくなる。」

じいさんの手帳の書き込みは、ここまで、後は当分ない。

この後も、蜂窩織炎が元で、という展開になっていく。今度は循環器から、消化器科に回されることになるんだが、この時の循環器科の医師の推測が当たっていた。

私の方は、ばあちゃんの入院で、一時的にも苦労から解放されると安堵した。休みには八ヶ岳に行こうとさっそく山小屋に予約を入れたりしていたんだが・・・
でも、この時、ばあちゃん、病院から追い出されて(笑)家にいたのかあ。


この写真は、蜂窩織炎騒動が収まったころ撮ったもの。上でじいさんが言っている自転車は、この1代前の普通のか? この三輪車、実はすごく重くて、ちょっとした坂だとじいさんの脚では登れない。よく私が後ろからかごの部分を押してやった。