「何か1つ」を見つける毎日(⌒‐⌒)

自然と神様と猫と木と音楽、、それからそれから、、( - ө - )

ホントなのか、でっち上げか。 鎌倉時代の少し前

2023-11-23 22:49:39 | 🇯🇵知れば知るほど、、日本の歴史🗾
、、例の、重臣である西光の子息子二人が白山の天台宗延暦寺の末寺、湧泉寺を焼き打ちしたことを発端に、すったもんだの朝廷、、🌀。後白河法皇は、初めは「ナニナニ?どーした?ああ、そうですか」と延暦寺側の言い分を聞きいれ、焼き打ちの犯人である息子らを流刑にし、これで一件落着かと思いきや、今度は西光が拗ねる😤。納得いかない!息子二人の流刑を解いて、延暦寺を攻めてくださいよ〜悪いのは明雲なんだからさ!!🤬と後白河法皇に詰め寄る。そこで後白河法皇「ナニナニ?そーか。確かにな、、」と今度は延暦寺の座主である明雲を捕らえろ。と言うのです。😮‍💨よりによって、天台宗比叡山延暦寺のトップ明雲を捕らえろだなんて、無茶し過ぎです。しかも捕らえて伊豆の国に流せという。あれあれ、、そんな事して、大丈夫?でも、法皇の命令とあれば従うしかありません。家臣たちは命令に従い明雲を捕らえ、伊豆へ移送、、。の筈が、何と、途中で延暦寺側の僧達が明雲を強奪。それーい!明雲様を延暦寺に連れ戻せ〜い。エッサホイサ、、。かくして明雲は結局延暦寺に戻ってきました。、、これに激怒したのが、後白河法皇。クーッ🔥🤬🔥!、、「延暦寺を攻めろ!清盛さん!」、、え、俺?(・・;何で?、、清盛さん及び息子の重盛さんは、この命令に従いたくなかった。つまり、攻める気なし。しかし、他ならぬ後白河法皇からの命令である。「攻めたくないし、かと言って法皇に従わないのも何だかヤバそうだし、、一体どうすりゃいいんだ?!」あれこれ悩んでいた清盛さん( ・ั﹏・ั)
「鹿ヶ谷の陰謀」が起きたのは、まさにその頃。あまりにもタイミングが良すぎて「さてはこれ、清盛さんのでっち上げでは?」と言われる始末です。確かに、陰謀で騒ぎになれば、延暦寺襲撃どころではありません。
では、鹿ヶ谷の陰謀とは実際どんな感じだったのでしょうか、、。
*時∶1177
*場所∶京都 東山 鹿ヶ谷
(陰謀に関わったとされる)俊寛さんの山荘
*主なメンバー∶西光(藤原師光)
藤原成親、成経
多田行綱
俊寛 その他
参加者A「つきましては、、間もなく開催される、清盛さんも出席される予定の行事の場所を急襲し、やっつけませんか?」参加者B「そうだな。いいね、それ、、。」みたいな感じだったでしょうか。しかし、この話し合いを聞きながら、内心ビビっていた人がいました。誰でしょう、、。答え→多田行綱
しかし、そうは思っても、その場で反対意見は多分言えなかったでしょう。大体そんなもんです。
そして、、多田はどうしたか、、→ザ 密告
となります。
行綱「清盛さん、じ、実はですね、、カクカク・シカジカ、、あーでこーで、、 (`´)」
聞いた清盛は、、当然ですが🔥🔥🔥怒り爆発●~*ただでさえカッとしやすい清盛くんです。
「許さん、、🤬」こうなると、延暦寺襲撃どころではありません。自分を潰そうとした者の成敗が最優先です。この段階で、とりあえず、延暦寺襲撃はなくなりました。この陰謀を企んだメンバーの中に平氏の関係者(例えば親戚とか)が結構いたのも、清盛の心に打撃を与えました。くそっ、ひでえ話だぜ🤬。捕まえた西光に陰謀の全容を白状させ、清盛は、関わった者たちを次々と罰しました。その中のひとり、藤原成親という人物。彼は、平重盛の嫁の兄。つまり義兄。うわ、こりゃ辛い。捕まった義兄成親は、実の父から◯刑にされそうな危機的状況。絶対にそんな事させるわけにはいかない。重盛は、父、清盛をとくとくと説得し、何とか◯刑は免れました。しかし、重い罰を受けた事には違いなく、他の人も皆、何らかの罰を受けました。その後、、清盛は考えました。さて、、後白河法皇はどうしたらよいのか、、😔。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿