元高校教師のブログ[since2007/06/27]

地元仲間とのウォーキング、ハイキング、サイクリング、旅行の写真入報告。エッセイや意見も。

小岩から立石へ+葛飾柴又(その1)

2008-01-27 21:03:32 | ウォーキング

 小岩駅から京成立石駅へ [2008-1-25(金)実施]

【コースとタイム】 鎌ヶ谷--船橋--総武線小岩駅(8:40)→(9:05)上一色天祖神社→奥戸新橋→(9:15)宝蔵院→八剣神社→北沼公園→三和橋西詰→奥戸橋→宝泉寺→(10:40)熊野神社→(10:45)南蔵院→(11:00)立石稲荷(11:05)→(11:10)本奥戸橋西詰(11:20)→(11:35)伝統産業館→京成立石駅---(12:00)柴又駅(13:52)--金町駅--松戸駅---鎌ヶ谷大仏

下欄のバーを右にスライドすると、隠れている画面が見られます。


[Mapion+ペイント]

コース案内】--参加者;男女5名。天気;風無く、快晴
 小岩駅を降りたら、昭和の名横綱・栃錦の像が迎えてくれた。小岩出身である。北口から線路沿いの道を西へ行き、保育園の所の道に入る。広い道路を横断し、その先の親水緑道の先で、蔵前通りに突き当たったら、左に進み、道路の下を潜る。左の川は新中川だ。この川は江戸川区全体が一ヶ月以上床上浸水の水浸しになったキャサリン台風(1947年9月)の被害を教訓に、中川と江戸川を結ぶ大工事の末に完成した人造の川である。私は地元なので、その様子を目の当たりにしたものだ。私に言わせれば、つい最近のことなので、田畑・民家・寺院など、広大な面積が川底になった記憶が蘇る。

 土手下の天祖神社は天照大神を祭神とし、上一色村の鎮守であったが、新中川ができてから西小岩に編入させられた。昔はこの境内でも幻灯式の映画会や縁日が催された。
  私が子供の頃、ここに勝海舟の書があると言われていた。今回訪れてみると、区の案内板には、そのことに触れられてなく、他の貴重な文書などの保管が書かれている。海舟のものは後に何処かへ移されたのであろうか。それとも、幕末にこの辺を歩いて回った記録があるとまずいのであろうか。

 天祖神社から新中川の土手道を北に行くが、金町から新小岩に通じる貨物線に遮られ、已む無く左から迂回して四つ木街道に出、奥戸新橋で新中川の対岸に渡る。

 対岸の土手下に宝蔵院がある。ここには、王政復古にかかわる幕末の哀史が伝えられている。公家徳大寺公城の娘、妙姫が公城の家臣本堂良喜とともに京都を逐われて当寺に寄宿(宝暦9年1759年)したが、住職と共に捕らえられ処刑されたという話だ。→青旧山宝蔵院 (←【奥戸】←【葛飾区】)

境内には井上靖の碑があり、その辺のことも書かれている。→宝蔵院の記念碑 http://www2.plala.or.jp/baribarikaniza/inoue/monument/monu_003.html

  宝蔵院の隣に八劔(やつるぎ)神社と言うのがある。ヤマトタケルと須佐之男命(すさのおのみこと)を祭神とするが、後者は八劔(やつるぎ)と同体だとの説がある。となると、「八岐の大蛇」(やまたのおろち)退治の話を思い出す。八劔とは八本の剣を祭神さいしんとするというのが文字通りの解釈だが、どうも草薙の剣と関係がありそうだ。或いは、石上神宮にある七支刀の仲間かとの想像もできる。
 いずれにしても、屋根の特異な飾りなど、由緒ありげな神社だ。この日は文化財防火訓練日なのであろうか、消防団が境内に集まっていた。 

 
小岩駅の栃錦像              八剣神社

 新中川の土手道を北に向っていると、前方の空に妙なものが金属が二枚我々の眼を引いた。それは北沼公園にあり、良く見るとゆっくりと動いていて、2つが時には平行に時には交差し、少しずつ形を変えてゆく。 
 岡本太郎が大阪万博で「太陽の塔」を建てたが、こちらはそれと対極をなすモニュメントというかオブジェ。題して「風の舞」とあるが、製作者の名前も設立趣旨も書いてない。どこかにあるのだとうか。あまり知られていないのが残念だ。

   

 新中川を離れ、車道を、中川に架かる奥戸橋に向う。中川は蛇のように大きく蛇行して流れている。積荷の大型船も通っていく。東京湾にでも向うのであろう。
 
[MapFan+ペイント]

 奥戸橋を渡り、川沿いの遊歩道を北に向い、宝泉寺を訪れた。
 ここの住職は寺を継いでまだ2~3年だそうだが、我々を暖かく迎えてくれ、案内もしてくれた。大和の長谷寺で修行を積んだそうだが、まだ若く、声も良い。施錠をしていた仏殿を開けて説明してくれ、庭奥の松浦(まつら)壱岐守清夫妻の墓にも導いてくれた。宝泉寺は松浦家の隠居寺だった関係で昭和初期に墓移転の才、墓石のみ当所に移されたとのこと。高さ4m巨大な2基の墓である。
 小さな本堂に大師像があり、右手に持っているのは何だろうと、住職に訊いた。そしたら、実物を持ってきて説明してくれた。ゴコだという。金剛杵(こんごうしよ)の一種。両端が五個の股から成っている。五鈷。--大辞林   *→五鈷

 いろいろ教えてくれた。錫杖(しゃくじょう)は杖で、我々にも分かりやすい。だが、最初は武具だったという。また、インドにはキングコブラのような猛毒の蛇が多く、その対応にも用いていたのでは、との説明。その武具に後世、いろいろな意味が付加されたのであろう。
 錫杖の上部を切断し、持ちやすい小型の武具にしたのが。先端の爪のようなのが5つあると五股、3つだと三股、一つだと独(股)鈷になる、と教えてくれた。弘法大師が独鈷で河原の石を砕いたらお湯が湧き出て、地元の孝行息子にプレゼントしたというのが、伊豆・修善寺温泉の「独鈷の湯」だそうだ。また、水前寺清子歌う→「いっぽんどっこの歌」も、この独鈷から来た着物の柄である。

  いずれにしても、大師が手にしているものは巻物ではなく五股だということが分かった。しかも、右手で逆手に持っている、その持ち方も学んだ。

 
 五股(鈷)[前の横置きのもの]

 熊野神社はかなり古くからあって、江戸時代にはい家光や吉宗などが鷹狩りに来て、参拝している。寛政六年(1974)幕府の御普請役・柏原由右衛門が、地誌調べに当地に来た時、ご神体が古代の石剣(石棒)であることを初めて発見し、それ以後、珍しいものとして全国に有名になった。---改定・東京風土図・城北/城東編(サンケイ新聞社/昭和41年)

 ここは幼稚園を併設していて、この日は園児が境内で遊んでいた。園の入り口にポニーが繋がれていた。我々が大鳥居の方に移動して、由緒書きなどを読んでいると、先ほどのポニーが女の子を載せてやってきたではないか。園児ではないと言う。すると、どうなっているのだろうか。

 道路を横断して土手に出、南蔵院に向う。ここも、宝泉院と同じ豊山派だ。この寺の裏庭からは、埴輪や土偶が出土し、寺宝として保存されているとのこと。
 次に向う立石稲荷もそうだが、この辺は古代から人々が住んでいて、それなりの文化を残しているようだ。

 立石稲荷は分かりにくい場所にあるが、上記の地図の赤十字の場所だ。現在はほとんど頭が地上に出ていないが、昔はかなり高く露出していたようだ。この辺の地名は立石だが、この石が地名になった

 以下は、先に紹介したサンケイ新聞社の本から抜粋
 その昔、立石の底を探ろうとして、村民一同が相談して掘り始めた。地下を掘り下げること数日、いくら掘っても際限がない。ちょうどこの時、村に疫病が流行しだした。「それ、立石のたたりだ」と一同恐れをなして取り止めてしまったという。それからは「立石霊石」として祭ったのだということである。
 有名な鳥居龍蔵博士の説によると、立石は古代のメンヒル(古代人の信仰のシンボルで、朝鮮によく見られる)の一種で、沖積層の低地には珍しい存在だといわれている。
 博士もこの石を掘り下げたことがあったが、いろいろの事情で根底はきわめなかったという。

 

 それから立石駅の北側にある伝統産業館を訪れ、南側にあるアーケードの仲見世通りをひやかしながら京成立石駅に着き、そこから電車で柴又へ向った(→その2へ続く)


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