元高校教師のブログ[since2007/06/27]

地元仲間とのウォーキング、ハイキング、サイクリング、旅行の写真入報告。エッセイや意見も。

目黒川の桜並木を堪能する(池尻大橋駅から目黒不動まで)

2018-03-31 15:02:47 | ウォーキング

実施日;2018-03-29
天気;快晴。気温も25℃は越えていた。上着など、とても着ていられない。
同行者;鎌ケ谷ハイク&ウォークの会、メンバー6名
カメラ;ニコンD3000+タムロンレンズ18-270mm

歩行コースとタイム--*要所要所にトイレあり
  池尻大橋駅(9:50)→大橋→万代橋→目黒橋→柳橋→緑橋→宿山橋(11:10)
  →別所橋→中目黒駅→舟入場橋→なかめ公園橋→(12:10)中目黒公園(13:00)→
  区民センター公園→トイレ→目黒新橋→大鳥神社→(14:05)ロイヤルホス     
 ト[昼食](15:15)→大鳥神社→蟠龍寺(おしろい地蔵)→海福寺(永代橋崩落
 供養塔)→青木昆陽墓→五百羅漢寺前→(16:15)滝泉寺(目黒不動尊)(16:20)
 →不動尊門前通り→かむろ坂通り→(16:35)東急目黒線・不動前駅


[地図1]池尻大橋から目黒新橋までの目黒川。
GPS logger "m-241" の軌跡をグーグル地図に読み込ませ、ソフトの「ペイント」で上書きして作成したものです。地図上のカメラマークは撮影地点です。 


[地図2]目黒新橋から目黒不動への道筋。goo地図に「ペイント」で上書きしたものです。


[地図3]蟠龍寺/青木昆陽の墓/海福寺への行き方が複雑なので詳細図を付けました。


大橋から下流を見る--本日の最初のショットです。


物資の運搬は、昔は水運であった。このあたり、水車も沢山あったようだ。


氷川橋近辺で


東山橋近辺で


朱塗りの「中の橋」---気に入ってます。


柳橋手前で


南部橋近くで


宿山橋--宝永年間の江戸地図に記載されている歴史のある橋だそうですが、周囲を
 調べたが、説明板もなかった。


別所橋での賑わい


合流地点広場で


舟入場広場で


舟入場広場前の目黒川で。花びらが絨毯のようになっていた。


なかめ公園橋から。左手煙突は目黒清掃工場のもの。


中目黒公園入口で


中里橋へ向かう遊歩道で


中里橋が近づいてきた


花見客相手の軽食店もある


区民センター庭球場の先から



向こうの橋は歩行者用の小さな橋で、その裏側に大きな目黒新橋がある。
※目黒川花見散策は新橋で終了とし、以下は目黒不動に向かった。

大鳥神社--ヤマトタケル→白鳥→鳥→大鳥神社→下目黒村の総鎮守
 昔、オオアカガシの巨木があったが、枯れ死してしまった。


キリシタン灯篭(織部灯篭)

蟠龍寺(ばんりゅうじ)--目黒三中の道に入ったが見つからず、いったん山手通りに
 戻り、そこから探した。弁財天を祀る山の手七福神の一つだそうだ。
 ここに「おしろい地蔵」というのがあり、興味を持った。


顔がすり減っている「おしろい地蔵」。
謂れは脇に説明板があったが、うまく撮れないので、以下を参照してください。→おしろい地蔵 蟠龍寺(ばんりゅうじ) - お地蔵さんブログ

海福寺--朱塗りの四脚門と永代橋崩落供養塔
 目黒区指定文化財の山門・朱塗りの四脚門に向かって参道を行くと、左手に永代橋崩落供養塔がある。行く前は、大火事か大地震のためと思っていたが、予想とはかなり違っていた。明治時代に深川から移されたということだが、「文化4年、深川八幡の祭礼の時、人出が多く、その重みで橋が落ち、千数百人が水死したと言い伝えられている。水死者の霊を供養するために木場の人々が建立した慰霊塔。その後この事件は歌舞伎でも取り上げられている。」

青木昆陽の墓--この所在地も分かりづらく、海福寺の人に教えてもらった。
 青木昆陽と言えば、甘藷先生の名で知られているが、下記の説明板にある通り、
それだけではない。そのことが書かれている。
 私は子供の頃、幕張の昆陽神社に行ったことがあるので、千葉県の人かと思っていた。だが、彼は江戸っ子ちゃきちゃきで日本橋生まれだった。
 次に、甘藷即ちサツマイモは薩摩が原産と思っている人がいるが、これも正解ではない。さつま芋の歴史は古く、複雑に入り組んでいる。中国からきたので、唐芋という人がいてもおかしくない。東南アジアやポロネシア諸島のタロイモとは違うようだ。
 トマトのように、南米が原産地。大航海時代に欧州の人間が入り込み、母国に持ち帰ったのが始まりらしい。勿論、最初は根が少し膨らんだ程度のものであったであろうが、多くの人が品種改良などで、現在のような芋になったのであろう。
 日本に関して言えば、薩摩というよりは、種子島あたりで栽培していたものが薩摩に渡り、その名が定着したものと考えられる。
 大飢饉に悩んでいた為政者・将軍吉宗が昆陽の後ろ盾となり、関東地方に薩摩芋を普及させたようだ。だから、昆陽が命の恩人として庶民から崇められるのも無理はない。だが、洋の東西・時代の変遷を通じて、昆陽の前に多くの先人たちの努力の歴史があったことも忘れてはならない。


質素だが、青木昆陽の墓。

さて、このあと目黒不動まで歩いたが、時計を見たら、もう4時過ぎ。ために広大な境内を歩くのを断念。後日を期して、目黒駅まで歩くことにした。だが、江戸時代の庶民のように、権太坂や行人坂を登るエネルギーは残っていない。止むを得ず、行き先を不動前駅に替えた。


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