「恥ずかしながらこんな年まで生きてしまいました」
本当にどんなに恥ずかしいことか
父より長く
母より長く
姉より長く
妹より長く
父と母と姉と妹の年齢を合計したのより長く生きています
計算では42歳の厄前には死ぬはずでした
27歳の時 現在生きていること以外のほとんどの私の生きてきた形跡を消去し
身辺整理に悔いのない状態を確保しながら月日が過ぎ
気の迷いで同棲生活をし始めた事でレールから外れ
砂漠へ
安部公房ではないが砂漠に道があるか?の世界に入ってしまいました
砂漠にはいろんな道があり混沌とした世界を自ら作り出しながら
あちらにこちらにそちらにと迷い溺れ今に至っています
若くして亡くなった方が羨ましくて仕方がなく
それぞれの人生を満喫したことの証が死であり
その充実度が年齢であると考える私にとって
長生きはただの恥
その恥の深みにさらに入っていく自分の惨めさ
と同時に居直り
達観ではありません
坦々とただ坦々と生きるでもなく
彷徨い曖昧を受け入れるのみなのかと自問するでもなく・・・・
そんな中での一時期の撮影設定での写真が
いま「お蔵」として掲載している写真です
ではお蔵から
あえて 縦位置のものも横位置で掲載しています
首を横にしてご覧ください
筋を痛めても責任は負えませんあしからず・・・・
それだけでも
十分に素晴らしいことだと、
私は思っております。
生きたくても
病気や不慮の事故で
亡くなられる方もいます。
その人にとって
その人生とは一体なんだったのあろうか・・・
と、虚無感に陥ることが多くてなりません。
長く生きて
こうしてBlogを発信しているだけでも
十分に意義のあること。
わたしは
貴兄にそう申し上げたい。
小さいときから
多くの人たちの死を見てきました
自分が小学生の高学年ぐらいになると
自分より若い人の死に直面すると
悲しみと同時に
一生とは何かを考え
それぞれの人生を満喫したことの証が死であり
その充実度が年齢であると考えるようになりました
その中から私は若いときの苦労は買ってでもするな
出来るだけ苦労からは逃げるようにすべきだ
苦労は年を重ねる毎に軽くなるのだからと思うようになりました
苦労から逃れれば逃れるだけ長生きするのだと・・・
だから私はまだ生きています
実に恥ずかしいことですが・・・
いま
家族からは出来るだけ長生きしてくれと言われています
ボケないようにブログをと娘から薦められて今に至っています
迷惑をかけないでやっていける間は生きても良いかな~とは思いもします
介護されていい年齢の年寄りがそれより若い人のお世話をする
しかもその人が親でも妻でも兄弟でも子供でもない
これが苦労なら私はすでに命を落としているはず
苦労でないことだからこそ私はまだ生かされている
言葉で表現できそうもありませんが
一生の苦労の重さは各々同じだと考えるに至っています
したがって
簡単に言えば私がまだ生きているのは苦労が足りないからだと
ありがとうございます
生きるということは本当に
楽しいこともございますが
辛く、悲しいこともたくさんですよね。
どうかお元気で日々を
お過ごしくださいませ。
ブログの素敵なお写真にいつも感動させて
いただいておりまして
ありがとうございます。
別れほどつらく悲しいものはありません
しかし出会いがあれば別れがあります
あまりにも多く別れがあると耐えられなくなります
そのとき思うのです
この人はもう十分に一生を背負ってきたのだと
人の一生をこの短い時間で消化しきってしまったのだと
その証が死であると
人に限りません
自分が可愛がった動物や鳥たちにしても悲しみやつらさは変わりません
したがって私はその悲しみやつらさから逃れる術として
楽しいことや辛いことが濃ければ濃いほど人生って短いんだ
人生を満喫したんだと思い込むようになりました
私は苦労が足りません
だからまだ生きていくことでしょう
今掲載している舞鶴公園の撮影は
私がフィルム写真からデジタルに乗りかえた頃の写真です
今とは作風が違います
まず撮影設定が異なります
ブログの写真は全て撮って出しで基本的に編集していません
素敵な写真とお褒め頂きうれしい次第です
ありがとうございます