ホルモン療法をしはじめてから暑がりになった。
今朝は5時ぐらいに「暑い!」といって布団を蹴り上げ、エアコンの除湿スイッチを押す始末。
二度寝をして目覚ましのアラームの音で起こされたときは、あまりの寒さに凍えており、改めてこの季節の変わり目の難しさを痛感。
沈丁花の香りが鼻孔をくすぐるこの時期が来ると、祖父が他界した昭和59年の春を思い出さずにはいられない。
6歳になったばかりの私は人の死やそれに付随する通夜・告別式など、はじめてのことに遭遇する。
だから41年前のことにもかかわらず、あの春をかなり鮮明に覚えている。
祖父は昭和58年3月16日に他界したのだが、数日前に済生会病院に入院していて会話もできていた。
中でも、病院にある「霊安室」を「恋愛室」だと思い込んでいた祖父の話は伝説になっている。
一通り来た見舞客に挨拶をした後、祖父はドロンとお隠れになった。潔いではないか。
うちの風習で、通夜・告別式は実家でおこなうことに(嫁泣かせ)。
母の証言によると来客数は100人以上(祖父は10人兄弟)。
玄関に来客の靴が置ききれず、来客者が他人の靴を踏んで自分の靴を履いたり脱いだりするのを6歳の私はじっと見ていた。大人なのに。いけないんだ〜って心のなかで思っていた。
私はまだ小学生になる直前。
祖父と同居していたのは2年ぐらいで、なので祖父の死についてさほど衝撃は受けなかった。
ただ、通夜・告別式に参列する人の多さに吃驚したり、従兄弟たちとコソコソ遊んだり、見たこともないような祭壇に興味を隠せず(お線香とか)、非日常的な様子に興奮していた。
遺体というものを見るのも初めてだった。お腹の上に謎な感じで刀を置かれた祖父の亡骸は寝ているようだった。でも触るとぞっとするような冷たさを私の指に伝えた。
火葬場のドアをエレベーターのドアだと思っていて、最後のお別れの際、「あれに乗ってのじちゃんは天国にいくんだね」と言うと親戚がちょっと笑ってくれたのを覚えている。
葬儀のすぐあとに幼稚園の卒園式があり、慌ただしく私は小学校に入学する。
祖父の葬式から入学式までのちょうど今ぐらいの時期。
ようやく日常がもどってきて、春特有の曇天の生温い陽気に包まれて、庭の沈丁花の香りを感じながら庭遊びをしていると、葬式の花輪の基礎部分(スポンジ状のブロックみたいなやつ)なんかが適当に置かれていてて、子供にとってはちょうどいい遊び道具になった。
まだ幼かったので祖父を喪ったことなんてちっとも理解していなくて、線香をあげると大人が「偉いね」と褒めてくれることを学習し、いつも祭壇に線香をあげていた。
あと、ぶっちゃけ祖父は明治時代の人。
女の子である私よりも「長男」である弟に耽溺していたと記憶している。
半纏の懐にまだ乳児だった弟をそっと抱き入れて熱燗をちびちびやる姿しか思い出せない…。
葬儀の後、しばらくは来客が多く、私の小学校入学もあり、当時の母ヨーコたんは大変だったと思う。
父クマパパはあのあとずっと酔っぱらっていた。きっと辛かったんだと思う。
5人兄弟の一番末っ子の父クマパパは、自分の父親を30代後半で亡くした。そう考えると、47歳の今も何かあったら親に相談できる私の境遇をありがたく思わなければ。そう思う。私が独身生活をいきいき過ごせるのも両親が元気だからだ。
そんなこんなで、沈丁花の香りは私を昭和59年の春にタイムトリップさせて複雑な気持ちにさせる。
親を大事にせねばというプレッシャー、非日常に高揚してしまった自分の幼さ、お酒を使って親の死を受け入れていた父の悲しさ。
海馬に眠っている記憶が沈丁花の香りでふっと開花するのだ。
そんなことを母に電話で共有したかったのだが、もう寝てしまったもよう。
毎晩娘から電話が掛かってくるとか、母も大変だよな…。
今日は退勤後、歯医者さんでクリーニングをしてもらった。
ドSの歯科衛生士さん、容赦なく歯石を取ってくれてありがたいのだけれども痛くって。
思わずM字開脚してしまった…。
歯医者さんにシュミテクトのサンプルをもらった。
私は若干、知覚過敏らしく、これを使うことで改善しますよとのこと。

夕食は王将で回鍋肉とごはん。


スマホでお米が出回らなくてサトウのごはんが品薄になるニュースを見た。
そのせいか、ご飯が一層美味しく尊く感じられた。
王将、今月末まで王将はポイント2倍なのでできる限り行かないと!!



今朝は5時ぐらいに「暑い!」といって布団を蹴り上げ、エアコンの除湿スイッチを押す始末。
二度寝をして目覚ましのアラームの音で起こされたときは、あまりの寒さに凍えており、改めてこの季節の変わり目の難しさを痛感。
沈丁花の香りが鼻孔をくすぐるこの時期が来ると、祖父が他界した昭和59年の春を思い出さずにはいられない。
6歳になったばかりの私は人の死やそれに付随する通夜・告別式など、はじめてのことに遭遇する。
だから41年前のことにもかかわらず、あの春をかなり鮮明に覚えている。
祖父は昭和58年3月16日に他界したのだが、数日前に済生会病院に入院していて会話もできていた。
中でも、病院にある「霊安室」を「恋愛室」だと思い込んでいた祖父の話は伝説になっている。
一通り来た見舞客に挨拶をした後、祖父はドロンとお隠れになった。潔いではないか。
うちの風習で、通夜・告別式は実家でおこなうことに(嫁泣かせ)。
母の証言によると来客数は100人以上(祖父は10人兄弟)。
玄関に来客の靴が置ききれず、来客者が他人の靴を踏んで自分の靴を履いたり脱いだりするのを6歳の私はじっと見ていた。大人なのに。いけないんだ〜って心のなかで思っていた。
私はまだ小学生になる直前。
祖父と同居していたのは2年ぐらいで、なので祖父の死についてさほど衝撃は受けなかった。
ただ、通夜・告別式に参列する人の多さに吃驚したり、従兄弟たちとコソコソ遊んだり、見たこともないような祭壇に興味を隠せず(お線香とか)、非日常的な様子に興奮していた。
遺体というものを見るのも初めてだった。お腹の上に謎な感じで刀を置かれた祖父の亡骸は寝ているようだった。でも触るとぞっとするような冷たさを私の指に伝えた。
火葬場のドアをエレベーターのドアだと思っていて、最後のお別れの際、「あれに乗ってのじちゃんは天国にいくんだね」と言うと親戚がちょっと笑ってくれたのを覚えている。
葬儀のすぐあとに幼稚園の卒園式があり、慌ただしく私は小学校に入学する。
祖父の葬式から入学式までのちょうど今ぐらいの時期。
ようやく日常がもどってきて、春特有の曇天の生温い陽気に包まれて、庭の沈丁花の香りを感じながら庭遊びをしていると、葬式の花輪の基礎部分(スポンジ状のブロックみたいなやつ)なんかが適当に置かれていてて、子供にとってはちょうどいい遊び道具になった。
まだ幼かったので祖父を喪ったことなんてちっとも理解していなくて、線香をあげると大人が「偉いね」と褒めてくれることを学習し、いつも祭壇に線香をあげていた。
あと、ぶっちゃけ祖父は明治時代の人。
女の子である私よりも「長男」である弟に耽溺していたと記憶している。
半纏の懐にまだ乳児だった弟をそっと抱き入れて熱燗をちびちびやる姿しか思い出せない…。
葬儀の後、しばらくは来客が多く、私の小学校入学もあり、当時の母ヨーコたんは大変だったと思う。
父クマパパはあのあとずっと酔っぱらっていた。きっと辛かったんだと思う。
5人兄弟の一番末っ子の父クマパパは、自分の父親を30代後半で亡くした。そう考えると、47歳の今も何かあったら親に相談できる私の境遇をありがたく思わなければ。そう思う。私が独身生活をいきいき過ごせるのも両親が元気だからだ。
そんなこんなで、沈丁花の香りは私を昭和59年の春にタイムトリップさせて複雑な気持ちにさせる。
親を大事にせねばというプレッシャー、非日常に高揚してしまった自分の幼さ、お酒を使って親の死を受け入れていた父の悲しさ。
海馬に眠っている記憶が沈丁花の香りでふっと開花するのだ。
そんなことを母に電話で共有したかったのだが、もう寝てしまったもよう。
毎晩娘から電話が掛かってくるとか、母も大変だよな…。
今日は退勤後、歯医者さんでクリーニングをしてもらった。
ドSの歯科衛生士さん、容赦なく歯石を取ってくれてありがたいのだけれども痛くって。
思わずM字開脚してしまった…。
歯医者さんにシュミテクトのサンプルをもらった。
私は若干、知覚過敏らしく、これを使うことで改善しますよとのこと。

夕食は王将で回鍋肉とごはん。


スマホでお米が出回らなくてサトウのごはんが品薄になるニュースを見た。
そのせいか、ご飯が一層美味しく尊く感じられた。
王将、今月末まで王将はポイント2倍なのでできる限り行かないと!!



