中日囲碁交流功労賞受賞公開早碁対局 聶衛平九段(中国)対藤沢秀行名誉棋聖(日本)
三題噺を一席。
「サッカーW杯」。
日本-クロアチア戦を見ていたが、素人目にも日本が弱いのがよ~くわかった。だって、パスがぜ~んぜんなってないんだもん。だいたいがサッカーとは動くビリヤードみたいなもんでしょう?最終的には相手のゴールにシュートすればいいのだが、敵もいることだから、ビリヤードのクッションボールのように球をパスしながら繋いでいく。そのパスだが、日本選手の場合立ち止まっている味方選手にパスするか、誰もいない所にパスして場外というケースばかりで呆れてしまった。これじゃ、相手は守りやすいよ。止まっている選手を探してそこにパスすれば「ボールキープ率」は上がる(クロアチア戦では日本57%!。前回の40数%とは大違いだが、それは数字のマジックで、前回のオフェンシンブパスがデフェンシンブパスに後退した結果にすぎない)かもしれないが、それでは攻撃に不可欠のスピードに欠ける前近代的とさえ酷評しても言い過ぎではない、ハイスクールレベル以下のあれはサッカーだった。近代というとオーバーな表現になるが、いやしくもW杯レベルで戦おうというのなら、パスは立ち止まっている選手に向けて発するものではなく、彼(パスする相手の見方選手)が1.5秒後に到達するだろう、シュートするのに最適のポイントに向けて放たれてこそ、それはオフェンシブなパスたりうるのである。日本の選手はそういうアクティブなパスは全然できていなかった(それは、クロアチアも、豪州もほぼ同じではあるが、それは要するにこの三カ国が三流の証明でしかないのだろう)し、しようとする気配も無かった。普段からそういう練習さえしていない(そういう思想すらない?)んじゃないのか。これじゃ、W杯に参加する資格はない、と見たね。
「ギリシア悲劇」。
これはブーメランのようなアクロバットな論説なので少々長くなるが、がまんして読んでね。
田草川弘はその著書「黒澤明vsハリウッドー『トラ・トラ・トラ!』その謎のすべて」で、映画『トラ・トラ・トラ!』での監督解任というトラブルは「史上最大の作戦」のようなスペクタル映画を作りたかったプロデューサーと山本五十六の「ギリシア悲劇」のような物語を作りたかった監督黒沢明の対立にその原因があった、と述べている。ではその“山本五十六の「ギリシア悲劇」のような物語”とは何か、というと以下はあおきの推論であるが...
日米開戦という今からみれば暴挙としか見えない“衝動”を起こしてしまった所以のものは、日本陸軍の西南戦争の教訓から来る歩兵主戦力論=精神主義と、日本海軍の見事なまでに神がかってしまった技術主義の“手術台の上の傘とコウモリの出会い”のようにシュールな融合に他ならない、というのがあおきのかねての持論なのである。
西南戦争とは実は奇妙な戦争=内戦であって、薩摩藩という旧体制による明治政府という新体制=政府への反乱と見られているが、兵士と兵器の側面から言うと、“刀という旧式兵器を用いた戦争のプロ”と“鉄砲という最新式兵器を用いた戦争のアマ=徴兵されたばかりの民兵(元・百姓)”の戦いであった。そして例の歌にも唄われた田原坂で決戦をおこなうのであるが、この戦い、一説によると少数の決死の覚悟の「抜刀隊」の獅子奮迅のハタラキにより、精度の低い(命中率の低い)鉄砲を持たされた百姓上がりのにわか兵隊たちは恐怖に駆られて前半戦は薩摩軍(というより旧藩士)がおおいに意気があがり、あの山県有朋が真っ青になったという。これはありそうなことで、19世紀のピストルというのは命中率が悪く、10メートル離れていればまず急所には当たらなかった、というから山県ら政府軍首脳があわてたのは至極当然の事態だっただろう。それでも持久戦にもちこんでなんとかできたのは、数に於いて劣る薩摩士族軍が疲弊してきて刀の切れがわるくなったからに他ならないが、山県ら政府首脳はここから「近代戦争といっても、刀や鉄砲といった武器の威力には限界がある。それよりも大事なのは、そんなもの(武器)にはひるまない歩兵(武器の機能には限界があるから、それを扱うテクニックはなくともかまわない!)を次々と投入すれば、相手の疲弊を誘い、物量作戦=肉弾戦の様相を展開し、勝つことができる」という教訓を引き出し、<愚劣で最悪の戦争思想>(司馬遼太郎)を日本陸軍の脳髄の中核に据えたことであろう。それは30年後の日露戦争において、乃木将軍による旅順=203高地攻略において何の戦略もなく歩兵を投入していたずらに戦死者を増やしたという痛ましい戦史に受け継がれていった。(もっとも、陸軍軍人が陸軍のそれも歩兵を戦争の主力とする発想は万国共通のものであるらしく、最近見たアメリカ映画でも徴兵係の退役した傷痍軍人が「君も歩兵志願か?俺もそうだよ。なんたって歩兵は軍の華だからな」と言ってエバってたね。また我が国の飛び道具軽視的傾向は戦国時代からあったらしく、徳川家康も「桶狭間の戦いで、織田軍は竹垣に篭って(敵には当たらない)無駄弾を撃つばかりで役にたたず、実際に武田騎馬隊を破ったのは徳川の歩兵軍だった」とイバっているが、これは一面の事実ではあるらしい)
一方、海軍の技術主義とはこうである。山本五十六も一平卆として従軍した日露戦争において日本海軍は当時世界最強と言われたロシアのバルチック艦隊を戦艦どうしの砲弾戦の末に完膚なきまでに撃破するのだが、そこで出した勝利宣言がかの参謀秋山真之が起稿したとされる「一発百中の大砲一門は百発一中の大砲百門に優る」という有名な(『その時歴史は動いた』でも、かの松平アナが嬉しそうに謳っていた)言葉である。当時の日本連合艦隊の旗艦「三笠」には、当時最も最近の世界的海戦「米西(スペイン)戦争」に辛勝したばかりのアメリカ海軍の武官も乗っていて「観戦」していた筈であるから、そのアメリカ軍人が驚嘆する様を山本五十六は見ていたに違いなく、その時に山本には「武器の性能はどの国もちょぼちょぼ、それを扱うテクニックは日本が抜群」という信仰が生まれた、といってもやむをえないだろう。そして事実、1947年ミッドウエィの戦いまではそれは事実だったらしい気配がある。というのも、その頃の戦闘機が搭載している機銃は口径12.7ミリというというヤワなシロモノで、推進力も弱く、百メートルも飛べば頭がお辞儀をしてしまうというはなはだ素人には扱いにくい難儀なブツであったのである。つまり戦闘機のパイロットは数秒後の敵戦闘機の飛行位置を割り出して、その地点に“山なり”の放物線を描いて“弾を据えてやる”、W杯サッカーのパス(やっと、ハナシがつながった、はあはあ)そこのけの高度のハイ・テクが必要で、その点日本軍は陸海空を問わず、ともかくも日清、日露、第一次世界大戦(局地戦だけど中国で独逸軍と戦っている)、日支事変と立て続けに実戦を経験しているのでベテランパイロット=機銃照射の名手だけは数百名単位で保有していた世界有数の技能者集団(“世界に冠するゼロ・ファイター”!!!)ではあったのである。その一点だけは、数少ない優秀な軍人は全てヨーロッパ戦線にまわしていて太平洋は手薄だったアメリカ軍(対戦当初は新兵と退役軍人の再登板率が異常に高かった。なお、この傾向は日本占領当時も続いていたらしく、だからこそ平和憲法を始めとする理想主義的日本再建という“ジャック&ベティ伝説”《若いアメリカ兵たちが母国で実現できなかったユートピアを日本で実現しようとした、という...》が生まれもした、という...)に優っていたらしい。それもこれも1947年、口径20ミリ、700メートルは低弾道で直進する機銃を搭載という最新式高速戦闘機グラマンが大量生産されて、ドシロートのアメ公でもゲームセンター並みの操縦性、扱い安さで戦場に登場してからは形勢は一変するのだけれども...。
そして「ポカ」。
この度、秀行軍団が中国に行った。14回目らしい。何しにいったのか、というと、中日囲碁交流功労賞を受賞したというのでその授賞式に招待されて、ついでに公開早碁もし、その後はかのクンゲン君(韓国の1980年代NO-1)や結城P、坂井Pを助手にして大盤解説までやった、という。そうなんよ。秀行さんは物好きで、むかし弱っちかった中国に1981年から13回も若手棋士を引き連れて乗り込み、中国人棋士を教えた、という...。まあ、現代中国囲碁界の育ての親といったところで、あっちでは秀行さんは田中角栄並みの国賓扱いらしい。
つまり、そのう、囲碁界では日本も昔は世界を牽引していた時代もあったのだよと...。戦争も一瞬は最大風速も記録していたと...。だから、サッカーも投げたらあかん、と....。
わ~ん、つながらんわ。(´Д`)
P・S:しかし、落語だって円朝なんかが客席からお題を頂戴してその場で即席ででっちあげた三題噺から発展したというから、あおきがこんなへんてこな文章を書いても許してあげるのだよ、みんな。