3210 あほうむ びぎゃn

暁に逝ってよしとはいわなんだ、千年の幽囚を経ておなぢみあおきひとし伝説が遂に復活!飲んだら詠むな、呼んだら呑むな

高尾紳路プロ本因坊奪取~日本囲碁界にニューウエーブ21世紀旗手誕生なるか

2005-06-28 23:49:22 | 囲碁
 第60期囲碁本因坊戦挑戦手合は、本日6月28日挑戦者の高尾紳路八段が白番半目勝ちという微差で、張栩本因坊を破り、初のビッグタイトルを掌中に収めた。高尾紳路八段は藤沢秀行門下の28歳、1976年生まれの千葉県出身(「常盤平少年少女囲碁クラブ」で小生の子供たちとほぼ同期という縁がある。)で1986年小学生名人戦準優勝、1991年14歳で入段という若手のホープ、勝率はダントツだがタイトルには縁が薄くこの10数年、低迷の感がなくもなかった。それが8つある囲碁の公式タイトルのうちNO-3の権威と賞金額を誇り、最も歴史のある本因坊というビッグタイトルに手が届いたというので碁界では最近にない大きな話題になっている。
 というのも、戦後60年、日本囲碁界は国際戦ではかっての1人勝ちの状態から新興勢力中国、国の後塵を拝しつづけ、国内にあっても呉清源、趙治勲、張栩という中国、韓国、台湾というかっての囲碁後進国からの“出稼ぎ外国人”によってその時代の第一人者の地位をほしいままにされてきていたのである。そこに来てやっと純国産の20代のスター誕生である。碁界がわかないほうがおかしい。
 そしておもしろいのは、アマチュア囲碁の世界(萩谷和義というアマチュアが1981から指導しているクラブ)で育てられた逸材が、藤沢秀行という昭和囲碁史を代表する指導者に預けられ今日を迎えたという事実である。実際囲碁の指導者として秀行さんほど国籍、プロアマの垣根を取っ払うことに力を注いだ(というより、意識しなかった?!)人物は古今稀有な存在である。そんな傑物(今回の本因坊戦の始まる前もインタビューで「そこそこはいけるのと違うか」なんて他人行儀な予言を吐いていたのも、らしくて面白い)に薫陶を受けた高尾紳路が碁界のトップに躍り出たというのも、日本囲碁界の将来に明るい展望をちょっぴりうかがわせる事件ということになろう。
 実際、現在の日本囲碁界のトップ3は棋聖が羽根直樹、名人が張栩、本因坊が高尾紳路といずれも20代で、世代交代には成功したといえるのだが、いかんせん国際棋戦では韓国、中国の後塵を拝し続けている現状ではあまりいばれたものでもない。
 国際連合の常任理事国入りがむつかしそうな情勢でもわかるように、あらゆるジャンルでジャパン・アズ・ナンバーワンの時代は遠い過去のものとなった。というより、アメリカという巨象がイランや北朝鮮に対して巨大な軍事力、経済力で圧倒的な優位にたちながら実際的な交渉局面では有効な手がうてないことに象徴されるように、一国が抜きん出て国際社会をリードしていくことは困難な状況になっているといえるのだろう。とすれば囲碁の世界でも同様であって、高尾紳路ら若い世代が手をたずさえて国際協調をはかっていくのを期待するのが道理となるのだろう。


ウイニングポーズは決めポーズ~笠松競馬に明日を呼ぶ試み

2005-06-21 11:58:58 | Weblog

106連敗の牡馬が初勝利 岐阜の笠松競馬で (共同通信) - goo ニュース  伝説の名馬オグリキャップを生み、去年の天皇賞騎手安勝(あんかつ、こと安藤勝己)を中央に送り出した地方競馬の名門、笠松競馬で椿事(ちんじ)が起こった。106連敗をしていた競馬馬ウイニングポーズが初勝利をしたのである。サラ系C級150万未満C級戦とはいえ、未勝利限定「めざせ一笑」賞という、はっきりいって敗者救済目的のレースだったとはいえ勝利したのはめでたくもあり、ばからしいともいえる。レースは10頭立てで行われたが、そのうち4歳馬が7頭、5歳馬2頭、残る一頭がこのウイニングポーズという初老の6歳馬だったという訳である。 いったい競馬というのは馬にとっては意外に残酷な競技で、3歳でデビューすると4歳ははやくもピークであり、5歳は壮年、これをすぎるとたいがいの馬は引退といえば聞こえはいいが、実態は抹殺つまり薬殺されるが、最近ではそれにも経費がかかるというのでやむなくレースに出続けるケースが多い、と聞く。競馬といえども自由主義市場経済法則の枠にからめとられていて、生死すらも馬主の懐具合に縛られているのがありていの姿なのだ。そして、不況の嵐は一競馬馬一馬主だけに吹きつけるのではなく、笠松競馬全体を覆っているのが現実である。スポンサーである笠松町が累積する赤字にたまりかねて、効果的なリストラ策を打ち出さないかぎり一年で笠松競馬廃止という荒療治に出たのは今年の2月である。笠松競馬関係者がなりふりかまわぬ競馬振興のためのさまざまな試みをはじめたのは、それからである。青年部が突出したイベントを次々と打ち出したり、家族会(?)が手弁当で競馬グッズを場内販売したりと、みんな生き残りに必死の形相である。実はこの日6月19日、前代未聞の厩務員同士の競馬場結婚式が行われた。「新しいファン層獲得と、競馬場のイメージの改革(笠松競馬HP http://www.kasamatsu-keiba.com/info.htm/info113.htm)」を目指して、新婦の衣装は白馬の尾による生地で仕立てた世界でひとつしかないという凝りようであるが、ゲストが衆議院議員で民主党の前々代表のあの 鳩山由紀夫氏というから、がぜん話はややこしくなってくる。
 地方競馬の復興をかけたいじらしいイベントというローカルニュースが鳩山さんの登場でにわかにいかがわしい印象を与えてしまうのは、おおげさにいえば2005年ニッポン社会のインチキ臭さを象徴しているといってしまおう。困ったことだが。

 どうも暗い話になってしまった。あわれと思うキトクな奴がいるのなら上記HPに笠松競馬存続キャンペーン投票ボタンがあるから押してやってほしい。力のない関西思想は、こういう話に弱いのである。すまんすまん。

 

 


おにいちゃんは負けない~植物の環境保全能力はあなどれない

2005-06-18 11:22:46 | ドラマ
 なんとあの観葉植物のカボックに骨盤のずれを直す力があったと、その方面の学会で報告されてちょっとした騒ぎであるらしい。
 ここにきて なにやらゆかし スミレ草、の世界をホーフツさせるが、いかにもありそうなことである。科学の進歩は万能であって、それを究極まで推し進めれば人類は完全無欠の存在になれると信じる錬金術である西洋医学に比較して東洋医学では山野に自生する植物の病気治癒力を無邪気に信奉してきた。理念としてはいずれの側にも一理ありそうな気がするが、それだけで世界が治まるかというとそうでもないらしいことは,誰にでもわかる事柄でしかない。
 しかし、植物が動物、とりわけ人間の死命を制するカギを握っていることは間違いがない。最近報道された例では、建材などが発する化学物質が人間を蝕んでいて、その対策として空気洗浄機など換気を心がける(要するに毒は追い散らす、というやり口)よう指導しているが、屋内観葉植物のポトスを室内に設置する(毒を吸い取ってくれる)ほうがより効果があることがわかってきたという。
 まあ、なんですな。植物はその光合成によって二酸化炭素のかわりに酸素を生成するという有名な例に端的に示されるように、自然環境(地球)での主役は人間であって他の動植物、鉱物はその脇役にすぎないという神話は全くの嘘っぱちであることが理解できるのではあるまいか。そのアクションが派手でひとり勝ちを続けているかに見える人類であるが、21世紀世界の保安官を任じるアメリカが、かってのベトナム、今イラン,北朝鮮を強権発動で屈服させることができないのと同様(ちょっと、いやかなり大幅に違う気もするが、それはおいといて)、人類は地球環境の絶対権力を独占している訳ではないようである。それどころか、お互いに相互補完関係にあるらしく、ふたつあわせて地球環境の生命体サイクルが完結するという、もちつもたれつの対等の関係にあることはだんだんと、しかしようやく確実にわかってきた訳である。
 で、これを若貴問題にあてはめればどうなるのかというのがこの小文のテーマである。なにもアンドロイド貴が近代西洋合理主義の権化であって、ブッダ若が古代東洋思想の申し子だと言っている訳じゃないけど、どうもあの相克は不毛だという気がしてならない。和解はありえないだろうが、どちらか(ま、相撲協会という世界に身を置く貴ちんね)がソ連を自壊させて冷戦を終結させたアメリカになるという展望も見えにくいわけだ。この確執がマスコミを通じてかっこうのスキャンダルとしてお茶の間の話題になっている以上、とりわけ判官贔屓の傾向がつよいこの国では娯楽としてのこのドラマ=ゲームは長引きそうな予感がしきりとするのである。
 あなうれし とにもかくにも 生き延びて 戦いやめる 今日の日にある
 戦前の京大で滝川事件に巻き込まれて投獄されていた滝川教授が戦後釈放されたときの一首である。おにいちゃんが滝川教授のように信条のためなら投獄も死をも厭わない思想家であるとはさらさら思わないが,
世間の風が微妙に貴に傾き(『週刊文春』が肩入れした、かの小田嶋隆直木賞予定作家が理解を示した)つつある現状では、とにかくも旗色が悪いおにいちゃん若陣営に旗を立て、弁護の論陣(そうなってないってばぁ)を張るのも関西思想の持つもうひとつの麗しい側面であるといっておこうかいな。

I loves you~”故意”の季節は永遠に

2005-06-14 07:28:00 | Weblog
 I loves you.はI love you.ではない。sがひとつあるかないかの違いであって、似たようなものといわれるかもしれないが、ちょっと待て、である。
 I love you.は私はあなたに恋してる、とある事実を打ち明けるという主体的行為であるのに対し、I loves you.の方はlovesと、客観的事実を叙述するのであって、つまり主語である”I”をして第三者の視点から対象化している。
 というと一見I love you.の方が積極的なアクションに感じられるだろうが、ちょっと待って欲しい。
ラブレターにこれらの字句を使用する場合を考えてみてほしい(現実に私はこのI loves you.をラブレターに使用したことがある。まぁ、結果を見れば、理解されていたたとは思わないけれどもね)が、I love you.がひたすらパーソナルな方向につっぱしり、なりふりかまわずに我意をまきちらしている感があるのぬ対し、I loves you.のほうは、主体である”I”がひかえめにふるまっている分、かえってI love you.という事実を客観性という普遍性の範疇に据えることによって、逆に相手に対して強い説得力を持つように思えたのである。ほら、世間はこのことをとっくに認知しているんだぜ、という意味を背後にこめた
つもりだった。
 それがどーした、と言われるとちょとつらい。結局私の恋が実ることはなかったように、話はそれだけのエピソードにすぎないのだからである。
 だが最近、思うのだ。世間の出来事に関心がさっぱりともてなくなってきて久しいが、強引対象に迫っていくI love you.の姿勢と、I loves you.とすまして相手方との調和を計るのと、はたしていずれが人生をよりアクティヴで楽しいものにしているのだろうか、と。
 う~む、わーらしまへん。自衛隊がのこのこイラクまで出かけていってやっていることといったら、しこしこと蛸壺を掘るだけなのと、イランの情勢に関心は持つがニッポンには平和憲法というものがあってだね、と洞ヶ峠をきめこむのと、はたしてどっちがかっこいいかって?きまってるじゃん、どっちも世界からみればアホだって。
 つわけで、この話柄は我が信条の関西思想からずれるのだけれども、そーゆーわけで、このところ我が中日ドラゴンズは不調が続いているのである。なんとかしろって、落合!


朝日の昇り方教えます~『おだじまん』出版によせて

2005-06-11 15:34:44 | Weblog
 前にもここに書いたのだが、小田嶋隆氏のHPとブログが一冊の本になって出版されるらしい。それで、素材は豊富だが、玉石混淆っていうか、サッカーの話題は別(サッカー・ファンにとっては素人の愛好家が書いたユニークな評論集として珍重されるかもしれないが、ボクはそっち方面は疎くて、すまん)にして、個々の文章が総じて小粒で、編集にあたって大胆かつ明確な位置付けをほどこさないと目もあてられない結果になるだろうと言った。そこらへんを、少しつっこんで記してみたい。
 「偉愚庵亭日乗」にしろ、「偉愚庵亭撫録」にしろ、その時々の世間をにぎわした話題の時評の要素が濃厚である。それを今改めて一冊の本に採録するのに、そのまま時系列にそってまとめてみても、事件がおきた直後の熱気も薄れ、第一事件そのものの内容が読者にとって記憶があいまいになっているとき、批評としての鋭さも、料理の手際のよさもいまひとつであることはいうをまたないだろう。
 そこで、章立てを個々の話題別は無理であるにしても、ジャンルとか、カテゴリー別にすることは可能で
あろう。その個々の章ごとに、めんどうでも小田嶋氏本人がオリジナルの年代史を書き加えて本文と対照させるというのはどうだろうか?「オウムは”邪宗門”だったのか」「盟主巨人軍の政変図」「蹴鞠は国技たりえるか」といった具合である。ね、これは本人じゃなくては無理でしょう。
 つまり、一つの事象を本文(批評)、歴史的記述という複数の視座から照射しようという試みである。そして、小生はこれに加えて、あとがき、つまり2005年からのコメントをも併せ掲載したいのである。複眼的解析の面白さは、勇み足のアブナかしさ、定義づけのインチキさ、結果論のご都合主義とひとつの事柄を三回楽しんでしまおうという欲張り(直木賞予定作家小田嶋氏本人にはめんどーなだけだろうが)な企画である。
 そして極めつけは、やはりイラストである。文章はわずらわしくってとばしても、これだけは見る、そしてこれだけで笑える(楽しく理解できる。世間の話題についていける)、という読者もすくなからずいた、和田誠と比肩し得るあのへたうま、イラストはどんどん載せる。トーゼン、新作、加筆ありでっせ、おまいさん。それで本の定価が上がっても、そうだな3000円位までなら三万撫は売れるとよんだが、甘いかしらん。

朝日はまた昇るのだろうか~小田嶋隆著『おだじまん』出版に際して

2005-06-10 03:11:35 | Weblog
 作家小田嶋隆氏のホームページが出版されるという。「偉愚庵亭日乗」という氏の飼うペットにちなんだ日記ページを主として、詩やイラスト(画力はメジャー級、でもこの本は活字のみという気がする)も掲載するらしい。なんせ、出版元が、かの朝日新聞社というのは、西原理恵子の『恨ミシェラン』を出した自虐的編集者勝P以来の伝統、縁なんだろうか。
 素材は物量的には豊富であるが、サッカーの話がメーンで、あとは雑録といった感じで、選び出す編集者の眼力と度量が問われることになるだろう。
 というのも、氏の文章がいきいきと躍動するのは、当の朝日新聞社自体など、時のジャーナリズムを賑わした権威的なものへの批判というよりからかう時であるからだ。本人の熱の入れ方をも含めて、出来不出来にずいぶんとむらがあり、硬直した姿勢で選別していくと,意外につまらないものができあがる可能性は少なくはない。
 ブログになってから少し先鋭化したきらいはあるが、それでもウェブでの出来栄えは必ずしも満足できるものではなかった。作者の”商品ではなくて、そのまあその時々の気まぐれの産物で...”という意識がすけてみえていたのである。
 だから、本にする時は背景となった時代の年表(小田嶋氏自身製が望ましい)とうまくリンクさせ、またイラストもふんだんに活用していけば、かの和田誠の名著『倫敦巴里』に匹敵するものが生まれないとは限らない、と思う。そうなれば、1980円でも惜しくない、かもしれないね。

ドラエモンたちはファミリーだったのか~二子山親方逝去のあとさき

2005-06-04 05:33:49 | Weblog
 かって大阪冬の陣で豊臣秀頼がコロされた時、そのファミリーの特殊性に関してあらぬ噂がしばし飛びかったのではなかったか?いや、貴顕なる一族に生まれた二世の真価は、厚いヴェールに覆われていて確かめがたく、世評も聖俗両極に裂かれるのが世の常なのだが。秀頼のケースでは、秀吉から何を受け継いだのか、受け継がなかったのか、その兆候が顕われることなく歴史の深い暗渠に没っし去ってしまっている以上いかなる憶測も可能なわけである。さて、秀頼は有能だったのか、単なるでくのぼうだったのか、秀吉のタネは不発のままはじけ飛んでしまった。
 ドラエモンとのび太が兄弟のように機能するファミリーを想像してみると、本当は怖い童話にも似て、ホリエモンがいかがわしい香具師だったのか、革新的なニュ―ビジネスマン実業家であったのか解らず、世間も手をこまねいているかのようである。その二面性を具体的に具現しているかのように、若乃花と貴乃花は存在し、ふたり並んで亡父の葬儀を営んでいる図は怪談っぽい。
 ナガシマが倒れたときの一茂のしきりが意外に評判がよかったのも、不肖の息子という前評判が高かったゆえにそれがくつがえった時、実体はさほどでもないのにその逆転のイメージが鮮やかなのでトクをした。今回も、おにいちゃん花田勝クンの弔いの挨拶が意外にしっかりしていて、テレビを見ていたぼくらもホッとした部分があって、それが今回のヤな事件の唯一の救いになっているんとちゃうかいなぁ。