3210 あほうむ びぎゃn

暁に逝ってよしとはいわなんだ、千年の幽囚を経ておなぢみあおきひとし伝説が遂に復活!飲んだら詠むな、呼んだら呑むな

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囲碁よろしくネットワークだよ~王座戦挑戦者は山下棋聖

2006-08-31 23:29:56 | 囲碁
 王座戦挑戦者決定戦 小林覚九段対山下敬吾棋聖

 つ、強い。相手は昨年張栩名人に挑戦してあと一歩のところまで追いつめた小林覚九段だったが、山下敬吾棋聖は白番山下の“アマシ戦法”をものともせず、鎧袖一触つっぱりひとつで相手を土俵の外に突き出した観がある。さすが、棋聖だな。
 
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囲碁よろしくネットワークだよ~英文法と論理性、NHK杯

2006-08-30 23:48:36 | 囲碁

 第54回NHK杯2回戦第3局 溝上知親八段対王銘ワン九段

 「世は一局の棋なりけり」というのは土井晩翠『星落秋風五丈原』だったか。するとこの碁はそのロジックを突き進めて、さながら「よくできた一編のショートストーリーのようであった」観がある。それというのも、マイケル・レドモンド九段の放送時の解説があいかわらず明解で冴えていたからだ。

 ここでちょっと話は脱線する。
 碁という、東洋で生まれ21世紀の現在でもなおそこでしか栄えていないゲームが、何故ゆえにマイケル・レドモンド九段というアメリカ人棋士の口から語られると、他のあまたの日本人棋士のそれよりも判りやすいのか、ということを考えてみたい。
 すると思い当たるのは、彼が日本人ではない、つまり外国人である、というごく当たり前の事実に行き当たる。では、このことが彼が碁という、いわば異文化を当の本家本元の日本人のアマチュアに説明する場合、どのように作用したか、という点に注目してみよう。

 異文化ということで譬えてみれば、方言というものがある。関西弁などはさしづめその代表的なものである。ところが、テレビなどでよく見かける芸能人で、関西弁を“売り”にしているタレントでもそうだが、実際のところ全員が全員関西出身であるというわけではない。例えば島田紳介は京都出身だし、昔の都蝶々などは東京出身である。名古屋でいうと山田昌などがそうだが、彼女は三河出身で尾張のそれではない。三河も尾張も同じようなものだろうと、お隣りの三重県出身のこのあおきひとしでも思うのだが、本人に言わせれば全然別物、はっきりいって「外国語」であるらしい。つまり彼(彼女)たちは別の土地の言語を“外国語=異文化”として学んだわけである。
 これは一見、生まれながらにしてその土地に育った者、つまり知らないうちにそれを身に付けてしまえた者に比べてハンディキャップがあるようにみえる。
 ところがテレビなどで彼等が使う方言は、関西弁、名古屋弁(“尾張弁”だと山田は言う)とはいっても、実際にその土地の人が日常使っている言葉ではなく、それらの特徴のポイントは押さえながらも、テレビのような媒体を通じて全国に流れるわけだから、それを見ている全国の人々にも理解できるように薄められた“人工言語”ということであるそうだ。そうであるから、生まれつきそれしか知らなかった地元生まれの者の言葉はそのままでは<どぎつ>過ぎてそのままでは使えず、その特徴の部分はしっかり押さえ《「~やで」「~だがや」といった文章の語尾にあたる部分などは実は現地では無声化(使い慣れ、通じることに安心している結果、その部分は話す時に力はこもらないのです)するのが通常であるが、逆に放送ではその方言としての音声的に特徴ある語尾の部分をどうしても強調して、つまりそこに力をこめて話してしまう、というねじれ現象が起こるのですねw》つつも、聞いて意味が分からない言葉は標準語に翻訳するといった作業、つまり現地人にとっては母国語の変形バージョンを再学習するようなもので、なまじ母国語を無意識のうちに身につけている(“体で覚えた”)ことが仇になって、その“母国語”と“その母国語の変形バージョン”の識別をかえって難しくさせるものだそうである。
 その点、なまじな予備知識もなく、“外国語”としての方言を学習しているものは、その“外国語”(方言)と“標準語”のブレンドの仕方、観客の反応を確かめながらの“匙加減”が白紙のところから始められる分、かえってやりやすいのかも知れない。
 つまり碁という特殊文化を無批判非論理的にどっぷりと漬かって体になじませるのではなく、いわば“異物”、“異文化”として外から分析し解明していくという手法をとった外国人であるレドモンドさんは、同じように碁がプロとは違い“異物”“異文化”である日本人アマチュアと同じ立場に立っている(つまり、碁を“外”から眺めている)わけだから、かえってそれを論理的に説明することがやりやすかったのではなかろうか、ということである。これがひとつ。
 
 もうひとつは英語という言語の持つ論理性である。
 丸谷才一はその『文章読本』の中で日本人の名文の代表に谷崎潤一郎の小説『細雪』をあげている。“情緒的に豊潤でありながら、高い論理性を誇る”と評されたその文体だが、それは明らかに英文法に則ったものであり、そのことが谷崎の文章に日本人には珍しい論理性を保証した、とある。その谷崎潤一郎(1886-1965)だが、37歳の時、関東大震災(1923)のために関西に移住したが、生まれ育ちは東京であり、若い時に学んだ英文学がそのバックボーンにはある。だから『細雪』なども彼は標準語で書き、それを関西の者が関西弁に直したのを、最終的に谷崎自身が校正したものだそうだ。そうした“乾いた輪郭(翻訳文体)に柔らかい衣(関西弁)を被せる”翻訳のような複雑な過程を経てあの名文は生まれたのであって、その日本語では類稀な論理性もそこから来ているのだという。
 このことはマイケル・レドモンドプロの話す日本語にも通じるわけであって、彼は生理的に身につけた英語で発想したものを、頭の中で日本語に翻訳しつつ話しているというわけだ。
 それはまず、主語が頭に来て、動詞がそれに続く、そして必要なら目的語を最後に付け加えるが、表現をあやふやにしてしまう副詞、形容詞などはなるだけ少なめにする、というブラックコーヒーのようなハードボイルドタッチの言語が母体となって構成された堅牢な論理的構築物であって、「トンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった。」なんていう“美しい・ニホンの・誰かさん”的意味不明でやり過ごす(これでは“誰(何)が”“何をしている”かがまるで分からない)といった不健全な習慣はかけらもない。
 頭、と胴体が肉体の基本であり、手と足でそれを運用するというのが人間の基礎物理であることはいうを待たない。
 レドモンドの言語は「黒はここでは先手で生きよう、としています」というように、主語がはっきりしていてその行動の目的をはっきりと示している。したがってその動詞の持つ意味、方向性が我々に明瞭に伝わってくるのだ。
 それは英語には「is」と「is not」がはっきりと分別されていて、「あることがらが起きている」のか「起きていない」のかを常に明確に分類するという潔癖さをも表わしていて、日本語のように語尾をぼかすことで結論を先延ばにしてやり過ごす曖昧さはかけらもない。
 次に大事なことは、英語という論理学はまずもってその対象(何が)“what(who)”、場所(どこで)“where”、日時(いつ)“when”、数量(どの程度)“extent”といった骨格を露わにさせた上で、その展開の過程で常にその扱う対象の優劣の比較を明らかにせずにはおかない、ということである。
 英語には「must」と「want」という言葉があるが、これは「必要条件」と「充分条件」を峻別するというリゴリズムである。それは「~でなければならない」という必須事項と「~であればいいんだがなぁ」という願望事項を別のものとして捉えることである。
 この碁ではレドモンドプロは「黒は下辺の模様を広げることで勝負に持ち込もうと願望している(want、充分条件=願望)」と黒37の構想を否定的に捉えてその不充分性を指摘し、白60の打ち込みには「これが生きなければ白に勝ち目はありません=黒勝ちます」とこの白の犯行(!)の危うさ、成功の見込み(must、必要条件)の薄さを明言する。
 そのように、碁というミステリードラマの輪郭とアウトラインが明晰に語られることによって、その道のシロートである我々アマチュアであっても、プロの碁という峻厳な登山行を名ガイドであるレドモンドプロは明解なロードマップと優しいナビゲーションつきの気軽なピクニックに代えてくれるのである。
 ありがたい、ありがたい。なんまんだぶなんまんだぶ。ハ~レ~ハレルヤ、レドモンドである。
 

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囲碁よろしくネットワークだよ~世は一局の棋なりけり、NHK杯

2006-08-27 23:45:14 | 囲碁
 第54回NHK杯2回戦第3局 溝上知親八段対王銘エン九段

 「世は一局の棋なりけり」というのは土井晩翠『星落秋風五丈原』だったか。この碁はさながら「よくできた一編のショートストーリーのようであった」観がある。それというのも、マイケル・レドモンド九段の解説があいかわらず明解で冴えていたからだ。

 それで、そのいわんとするところの背景を書き込んでいたら、棋譜をまとめるのに意外に手間どってしまったので、本文を書く時間がもうない。詳しくは明日ね。

 

 
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囲碁よろしくネットワークだよ~依田まわしを取らせず、竜星戦

2006-08-24 22:52:11 | 囲碁
 竜星戦決勝トーナメント1回戦 依田紀基九段対安藤和繁二段

 竜星戦本戦(予選変則トーナメント)は8つの山で最多連勝者と勝ち残りの二人が決勝に進むというユニークなシステムのため、決勝トーナメントでは、こういう珍しい組み合わせが生じることがある。無論、依田は最終勝ち残りであり、安藤は低段者の頃の最多連勝者である。依田はDブロックで本田邦久九段、倉橋正行九段、大竹英雄九段を破っての勝ち残り、安藤はGブロックで久保秀夫五段、坂井秀至七段、井口豊秀七段と三人の秀才を破っての最多連勝決勝進出である。
 安藤は特にリーグ戦の常連坂井秀至七段を破るお手柄を引っさげての決勝トーナメント進出であるが、依田の前では勝手が違ったのか、本戦リーグのような勢いは見られず、なすところなくずるずると土俵を割ってしまった。残念。
 なもんで、ここに本戦での坂井秀至七段との一戦を掲げておく。

 竜星戦本戦Gブロック2回戦 安藤和繁二段対坂井秀至七段

 先番安藤、強豪坂井七段を相手に足早にポイントを上げ、堂々逃げ切りの完勝譜である。

 
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中日、マジック31!

2006-08-22 22:58:50 | プロ野球
 今日阪神が負けて、中日が勝ち、マジックがM31になりました。つまり、
   試合 勝 負 引分 ゲーム差 残試合 マジック
中日 103  64 35   4         43   M31
阪神 110 59 48   3  9.0  36

なのである。

 ええとだね、仮にだね
①阪神が残り36試合を勝率0.667のペースで24勝12敗したとしよう。
②中日が残り43試合を勝率0.442のペースで19勝24敗したとしよう。
何と、それでも中日は優勝してしまうのだよ。わっは。正義は天におわします。
 ばんざ~い、ばんざ~い、ばんざ~い!!!
 
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囲碁よろしくネットワークだよ~棋譜を作る楽しみ、NHK杯

2006-08-21 23:32:24 | 囲碁
 第54回NHK杯2回戦第2局 趙治勲十段対倉橋正行九段

 碁はなんといってもテレビ碁がいい。解説がついていて、一手一手について逐一解説してくれるからだ。アマチュアというのは相当の高段の者だってプロの打碁についてはめくらのようなもので、解説なしには一歩たりともついていくことは不可能だ。ましてやいわんや、あおきひとしレベルにおいてをや、である。そしてこの日の解説は石田芳夫解説名人だったから、いつにもまして明解で中味もよく理解できたような気がする。(それはアマチュア向けの解説として石田Pが割り切った旨い話し方をするから、我々はそう錯覚するだけであって、本当のところはな~んにもわかっちゃいないのではあるが...orz)
 ↑上記の棋譜はそれらをもとに、あおきがコメントと参考図を使って要約したものである。
 実のところ、あおき程度の実力ではプロの解説は高度すぎて本当に理解しているとは言い難いのであるが、分かったつもりで偉っそうに断言口調にならないと観戦記も書けない、ということでまぁ、ご愛敬と許して頂きたい。
 それでも何枚もの参考図を作っていくのは、一手一手の意味とその必然性を考えながら一局の碁のストーリーを辿っていくわけで、それを何回も繰り返していくと、いつのまにか二百手以上の碁であってもそれが頭の中に入って来て、自然と丸暗記してしまう仕掛けになっている。これは一枚や二枚の紙の棋譜に丸で囲った数字を書き込んでいくのではなく、PCソフトに自動(あるいは手動)再生できるように打ち込んでいく、ということもその碁を“自分のものにする”上でずいぶんと役にたっているように思う。終わってから繰り返し再生しながら、参考図とコメントを検証していくことでそれがスムーズに行われ、プロの考え方が自分の中に自然と染み込んできて、なんだか強くなったような快感があるのも、ここで棋譜を作る楽しみになっている。
 ところでテレビでは実戦の後半が両者持ち時間がなく、どんどんすすんでいったので、白は右下に突入して幾ばくかの地を持って生きはしたものの、上辺と左辺からの黒の大石を、相当の地をもってつながらせもしたわけで、黒の勝因はこのあたりの攻防の巧みさにあるとわかっても、放送では実のところは何も判っちゃいなかったのである。
 ところが『週刊碁』(2006.8.28)を見ると、対局後次の対戦(張栩名人対山田規喜九段)の解説役で控え室にいてモニターでこの碁を見ていた結城聡九段が、白の逆転の手筋を発見したらしい。それが↑棋譜の参考図Pの白128の切りであって、これは趙、倉橋の両対局者も解説の石田Pも気付かなかった手筋で、天晴れ結城Pということになる。
 それに加えて、放送で石田Pが言った「白158では、中(白160)から行っていればどうなっていたか判りません」が気になる。詳しくは↑棋譜参考図Sを見て欲しいのだが、そのようにやると、ややや、あおきセンセイの拙い計算では白逆転1目半勝ちとなってしまうのだよ、おいおいおい。
 だから言うのだが、放送時間いっぱいに使った数え碁であっても、終盤の勝敗に関係の無いヨセの部分は早送り再生のダイジェストに縮めてもよいから、勝敗のポイントを解明した所の感想戦(10~15分のこれもダイジェストが良い)をまとめに使ってみんなで智恵を集めた最終結論を出したほうが、放送の“座り”も良くなるというものだね。
 
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囲碁よろしくネットワークだよ~初劫にコウ(材)無し、NHK杯

2006-08-20 18:32:20 | 囲碁

 第54回NHK杯2回戦第2局 山田規喜九段対張栩名人・王座

 戦い自体は張栩名人・王座(碁聖が入ってないのは、省略したから?それとも、収録の時点ではまだタイトルを取っていなかったから?)の圧勝、ワンサイドゲームであっさりと終わった。
 “初効にコウ(材)無し”ということで、序盤に二度あったコウになる場面を巧妙に切り抜けた名人が数十手の段階で既に勝ちを読みきっていたらしい。
 そのことは、山田規喜九段が165手で投了し、20分近くあった感想戦の中で明らかになった。解説の結城聡九段が「白が左下を先手で切り上げて、上辺白80と開いては、白面白いのではないか?白98の見損じさえなければ白もやれたのではないか?」と問うたのに対し、「(↑棋譜参考図Eの手段を示し)白98で右下を囲っても、黒も99と右下を確保して、中央に白は50目はできない」と即座に斬り返したことで分かる。
 一手30秒の早碁で、たかだか百手あまりの段階で目算ができていたとは驚きであるが、26歳の若き名人の充実ぶりを印象づける一言である。読みきり云々は、かっての趙治勲でも20代の頃は百手先の半目勝ちを若き日の小林光一ともども読み切っていたという証言もあり、中国、韓国の若手が10代、20代で世界トップとなる状況にあって、「20代が碁の打ち盛り」という言説も真実味を帯びてくる今日、それは可能なことなのであろう。

 ところで、話はそれるが、『週刊碁』(2006.8.28)で、小林泉美女流最強位対瀬戸大樹六段戦を1回戦第17局、趙治勲十段対倉橋正行九段を1回戦第18局と書いていた。これはトーナメント表をみても分かるとおり、1回戦第18局と2回戦第1局の誤りである。
 実は、『週刊碁』は(2006.8.7)と(2006.8.14/21)で竜星戦の<本戦>ということについての矛盾する見出しをつけるという似たような過ちを犯している前科がある。
 そのことに関してはあおきひとしは以前のエントリー[囲碁よろしくネットワークだよ~彦坂、竜星戦決勝トーナメント進出](2006.8.8)
で指摘し、その疑問を『週刊碁』のブログにトラックバックすることで質した(8.6)のであるが、いまだに返答はない。一読者の質問にブログという別の媒体で一々答える義務はないと考えているのか、文責はライターにあると考えているのかどちらかだろう。しかし、後者の場合は誤りで、本文の文責はライターにあっても、見出しの文責は編集部にある、というのがジャーナリズムの常識である。
 とすれば、コトは前者であるブログでのカキコに対する応答義務の有無に関わってくる。こうなると、囲碁の棋譜の著作権問題(あおきのような個人がブログで専門家の打碁を公開することの可否)にも絡んできてハナシは少々ややこしくなってくるのである。
 しかし、ブログ『週刊碁』があおきの質問を「気に入らない」か「何の問題もない」と考えて無視するのならともかくとして、トラックバックそのものを握りつぶして公開しない(投書をボツにする、ということですよね)のはいかがなものであろうか、と思う。あるいは、あおきがブログで棋譜を掲載し、それに論及していることが、彼等の気にさわるのかもしれない。棋譜とその解釈は日本棋院と棋戦を主催する企業の独占物であり、それを公表する権利=著作権は自分たちだけのものだと思っているのかもしれない。
 しかし、PC界は現在、リナックスというOSがそのシステムに関わる全ての情報を公開することで世界中のユーザーによる共同開発が進められているという情報公開、“オープン・ソース”の時代である。「アマゾン・ウェブサービス」が自分が取り扱っている膨大な商品データの全てをだれもが自由に使って小さなビジネスを起こせるよう無償で公開して、その売り上げの1/3を売り上げ部数13万位以下の商品で占めるという“ロングテール”現象を起こしたように、アメリカマサチューセッツ工科大学(MIT)がその講義内容をすべてインターネット上で無償公開することで“学びたい世界中の人々へのプラットフォーム”を作り共同研究をすすめようという壮大なプロジェクト「オープンコースウェア」を立ち上げたように、そしてアマゾンの「フルテキストサーチ・サービス」やかのグーグルが提唱した“世界中の図書館の本を全部検索できる”「グーグル・ブックサーチ」が本の著作権を解放してしまおうという動きが示すように、ウェブ世界での“Web2.0化”は最早くいとめることのできない世界潮流となっている。
 囲碁界におぴても、棋譜とその解説は日本棋院と棋戦を主催する組織が著作権をタテに独占的に取り扱い管理する時代ではなくなってきているのではないだろうか。無論既成のテレビ、新聞、週刊誌といった“マスコミ”が滅んでしまうことはないだろうが、それと共存する形で情報を無数の“ロングテール”たちがネット世界で付加価値を付与することでよりいっそう情報としての厚みを加えていく時代はもうすぐそこに迫っている、のだと思う。
 願わくは、囲碁情報が媒体を問わずよりオープンな形で論議され、そのことで囲碁界自体が活性化することを祈るばかりである。
 



 

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捨て石、交わらない会話とドキュメントの不在~Nスペ『硫黄島玉砕戦~生還者61年目の証言』4/4

2006-08-18 15:30:03 | テレビ

 <承前>

 >④あと、まだ一万柱の遺骨が眠っているそうなんですが、これは要するに、一万人の最後が分かっていないということですよね。洞窟は埋まっているしで。きちんと掘り起こして、慰霊してほしいですけどね。

 これは正論であるが、同時に空論である。
 遺骨収拾は南方などではけっこうやられたこともあるそうだが、ぶっちゃけて聞くところによると「効率が悪い」そうある。要するに、手間隙と金の割には収穫が少ないんだそうな。おまけに戦死だから骸骨がガイコツとして理科室の人体見本のようにきっちりとその形をとどめていない。たいがい破片になって砕け散っているし、61年という歳月はそれすらも形をとどめず粉となって風に舞い散ってしまっているらしい。ましてや硫黄島である。地下18kmにわたって掘りめぐらせた地下壕はあるいは水没し、あるいは爆破されて土に埋まっているものが多い。それが硫黄島守備兵2万1千人のうち2万人の戦死者、その中で地表に晒された白骨死体一万体はおそらく戦後駐屯した自衛隊員たちが接収しているだろうから残りの一万対は硫黄の噴出す灼熱の地表のはるか深く地中に埋められていてその収集(英霊に対して不謹慎な言葉だった、すまんすまん)は絶望的にリツがわるいのだろう。神戸大震災などとはわけが違うのである。何十万人といる自衛隊員や靖国に意を尽くす無数の奇特なボランティアさんたちが総がかりで行っても、あの硫黄島すべてを掘りかえすのは百年大河を清めんとする壮挙、あるいは愚挙なんだろう。残念といえば残念、無念といえば無念だろうけれど...

 しかし、この島で散った一万の民間人戦士たちの遺骨が、日本本土から800kmを隔てた絶海の孤島の古戦場の地中深く今なお眠り続けるのは、あるいは彼等の無念を現地に永遠にとどめるという意味では、かえってふさわしい扱われ方なのかもしれない。その霊は彼らを無残なる理不尽で無意味な死へと追いやったA級戦犯たちといっしょくたに靖国神社に祀られているというが、そのような居心地の悪い思いをするくらいならば、いっそ誰にも引き取られることなく異土の孤島の土に埋もれたまま、日本の最南端の砦の守り神軍神としてこの恨みの篭もった因縁の島に憑依しているほうが似つかわしい姿なのかもしれない。
 太平洋戦争における日本兵の戦死者は240万人だというが、その内実は戦闘による死者は実は80万人しかいなくて残りの160万人は餓死だという。我々をして暗澹たる気分にさせるに充分なこの数字は、中国大陸で進展するあてのない戦を続けたあげくに発作的に始めた南方進出という二正面作戦の戦の無計画性を端的に暴いてはいないだろうか。そんな日本軍部中枢の計画した戦略の空疎さ、粗雑さが最も荒々しく苛酷に表れたのがこの硫黄島の戦闘ではなかったのだろうか。

 テレビ画面に移る現在の硫黄島はまさしく地獄そのものと言っておかしくない荒涼たる風景であった。アメリカのグランドキャニオンなどの荒々しい映像を見てもちょこなんとかすかに緑地らしきものは点在でそこにはフロンティア精神あふれるヤンキーたちがキャンプするという。剥き出しの岩で表面の全てを覆い尽くした硫黄島は「人を寄せ付けない」という形容がこれほどぴったりする景観はそうはない。その昔青年イエスが彷徨って己の内なる悪魔と論争をしたというイスラエルの荒野もこれほどではなかっただろう。それは人間の思索とか想念というたものを拒絶するこの世の外の世界なのだ。
 テレビは意図的にだろう、そこに駐在する自衛隊員を撮影してはいないが、それだけにいっそうこの植物も水もない、つまりは例えば漂流者がここに辿りついたとしてもその生存を拒む異界の光景に、生活環境とか領土とかいった社会的、政治的意味を付与することのできない硫黄島の実体を見ることだろう。
 我々が直感的に感じる「ここは人間の住む処などではない」という思いは現在自衛隊員たちがその不便さをしのんで占拠していることの無意味さをを伝えている。そして同様にあの61年前、戦争という20代の若者だけが特権的に独占すべきイベント、ゲームなのに、場違いの16、17歳の少年たちと30~40代のいい大人たちが強制的に移住させられ、そしてこれまた場違いの戦争なんていう国家プロジェクトに偶然(だって、そうだろう。マッカーサーはもうちょっと賢ければ、硫黄島なんていう戦略的価値に乏しい戦場は“ふつう”スルーする筈だ。)参加させられたことの悲劇性と無意味さに呆然とするばかりである。
 
 司馬遼太郎によれは戦争とはその活動に関わる総員の緊密な連繋プレーが必要不可欠な共同作業なのだそうで、全体の30%が欠ける(死傷する)だけで、その部隊はろくすっぽその機能をはたすことができなくなる脆いモノだそうで、その状態を“全滅”というそうだ。これは古今東西を通しての軍事組織の共通認識で、兵力が70%に落ち込んだ部隊は最早戦闘する機能を喪失しており、一旦戦場から退却して後方の味方の軍と合流し、再び100%になるまでの補充を受けてから戦線へ復帰する、というのがいわば常識だったわけだ。
 そのアメリカ軍が硫黄島だけでそれまで出してきた8千人の4倍に近い2万8千人の死傷者を出し(硫黄島の戦闘を指揮したアメリカ軍指揮官は最初「ここの戦いは5日間、犠牲者(死傷者)1万5千人で攻略する」と宣言していた。)、ここ硫黄島だけは「生きて虜となる辱めを受けるよりは勇ましく戦死せよ」と謳った東条英機作の『戦陣訓』~「それは万世一系の天皇がそれを統帥するがゆえに皇軍はあらゆる戦いに必勝するのであり、それがためにあらゆる戦陣は守りとおされなければならず、退却や降伏はありえない」とするおおよそ非科学的な戦略戦術論というよりは宗教的道徳論でさえもない呪文だ~よりも更に苛酷な「刹那的な英雄妄想に酔って突撃して玉砕はしてはいけない。それよりもモグラのような穴倉生活をしても時折攻撃する気はあるんだとアピールすることで敵戦力を少しでも長く日本本土から離れた場所に引き止めておくのが君らの仕事だよ」といわれた『硫黄島戦陣訓』の教えを守って米軍を引き止めた日本軍2万1千人のうち2万人が“玉砕”で散華することさえ許されず地下壕で飢えと米軍の二正面作戦をみじめにしかも果敢に戦い抜いての一ヶ月39日の戦さの末に倒れたというその戦死者の多さのゆえに、しかし硫黄島の戦いの無残さはあるのではない。
 繰り返して強調するが、硫黄島はひとりの元・アメリカ兵のいう「この戦争を仕掛けた日本軍首脳の無見識とこのちっぽけで戦略的価値のない硫黄島での肉弾戦を企画したマッカーサーの個人的な復讐心がこの無意味な局地戦を起こした。ここで戦った日米合わせて10万人の兵士たちはともに全員が勇敢な兵士であり、ヒーローだった。日本アメリカ両方ともにその兵士たちは全員が英雄だった」という詩的で詠嘆的なコメント(この文の最後の一行は何とニミッツ提督その人の言葉だ)のゆえにこそ、硫黄島の戦いの無意味さと峻烈さ、そして人間の営み一般の持つ荘厳さはあるのである。
 
 テレビは元・日本兵と元・アメリカ兵たちの“何事も時がたてば美しくなる思い出”をそれぞれ別個に収録しその言葉はけっして交わることはない。日銭10億は取ると言われる大NHKのことだ。ここはひとつ、ふとっぱらなところを見せて、硫黄島日米両軍軍人共同同窓会を行ってほしかった、と思う。その時はじめて、61年という還暦に相当する歳月はそのサークルを完結させ、恩讐を超えた和解は実現し、61年続いた終わらざる戦争も完結し、このドキュメントも“意味あるものとして”成り立ちえたと思うのである。

 上記の試みは、最近の朝日新聞記事によればハワイでは実現しているというし、不肖このあおきひとしもかって三重県で個人レベルでその企画を実現させたガタルカナル生き残り兵士(戦後「毛糸の××××」社長となった某氏)を取材したことはある。だから、それは決して絵空事ではない、と思うのだが...。
 
 
 <この文章を書くにあたってはウィキペディアを参照、引用しました>

 

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中日ドラゴンズ優勝までM36!だぜぃ

2006-08-17 22:25:50 | プロ野球
 今日阪神が負けて、中日のマジックがひとつ減ってM36になった。つまり、
   試合 勝 負 引分 ゲーム差 残試合 マジック
中日  99  61 34   4         47   M36
阪神 106 57 46   3  8.0  40

なのである。

 いままで黙っていたのは、ひょっとすると去年みたく阪神に逆転される心配があったからなのだが、もう大丈夫。ということで、カミングアウトすることにした。おかあさん、あおきひとしは悪い子でした。お許しください。
 ええとだね、仮にだね
①阪神が残り40試合を勝率0.675のペースで27勝13敗したとしよう。
②中日が残り47試合を勝率0.489のペースで23勝24敗したとしよう。
何と、それでも中日は優勝してしまうのだよ。わっは。正義はあった。(´Д`)嗚呼栄冠は我がドラゴンズに輝くのだよ。
 うむ、ありえないことだが、阪神が勝率で0.666を上回り、中日が勝率で0.5を割っても、我がドラゴンズは優勝しちゃうのである。えっへん。嬉しいな、ランラン。
 
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捨て石、交わらない会話とドキュメントの不在~Nスペ『硫黄島玉砕戦~生還者61年目の証言』2/4

2006-08-16 15:38:15 | テレビ

 <承前>
 >②純粋に戦略上の判断を下すなら、硫黄島の日本軍が投降せずに、ひたすら陣地に籠ってゲリラ戦を繰り返したのは正しい戦法だったと思う。だって、彼らに負わされていたものは、「捨て石」に悲惨な運命が待ち受けているのは自明のこと。
 >③ただ疑問だったのは、物量に優る米軍が、どうしてあんなに犠牲を払うことになったんでしょうね。他に戦術はなかったんだろうか。

 うん、なるほど道理だ。米軍司令官が「五日間もあれば落ちる」と嘯いて豪語していた硫黄島の戦いはその8倍もの39日もの日時を必要としたのだからそも目論見はとんだ計算外れ。敵の軍事力をここ硫黄島にひきとられるだけひきとめて、米軍の日本本土攻撃をそれだけ遅らせることに成功たわけだから日本軍守備隊の戦闘の意図は充分に達成されたと言える。アメリカ軍8万人のうち死傷者2万8千人(内訳は戦死者6千800人+負傷者2万1千200人)>日本軍2万1千人のうち戦死者2万人(+捕虜千名)だから、「負傷者とは一時的に戦闘続行不可能になった者、戦死者とは永久的に戦闘続行不可能になった者」という前提に立てば、その戦闘続行不可能、つまり戦闘から脱落した兵士の数にしぼって計算すれば差し引き8千人日本の儲け?!=勝ち(まあ、かなりアクロバットのような論理ではありますが)とも言ってさしつかえない偉業でこれはあるわけで、硫黄島の戦いは局地戦としては日本軍大健闘といっても決してオーバーではない。サッカーで日本がブラジル相手に一点先取したのと同じ、“その瞬間に限って言えば、日本軍はアメリカ軍相手に消耗戦でポイントを上げた”のは事実であると認めよう。
 
 しかし、だれしもが感じるだろうこの空しさはいったいなんだろうか。
 
元・日本兵が「この戦いは無意味だった」と嘆き、元・アメリカ兵も「こんなバカげた戦争を企画した者どもが悪い。戦った日本兵たちは皆勇敢な(オナラブルな)兵士だったがね」というのは、この局地戦が両軍合わせて10万のうち半数にあたる4万8千人という異常な数の死傷者をもたらしながら、大局的には、「戦争終結を一ヶ月遅らせる(それに何の意味がある?!)というほどの効果しかなかったからである。
 そして硫黄島の素人日本兵たちが一人一殺(傷)以上の戦果をあげて死に物狂いの奮闘をして作り出した時間稼ぎの間に日本軍大本営の職業軍人のプロたちが寄って集ってもこの戦争を有利に転回(展開)させるための何事をも成し得なかった」からではないのか。
 
 硫黄島の戦闘を考察する場合、その戦略的価値は重要である。
 ところがこれが、当時も今も実のところ明確ではない。
 アメリカ軍の場合、一見明確に見える。というのは1944.10.7にアメリカの太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将は「デタッチメント作戦」を発表し、この作戦の目的を「日本に対する絶え間ない物量攻勢を維持」しつつ、「太平洋西部(沖縄方面)に対するアメリカ軍の占領地を拡大」することであるとした。そしてこの作戦の構想の主軸を「日本海軍および航空機の削減(それはこれからすぐ後の1944.10.23~25のマレー沖海戦~海軍はその戦力の1/3を失って壊滅、以降海軍は組織的抵抗はしていない~で実現する)ならびに日本本土の工業地帯攻撃」、「小笠原諸島の日本軍と航空機の破壊」、「硫黄島の攻略・占領及びその後の防御(空軍基地に発展させる計画)」においた。つまり、硫黄島に限定していえば、「ここを押さえて日本軍によるマリアナ諸島への攻撃を抑制し、日本本土攻撃の最前線とする」という恐ろしいほど手堅い(後述するように、日本軍のあまりにもパラノイア的なそれとは対照的に!)ものであった。その上で、アメリカ軍の硫黄島戦での戦闘の現地指揮官はこの戦いに「五日間、アメリカ側の犠牲(死傷者)1万5千人(アメリカ軍8万のうち約二割を失ってもやむなし、という軍事組織としてはその機能を保持し得るぎりぎりの数字、覚悟である。)で落とせる」という見通しを立てて臨んだのである。そしてこの数字は、これまでの経験に即していえば、妥当な日にちであり、犠牲に関して言えば過去のデータを大きく上回っていて、アメリカ軍のこの戦いに対する相当の覚悟がうかがわれる。
 ところが、硫黄島の日本軍はアメリカが想定した事態、つまりマリアナ諸島を攻撃するだけの航空機などは持ってはいなかった。また、日本を空爆するのには既に確保したグアム、サイパン、テニアンなどのマリアナ諸島から出撃するB29が充分ゆとりのある飛行距離能力を備えていた。そしてその体制は硫黄島を米軍が実質的に占領した1945.3.26以降、8月15日の終戦まで変わらなかった。日本本土空爆はマリアナ諸島からの出撃で充分であり、占領した硫黄島に空爆のための爆撃機基地を置くことは、日本本土からの航空機による襲撃がありうると考えてその危険性を避ける、という位にアメリカは慎重ではあった。
 「日本本土空爆そのものは硫黄島陥落以前から行われていたが、それまでは日本の航空機や、高射砲による攻撃を恐れて超高度からの爆撃しかなしえず、精度が低かった。そこで低空からの爆撃を可能にするためには、それを護衛する戦闘機の基地としての硫黄島(日本本土から800kmで、米軍航空機による往復が可能)は戦略的に重要だった」という意見もあるが、それは嘘だ。というのは、非戦闘員である民間人10万人を低空から(機銃掃射で個人を狙い撃ちさえしているのだ)虐殺した東京大空襲(それを指揮したカーチス・E・メイ将軍は「民間人は殺してはいない。日本の都会の民家は軍事物資を生産している軍事施設であり、それを私は破壊しただけだ」と言っている。昭和39年日本政府はその彼に「航空自衛隊の育成に寄与した」という名目で勲一等旭日大勲章を贈ってその栄誉を讃えたw)は硫黄島の戦闘の真っ最中(1945.3.10および25)に実現されているのだ。つまり硫黄島の制圧が日本本土低高度爆撃の必要不可欠の条件だった、という論理は破綻しているのだ。
 そして、日本軍による“自爆攻撃”、かの小泉首相も涙したという、神風特攻隊がこの硫黄島の戦闘から採用が始まった、というのも上記の記述を裏付ける哀しむべきエピソードである。戦闘機が爆弾をかかえて敵の空母等に体当たりするという、発案者であり指揮命令責任者とされる大西海軍中将でさえ“外道”(の戦法)と称したこの「生還を全く期さない戦法」は、アメリカ軍の戦闘機には可能でも、日本の航空機には本土ー硫黄島、あるいは硫黄島ーマリアナ諸島間の距離800kmを往復する能力がなかったという悲しむべき事実がその背景にはあった。つまり往復1600kmの航空能力を持たない日本の戦闘機は“片道切符”しか持てず、物理的に生還が不可能である以上、その能力の範囲で可能な最大限の有効的な効果である自爆という自殺的攻撃しかとりえなかったのである。この方法はアメリカ側からは一般には「クレイジー」ととらえられただけであったが、中にはスプルーアンス提督のように「合理的な戦法」だと評価するむきも中にはあったというのは皮肉である。

 では一方の日本側では硫黄島を戦略的にどう位置づけていたか。
 「硫黄島における戦闘には、本土からの陸海空からのあらゆる援軍は、台湾および周辺海域で予想される作戦のためにこれを温存する。そのために硫黄島における戦闘は勝利を目的とすることは不可能である。しかし、本土防衛の準備のために徹底抗戦して時間を稼ぐことを最終目的とする。」
 ということで、硫黄島の戦闘では極めて特殊な戦法が採られることになった。
 普通、上陸してくる敵に対しては、敵の戦力が船をおりて海中をボートないしは徒歩で上陸してくるところを集中して狙い撃ちにする“水際作戦”がもっとも有効である。上陸という作業のために敵兵の攻撃はなく、防備も手薄になる絶好のタイミングではあるのだが、その敵に集中砲火を浴びせるためには、迎え撃つ日本軍もまた敵の上陸地点の近くまで近寄っていかなければならない。ということは必然的に戦いは水際で双方の主戦力が遭遇する集団戦=決戦の形をとらざるを得ない。すると、敵に対する攻撃のダメージも大きいかわりに、敵の艦砲射撃による味方の被害もまた大きい、ということになる。これは、双方の兵力が互角の時には有効で、勝利の可能性も大きいのだが、硫黄島の戦闘は事情が違った。
 米軍8万と日本軍2万がまともにぶつかって勝てる見込みはない。(硫黄島守備隊司令部はスローガンとしては「一人十殺の気概を持って」と唱えていたが、お題目でしかない)まして装備は格段に違うわけだから、万にひとつの勝算もない、はじめから絶望的な戦いでこれはあった。そこで採られた作戦は、上陸したばかりの敵が攻撃する態勢を整える寸前に火器で攻撃してはすぐさま退却し、敵が追ってくればまた小規模の攻撃を加えて又退却する、というきわめて迂遠な作戦であった。何しろ敵が上陸してしまえば敵味方が入り乱れて、アメリカの艦砲射撃もできなくなるという寸法である。そうして、いよいよとなったら島中に張り巡らせていた全長18kmにおよぶ洞窟に籠もって個別に敵を迎え撃つという作戦である。戦闘の目的が勝利(それは不可能)ではなく、戦闘自体を長引かせることだけである以上、敵味方が面と面でぶつかる集団戦を避け、散発的に個と個がぶつかるという方法論は、敵に与える被害もすくないけれど、味方の被害も最小限に食い止められるわけで、理に適っているとはいえる。このようにして逃げ道もなく、援軍や補給の見込みもまったく期待できない中で、硫黄島の日本軍はこの孤立した持久戦をその戦力が文字通り100%戦闘不能=絶滅するまで、正規戦で2月16日から3月26日(この日日本軍硫黄島守備隊長栗林中将が残った司令部の僅か70名の兵とともに20数名のアメリカ兵を道づれに自殺的で自暴自棄の万歳突撃を敢行、文字通り“玉砕”した。これは“玉砕”を禁止して、戦力温存による戦闘の持続のみを自己目的化していた、自らが出した命令に背く、プロ軍人ゆえの自己撞着、悲劇ではある)までの39日間、ゲリラ戦では生き残った僅か800名の兵士たちが終戦を超えた8月いっぱいまで抵抗(というよりも実態は逃亡であるが)を続けた。
 それゆえにこの島を制圧した筈のアメリカ軍はジャングルや地下壕に潜む目に見えない敵の奇襲に怯えて備えた過敏な警戒態勢を解くことはできず、制圧した筈の硫黄島飛行場はその5ヶ月後の終戦までもろくすっぽ機能していない有様である。

 これでは何のための硫黄島戦闘だったのか
。グアム、サイパン、テニアン(原爆を搭載した爆撃機も警備が行き届いていたこの島から出撃している)で充分事足りるのであれば、そこと日本のちょうど中間点にある硫黄島は無視してよかったのだ。硫黄島を完全制圧して得られる日本を空爆するための飛行時間の短縮と、その「硫黄島を完全制圧」するために要したタイムロスとはたしてどちらが大きいのだろうか。
 さしあたってこの項での結論を言えば、日本本土爆撃拠点の確保という当初の目的からするならば、硫黄島の戦いは39日間もの正規戦を敢行し、穴倉の籠もっての消極的持久戦を繰り広げる日本兵とまともにつきあい、ジェノサイド(皆殺し)をして2万8千人の犠牲者を出してまで占拠したことに見合うだけの戦略的価値には乏しかった。

 

 <この項続く>
 

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捨て石、交わらない会話とドキュメントの不在~Nスペ『硫黄島玉砕戦~生還者61年目の証言』3/4

2006-08-16 15:18:38 | テレビ

 <承前>

 アメリカ軍にとってのヒストリカル・イフは、「硫黄島をスルーして日本本土攻撃をしていたならばアメリカの日本占領はもっと早くなり、ソビエト連邦軍が8月になってやっとベルリンから引き上げて満州から南下して中国、北朝鮮を赤化することはできなかったのではないか?」であろう。完全主義者のアメリカは文字通り硫黄島という日本が仕掛けた悪あがきである“捨て石”に正直にジカ対応、かかわずらっていたために、日本占領というカス石小利に甘んじて、中国、北朝鮮という大石大魚を逃したのではなかったか。(余談ながら、この時のアメリカ軍の行動は長篠の戦いに勝利しておきながら、同盟軍
家康や部下秀吉の進言を拒んで負けた武田軍の本拠を一挙に陥落しようしなかった臆病者織田信長に似ているw。信長とはそこまでの器であって、天下人たる意図も資格も全く無かった田舎大名だったらしいです。西部の田舎保安官を気取るアメリカにそっくりさんだね)

 先の項で紹介した②の大石氏のコメントに対する小生あおきひとしの疑問は、<硫黄島を「捨て石」とするという日本軍の戦略はそれ自体は判断としては正しい>ということは一面の真理として認めるにやぶさかではないが、それはあくまで硫黄島という「カッコ良く玉砕しようなんていう小乗的似非ヒロイズムに囚われず、ヒットエンドランというフェイントをかけながらも本質的にはカッコ悪く洞窟に閉じこもる長期ゲリラを選んで時間を稼ぐことだけを目的とする」局地戦戦術の先にある展望を大本営が戦略として実は持っていなかったのではないか、という根本的かつ基本的な疑問点にある。
 であるならば、硫黄島2万1千人のあえて“玉砕”の名誉も捨てて恥多く逃げまどいながら戦った民間人あがりのにわか兵士たちの奮戦も無駄な“捨て石”だった、ということになりはしないか。2万人という尊い犠牲者たちのかけがいのない命も無意味な“犬死”だった、ということではないのか。

 大石氏の指摘③「物量に優る米軍が、どうしてあんなに犠牲者を払うことになったんでしょうね」にもからむ解答はおそらくここにある。
 それはひとりの元・アメリカ軍兵士の証言「それまでの日本軍は昼間はジャングルに隠れているが夜になると一斉に“banzai-attack=万歳突撃”をかけてくる。で、我々は空に照明弾を打ち上げるのさ。すると、あたりは真昼間のようになる。こうなると、日本軍は“灯りに群がる昆虫”になって丸見えさ。それを排除するのは夏休みの宿題のように簡単であっけない作業だったのさ。ところが硫黄島は違った。彼らはモグラのように地中をめぐる巣穴を掘りめぐらし、そこから時々不意に顔を出してはすぐに穴に引っこもるやっかいな相手だったんだ。それはまさしくいつ終わるとも知れない“モグラ叩き”だったね。僕らは勝手が違い、次第に不機嫌になり、やがてイライラしてきて、泥沼のような消耗な戦いに引きずりこまれていったんだ。このゲームが勝敗はともかく日本軍のペースで進められていたことだけは確かだねw。だって我々は夏休みの8月になっても見えない敵の小規模でも変則的に間断なく続いている敵の奇襲に備えて24時間3交代の警戒態勢を解くことはなかったんだからね」
 この証言は片方が機関銃や火炎放射器などという当時最新のハイテクをおしげもなく使用し、もう一方は38銃と銃剣という19世紀の遺物を後生大事に拠り所にしていたという違いはあったにせよ、基本的には歩兵対歩兵といういわばマンツーマンの戦争であってみれば、それがマスとして面と向かって激突する“決戦”を採らず、個々が分散して気長に行う“ゲリラ戦”の形をとる以上は長期戦の様相を示すことは必然であることを意味している。
 そしてその理屈がただしかったことはは、後のベトナム戦争でも証明されている[戦の論理]といわねばなるまい。
 
 ということはこの集団的歩兵軍団による決戦が戦局の最後のクライマックスにやってくるという[戦の論理]とは古今東西共通のものであり、真理は普遍であるということか。
 それは現代のアメリカでも記憶の底、親から子へ伝わる遺伝子にもしっかりと組み込まれているらしく、最近のアメリカ映画でもこの歩兵信仰はしっかりと継承されていて血をうかがわせるに充分だし、湾岸戦争では椅子に座ってボタンを押すだけでいいという戦争映像キャンペーンを繰り広げて戦争という怪物をテレビゲームのレベルにまで降ろして大衆化せしめたあのアメリカも、9.11自爆テロという肉体を武器にした原始的な攻撃にはあんなにもうろたえてヒステリックで過剰なリアクションを起こしてしまい、[戦の論理]がもつ根強い潜在意識の手強さを世界中の人々に教えたのであった。

 そしてまたナポレオンが近代戦を開発して以来、兵器の進歩はあったにせよ軍事組織論はそこから先へは一歩も進んではいない。
 というより以前に孫武の『孫子』やクラウゼヴィッツの『戦争論』で既にこの問題に対する議論はもはや既に出尽くされている。それは、「戦争とは(国家同士が)異なったテーマを掲げて行う永遠に続く競争の一面でしかなく、個人やその集合体としての国家には死滅ということはありえても民族なるものは(ナチスがその威信をかけて行ったユダヤ人撲滅が無理だったように!)滅ぼすことは不可能な以上、戦争と平和は裏表の関係にあって続いていって永遠にやむことはない」という恐ろしい永劫回帰の地獄巡りの呪文のような感慨に集約される。(だから、徹底的勝利も壊滅的敗北もふたつながら共に無い。といよりあり得ない。それはいかなる英雄、いかなる強力な軍隊、いかなる強大な国家も永遠に戦に勝ち続け、栄えつづけることはできない歴史のリアリティの過酷さを身にしみて味わってきたヨーロッパ、と中国という多民族集団~そこではアレクサンダー大王やチンギス汗といった一代の英雄や、ローマ帝国、秦といった“千年王国”が勃興し、滅びていった~が長い歳月をかけて獲得してきた歴史認識、戦争観である。
 ヨーロッパが今、国家の壁を取り払い、民族という障壁を乗り越えてEUという共同体を結成し、中国が内に民族抗争を抱えながらも中国という共同体(中国という民族はなく、漢など多数の民族からなりたっている)でまとまっていられるのもその認識ゆえである。
 すると、大事なことは“その時々(そしてその場かぎりの)折り合いの付け方”だ、ということになってくる。とすると、これは個人的人生論ならぬ宗教的民族論のはてしなく深い森にふみこんでゆく始末なのだが...
 
 とするならば、アメリカにとって太平洋戦争そのものは、理不尽な奇襲を受けた“売られた喧嘩”であり、やむをえない義戦=防衛のための戦いではあったかもしれないが、硫黄島という個別の局面だけを単独で掬い取ってみると、これは面子にとらわれ大局を見失い“小を捨て大に就く”という囲碁十訣に逆らったまぬけで無意味な局地戦だったということになる。

 では、日本にとっての「硫黄島」は戦略的に見てどうだったのだろうか。

 ここで比較したいのは、関が原~大阪冬・夏の陣における真田一族の動き働きぶりである。
 関が原の戦いにおいて真田軍は手勢僅か2000を率いて信州上田場に数十日にわたって籠り、3万8000の勢力を率いた徳川軍の大将家康ジュニア(家康その人は東軍の総監督であり、秀忠こそが東軍の主戦力四番バッターの筈であった。これは西軍が総大将毛利輝元であり、石田光成は一武将かせいぜいチームリーダー程度でしかなかったという構図と対応する。つまり関が原の戦いとは豊臣秀頼政権下の家臣団同士の私闘という見方~まぁ、家康が書いた老獪な絵図だけどさ~があるのはそのためである!)を釘付けにして関が原に参加できなくして、関が原決戦における東軍対西軍の動員力差を3万8000-2000=3万6000人も縮めるという功績をはたした。
 これなどは決戦での戦力比を僅少差にするという総合戦略のための有効な局地戦で意味がある戦いであった。しかも真田昌幸-幸村親子は上田城の戦いを決戦回避のモグラ式ゲリラ戦にもちこんで、しかも引き分けにしたのだから、オールスターゲームなら敗軍チームで最も活躍した選手に与えられる栄誉=敢闘賞は確実である。だから、関が原~大阪冬・夏の陣にあって西方には暗愚な動きをする人物ばかりがめだつ中で真田一族は例外的に明るく颯爽とした印象を受けるのだろう。『真田十勇士』『真田風雲録』といったハナシになって俗受けするのももっともだという気がする。
 ところで関が原での局地戦上田城の攻防では果敢に戦った真田一族も、大阪夏の陣では壮烈な自爆を遂げるのであるが、それは義に殉じる戦国武士のヒロイズムということでまあどうということはない。
 ただ、それよりも我々が注目すべきは関が原の戦いの時に彼らが採った不可思議な行動である。というのは、真田一族のトップ真田昌幸は豊臣秀吉に受けた恩を返すためにはあえて優勢と分かっている家康と袂を分かって西軍に組するのであるが、その時次男幸村は手元においても、嫡男真田信幸つまり真田家の後継ぎを東軍つまり家康側に配したという事実である。このバクチでいう“両張り”、つまり一点買いで大儲けをするかスッテンテンになるかという一は八かのすっきりした勝負をするのではなく、昌幸はどっちが勝っても負けても一族そのものはなんとか生き延びるという一見見栄えはぱっとしないものの手堅い方法=決戦先延ばし論を選んだということである。豊臣秀吉の恩に報いてその義に殉じるという美名スローガンの裏にそっと忍ばせた薄汚い非情で怜悧な政治的計算配慮。

 日本民族は桜のようにパッと咲いてパッと散る潔い単純な民族だといわれるが、その反面にはこうした生き延びるための狡知をも同時に持ちあわせていたことは銘記しておきたい。
 実は、このやり口は真田一族の専売特許でもなんでもなく、下克上と言われた戦国時代といわずヤマトタケルノミコの時代から我が国ではごく普通の生き方であった。黒か白か、鴉か鷺か、源氏か平家かという色分けがはっきりしていて、それがたらい回しのように政権を交互に担当する時代からすでにその萌芽は兆しており、徳川時代の百姓一揆などでは有能な者ははっきりとその勢力を二分して優秀な血の根絶やしだけは避けるという苛酷ではあっても有効ではあるそのシステムは暗黙裡に継承されていた気配がある。それは犠牲者がでるのはやむを得ないとしてその時代が持つ固有の論理情理には殉じことはしても、それを意味のある局地戦、つまり囲碁でいう“捨て石”として認識し甘受するその一方で、集団総体を延命させる手立てとしてそれを有効裡に活用する悪魔の智恵、戦略がなくてはならない、ということだ。
 
 太平洋戦争が腹立たしいのは、最初から最後まで(ひょっとして、いやおそらく今日にいたるまでその状態は続いているのだろうが)トータルに日本民族のやり過ごし方を見据える戦略が全くなかった、というまさにその一点に尽きる。大石氏に対する疑問も文面それ自体はまあひとつの論理として納得できても最終的にはやはりそこの問題、疑問に着地するのだ。「本土決戦を遅らせる」という当座の戦術=局地戦=硫黄島の戦いのテーマは、最終的には戦争に勝つ算段があってはじめて論理として意味を持ち得る。しかし大本営にはそれがあったのか。いや、なかった。
 “侵略”とか“大東亜共栄圏自衛の戦い”とかはこの際おいておく。それは歴史の見方ではあってもあるアングルから絡め取ったつもりの一面的な見方でしかない。
 要は日本は明治維新で鎖国の長い眠りのなかで対中国、朝鮮外交などで細々と養ってきた国際交流の仕方を忘れ呆けてしまい、必死で西洋先進国のやり口を見よう見真似で学習して版図を拡げた、と。それで、日清、日露、第一次世界大戦と奇跡の三段跳びに成功した、と。この中では意外だが第一次世界大戦の旨みがいちばん大きい。日清、日露が戦闘の大勝利の割には結果が伴わなかったのに対し、第一次世界大戦では、主戦場がヨーロッパであるのをいいことに、チンタオだったかにポツンとあった戦争当事国のはるか彼方に放置されたドイツの極東拠点をあっさりと占領できたからだ。これで味をしめたニッポン帝国はヒットラー、ムッソリーニという二人のヨーロッパの不良が起こした欧州の内乱を奇貨として、「あの美味い汁をもう一度」と思ったにすぎない。それは火事場泥棒の手口であり、卑しくも一国の命運を賭ける国家戦略などではなかった。日清、日露のころはまだ可憐でつつましげだったかもしれない軍中央の頭脳だが、いつのまにやら変質していったとしか思えない。中国では第一次世界大戦をピークとする欧米諸国の緊張関係をいいことに朝鮮統合、満州国創出と夜郎自大を続けてきた驕りが、日支事変である。中国なんて一年もあれば占領できると考えた軍首脳の頭の中は壮大な野望という空虚、ガランドウになり果てていた。ノモンハン事件を“事件”と見くびった軍参謀の時代認識の欠如は合理的(功利的?)な国家戦略の全き放棄にほかならない。まして太平洋戦争などとは基地外の沙汰だ。タイミングが悪い。言葉は悪いが株の売り買いのようなもので、潮時というものがまるでわかっていない。始めるのならヨーロッパで内乱が始まって欧米があたふたとして騒乱状態になっていた頃に“買い”だし、止めるのはミッドウエィでよかった。そん時なら「悪うござんした。手合い違いでした。ごめなさい」とまだ言えた。(言えないか?だが、それをシラっと言うのが冷静な政治家=外交家のツトメではないのか)ドイツが降伏した時点で「悪い奴にそそのかされて間違いを犯しました。ヒットラーが悪いんです。二度と騙されません」というのも、マキャベリズムではよくあるタイミングのつかみ方、真面目一方の日本人にはそれができなかった。“国家一丸、国民総動員”は単なるスローガンではなかったと思う。つまり、ミソも糞もなくありていに言って、バカまるだしである。

 <この項続く>
 

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囲碁よろしくネットワークだよ~趙の凄み、NHK杯

2006-08-16 01:00:41 | 囲碁
 NHK杯2回戦 倉橋正行九段対趙治勲十段

 先日のクイズの答えは「257手まで黒番趙十段の4目半勝ちでした」でした。それにしても十段というタイトル名はいいね。碁を知らない人にもその人が強いことが一目でわかる良いネーミングだ。「倉橋九段対趙治勲十段」だから、ね。
 
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捨て石、交わらない会話とドキュメントの不在~Nスペ『硫黄島玉砕戦~生還者61年目の証言』1/4

2006-08-15 23:19:09 | テレビ

 >太平洋戦争の最激戦地となった硫黄島で何が起きていたのか。戦後61年目にして改めて歴史の光が当たろうとしている。
 >昭和20年2月から1か月の死闘の末、2万人の日本軍守備隊は援軍や補給を断たれて「玉砕」、その戦いは本土決戦へ向けて国民を鼓舞する象徴とされた。しかし兵士たちはどのように玉砕戦を戦い命を落としていったのか、これまでその詳細が語られることはほとんどなかった。負傷した結果、米軍の捕虜となり、奇跡の生還を遂げた元兵士たちもいたが、犠牲者への配慮から口をつぐんできたのだ。
 >今日、捕虜尋問記録をはじめ米軍資料やわずかに残る生還者の証言から浮かび上がった真実。それは、いわゆるバンザイ突撃のような玉砕ではなく、兵士一人ひとりが楯となり、米軍の占領を遅らせ皇国に寄与する、というすさまじい持久戦だった。命令系統は崩壊し、水も食料もないない中、兵士たちは降伏を拒み孤立した戦いを続けながら壮絶な死を遂げていったのである。
 >一方、死傷者2万8千人を出す史上最悪の戦闘となったアメリカでは衝撃を受け、空襲を中心とする「味方に犠牲を出さない戦争」へと傾斜を深めていくことになる。
 >日米双方の兵士の証言、人が住めない島になった硫黄島の現況、新発掘の資料を徹底取材し、近代戦争の転換点と言われる硫黄島の戦闘の真実を明らかにする。
 【NHKオンライン】番組内容の紹介NHKスペシャル「硫黄島玉砕戦~生還者61年目の証言」より

 >①米軍は最後には、海水とガソリンを一緒に洞窟に流し込んで火を点けるまでやったわけですね。それで投降しない日本兵を殺した。
 >②純粋に戦略上の判断を下すなら、硫黄島の日本軍が投降せずに、ひたすら陣地に籠ってゲリラ戦を繰り返したのは正しい戦法だったと思う。だって、彼らに負わされていたものは、「捨て石」に悲惨な運命が待ち受けているのは自明のこと。
 >③ただ疑問だったのは、物量に優る米軍が、どうしてあんなに犠牲を払うことになったんでしょうね。他に戦術はなかったんだろうか。
 >④あと、まだ一万柱の遺骨が眠っているそうなんですが、これは要するに、一万人の最後が分かっていないということですよね。洞窟は埋まっているしで。きちんと掘り起こして、慰霊してほしいですけれどね。

 ↑上記は大石英司氏のブログ『大石英司の代替空港』の2006.8.9のエントリーの14あるうちの一項目である。2006.8.7(月)NHK総合20:00~20:54OA分のNHKスペシャル『硫黄島玉砕戦~生還者61年目の証言』にたいするコメントである。

 この番組は太平洋戦争末期の1945年の2月から3月までの一ヶ月に起こった、20世紀戦争史上最も壮絶な消耗戦と言われた硫黄島の戦闘を(イ:生存者の証言と(ロ:現地の現在の実写と(ハ:最新発見された日米軍関係資料の三点から構成したドキュメンタリーである。
 上に引用したふたつの文章のうち、二番目の大石英司氏のレポートに即して言うなら、①は上記の三点セットではなく、当時のアメリカ側が撮影したニュースフィルムに映像化されて残っているので番組でもそれを使用している。カラーフィルムで記録された61年前の戦争が意外に悲惨な印象がないのは、そこには戦闘をしているアメリカ兵たちだけが写っていて「戦争」はしているのだが、それがなにやらのんびりと例えば焼畑農業のような“作業”をでもやっている印象を与えるのは、そこには敵である日本兵の姿が全くといっていいほどないからであろう。つまり敵である日本兵は硫黄島内に18kmもの長さにわたって無数に張り巡らされた洞窟に潜んでいるので見えず、その洞窟の無数にある入り口からアメリカ兵たちが銃弾をぶち込み、手榴弾を投棄し、それでも敵は洞窟の奥深く退却し、夜になるとポツポツと穴倉から這い上がってきて散発的な攻撃をするといったいたちごっこの繰り返しであまり効果がないというのでしまいには大漁の海水を流し込み、その上に撒かれたガソリンに火をつけて敵を炙り出すという手段まで繰り出して日本軍を掃討したという。それでも地下道は元々自然にあった洞窟をもとに後から人為的に掘り拡げられたものであるから地下の奥、あるいは海中にまで漏れ繋がっているのかこの作戦も決して完全無欠というわけにいかない、しんどい戦いであったらしい。視聴者はこのアメリカ側からの<61年前の時事ワールドニュース>に加え、前年の昭和19年に製作された30~40代の一級の兵隊としてはとうてい使い物にはならないロートルと16、17歳の少年で構成される(つまり18歳~20代という活きのいい職業軍人にふさわしい年代が昭和19年当時の日本にはもう払拭していたということだね。
)最近召集されたばかりの頼りなげな新兵さんたちが<おぼつかない手取り足取りながらも勇ましくお国のためにかいがいしく戦争準備をしている日本ニュース社~おお、懐かしい!~製のモノクロ戦意高揚ドキュメント>を重ね、最後にさりげなくそれこそ物理的に砕け散ってモノと化した元・日本兵らしき物体の破片を数葉モンタージュさせることによって、やっと硫黄島での戦闘というものをなんとなく実感できる仕組みになっている。なんとなく?そうなのである、このカラーフィルム+モノクロフィルム+モノクロ写真という三題噺めいた三段論法は、その単純で明確でそれゆえにこそなにやら空疎な映像物語として成立していて、我々にあっけからんとした印象をしか与えない。それは「アメリカ軍は強かった」+「日本兵は無知で無防備で無能だった」=「勝敗なんて初めからわかっていた」という単純なチャート式図式として提示され、そこからは日本兵の(そしておそらくふんだんに貸与された近代兵器によって手厚く装備されていたアメリカ兵でさえもが)味わっただろう近代戦がもつ圧倒的に機械化された軍事機能なるものに対してそれを扱うにはあまりにも立ち遅れた生身の人間である兵士たちの劣性ゆえに起きる<ヒトが機会を使うのではなく、機械がヒトを支配する>人間ドラマの残酷さ悲惨さは見事なまでに隠蔽されている、と言ったら言い過ぎであろうか。このドキュメンタリー番組は硫黄島の戦いという“両軍あわせて10万の兵士たちのうち半数が死傷するという近代戦闘史上最悪の戦い”を扱っていながら、悪意はないのだろうが“報道の中立性”という概念にこだわりすぎた結果であろう、その表面を通りいっぺんになぞるだけで、生々しいその内実にはあえて深く踏み込むのを避けているように思えてならない。そしてそうすることで、このきわめて特殊だった戦闘の持つ意味をはぐらかしているか、あるいはせいぜい暗喩、分かる人には分かるだろうという地点にとどまっているように思えてならない。本来ここで描くべきは硫黄島の戦いに命をかけてかかわった日米10万の兵士たちの想念と、それをまとまりのある思弁に昇華することであるはずなのに、それがなされてはいない。61年も前の人間がもったであろう感情なんて一時のセンチメント、一過性の感傷ですよとでもいうのだろうか、日米10万人の戦士たちの感じた悲哀はここでは見事に“蒸発”している。映像は過去の映像資料ということで淡々として事実を綴っていく。淡々と。「人間は生まれて、生きて、死ぬ。その単純な繰り返し積み重ねだけが人類の歴史の全てなんですね。この世にもあの世にも神はいない以上、人間たちの営みにはこれっぽちの意味もないのです」、とでも言いたげに。そうなんだろうか?それですまされてはたしてほんとうによいのだろうか、というのがわたしが感じる疑問である。

 <この項続く>
 

 

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囲碁よろしくネットワークだよ~ゼニの取れる碁、NHK杯二回戦

2006-08-14 01:17:45 | 囲碁

 NHK杯2回戦 倉橋正行九段対趙治勲十段

 NHK杯も2回戦ともなるとさすがに充実した対局になってきて、アマチュアが見ていてもしっかりと楽しめる碁になってくるのは気のせいだろうか。いや、趙治勲十段はレッキとしたタイトルホルダーだし、対する倉橋正行九段だってランク入りこそしていないが、父が倉橋正蔵八段、母が故・初代本因坊関山利一の二女で、従兄弟が関山利道九段といういわば関西棋院きっての名門の生まれ御曹司、おまけに最初の(?)師匠がなんとあの破天荒プロ藤沢秀行名誉棋聖ときたからひー、ふう、みぃ、よんときて4ファンでほうら満貫ときたもんだ、どうだまいったかとくらぁはし。
 それに何と言っても解説が解説名人の石田芳夫九段とくればこれはもうゼニの取れる碁であることはまちがいなし、というもの。さぁ、お立会い。

 ところでハナシの腰を折ってすまないがお兄さん、実は今日というか昨日はは親戚が帰郷してきたり、12450文字という四百字詰め原稿用紙にして32枚という↓下記大作論文の下書き(8月15日というきりのいい日を選んでに清書して、<わたいご(ブログ)選手権(コンテスト)>に応募するつもり)をアップしたりして忙しかったので、NHK杯はさっき録画をチェックしたばかり、棋譜はつけたもののコメントを書き込めるほどには精査研究ができてはいないのだ、ごめんなさい。
 とゆことで、このエントリーも実は仮の宿、安普請のつまりは作りかけ。なもんで明日にでも清書するつもりです。
 なもんでそれまでのつなぎにクイズを出題。
 では問題です。この棋譜は273手まで書いてありますがこれはダメ詰めで、相手が二手連打すると切れるところを用心して先んじて入念な手入れをしたものでふつうに打てば不必要な有効打とは言えません。では、番組の最後に読み上げ係の女性棋士が「この碁は×××手までで黒番趙治勲十段の4目半勝ちです」言った×××手とは何手でしょうか?
 ヒント:第270手目は周囲のダメが詰まると始めて必要になる手入れであってそれは勝負に関係する有効打ではなく、正解はそれよりも前にあります。
 正解者には、そうだなぁ、このタイゼム(=関西棋院ネット碁)2dの実力で、世間のナマ碁では“三段扇子”の異名をとるが、おっとどっこい伝統ある日本棋院所属の小杉清元・八段にはれっきとした大会で6段に認定推薦されたあおきひとしセンセイにもわからなかったことからして、ん~と、そうだ、正解者は日本棋院五段格のお墨つきをプレゼントしようじゃないのw
 

 

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捨て石、交わらない会話とドキュメントの不在~Nスペ『硫黄島玉砕戦~生還者61年目の証言』2/3

2006-08-13 11:00:02 | テレビ

 <承前>
 >②純粋に戦略上の判断を下すなら、硫黄島の日本軍が投降せずに、ひたすら陣地に籠ってゲリラ戦を繰り返したのは正しい戦法だったと思う。だって、彼らに負わされていたものは、「捨て石」に悲惨な運命が待ち受けているのは自明のこと。
 >③ただ疑問だったのは、物量に優る米軍が、どうしてあんなに犠牲を払うことになったんでしょうね。他に戦術はなかったんだろうか。

 うん、なるほど道理だ。米軍司令官が「五日間もあれば落ちる」と嘯いて豪語していた硫黄島の戦いはその6倍もの一月30日もの日時を必要としたのだからそも目論見はとんだ計算外れ。敵の軍事力をここ硫黄島にひきとられるだけひきとめて、米軍の日本本土攻撃をそれだけ遅らせることに成功たわけだから日本軍守備隊の戦闘の意図は充分に達成されたと言える。アメリカ軍8万人のうち死傷者2万8千人(内訳は戦死者6千800人+負傷者2万1千200人)>日本軍2万1千人のうち戦死者2万人だから、「負傷者とは一時的に戦闘続行不可能になった者、戦死者とは永久的に戦闘続行不可能になった者」という前提に立てば、その戦闘続行不可能、つまり戦闘から脱落した兵士の数にしぼって計算すれば差し引き8千人日本の儲け?!=勝ち(まあ、かなりアクロバットのような論理ではありますが)とも言ってさしつかえない偉業でこれはあるわけで、硫黄島の戦いは局地戦としては日本軍大健闘といっても決してオーバーではない。サッカーで日本がブラジル相手に一点先取したのと同じ、“その瞬間に限って言えば、日本軍はアメリカ軍相手に消耗戦でポイントを上げた”のは事実であると認めよう。
 しかし、だれしもが感じるだろうこの空しさはなんだろうか。元・日本兵が「無意味だった」と嘆き、元・アメリカ兵も「こんなバカげた戦争を企画した者どもが悪い。戦った日本兵たちは皆勇敢な(オナラブルな)兵士だったがね」というのは、この局地戦が両軍合わせて10万のうち半数にあたる4万8千人という異常な数の死傷者をもたらしながら、大局的には、「戦争終結を一ヶ月遅らせるだけの効果しかなかった。そして硫黄島の素人日本兵たちが一人一殺(傷)以上の戦果をあげて死に物狂いの奮闘をして作り出した時間稼ぎの間に日本軍大本営の職業軍人のプロたちが寄って集ってもこの戦争を有利に転回(展開)させるための何事をも成し得なかった」からではないのか。
 日本を空爆するのには既に確保したグアム、サイパンから出撃するB29が充分ゆとりのある飛行距離能力を備えていた。一方硫黄島での日本軍の組織的な抵抗は3月17日のこぐごく一握りの職業軍人たちによるヒステリックでひとりよがりでその上何よりもいけないのは「さっさと潔く玉砕してはいけない。みじめったらしく逃げて逃げて逃げまくって、時々は思い出したように小規模な反撃のカッコ付けをやって敵を神経質にさせて敵をこの島に釘付けにしておくのがこの戦いのテーマだ」だと言っていた自らの言葉を自分から裏切って、カッコ良く文字通りバンザイ突撃、玉砕してしまったことで終了した。しかし、その玉砕禁止=徹底抗戦命令に縛られた民間人で彼らの忠実な部下であった兵士たちは何と終戦2ヶ月前の6月になっても625の戦死者を出すという、言葉通りの永久抗戦を敢行しているのだ。おかげでこの島を制圧した筈のアメリカ軍はジャングルや地下壕に潜む目に見えない敵の奇襲に怯えて備えた過敏な警戒態勢を解くことはできず、制圧した筈の硫黄島飛行場はその二ヶ月後の終戦までもろくすっぽ機能していない有様である。これでは何のための硫黄島戦闘だったのか
。グアム、サイパン、テニアン(原爆を搭載した爆撃機も警備が行き届いたこの島から出撃している)で充分事足りるのであれば、そこと日本のちょうど中間点にある硫黄島は無視してよかったのだ。硫黄島を完全制圧して得られる日本を空爆するための飛行時間の短縮と、その「硫黄島を完全制圧」するために要したタイムロスとはたしてどちらが大きいのだろうか。
 アメリカ軍にとってのヒストリカル・イフは、「硫黄島をスルーして日本本土攻撃をしていたならばアメリカの日本占領はもっと早くなり、ソビエト連邦軍が8月になってやっとベルリンから引き上げて満州から南下して中国、北朝鮮を赤化することはできなかったのではないか?」であろう。完全主義者のアメリカは文字通り硫黄島という日本が仕掛けた悪あがきである“捨て石”に正直にジカ対応、かかわずらっていたために、日本占領というカス石小利に甘んじて、中国、北朝鮮という大石大魚を逃したのではなかったか。(余談ながら、この時のアメリカ軍の行動は長篠の戦いに勝利しておきながら、同盟軍
家康や部下秀吉の進言を拒んで負けた武田軍の本拠を一挙に陥落しようしなかった臆病者織田信長に似ているw。信長とはそこまでの器であって、天下人たる意図も資格も全く無かった田舎大名だったらしいです。西部の田舎保安官を気取るアメリカにそっくりさんだね)
 上記②の大石氏のコメントに対する小生あおきひとしの疑問は、<硫黄島を「捨て石」とするという日本軍の戦略はそれ自体は判断としては正しい>ということは一面の真理として認めるにやぶさかではないが、それはあくまで硫黄島という「カッコ良く玉砕しようなんていう小乗的似非ヒロイズムに囚われず、ヒットエンドランというフェイントをかけながらも本質的にはカッコ悪く洞窟に閉じこもる長期ゲリラを選んで時間を稼ぐことだけを目的とする」局地戦戦術の先にある展望を大本営が戦略として実は持っていなかったのではないか、という根本的かつ基本的な疑問点にある。であるならば、硫黄島2万1千人のあえて玉砕の名誉も捨てて恥多く逃げまどいながら戦った奮戦も無駄な“捨て石”だった。2万人という尊い犠牲者たちのかけがいのない命も無意味な“犬死”だった、ということではないのか。
 大石氏の指摘③「物量に優る米軍が、どうしてあんなに犠牲者を払うことになったんでしょうね」にもからむ解答はおそらくここにある。それはひとりの元・アメリカ軍兵士の言葉「それまでの日本軍は昼間はジャングルに隠れているが夜になると一斉に“banzai-attack=万歳突撃”をかけてくる。で、我々は空に照明弾を打ち上げるのさ。すると、あたりは真昼間のようになる。こうなると、日本軍は“灯りに群がる昆虫”になって丸見えさ。それを排除するのは夏休みの宿題のように簡単であっけない作業だったのさ。ところが硫黄島は違った。彼らはモグラのように地中をめぐる巣穴を掘りめぐらし、そこから時々不意に顔を出してはすぐに穴に引っこもるやっかいな相手だったんだ。それはまさしくいつ終わるとも知れない“モグラ叩き”だったね。僕らは勝手が違い、次第に不機嫌になり、やがてイライラしてきて、泥沼のような消耗な戦いに引きずりこまれていったんだ。このゲームが勝敗はともかく日本軍のペースで進められていたことだけは確かだねwっだって我々は夏休みの8月になっても見えない敵の小規模でも変則的に間断なく続いている敵の奇襲に備えて24時間3交代の警戒態勢を解くことはなかったんだからね」この証言は片方が機関銃や火炎放射器などという当時最新のハイテクをおしげもなく使用し、もう一方は38銃と銃剣という19世紀の遺物を後生大事に拠り所にしていたという違いはあったにせよ、基本的には歩兵対歩兵といういわばマンツーマンの戦争であってみれば、それがマスとして面と向かって激突する“決戦”を採らず、個々が分散して気長に行う“ゲリラ戦”の形をとる以上は長期戦の様相を示すことは必然であるのは、後のベトナム戦争でも証明されている[戦の論理]といわねばなるまい。
 ということはこの集団的歩兵軍団による決戦が戦局の最後のクライマックスにやってくるという[戦の論理]とは古今東西共通のものであり、真理は普遍であるということか。それは現代のアメリカでも記憶の底、親から子へ伝わる遺伝子にもしっかりと組み込まれているらしく、最近のアメリカ映画でもこの歩兵信仰はしっかりと継承されていて血をうかがわせるに充分だし、湾岸戦争では椅子に座ってボタンを押すだけでいいという戦争映像キャンペーンを繰り広げて戦争という怪物をテレビゲームのレベルにまで降ろして大衆化せしめたあのアメリカも、9.11自爆テロという肉体を武器にした原始的な攻撃にはあんなにもうろたえてヒステリックで過剰なリアクションを起こしてしまい、[戦の論理]がもつ根強い潜在意識の手強さを世界中の人々に教えたのであった。そしてまたナポレオンが近代戦を開発して以来、兵器の進歩はあったにせよ軍事組織論はそこから先へは一歩も進んではいない。というより以前に孫武の『孫子』やクラウゼヴィッツの『戦争論』で既にこの問題に対する議論はもはや既に出尽くされている。それは、「戦争とは(国家同士が)異なったテーマを掲げて行う永遠に続く競争の一面でしかなく、個人やその集合体としての国家には死滅ということはありえても民族なるものは(ナチスがその威信をかけて行ったユダヤ人撲滅が無理だったように!)滅ぼすことは不可能な以上、戦争と平和は裏表の関係にあって続いていって永遠にやむことはない」という恐ろしい永劫回帰の地獄巡りの呪文のような感慨に集約される。(だから、徹底的勝利も壊滅的敗北もふたつながら共に無い。といよりあり得ない。すると、大事なことは“その時々の、そしてその場かぎりの折り合いの付け方”だ、と続く、これは個人的人生論ならぬ宗教的民族論の深い森にふみこんでゆくのだが...)
 とするならば、アメリカにとって太平洋戦争そのものは、理不尽な奇襲を受けた“売られた喧嘩”であり、やむをえない義戦=防衛のための戦いではあったかもしれないが、「硫黄島」は面子にとらわれ大局を見失い“小を捨て大に就く”という囲碁十訣に逆らったまぬけで無意味な局地戦だったということになる。
 

     貪不得勝                     貪れば勝ちを得ず
  入界宣緩   界に入りてはよろしく緩なるべし  
  攻彼顧我   彼を攻めるには我を顧みよ  
  棄子争先   子を棄てて先を争え  
  捨小就大   小を捨てて大に就け  
  逢危復棄   危うきにあえばすべからく棄つべし  
  慎勿軽速   慎んで軽速なるなかれ  
  動復相応   動けばすべからく会応ずべし  
彼強自保 彼強ければ自ら保て
勢孤取和 勢い狐なれば和を取れ
では、日本にとっての「硫黄島」は戦略的に見てどうだったのだろうか。
 ここで比較したいのは、関が原~大阪冬・夏の陣における真田一族の動き働きぶりである。関が原の戦いにおいて真田軍は手勢僅か2000を率いて信州上田場に数十日にわたって籠り、3万8000の勢力を率いた徳川軍の大将家康ジュニア(家康その人は東軍の総監督であり、秀忠こそが東軍の主戦力四番バッターの筈であった。これは西軍が総大将毛利輝元であり、石田光成は一武将かせいぜいチームリーダー程度でしかなかったという構図と対応する。つまり関が原の戦いとは豊臣秀頼政権下の家臣団同士の私闘という見方~まぁ、家康が書いた老獪な絵図だけどさ~があるのはそのためである!)を釘付けにして関が原に参加できなくして、関が原決戦における東軍対西軍の動員力差を3万8000-2000=3万6000人も縮めるという功績をはたした。これなどは決戦での戦力比を僅少差にするという総合戦略のための有効な局地戦で意味がある戦いであった。しかも真田昌幸-幸村親子は上田城の戦いを決戦回避のモグラ式ゲリラ戦にもちこんで、しかも引き分けにしたのだから、オールスターゲームなら敗軍チームで最も活躍した選手に与えられる栄誉=敢闘賞は確実である。だから、関が原~大阪冬・夏の陣にあって西方には暗愚な動きをする人物ばかりがめだつ中で真田一族は例外的に明るく颯爽とした印象を受けるのだろう。『真田十勇士』『真田風雲録』といったハナシになって俗受けするのももっともだという気がする。ところで関が原での局地戦上田城の攻防では果敢に戦った真田一族も、大阪夏の陣では壮烈な自爆を遂げるのであるが、それは義に殉じる戦国武士のヒロイズムということでまあどうということはない。ただ、それよりも我々が注目すべきは関が原の戦いの時に彼らが採った不可思議な行動である。というのは、真田一族のトップ真田昌幸は豊臣秀吉に受けた恩を返すためにはあえて優勢と分かっている家康と袂を分かって西軍に組するのであるが、その時次男幸村は手元においても、嫡男真田信幸つまり真田家の後継ぎを東軍つまり家康側に配したという事実である。このバクチでいう“両張り”、つまり一点買いで大儲けをするかスッテンテンになるかという一は八かのすっきりした勝負をするのではなく、昌幸はどっちが勝っても負けても一族そのものはなんとか生き延びるという一見見栄えはぱっとしないものの手堅い方法=決戦先延ばし論を選んだということである。豊臣秀吉の恩に報いてその義に殉じるという美名スローガンの裏にそっと忍ばせた薄汚い非情で怜悧な政治的計算配慮。
日本民族は桜のようにパッと咲いてパッと散る潔い単純な民族だといわれるが、その反面にはこうした生き延びるための狡知をも同時に持ちあわせていたことは銘記しておきたい。実は、このやり口は真田一族の専売特許でもなんでもなく、下克上と言われた戦国時代といわずヤマトタケルノミコの時代から我が国ではごく普通の生き方であった。黒か白か、鴉か鷺か、源氏か平家かという色分けがはっきりしていて、それがたらい回しのように政権を交互に担当する時代からすでにその萌芽は兆しており、徳川時代の百姓一揆などでは有能な者ははっきりとその勢力を二分して優秀な血の根絶やしだけは避けるという苛酷ではあっても有効ではあるそのシステムは暗黙裡に継承されていた気配がある。それは犠牲者がでるのはやむを得ないとしてその時代が持つ固有の論理情理には殉じことはしても、それを意味のある局地戦、つまり囲碁でいう“捨て石”として認識し甘受するその一方で、集団総体を延命させる手立てとしてそれを有効裡に活用する悪魔の智恵、戦略がなくてはならない、ということだ。
 太平洋戦争が腹立たしいのは、最初から最後まで(ひょっとして、いやおそらく今日にいたるまでその状態は続いているのだろうが)トータルに日本民族のやり過ごし方を見据える戦略が全くなかった、というまさにその一点に尽きる。大石氏に対する疑問も文面それ自体はまあひとつの論理として納得できても最終的にはやはりそこの問題、疑問に着地するのだ。「本土決戦を遅らせる」という当座の戦術=局地戦=硫黄島の戦いのテーマは、最終的には戦争に勝つ算段があってはじめて論理として意味を持ち得る。しかし大本営にはそれがあったのか。いや、なかった。
 “侵略”とか“大東亜共栄圏自衛の戦い”とかはこの際おいておく。それは歴史の見方ではあってもあるアングルから絡め取ったつもりの一面的な見方でしかない。要は日本は明治維新で鎖国の長い眠りのなかで対中国、朝鮮外交などで細々と養ってきた国際交流の仕方を忘れ呆けてしまい、必死で西洋先進国のやり口を見よう見真似で学習して版図を拡げた、と。それで、日清、日露、第一次世界大戦と奇跡の三段跳びに成功した、と。この中では意外だが第一次世界大戦の旨みがいちばん大きい。日清、日露が戦闘の大勝利の割には結果が伴わなかったのに対し、第一次世界大戦では、主戦場がヨーロッパであるのをいいことに、チンタオだったかにポツンとあった戦争当事国のはるか彼方に放置されたドイツの極東拠点をあっさりと占領できたからだ。これで味をしめたニッポン帝国はヒットラー、ムッソリーニという二人のヨーロッパの不良が起こした欧州の内乱を奇貨として、「あの美味い汁をもう一度」と思ったにすぎない。それは火事場泥棒の手口であり、卑しくも一国の命運を賭ける国家戦略などではなかった。日清、日露のころはまだ可憐でつつましげだったかもしれない軍中央の頭脳だが、いつのまにやら変質していったとしか思えない。中国では第一次世界大戦をピークとする欧米諸国の緊張関係をいいことに朝鮮統合、満州国創出と夜郎自大を続けてきた驕りが、日支事変である。中国なんて一年もあれば占領できると考えた軍首脳の頭の中は壮大な野望という空虚、ガランドウになり果てていた。ノモンハン事件を“事件”と見くびった軍参謀の時代認識の欠如は合理的(功利的?)な国家戦略の全き放棄にほかならない。まして太平洋戦争などとは基地外の沙汰だ。タイミングが悪い。言葉は悪いが株の売り買いのようなもので、潮時というものがまるでわかっていない。始めるのならヨーロッパで内乱が始まって欧米があたふたとして騒乱状態になっていた頃に“買い”だし、止めるのはミッドウエィでよかった。そん時なら「悪うござんした。手合い違いでした。ごめなさい」とまだ言えた。(言えないか?だが、それをシラっと言うのが冷静な政治家=外交家のツトメではないのか)ドイツが降伏した時点で「悪い奴にそそのかされて間違いを犯しました。ヒットラーが悪いんです。二度と騙されません」というのも、マキャベリズムではよくあるタイミングのつかみ方、真面目一方の日本人にはそれができなかった。“国家一丸、国民総動員”は単なるスローガンではなかったと思う。つまり、ミソも糞もなくありていに言って、バカまるだしである。

 <この項続く>
 

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