◎11月の倫勝寺 行持日程
坐 禅 会 (於 本 堂)
10日(日)暁天 朝7時より8時
26日(火)夜坐 夜7時より9時
※都合により夜坐は1回になります
写 経 会 (於二階和室)
29日(金)午前10時開席・午後2時読経
※都合により第5金曜日に開催いたします
倫勝寺住職 馬場義実 合掌
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先日、地区の曹洞宗宗務所による人権研修が行われ、現地学習に参加してきました。
今回の学習会は、港北区日吉にある連合艦隊司令部日吉台地下壕の見学です。
横浜にある戦争遺跡から今の日本を考える、という視点でしょうか、非常に有意義な学習となりました。
慶応義塾日吉校舎の敷地内にある戦争遺跡。
旗艦・大淀にあった連合艦隊司令部が、その大淀さえ戦力として用いなければならなくなったほど戦艦が激減し、
ついには陸上から戦闘指揮を行うため、1944年3月、司令部が日吉に移ってきたのでした。
慶応大学予科(現高等学校)校舎には軍令部第三部(情報部)、そして寄宿舎には連合艦隊司令部がはいり、
そのほかキャンパス内のチャペルも軍用施設として使用したそうです。
巨大な地下壕はサイパン島の陥落1週間後、7月15日に造営がはじまりました。
サイパンからの日本本土攻撃が可能になったことから、本土決戦に向けて特急工事がおこなわれたようです。
慶応日吉キャンパス側の連合艦隊司令部地下壕は延長2600メートル。
使用されることは無かったものの、東横線をはさんで大聖院地下につくられた海軍省艦政本部壕は2400メートル。
総延長5000メートルもの大地下壕が超突貫工事で作られました。
追いつめられた軍関係者の焦りが感じられるようです。
連合艦隊司令部の壕に入ります。
慶応高校の裏手の山裾、テニスコート脇の壕の入り口をくぐると下り坂になっていて、その先にはコンクリートや石で出来たトンネルが長く続いています。
型枠に使った木材の木目が残る壕の壁。戦争末期に作ったとは思えないような、丁寧なそして頑丈な作りです。
ひんやりとした空気、高い湿度。
懐中電灯に照らされた薄暗い壕の中には、電源室や食糧庫、水洗トイレ、そして蛍光灯が設置してあった跡がみられます。
残念なことに、終戦とともにほとんどの書類や資料が廃棄されたそうで、当時の詳しい様子を知る手だてはありません。
この壕内でどんな戦略が練られ、実行されていったのでしょうか。
聞き取り調査で、すこしずついろんなことが判ってきたそうです。
大和が沈没してゆくさまを泣きながら無線で聞いた通信兵も、ここにいました。
神風特攻隊が無線のボタンを押しながら敵艦に突っ込んでいった、最期の交信も、ここで傍受されました。
この狭く長く伸びた壕の中では、いったい何があったのでしょうか。
怒号が飛び交った事があったかもしれません。
絶望という重い闇に心が塞がれ、言葉を失った瞬間があったかもしれません。
人知れず鎮魂の祈りをささげた兵がいたかもしれません。
罪悪感にさいなまされた将校がいたかもしれません。
生きるということへの希望を失わず、日本の再生を信じて疑わなかった人も、きっとこの壕の中にはいたはずです。
日本がなぜアジア、太平洋地域でのあの戦争に関わらざるを得なかったのか。
新しい資料の発掘や最近の研究で、私たち世代が学んできた近・現代史と違った視点がかなり増えてきました。
近隣諸国との関係もしかり。
今も世界のあちこちで続く戦争の犠牲者や、民間、軍を問わずいまの日本の礎となられた多くの方々の慰霊のためにも、日吉台の戦争遺跡から学ぶことはたくさんありそうです。
今回の日吉台連合艦隊司令部地下壕での人権学習の様子はkamenoさんのブログに詳しく出ています。
また、日吉台地下壕保存の会のHPはこちらから。
今回の研修企画を立てて下さった宗務所の皆さま、ご案内下さった保存の会の皆さま、ありがとうございました。
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重い記事のあとは、境内のお花をどうぞ。ちょっと前(19日)に写した花ですが、芙蓉はまだ咲き残っているようです。
今日明日の台風27号の雨で、どうなるかなあ・・・
四季の花々をなにも気にすることなく愛でることのできる幸せを、わたしたちは有り難いことと思っているでしょうか?
今日はここまで。
大切にします。
お忙しいところ申し訳ありませんでした。
気になっていたお墓参りもできてよかったです。