こんな風に思ってもらえてヨンハは幸せ者だなぁ。
でも、せつなすぎて涙がでます…
言葉にできないです…
@DJtaba: パク・ヨンハ氏の写真集が復刊します。
来週号では、その紹介を。
亡くなるまでの1週間、ファンのことを思っていた彼の気持ちを。
明日の韓流10周年イベントは記者枠が1名なので
取材記者優先で田原は参加しません。
今思っているのはこの10年、
最大の功労者の一人だったパク・ヨンハ氏がいないこと。
K-POPの若手を育成し元気づけた功績が
今一番いきている、輝いていると思うんです。
パク・ヨンハ氏が亡くなった2週間後に
当時のWeb編集後記で書いていた文章です。
「先日、急逝されたパク・ヨンハさんの担当を足かけ5年に渡ってやっていました。
最初の取材は中目黒周辺の下町を歩きながら撮影する企画で、
日本サイドのスタッフからは猛反対。
最終的にはボディガードを5人つけることで納得。
パク・ヨンハさんは大喜びで、
初めて一般の日本人と触れ合う機会を心の底から楽しんでいました。
数々の思い出がありますが、
印象的だったのは、最後の来日になった'10年5月9日のインタビューの時。
取材が終わり機材を片づけていると、
突然パク・ヨンハさんが
「写真を一緒にとりましょうよ」と言ってくれたのです。
ところが、機材はすべてかたずけられていたし、
次の取材陣が待機していたので丁重に断ると
「では、日本ツアーの取材に来てください。
でなければ、ソウルで。必ずですよ」と言ってくれました。
結局はかなわぬ夢になってしまいましたが、
そんなことを言ってくれたのは初めてのこと。
でも思えば、もし写真を撮っていたら悲しみがもっと強くなっていたでしょう。
……パク・ヨンハ氏の写真集を2週間で制作し緊急出版。
数々の思い出の詰まった仕事。
初めて友情を感じた韓流スターだったのです
パク・ヨンハ氏の献花式に参加語の編集後記です。
「7月18日、全国的に梅雨明けが宣言され、
会場の東京国際フォーラムも午前中とはおもえない強い日差しの中、
すでに気温も35度を超えていました。
当日のマスコミの集合は10時30分でしたが、
友人を亡くしたような感覚に足が速まり、会場に着いたのは9時30分でした。
すでに、東京国際フォーラムには4千人近いファンが集まり、
その列は中庭を抜け、有楽町駅に届こうとしていました。
日傘も差さず、直射日光の中で、
黙々と並ぶファンの約半分は喪服を着て、手にはお気に入りのCDや写真集、
女性自身編集の追悼増刊をもつファンもいました。
会場間際の入り口付近では、すでにすすり泣きが聞こえていました。
扉が開き静かに入場を待つファンの中から嗚咽が聞こえ、
それが引き金となって号泣するファンがたくさん現れたのです。
一斉にテレビクルーやカメラマンがフラッシュをたく中、
日本サイドのスタッフがマスコミの抽選受付を始めます。
意外だったのは、一般雑誌の担当者が少なかったこと。
同業誌はカメラマンのみ。
担当編集者の姿は見えません。新聞等も記者カメが多く、
現場で顔を併せていた編集者や記者は来ていないようでした。
すでに自殺報道があってから2週間以上が過ぎてはいましたが、
彼が初来日をしてから7年、
多くの記事が作られていただけに、
なんとも薄情な感じが否めません。
自分も担当をして6年。
取材時間にすればゆうに200時間は超えているでしょう。
距離の遠い友人と過ごした時間よりもはるかに多い交流の思い出は、
ファンの泣く声とともに胸にせりあがってきました。
マスコミの取材開始時間の前に、
パク・ヨンハさんの母と姉、義兄が献花を済ませていることが告げられ、会場へと導かれました。
会場に入ると、本来、この日行われるはずだったツアーと全く同じ構成で
楽器やモニターが置かれていました。
大会場には、少しじみなセッティングに、
より本気で音楽に向かっていた故人が偲ばれました。
すでに多くの献花が行われ、
白いカーネーションが並ぶ献花台の先、ステージ上のスクリーンには、今回の全国ツアーの写真と映像が流され、
最新CDアルバム『STARS』の邦訳歌詞が浮かび上がっています。
思い出す最後の取材は5月9日。
いまだ、2か月しか経っていないことが実感としては湧いてきません。
黙々と献花するファンを言葉なく撮影する
取材陣のシャッター音がむなしく響きます。
30分ほどして、各社の取材陣が引き揚げ始め
我々も後をおって会場を出ました。 すでに日は真上に上がり、気温は38度。
ガラス張りの東京国際フォーラムの周囲の体感温度は
45度を超えていたでしょう。
ハンカチで瞼をぬぐいながら静かに会場入りを待つファンの列は、
追悼するというにはあまりに人数が多く終了は18時20分。
最初に並んだ人は始発の5時だったというので
13時間に渡ったことになります。
送別の人数は1万4千200人でした。
「私はヨン様よりパク・ヨンハさんのほうが好きでした。
完璧な人よりもずっと人間らしかったので」
取材をしたファンが口々に語るパク・ヨンハさんの思い出は、
共通しているようで、まったく違っていました。
優しいタイプから、男らしい役まで。
実は演技派として新人賞も撮っていた彼の活躍そのものを語っているようでした。
6年間の取材で、本人とのトラブルは一度もありません。
常に真摯に、真剣に、そして気配りをし、
写真の確認も本人がする。
しかし、返答までに2日はかけない。
取材サイドとして、締め切りにトラブルを起こさない
数少ない韓流スターだったのです。
会場を後にする時、手を併せ祭壇に祈りました。
その姿を写真に撮るカメラマンがいました。
これが、韓流取材なのかな...ふと、むなしさが心をよぎりました。
アスファルトが焦げたように熱を吐く
東京国際フォーラムの前の通りを横切る時、
もう一度振り返ると、ファンの方々が暑さの中、黙々と入場を待っていました。
その表情は悲しみに暮れていましたが、
ここに韓流が支持される...
我々が作った流行ではない本当の気持ちがあることが実感できました。
パク・ヨンハさんが、植えつけてくれた"種"が、
今、花を咲かせたのでしょう。
…以上編集後記より
パク・ヨンハ氏…田原が韓流を担当して9年。
韓流10周年というイベントが開かれる前日に
ヨンハ氏のことを綴りました。
今、こうして韓流という分野が日本に根付いた中、
彼の功績を忘れないために。
表彰されるは彼だったと思いながら。