『みんなのお寺』 ブッダによる幸せの種がまかれた園

宗派を超え、国境を超え、時を超えて、仏教・ブッダの教えの真理に触れる事の出来る幸せの精舎を目指す『お寺』です

人に迷惑をかけてはいけない本当の意味

2007年09月29日 | 仏教的 『子育て』
ルールを守らずに片付けをしないで散らかしっ放しにしている人、他人の悪い所ば

かりを非難する人、わがままによって他人と衝突ばかりしている人など、人に迷惑

をかけている人は本当に腹立たしいですね。

このような人々に多大な迷惑をこうむっている人は、もしかしたら他人に迷惑をか

ける事は絶対にいけない事だと思っているかもしれません。

それはそれでいい事なのかもしれませんが、ここで気を付けなければいけない事

は、子どもにその事をそのまま伝えない事です。

「人に迷惑をかけてはいけません!」と。

大切なのは、なぜ人に迷惑をかけてはいけないか、という事です。

その事をしっかり伝えておきましょう。

それでは何故人に迷惑をかけてはいけないか。

その為にはまず、自分の気持ちに気付かなくてはなりません。

そして次に、自分と同じ気持ちを、全ての人が持っている事に気付くべきでしょう。

そこで迷惑とは何か?他人が嫌がる事です。

他人と自分は同じ気持ちを持ち合わせていますから、自分がされたら嫌な事を他人

にする事、それが迷惑をかけているという事なのです。


みんな違います

2007年09月29日 | 真理
家庭であれ、保育園であれ、学校であれ、職場であれ、集団生活の中では協調性が必然的に求められます。
皆がみんな、必要最低限のルールを求められ、そしてそれを守っていく事でそれぞれの集団生活が成り立っているのです。

ところで、皆さんのまわりにこの集団生活を乱している人、いませんか?
ルールを守らずに片付けをしないで散らかしっ放しにしている人、他人の悪い所ばかりを非難する人、わがままによって他人と衝突ばかりしている人など。
考えるときりが無さそうですが、とにかく他人を不快にして迷惑ばかりかけている人です。
このような人たちがまわりにいると、その集団の人間関係がだんだんと乱れていきます。
じゃあその人たちはあまり相手にしないでおこう、まあそうなっても自業自得だ、という発想になる事もあるかと思うのですが、ここで他人に迷惑ばかりかけている人に気づいている人達が忘れてはいけない事もあると思うのです。

それは何か?

みんな違います、という事です。

何が違うのですか、それは、遺伝子が違うのです。
人間として一つの生を授けられた以上、必然的に容姿や性格、能力などが違っているのです。
その違いは当たり前ですが、更には一人ひとり周りの人的環境も物的環境も異なっているのです。
人はそれぞれ、それぞれにあたわった境遇に従い生きているのです。
そして一生を懸命に生きています。
社会的に善人でも悪人でも、自分自身の為に。
人はそれぞれ、自分の人生を生まれる前に、みずから選んでこの世に誕生して来る訳ではなく、自分にあたわった人生を懸命に生きているのです。

であるから、もし自分が『自分の嫌いな人』として生まれていたならば、自分は『自分の嫌いな人』になっていたでしょう。
もし自分が『自分の好きな人』として生まれていたならば、自分は『自分の好きな人』になっていたでしょう。
もし自分が『小泉純一郎』として生まれていたら『総理大臣』になっていたでしょう。
もし自分が『宮崎勤』として生まれていたら『少女連続誘拐殺人犯』になっていたでしょう。
もし自分が『松嶋菜々子』として生まれていたら『人気女優』になっていたでしょう。
などと挙げていけばきりがありませんが、一方的に、その人を非難できないのです。
社会の仕組みにも、少なからずその原因があるのです。
だからといって道徳に反する人たちを弁護する気は毛頭ありません。

私が言いたいのはそれぞれが輝ける可能性を秘めているし、周りがそれを手助けしていけたらと思うのです。
その人の行いは否定しても、人格は否定しないという姿勢が大切です。

阿弥陀経には、蓮の花が「青色青光。黄色黄光。赤色赤光。白色白光。微妙香潔。」「青色の花は青色にひかり、黄色の花は黄色にひかり、赤色の花は赤色にひかり、白色の花は白色にひかり」とあります。
この言葉は私達に、それぞれの存在をそのまま認め、皆が輝ける社会を示してくれているのではないでしょうか。

『自分だけが主人公』の社会ではなく、『みんなが主人公』で生きれる社会を模索して止みません。

合掌