『みんなのお寺』 ブッダによる幸せの種がまかれた園

宗派を超え、国境を超え、時を超えて、仏教・ブッダの教えの真理に触れる事の出来る幸せの精舎を目指す『お寺』です

子育てにおいての言葉・かかわり

2007年09月27日 | 仏教的 『子育て』
どのような言葉・関わりがよいのでしょうか。
先ず自分が伝えうる言葉・関わりは自己中心性に根付いたものだと考えて間違いはないでしょう。
仏教では自己中心性というものを強く否定していきます。
これは自己破滅のもとです。
であるからこそ、子どもに関わる時は、まず一息置く事が大切です。
自分が子どもに対して感じた事をそのまま口に出さずに、自分の心の中で、それを分解してみるのです。

例えば、子どもがおもちゃで遊びたいだけ遊んで片付けず、次に違う事をしようとした時、部屋中がくちゃくちゃの状態になっているのを見ると、感情的になってしまって
「出しっ放しにして置いたらダメでしょ!きちんと片付けなさい!」{
という言葉が無意識の内に出てくる事も多いのではないですか。
しかしどうでしょうか。よく考えてみると、その言葉の裏側には、綺麗にしておくのが正しくて、散らかしておくのはダメな事、というその人の勝手な自己中心的否解釈に基づいているのではないでしょうか。
もちろん環境を綺麗にしておくのはとても大切な事です。
私が言いたいのは、その1つ前の段階なのです。

なぜ綺麗にしておかなければいけないのですか?

それは次に使う時のために、また次に使う人の為にという事があります。
また、物を無くさないために、という意味合いもあります。
更には、整った環境は無意識の内に心がざわつかず、落ち着きを保つ助けにもなるでしょう。
最終的には、計画的なものの考え方にも繋がっていきます。
 
この事を一回一回、子どもと落ち着いて確認していく事です。
その忍耐強さが、子どもに、他人の感情に干渉されずに、落ち着いて考える力の獲得や、自己納得による積極的な行いに繋がっていくのです。
このような粘り強い、一息置いた関わりの中で、人間としての正しい自立に繋がっていく事が多いのではと言いたいのです。

言葉のお守り

2007年09月27日 | 仏教的 『子育て』
人間とは、自らの気づきによって、人格が成長していくものだと思います。私自身の経験から感じる所から言いますと、自分が納得して気づいた事は、自分の心の中で大きく位置付けられ、自分の中で素直におこなっていこうと思えます。

しかし一方的に「○○しなさい」と、命令口調で言われると、なんだか上から下に強制のように感じてしまって、なかなか素直に「分かりました」とうなづけないのです。心に残るのは、従わなければいけないのなら、従わせる方にまわった方が得だ、という勝ち負け心理です。健全な意味での勝ち負けへのこだわりは問題ないと思いますが、身近な人間関係の中での一方的な支配によって生じる敵対心、そこから成り立った関係は『憎しみ』を生み出します。その『憎しみ』は結局はどこかでつけが回ってくる。自らを知らず知らずの内に苦しめていくのです。

子どもの為だと思って言っていた「○○しなさい!」との言葉が、50年後に逆になって子どもから「○○しなさい!」と言われ肩身の狭い思いをしなければいけない現実に苦しんでいる人も少なくないんじゃないんですか。それでは、不幸過ぎます。せっかく手塩にかけてこの子を育ててきたのに、と思っても後の祭りです。それは想像しただけで恐ろしい老後である事が容易に想像できるでしょう。


人と話す時は直前で一度息をのむ。

そして今話そうとしている言葉は、心から相手を思いやる所から出てきたものか確認する。

次に相手が聞いて『憎しみ』を感じず、『好意』を感じるような穏やかな言葉であるよう心がけて話す。


話す前に以上の事をほんの心の片隅に心掛けるだけでも、その言葉は、その人を守り、その人を苦しみから遠ざけ、その人を幸せな人生へと導いてくれる、お守りとなるでしょう。