『みんなのお寺』 ブッダによる幸せの種がまかれた園

宗派を超え、国境を超え、時を超えて、仏教・ブッダの教えの真理に触れる事の出来る幸せの精舎を目指す『お寺』です

子どもは自分のもの?

2007年09月24日 | 仏教的 『子育て』

「あなたは、あなたのお子さんをどのように育てたいですか?」
このような質問は、子どもがいる親御さんならば、必ずといっていいほど、受けた事があるでしょうし、また、親自身が知らず知らずの内に考えている事なのではないでしょうか。
あえてわたくしも、皆様にこの質問を投げかけたいと思います。
「あなたは、あなたのお子さんをどのように育てたいですか?」
 さあ、あなたはどう答えるでしょうか。色々な答えがあるでしょうが、次のような答えを出される方は要注意です。
「私はお金で苦労したので、生活に困らないように、安定した職についてほしい」
「何かの道のプロになって、有名になって活躍してほしいので、習い事をさせています」
「一流の大学に入って、大きな会社に入ってくれればなぁ」等など。
これらのような親の子どもに対する願いは、どうかすると当たり前のような気がします。腹を痛めた我が子ならば、幸せな人生を送って欲しい。それは、親の切実な願いであるかと思います。
 私は、この様に答える親をあえて非難するつもりはありません。しかし、これらの事が根本の願いであるならば、あなたは親として大丈夫ですか?と言いたくなります。何故ならば、これらの答えは、我が子を『自分のもの』という所から出発している考えであるからです。
「えっ、子どもって『私たちのもの』じゃないの?」と感じる人がいたら、更に重症です
それではなぜ、子どもが『自分のもの』でないのか。その事をこれから一緒に考えていきたいと思います。
 『自分のもの』とはどういう事か分かってますか。それはずっと果てしなく『自分のもの』であり続けるという事ですよ。もし子どもが永遠に『自分のもの』であり続けるのであるならば、子どもが『自分のもの』でありえるでしょう。しかし現実を眺めてみるとどうでしょうか。自分自身でさえ、自分の思い通りにならないではありませんか。老いや病や死によって、あっという間に自分というものが蝕まれ、奪われていくのです。そこまで行かなくても今生きている現実の中で、自分の思い通りに行く事などほとんどないのではないですか。自分自身さえコントロールできない人間が、別の心身を持った人間を、『自分のもの』と思い込んで自分の思い通りにしようなどという事は無理です。あまりにも滑稽です。それは結局、不幸への道に繋がっていくという事を仏教は教えています。