WoodSound~日綴記

山のこと、川のこと、森のこと、その他自然に関することをはじめ、森の音が日々の思いを綴ってみたいと思います

KYと裸の王様

2008-02-22 | Opinion
KYという言葉を最近よく耳にする。
「空気が読めない」という人の頭文字ということらしい。
これを聞いてアンデルセンの「裸の王様」という童話を思った。

バカには見えないという布を織って王様に献上する詐欺師。
それを見て美しい着物だと絶賛する王様に家来に、町の人々。
一人の少年だけが「王様は裸だ」と言う。
この少年がいわゆるKYではないでろうか?

お正月の番組で童話のシチュエーションに遭遇したとき、
子供がどういうリアクションをするかというのがあった。
ついつい面白くて最後まで見てしまった。

その中にこの「裸の王様」の場面が出てきた。
パンツ一丁の社長が着ている服はバカには見えないということで、
周りの部下の大人たちは褒め称える演技をする。
その中で何も知らされていない子供は、周りの空気を読んで、
「社長の服、凄く綺麗」と合わせていた。
もちろんこの場合、空気を読むと言うことのほかに、
自分はバカではないんだという別の意味でのバイアスがかかっている。

それを考慮にいれても、周りの同意見の者から外れて、
自分だけが違った意見を言うことの難しさは、
かわいそうなほど子供の表情から見て取れた。

中に一人だけ「何も着てないよ」と素直に言った子がいた。
VTRを見ていた出演者はこの子に賞賛や拍手を与えていたが・・・


しかしこの若者の間で流行しているKYという言葉。
かなり曲者である。
よく会議でも普段の会話でも、
かなり方向性のずれた発言をする人は確かにいる。
一瞬でその場がさっと白けることもある。
いちいちその人に今はこういう話だから、
そのことは置いといてなどと指摘することも邪魔臭い。
そのまま素通りしてしまうことがほとんどだと思う。

だがここで「一旦あの人はKYだから・・・」という言葉で、
ラベル化はてしまうことがちょっと問題だと思う。
次からその人の発言はKYの発言ということで葬り去られるのではないか。
たとえ核心を突いた言葉を言い放ったとしても・・・

そしてもっと怖いのがKYになるのを恐れて、
みんなが発言しなくなることだ。
ともすればグループ内の裸の王様の意見にのみ左右され、
家来ばかりを増やすことになる。
そこからいじめや仲間はずれに到る道筋は簡単である。

今私は自分の子供たちに個性を伸ばすとか、
個性を大事にとかいう教育をしている。
子供たちもそれが大事なことだと認識していると思う。

しかしかたや集団内ではお互いに牽制しあい、
個性を殺そうとする逆の方向に向かう。
これが競争原理と言われれば身も蓋もないが。

KYという言葉にとても日本人的な危うさを、
感じる私はやっぱりKYの一人だろうか?

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
いろんな人がいる (GLマウンテン)
2008-02-25 16:49:08
あの人はKYだ~とか言ってる人達も意外に
KYの時があるのかも...KYな人がいてイラ~っと
した頃は高校とかの頃が1番多かったかな~
今はそんな人もいて、いろんな人がいた方が楽しいですね空気読めなくてもいいじゃ~ない
皆一緒じゃ~無いんだからってネ!
ほんとはKYなのに周りにあわせてる人も
いるかも?あ~でもそれってKYじゃないって事かな?
でも私もKYという言葉に今の日本人の危うさを感じますね~「私はKYって言われてもいいもん!」(エヘ
返信する
多種多様は進化の証 (森の音)
2008-02-25 21:53:02
空気を読みすぎるひとがばかりになると、
危ういですね。
KYでくくるのは、そんな怖さがあります。

本当に言いたいことも言えない。
気を遣いあう人間関係。
うつになりそうです。
日本人は農村社会の中で、
波風をたてないように
和を尊しとして生きてきました。
自己主張を許さない土壌は、
昔からの風習みたいな面もありますが・・・

同じKYでも「気持ちを読める」とか、
肯定的なKYにして欲しいですね。
返信する

コメントを投稿