小:1972年閉校【釜津田小へ統合】
中:1972年閉校【釜津田小へ統合】
・コメント
岩泉町西部、釜津田地区にあった学校。へき地等級は3級でした。
本校である釜津田小・中学校(当時は中学校が独立しておらず併設校でした)からは大川つたいに7kmほど。
開校は1951年と遅め。
閉校時の児童数は27名でした。生徒数は不明です。
学区の基幹産業は林業や製炭でしたが、輸入材による木材価格下落やエネルギー革命により徐々に衰退。
それに続くように子供たちも姿を消していきました。
学校跡は道路から一段高いところにあります。
跡地には半壊状態の校舎と講堂が残っていました。
校舎の残っている部分は昭和33年に増築された中学教室で、往時は手前に向かって職員室や小学教室(こちらは昭和30年に新築)が続いていました。
講堂との接続部分は昇降口でしょうか。
講堂は校舎に比べて大柄です。
併設なので、小規模ながらそれなりに児童・生徒数がいたものと思われます。
この辺りは谷の幅が狭く平地がほぼない場所ですが、広めの校庭が確保されていました。

校舎と講堂

道路から見た講堂

校庭
中:1972年閉校【釜津田小へ統合】
・コメント
岩泉町西部、釜津田地区にあった学校。へき地等級は3級でした。
本校である釜津田小・中学校(当時は中学校が独立しておらず併設校でした)からは大川つたいに7kmほど。
開校は1951年と遅め。
閉校時の児童数は27名でした。生徒数は不明です。
学区の基幹産業は林業や製炭でしたが、輸入材による木材価格下落やエネルギー革命により徐々に衰退。
それに続くように子供たちも姿を消していきました。
学校跡は道路から一段高いところにあります。
跡地には半壊状態の校舎と講堂が残っていました。
校舎の残っている部分は昭和33年に増築された中学教室で、往時は手前に向かって職員室や小学教室(こちらは昭和30年に新築)が続いていました。
講堂との接続部分は昇降口でしょうか。
講堂は校舎に比べて大柄です。
併設なので、小規模ながらそれなりに児童・生徒数がいたものと思われます。
この辺りは谷の幅が狭く平地がほぼない場所ですが、広めの校庭が確保されていました。

校舎と講堂

道路から見た講堂

校庭