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岩手人の廃校探訪記

岩手県の懐かしの学校の記憶を貴方へ…

岩泉町立釜津田小・中学校滝ノ上分校

2025-04-01 20:40:20 | 岩手県下北地区
小:1972年閉校【釜津田小へ統合】
中:1972年閉校【釜津田小へ統合】

・コメント
岩泉町西部、釜津田地区にあった学校。へき地等級は3級でした。
本校である釜津田小・中学校(当時は中学校が独立しておらず併設校でした)からは大川つたいに7kmほど。
開校は1951年と遅め。
閉校時の児童数は27名でした。生徒数は不明です。
学区の基幹産業は林業や製炭でしたが、輸入材による木材価格下落やエネルギー革命により徐々に衰退。
それに続くように子供たちも姿を消していきました。

学校跡は道路から一段高いところにあります。
跡地には半壊状態の校舎と講堂が残っていました。
校舎の残っている部分は昭和33年に増築された中学教室で、往時は手前に向かって職員室や小学教室(こちらは昭和30年に新築)が続いていました。
講堂との接続部分は昇降口でしょうか。

講堂は校舎に比べて大柄です。
併設なので、小規模ながらそれなりに児童・生徒数がいたものと思われます。

この辺りは谷の幅が狭く平地がほぼない場所ですが、広めの校庭が確保されていました。


校舎と講堂

道路から見た講堂

校庭

岩手町立豊岡小学校

2025-04-01 20:33:20 | 岩手県岩手地区
1986年閉校【水堀小へ統合】

・コメント
岩手町北部、御堂地区にあった学校です。へき地等級は2級でした。
豊岡地区は樺太から引き揚げてきた人々が開拓した地区で、樺太の都市「豊原」と「真岡」から1字ずつ取って名付けたそうです。
そのため、開校も1949年と小学校にしては遅めです。

跡地には校舎と講堂が残っていました。
校舎は木造平屋で、3教室+職員室(&特別教室1?)でした。
かつてはキジ繁殖センターとして活用されていたそうで、少し改造が施されています。
現在は放置状態のようです。

講堂も木造で、講堂としては一般的なサイズでした。

校舎から一段下がったところに校庭があり、その手前には記念碑がありました。
記念碑の立派さに、開拓民の魂を感じます。


校舎

玄関

講堂

記念碑

一関市立達古袋小・中学校

2025-04-01 20:32:08 | 岩手県西磐井地区
小:2013年閉校【厳美小へ統合】
中:1974年閉校【厳美中へ統合】

・コメント
一関市西部の厳美町にあった学校。へき地等級は1級でした。
「達古袋」と書いて「たっこたい」とよみます。おそらくアイヌ語の「タプコプ(=独立した小高い丘)」が元ではないでしょうか。
小学校の閉校時児童数は26名だったようです。
中学校は厳美第二中学校として開校。途中で達古袋中学校に改称しました。

跡地には校舎や体育館など一通りの学校施設が残っています。
ここで特筆すべきは校舎でしょう。木造平屋の非常に長い一線校舎です。
廊下の長さは114mあり、時折雑巾がけレースが開催されているとのことです。
市民センター分館として利用されています。
一見するとあまりわかりませんが、防火壁から右側の方が築年数が古いそうです。

体育館は昭和50年代あたりのスタンダードな鉄骨造でした。

校舎前には閉校記念碑がありました。
小学校のものは校歌の楽譜が書かれていて、とても素敵です。


玄関

校舎全景

体育館

閉校記念碑(小)

閉校記念碑(中)

大東町立内野小学校・大原中学校内野分校

2025-04-01 12:59:30 | 岩手県東磐井地区
小:2010年閉校【大原小へ統合】
中:1971年閉校【大原中へ統合】

・コメント
旧大東町北東部、砂鉄川上流域にあった学校。へき地等級は1級でした。
学区の基幹産業は農業ですが、かつては砂鉄川上流でたたら製鉄が行われいてたようです。
小学校閉校時の児童数は24名だったようです。

跡地には学校施設がほぼ閉校時のまま残されていました。
併設校だけあって中山間地かつ戦後すぐの校舎から改築していない学校にしては校地が広めです。
小学校は木造モルタル2階建てで、スタンダードな造りながらなかなかの大きさでした。ただし、現在はあまり使われている気配がありませんでした。
中学校舎は木造平屋で、閉校後は保育所+公民館として利用されていたようです。

体育館は平成初期に建て替えられたと思わしき立派なものでした。
閉校時は「一関市立」だったこの学校ですが、体育館には「大東町」の記載があり、旧町の残り香が感じられます。

小学校舎裏手にはプールが残されていました。
水はありませんでしたが、真っ先に解体されやすい施設なので残っていると心躍ります。


正門

小学校舎

中学校分校舎

体育館

プール

久慈市立長久保小学校

2025-04-01 12:30:51 | 岩手県九戸地区
1971年閉校【久慈小へ統合】

・コメント
旧久慈市北西部の山間部にあった学校。へき地等級は2級でした。
開拓集落であり、農業や林業が学区の基幹産業であったと思われます。
1953年に開校。ですので、学校の歴史は18年とかなり短命でした。
交通の便が非常に悪く、当時はやませで農業生産も不安定であったことから、1970年ころ行われた久慈市の辺地解消条例により住民は市内へ移住し、学区内はほぼ無住となりました。
集落の跡は久慈地方山葡萄生産組合が利用しています。

学校跡はメイン道路から細い砂利道を下った先の谷際にあります。
決して通いやすい場所ではないので、正直なぜここに?という感想を抱きました。古地図に文マークが無ければわからなかったと思います。
校舎は閉校後すぐに解体されたようで、学校の痕跡は残っていませんでしたが、不自然に整地された平地だったので雰囲気を感じることができました。
地理院の空中写真から、写真右手から奥にかけて木造平屋で2~3教室程の校舎が建っていたと推測しました。

校庭跡地には、学童用の椅子が放置されていました(長久保小の備品かは不明)。


校舎跡地

学童用の椅子