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岩手人の廃校探訪記

岩手県の懐かしの学校の記憶を貴方へ…

都南村立乙部小学校

2025-03-29 21:54:49 | 岩手県紫波地区
1994年閉校【乙部小+大ケ生小→都南東小】

・コメント
盛岡市南部、旧都南村にあった学校。都南「村」ですが、大都会盛岡のベットタウンですので交通の便はかなり良く、へき地等級は無級でした。
学区は北上川東側の乙部地区中心部。
農業と工業が程よく入り混じっていることから学区内の人口も多く、S63年は児童数280名となかなかの規模でした。

跡地には地区の公民館が建っています。
校舎はすでに解体されており、校門と講堂が残されていました。
校舎は講堂の左手にあったようです。地理院の空中写真で確認した結果、おそらく木造2階建て×2棟だと思われます。
学区の規模からいえば小さいような気もしますが…

残されているこの講堂がなんとも不思議なつくりをしています。正直他で見たことがありません。
あくまで推測ですが、左半分が講堂で、右半分は特別教室棟だったのではないでしょうか。
講堂の玄関には校章が掲げられていました。
「乙」を図案化したとてもシンプルな校章です。

校門のすぐそばには閉校記念碑がありました。
小さめですが濃色の石と白色での文字入れにより読みやすく、個人的にはGOODデザイン賞です。


校門から校地を望む

講堂

講堂の玄関と校章

記念碑

一戸町立小友小学校

2025-03-29 21:42:24 | 岩手県二戸地区
1992年閉校【鳥海小(初代)+中里小+小友小+出ル町小】

・コメント
一戸町西部、鳥海地区にあった学校。へき地等級は1級でした。
小友川沿いに岩手県北の山間部にしては多数の水田があり、集落の規模はそこそこです。
閉校時の児童数は46名でした。

跡地は平地になっていましたが、本来の校地ではなく、5~6mくらいで高台であったとのこと。
校舎は閉校後すぐに取り壊され、敷地の土を地区の基盤整備事業の客土として使ったそうです。
以前コメントでいただいた情報ですが、アイボリーの木造2階建て校舎だったとのこと。

かつての校地と同じ高さのところに、閉校記念碑とニノキンさんが残されていました。
また、低くなった場所に屯所が建っており、その脇には木製の標柱がありました。

ここには2回訪れており、2回目の訪問時には近所の方とお話しすることができました。
正直言って学校跡をうろつく私は不審者そのものですが、気さくに声をかけていただき、前述の基盤整備の話のほか、いろいろな思い出話をいただきました。
学校の隣にお住まいの方で、校舎が解体されるときに校章をもらい受けて倉庫に保存されていました。
閉校記念碑に絡みついていたツタを一緒に撤去したことは、今となってはいい思い出です。


標柱

校地(だっだところ)

ニノキンさんと閉校記念碑

校章

盛岡市立簗川小・中学校

2025-03-29 21:18:04 | 岩手県盛岡地区
小:1982年閉校【川目小へ統合】
中:1974年閉校【川目中、根田茂中、砂子沢中とともに河南中へ統合】

・コメント
旧盛岡市東部、国道106号沿い三陸からの玄関口にあった学校。へき地等級は1級でした。
岩手県で2番目に寒いと言われる区界高原のすぐそばにあり、冬はここも厳しい気候になります。
小中併設でしたが、学区内の集落数が6つと少なく、個々の集落が中小規模であることから、児童・生徒数はあまり多くなかったと推測しています。
宮古川目道路の建設に伴い、敷地面積は当時の1/3程になっています。

訪れるとまずは校門がお出迎え。
年月が経っているせいか校名標が割れていましたが、文字ははっきり残っています。
中学校の校名標はありませんでした。

校舎は当時の半分ほどが残されており、地区振興センターとして活用されていました。
木造モルタル2階建てで、酷寒地の校舎らしく教室の窓は一部二重窓になっています。
校舎の右手には同じくモルタル造の体育館がありましたが、老朽化により2010年代後半に解体されたようです。
校庭に出てみると、なぜかプールが残っていました。普通は真っ先に解体するものですが…
訪問時は冬だったので状況がわかりませんでしたが、今も使っているのでしょうか?

閉校記念碑などは一か所に固めて設置してあり、ともに植えられた庭木もきれいに手入れされていました。


校門

校舎

プール

記念碑群

葛巻町立冬部小・中学校

2025-03-28 20:43:26 | 岩手県岩手地区
小:2005年閉校【田野小、小田小、星野小、葛巻小江刈川分校とともに葛巻小へ統合】
中:2000年閉校【葛巻中へ統合】

・コメント
葛巻町北部、旧田部村の中心となる学校。へき地等級は1級でした。
ここから西に数キロ離れた山間部に、小学校の分校を持っていました。
この分校が、映画出演歴のある毛頭沢分校です。
町の中心からは離れていますが、JRバスの路線(二戸駅↔小鳥谷駅↔葛巻駅と冬部↔葛巻駅の2系統、なんと町内は100円)も通っており、交通の便は比較的良好です。
学区の機関産業は農業(稲作、畜産)、林業だったようです。
中学校があるほどの学校でしたが、閉校時の児童数は10名まで落ち込んでいました。
訪問時はプールの解体工事中でしたが、一通りの施設が残っていました。

校舎は小中共にRC造2階建てと立派なものでした。
さすがに痛み始めていますが、往時の威容を十分に伝えてくれます。
校舎の様式が玉山村の薮川小中学校に似ているので、もしかしたら設計会社が同じなのかもしれません。
教室間にあるストーブ用の煙突が懐かしいですね。

校舎の間には体育館がありました。やや古いですが併設だけあって大きめの体育館です。

敷地脇の教員住宅も、併設校らしくたくさん建っていました。
木造でトタン張りのないタイプでした。県北でこのタイプが現存しているのも珍しいような気がします(たいてい倒壊してしまいます)。


木製の校名票

小学校舎

体育館

中学校舎

教員住宅群

20250322-23単独探索

2025-03-28 20:17:58 | 旅の記録
北上に用事があったので、ついでに和賀・胆江・気仙地区の廃校を探索してきました。

①岩手県立江刺高等学校梁川分校

1972年閉校
校舎らしきものが建つ推定地に来てみましたが、タッチの差で解体されていました。

②北上市立相去小学校

1976年閉校【相去小+相去第二小+鬼柳小→南小】
跡地は地区センターになっていました。
敷地の一角に記念碑が残されています。
ちなみに、3校統合してできた南小ですが、のちに学区に児童数が増加に転じ、鬼柳小が分離再開校しています。

③北上市立相去第二小学校

1976年閉校【相去小+相去第二小+鬼柳小→南小】
跡地は保育園になっていましたが、記念碑がしっかり残されていました。

④北上市立相去中学校

1961年閉校【相去中+鬼柳中→南中】
地理院の過去の空中写真を頼りにたどり着いた跡地。
まったく痕跡が残っておらず、学校の雰囲気も感じられませんでした。

⑤金ケ崎町立六原小学校

1965年閉校【北方小+六原小→第一小】
閉校から60年たちますが、校門やニノキンさんが残されており、案内板にも記述がありました。

⑥金ケ崎町立二ッ森小学校

2006年閉校【第一小へ統合】
全ての建物が閉校時そのままに残されていましたが、かなり荒れてきています。
平屋のかわいい校舎とモダンな体育館のギャップが…

⑦金ケ崎町立金ケ崎中学校高野野原分校

1965年閉校【金ケ崎中+永岡中+六原中+金ケ崎中高野野原分校→金ケ崎中】
ここも閉校から60年たちますが、校門が残されていました。
割れて無くなりがちな陶製の校名板も、校名が読める状態(少し掠れていますが)で残っていました。

⑧北上市立岩沢小学校

1992年閉校【横川目小+岩沢小+仙人小+山口小→和賀西小】
北上市立...とは言いつつも、旧和賀町の学校です。北上市と和賀町、江釣子村が合併した年度に統合したようです。
RC造の校舎が残されていました。築年数は古い(おそらく1960年代)ですが、両廊下式でテラスがある独特の校舎です。
企業が利用しているらしく、遠方から拝見させていただきました。
雪が解けたら記念碑を見に行きたいところです。

⑨北上市立煤孫小学校・和賀町立岩崎第一中学校

小:2008年閉校【岩崎小+岩崎新田小+煤孫小→いわさき小】
中:1972年閉校【岩崎第一中+藤根中→和賀西中(市町村合併前:西中)】
こちらも旧和賀町の学校。
今年度に解体入札が出されており、しっかりと解体されていました。
往時の校舎はRC造2階建ての割と大きめなものでした。中学校閉校後に建てられたものです。
中学校は併設だったようです。
ちなみに、第二中は仙人小に併設されていました。

⑩江刺市立愛宕小学校二子町分校

1964年閉校【本校へ統合】
跡地には公民館が建っており、校庭は農村公園になっていました。
写真つき案内板が建っており、地区住民の学校への思い入れの強さが感じられました。

⑪水沢市立羽田小学校黒田助分校

1971年閉校【本校へ統合】
校舎、講堂共にきれいに整備されて残っていました。
地区の公民館として活用されているようです。
積雪地での外廊下式は珍しいように感じます。

⑫奥州市立伊手小学校

2023年閉校【岩谷堂小へ統合】
昨年度閉校したばかりの学校。
江刺地区では閉校した学校の備品盗難事件が起こっており、心情に配慮して遠景からの撮影にとどめました。
平成になってから建てられたきれいで立派な校舎でした。そもそも中学校まであった地区なので、建築時はまさか閉校するとは思っていなかったことでしょう。

⑬江刺市立伊手中学校

1978年閉校【藤里中+伊手中→江刺南中】
跡地は市民センターとなっており、入口に記念碑が残されていました。
中学校跡地だけあって敷地が広く、市民センターに高齢者活動センター、農村公園、少年野球ができそうなグラウンドと盛りだくさんな施設になっています。

⑭岩手県立江刺高等学校伊手分校

1971年閉校【本校へ統合】
跡地向かい側に記念碑が建っていました。この年代に閉校した高校の分校では珍しいですね。
2010年代まで校舎が残っていたようですが、解体されて荒野になり果てています。

⑮江刺市立上伊手小学校

1969年閉校【伊手小へ統合】
跡地には公民館が建っていました。
学校へ向かう階段や校舎が建っていたと思われる1段高い敷地、ニノキンさんの台座が残っており、学校の残り香は十分でした。
ちなみに、ここのニノキンさんは伊手小に移設されています。

⑯江刺市立上伊手小学校口沢分校

1965年閉校【本校へ統合】
赤金鉱山のお膝元にあった分校。
跡地は道路になっており、痕跡は皆無だったので、空中写真からおそらくこのあたりだろうという推定した場所です。
鉱山集落なのでそれなりに児童数がいそうですが、文献調査がまだなので何とも言えません。

⑰住田町立大股小・中学校

小:2002年閉校【世田米小へ統合】
中:1984年閉校【世田米中へ統合】
住田から江刺へ向かう途中、大股川沿いにあった学校。
小学校舎と体育館が残されており、公民館として活用されています。体育館の前には記念碑もありました。
小規模ながら新しくモダンな校舎でした。
中学校の閉校が小学校に比べかなり早いですが、これは生徒数の減少はもちろんですが、閉校する少し前に土砂崩れで中学校舎が被災したことが遠因のようです。

詳細は個別記事で報告します。