日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

高崎城跡|群馬県高崎市 ~大きな土塁に囲まれた近世城郭~

2020-06-29 13:00:23 | 歴史探訪

1.基本情報                           


所在地


群馬県高崎市高松町 高崎城址公園



現況


公園、高崎市役所ほか公共施設、住宅地など

史跡指定


高崎市指定史跡


出土遺物が見られる場所



2.諸元                             


築城時期



廃城時期



目で見られる遺構


土塁

3.探訪レポート                         


八高線に乗って初めての高崎遺跡めぐり② 2013年5月5日(日)


 ⇒前回の記事はこちら

 高崎駅前に戻ってくると時刻は11時15分。

 まだお昼まで少し時間があるので、近世城郭の高崎城跡を見てみましょう。

 高崎城跡の場所は地図で見ると現在の高崎市役所があるところみたいです。

 駅の西口近くになります。

 街の中をブラブラしていると、眼前に高層ビルが現れました。



 高崎市役所です。

 立派なビルだなあ。

 今朝こちらに着いたときに高崎駅から見えていましたね。

 さらに路地をニョロニョロ歩いていくと、これはあきらかに城跡だろうという場所にたどり着きました。



 高崎城跡の一角らしいです。

 お堀が廻ってますね。



 堀に沿って西へ歩いて行くと土塁が切れているところがあり、中へ入れるようになっています。



 バーン!



 堀沿いの土塁には色とりどりの花が咲いていてとても美しいです。



 説明板がありますので読んでみましょう。



 そっか、高崎城は井伊直政の居城だったんだ!

 井伊直政は現在は「ひこにゃん」として活躍している徳川四天王の一人ですね。

 私は近世城郭や江戸時代になると途端に疎くなり、今日も事前の勉強はしてこなかったので、新しく知識を得られることがとても楽しいです。

 絵図も見てみましょう。



 今いる場所はもともとは土塁が繋がっており、後世になって開けられたんですね。

 高崎駅があるのが東の方で、城域の西側には利根川の支流である烏川が迫っています。

 中央西寄りに本丸を置いて、それを囲むように二の丸と三の丸が配置されており、ここから入れる場所は三の丸ということになります。

 今日は時間の都合で城跡をくまなく歩くことはかないませんので、三の丸を少し歩いてみましょう。

 土塁の断面。



 三の丸に入って、土塁を内側から見ます。



 近世城郭といったら石垣がめぐらされているイメージがあると思いますが、私は中世城郭の趣を残している土塁がとても好きなのです。

 さて、城内三の丸は広い公園になっていました。



 この広さがとても開放感を感じさせてくれます。

 土塁には階段がついていて登れるようになっていますよ。



 登ってみましょう。

 いいですねえ。



 このまま塁上を歩いてもいいですが、いったん降ります。

 三の丸を土塁に沿って北上すると、土塁が凸形に屈曲している個所がありました。



 最初、枡形(城門を守る施設)かなと思ったのですが、城門はありません。

 絵図を見ると三の丸の東側の土塁は南北にかなりの長さがありますが、一箇所だけ出っ張っている場所があります。

 それがこの場所です。

 土塁や空堀などの防衛ラインは一直線にすると弱くなるため、一部を屈曲させて防御力を増します。



 さらに北上すると、「現代の大手門」(江戸時代のではなく現代の市役所の大手門)に来ました。



 いったん城外に出てみましょう。

 説明板がありました。



 いま私はこの説明板の左下にある「城址公園」という文字が書かれているエリアを南から北へ歩いたにすぎません。



 城内を見ます。



 再度城内に入ってさらに北上すると、乾櫓(いぬいやぐら)がありました。



 説明板があります。



 この場所は全然「乾」(北西)じゃないのに変だなあと思ったら、元々は本丸の乾にあったのをこちらへ移築した物なんですね。

 現在乾櫓が建っている土塁に登ってみます。



 中世城郭好きには土塁は堪りません。

 もう一つ説明板があるので読んでみましょう。



 さきほどの説明板よりも詳しく書かれていますね。



 隣には門があります。





 この門についての説明もあります。



 東門ですね。

 これも江戸時代の貴重な文化財ですが、近世城郭の雰囲気を感じられるのは乾櫓です。

 いろいろな角度から見てみましょう。







 しつこいですかね?



 そしてお濠。



 江戸時代の高崎城は、現在乾櫓と東門が建っているところの入口に大手門がありました。

 日本陸軍歩兵第15連隊趾の石碑。



 ※帰宅後調べたら、昭和7年から1年半ほど連隊長を勤めた甘粕重太郎大佐は、満州で活躍して最後は自殺した甘粕正彦の従兄弟でした(映画「ラストエンペラー」では、甘粕正彦は映画の音楽を担当した坂本龍一が演じていました)。

 さて、高崎城があった場所には、さきほどの説明板にもチラッと書いてありましたが、もともとは和田氏の居城である和田城があり、和田城は正長元年(1428)、和田義信によって築かれました。

 地理的には烏川の東岸崖上にあり、鎌倉に幕府が置かれて以降、碓氷峠を経由して鎌倉と京都を結ぶ交通の要衝でした。

 義信は関東管領上杉憲実に従い、永享の乱(永享10年(1438))を戦っています。

 その直後の結城合戦では結城城に攻め込み、和田左京亮と大類中務丞が敵方である桃井左衛門督の伯父と称する入道と戦い、3人とも相討ちとなっています。

 また、義信の一族と思われる八郎左衛門は、尹良(ゆきよし/これなが)親王に属していたと言われますが、この尹良親王という人物がまた謎の人物で面白いのです。

 尹良親王は南朝の後醍醐天皇の孫と伝えられていますが、伝説上の人物の可能性が高く、民俗学の柳田國男も尹良親王の伝承を探究しています。

 戦国時代の後半戦では、この辺りでは上杉謙信と武田信玄が攻防を繰り広げたのですが、和田業繁は最初謙信につき、その後信玄に従っています。

 天正3年(1575)の長篠の戦いでは、業繁も和田衆を率いて出陣、君ヶ臥戸の砦を固めていましたが、味方の鳶ヶ巣山の砦が酒井忠次に落とされ、業繁は鳶ヶ巣山奪還を試みましたが失敗、潰走します。

 殿(しんがり=退却の最後尾で敵を食い止める)をつとめた七人の勇士の奮戦で和田勢は辛くも窮地を脱しましたが、業繁は鉄砲に当たってしまい、信州駒場で死にました。

 その後、業繁の跡を継いだ子の信業は、武田氏滅亡後北条氏に従い、天正18年(1590)、小田原城に籠城、和田城も豊臣軍に降り、城は廃城となりました(以上、『日本城郭大系4 茨城・栃木・群馬』)。

 おっと、ついつい中世の話に夢中になってしまいましたが、近世になると井伊直政は和田城跡を改修するのではなく、一旦ぶち壊して、新たに縄張りしました。

 その近世の高崎城も現在、本丸と二の丸は完全に破壊されており、往時を偲ぶ物は何も残っていません。

 さて、時刻はお昼となりました。

 城を出て駅の方へ向かい、何か食べるところがないかなあと思っていたところ、「つけそば」のお店が目にとまりました。

 そういえば、私はつけ麺は大好物ですが、つけそばは食べたことがありません。

 なにやらスープが甘辛いとのこと。

 私は甘辛い味が大好きです。

 いっちょ、食べてみますか!

 お店に入ると、カウンターだけの小じんまりとしたお店で、ジャズが流れています。

 そばは大盛りも無料ということでしたが、セルフサービスでご飯も食べ放題ということなので、そばは普通盛りにしてもらいました。

 注文してしばらくすると、初めて食べるつけそばが出てきました。

 セルフサービスのご飯をよそってきて、さっそく食べてみます。



 これは旨い!

 辛いというほどではないですが、甘みのある凄く美味しいスープです。

 牛スジで出汁を取っているということで、良い味が出ていますね。

 白ゴマもたくさん入っているのですが、ゴマの風味がアクセントになって凄く良いです。

 白いご飯にも良く合う!

 夢中で食べました。

 お店の名前は「ひゃくはち」と言います。



 城に近い方のスズランのすぐ東側にあります。

 さて、お腹一杯幸せ気分になったあとは、地図でみつけた本屋さんに行ってみたいと思います。

 少し歩くと「中央銀座」がありました。



 銀座の名のつく商店街って各地にありますね。

 しかし今日は休日だからかもしれませんが、シャッターが下りている店が目に付きます。



 少し歩くと左手に本屋さんが見えてきました。「天華堂書店」です。



 私は地方に行くと必ず本屋とか古本屋に行きます。

 地域で出版された貴重な本が売っていることが多いからです。

 天華堂書店でも、歴史コーナーで山崎一著の『続・群馬の古城』という本を見つけました。

 あかぎ出版という群馬の出版社の本です。

 これは買いだ!



 さて、午後のバスの時間は13時40分で、今はまだ12時半です。

 城内に戻って図書館に行ってみようかとも思いますが、結局、西口のバス停まで戻り、バス停のベンチで缶コーヒーを飲みながら読書をすることにします。

 1時間の読書タイムです。

 それにしても、高崎って良い街だなあ。

 広々としていて、小奇麗で、人の数もちょうど良くて活気があります。

 見たところ、食べ物屋さんも結構あって、美味しそうなラーメン屋もありました。

 まあ、私はさっきの「ひゃくはち」のつけ蕎麦がまた食べたいですが。

 ※後日註:2020年6月29日にWebで確認したところ、ひゃくはちが営業中である確認はできませんでした。ご存じの方がいらっしゃったら教えてください。

 ⇒この続きはこちら

4.補足                             



5.参考資料                           


・『日本城郭大系 4 茨城・栃木・群馬』 1980年

軍配山古墳|群馬県玉村町 ~神流川の戦いの際に滝川一益が本陣を構えたと伝わる古墳~

2020-06-28 15:52:00 | 歴史探訪


 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


佐波郡玉村町大字角渕4755-1外



別称


御幣山古墳

現況


登頂可能

史跡指定


玉村町指定史跡
名称:軍配山古墳
指定日:

出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


4世紀

墳丘


形状:円墳
径:40m(『群馬県古墳総覧』)
段築:2段
葺石:不明
埴輪:なし

主体部


竪穴系・粘土槨(『群馬県古墳総覧』)

出土遺物


主体部:刀、武器、斧、玉、鏡(『群馬県古墳総覧』)

 

3.探訪レポート                         


2019年8月18日(日)


 県内でも有数の古墳存在自治体である前橋市や高崎市の陰に隠れてしまっている感がありますが、両市の隣の玉村町にも興味深い古墳があるのです。

 つづいてその玉村町の古墳めぐりをしましょう。

 町内で最初に訪れたのは軍配山古墳です。

 田んぼの中にポツンと墳丘がありますよ。



 では、行ってみましょう。



 説明板。



 あれ、円墳と書いてありますが、外見は前方後円墳っぽい形をしていますよ。

 後世に削られて今の形になってしまったのでしょうか。

 戦国武将の絵が描かれた説明板もあります。



 ここに書かれている通り、天正10年(1582)6月に本能寺で信長が殺害された直後の織田政権軍と後北条氏との神流川(かんながわ)の戦いの際に、織田政権軍の総大将・滝川一益がこの古墳に本陣を構えたといわれています。

 古墳を本陣にするとか砦や山城にするというケースはとくに西日本で多いです。

 関東での有名どころとしては、埼玉県行田市にある埼玉古墳群の丸墓山古墳を石田三成が本陣にしたという話が有名ですね。

 ところで、滝川一益は信長の家臣の中ではエース級の人物で人気が高いのですが、関東に来たら全然人気がないように思えます。

 その辺は甲斐に入った川尻秀隆と似たところがありますが、勇猛で知られた滝川一益が後北条氏にやられちゃったというのは何とも情けないです。

 ※註:この探訪の翌年、甲府市の川尻塚を訪れましたが、何とも寂しい状況でした。

 本能寺の変によって秀吉のようにそれをチャンスと考えた武将もいますが、一益は関東に居たため、禍を転じて福と為そうとしても不利な状況でしたね。

 なお、軍記物の類によると一益は関東管領に就任したとされていますが、室町幕府が滅んでいる状態で幕府の役職が残っているというのは不自然です。

 でももしかしたら、当時の人たちのなかでは関東の支配者の代名詞として「関東管領」という呼び名が記憶として残っており、通称のような形でまだ通用した可能性もあったのではないでしょうか。

 私的には一益が関東管領と称した事実があった方が中世と近世が入り混じったマージナルな感じがして嬉しい。

 あ、今日は古代でした。

 墳丘に登りましょう。

 墳丘はなんとなく富士塚チックですよ。

 墳頂。



 墳頂からの眺望。









 こんな景色の中に築造された古墳ですから目立ちますよね。

 景色を堪能したので、下に降りてもう一度横っ腹を確認します。



 本来は40mという大き目の円墳でした。

 ついでに雷電號も。



 ではつづいて、梨ノ木山古墳へ行ってみようと思います。

 遠くから見る軍配山古墳、いいですね。





 梨ノ木山古墳はすぐ近くにあるはずです。

 (つづく)

 

4.補足                             


神流川の合戦 2020年6月28日


 「3.探訪レポート」でも出てきた神流川の戦いの前後に関しては、平山優氏の『天正壬午の乱 増補改訂版』に詳しいため、それを要約して以下に紹介します。

 まず、本能寺の変は6月2日に発生しました。

 一益の事跡に関しては軍記物に記されたことが後世に伝わっていますが、史実としては一益が信長横死を知ったのは6月9日のことで、一益は上野国衆たちに対してそれを隠します。

 一益にとってはこの緊急事態に一刻の猶予もならず、早く上洛しなければならないと焦ったはずですが、まずは後北条氏に対してしっかりと手を打たないとなりません。

 一方、小田原城の北条氏政らは11日には本能寺の件を知ります。

 氏政は間髪入れず、その日のうちに一益宛てに「逆心人を討つために私たちで協力できることがあれば何なりと相談ください」という趣旨の手紙を送り、一益を油断させておきながら、翌12日には領国に動員令を出し、上野国奪取に動きます。

 一益は家康に救援を乞いましたが家康はそれに応じてくれませんでした。

 18日になると、数日前に「何なりと相談してください」という手紙をよこした北条氏政の弟・氏邦の軍勢が一益を屠るべく上野に向けて進軍してきました。

 一益と氏邦は金窪原で激突します。

 しかしこのときの一益軍は強かった。

 氏邦勢は300人あるいは600人ともいわれる戦死者を出して退却します。

 ところが、翌19日には北条家の当主氏直自ら率いる大軍が攻め寄せ、神流川で合戦に及びます。

 このとき一益が率いた軍勢は2800名でした。

 前日の戦いで一益の下で戦った上野の国衆たちも、関東最強の有力者・北条氏直が目の前に現れたことに浮足立ち、どう考えても北条側に付いた方が安全であると計算し、ほとんど戦意を見せることはなかったようです。

 そのため、勇猛な一益は僅かな旗本衆だけを率い氏直の首級を奪うべく戦いを挑みます。

 しかしいくら勇猛とはいえあまりにも多勢に無勢。

 58歳の一益率いる軍勢は木っ端みじんに撃破されてしまいました。

 辛くも死地を脱し、箕輪城まで逃れてきた一益は敗軍を率い、かつ上野国衆から取っていた人質を伴ったまま本貫地の伊勢へ向けて逃亡します。

 なお、人質たちは逃走の過程で適宜解放されていったようです。

 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『戦国武将合戦事典』 峰岸純夫・片桐昭彦/編 2005年
・『天正壬午の乱 増補改訂版』平山優/著 2015年
・『群馬県古墳総覧』 群馬県教育委員会/編 2017年

不二山古墳(朝倉・広瀬古墳群)|群馬県前橋市 ~朝倉・広瀬古墳群の最西端に位置する中型前方後円墳~

2020-06-28 13:44:20 | 歴史探訪


 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


群馬県前橋市文京町3-2
駐車場無し



現況


登頂可能(草が刈ってあれば)

史跡指定


前橋市指定史跡
名称:不二山古墳
指定日:平成9年4月21日

出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


6世紀後半

墳丘


形状:前方後円墳
墳丘長:54.5m(『群馬県古墳総覧』)
段築:不明
葺石:不明
埴輪:あり

主体部


角閃石安山岩の削石積み両袖型横穴式石室

出土遺物


墳丘:家形埴輪
主体部:須恵器、刀、馬具、武器、玉、耳環、冠、装身具

 

3.探訪レポート                         


2019年8月18日(日)


 ⇒前回の記事はこちら

 今回はクラツーにて来週の日曜日に催行される古墳ツアーの下見にやってきているわけですが、朝倉・広瀬古墳群には4年前に訪れています。

 ⇒そのときの探訪記事はこちら

 そのとき、比較的狭いエリアに見ごたえのある古墳が集まっていることを知り、その後クラツーと契約してからはお客様をご案内したいと思っていました。

 それが今回ようやく叶うのですが、今日は事前の確認をする前に4年前に見落とした不二山古墳へ行ってみます。

 そういえばさっき偶然に見た古墳も「ふじやま」古墳でしたね。

 この辺にあるはずですが・・・

 おや、駐車場の奥に墳丘らしきものがありますよ。



 これですね。



 こちら側が後円部のようです。

 朝倉・広瀬古墳群は説明板がきちんと立てられているので、ここにもそれがあるはずです。

 おー、あったにはあったけど・・・



 残念な状況だ!



 こういうのを見て文句を言う人もいると思いますが、草刈りをするのも大変なんですよ。

 不二山古墳は前橋市指定史跡ですから、前橋市に文句を言いたくなるかもしれませんが、現実的には史跡の草刈や清掃は地元の有志の方々やボランティア団体などが担っていることが多いため、無理なことは言えず、文句を言うのであれば自身から率先してそういった活動に参加するべきだと私は考えています。

 朝倉・広瀬古墳群は、往時は150基とも200基ともいわれる古墳があったのですが、現在残っているのは、この不二山古墳を含めて10基もないはずです。

 ですから不二山古墳は貴重な古墳なのです。

 朝倉・広瀬古墳群の古墳分布図を見ると、不二山古墳は最西端に位置し、しかも興味深いのはこの古墳の周辺には寄り添うように造られた古墳がほとんどなく(カロウト山古墳のみ近くにあります)、他の同規模やそれ以上の規模の古墳と違って何か特殊な扱いを受けているように感じます。

 もしかしたら単に見つかっていないだけかもしれませんが面白いです。

 なお、前橋市のパンフレットによると不二山古墳の形状は一世代くらい前に造られた天川二子山古墳の相似形とありますが、各数値を電卓で叩いてみると相似形ではありません。

 この相似形という表現はくせもので、偉い先生がもしそう言っていたとしても、自身で電卓を叩いて確認してみることをお勧めしますし、そもそも正確なサイズが分かっている古墳は近年に高精度の測量をしたもの以外はほとんどないと考えておいた方が無難です。

 それでは、朝倉・広瀬古墳群の事前下見を済ませてしまいましょう。

 (つづく)

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板(当日は上述の通り読めなかった)
・パンフレット「朝倉・広瀬古墳群」 前橋市教育委員会/編 2017年
・『群馬県古墳総覧』 群馬県教育委員会/編 2017年
・『群馬の古墳物語 上巻』 右島和夫/著 2018年

荒砥富士山古墳|群馬県前橋市 ~県内で初めて石室の扉石が発見された終末期の円墳~

2020-06-28 12:54:01 | 歴史探訪


 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


前橋市西大室町富士山813-2外



現況


登頂可能

史跡指定


群馬県指定史跡
名称:荒砥富士山古墳
指定日:平成9年3月28日

出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


7世紀後半(現地説明板)

墳丘


形状:円墳
径:36m(現地説明板)
葺石:なし
埴輪:なし

主体部


羨道と両袖型の玄室からなる2室構造で全長6m
一部切石積み

出土遺物


墳丘:土師器
主体部:武器
前庭部:土師器、須恵器、銅鋺

 

3.探訪レポート                         


2019年8月18日(日)


 大室古墳群の事前下見が終わったので、続いて朝倉・広瀬古墳群の事前下見をしてこようと思います。

 西へ向かって雷電號を走らせていると、右手に遺跡の説明板のようなものがチラッと見えました。

 確認するために戻ります。

 おー、古墳があった!



 荒砥富士山古墳です。



 径が36mの円墳ということなので、円墳としてはまあまあ立派な方ですね。

 石室は両袖型の横穴式石室で、一部は切石積みとなっており、群馬県では初めて扉石が見つかった古墳とあります。

 これもいつもの「引き寄せられの法則」ですね。



 今日はちょっと余裕がないですし、夏ということもあるので墳丘には登らず、全体像を写真に収めるだけにとどめます。



 それでは、予定通り朝倉・広瀬古墳群へ向かいますよ。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『群馬県古墳総覧』 群馬県教育委員会/編 2017年

塚廻り4号墳|群馬県太田市 ~墳丘の埴輪樹立の様子がほぼ完ぺきに再現された帆立貝形古墳~

2020-06-26 16:52:33 | 歴史探訪


 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


群馬県太田市龍舞町3089外



現況


埴輪樹立が復元されているが登頂は不可能

史跡指定


群馬県指定史跡
名称:塚廻り古墳群第4号古墳
指定日:昭和52年9月

国指定重要文化財
名称:上野塚廻り古墳群出土埴輪
指定日:昭和60年6月

出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


古墳群は6世紀中葉から後葉(「塚廻り古墳群 パンフレット」)

墳丘


形状:帆立貝形古墳
墳丘長:22.5m(現地説明板)
段築:なし
葺石:なし
埴輪:あり

主体部


2基の主体部
両主体部ともに箱式石棺

出土遺物


墳丘:円筒埴輪、人物埴輪、馬形埴輪、器財埴輪、家形埴輪

 

3.探訪レポート                         


2019年1月23日(水)


 ⇒前回の記事はこちら

 朝子塚古墳の後は、同じ太田市内にある塚廻り(つかまわり)古墳群を目指します。

 4号墳が復元されているということで見に行きましょう。

 古代には矢場川が渡良瀬川の本流だったといわれており、その矢場川河岸の広大な沖積地が展開しています。



 広いねー。

 古墳はどこにあるんでしょうか。

 見渡す限りの平野なので墳丘があれば目立ちそうなものの、そこがこんもりとした森になっていれば見つけやすいですが、整備されていると却って見つけづらいんですよね。

 あ、見つけた。

 ようやくたどり着きました。



 この低さでは遠くからは見つけられないですね。

 乗用車1台分の駐車場がありますよ。

 停めます。



 あ、でもここは正確には駐車場じゃないですね。

 一応、道の一部のようです。

 田んぼの中の道で舗装されていない道路に繋がっているので滅多に車は来ないと思いますが、誰か来たら避けます。

 古墳周辺の風景。



 さっきと変わりませんね。

 今見ると低地感が濃厚なのですが、確かに沖積地ではあっても微妙に標高が高い(高かった)のです。

 微妙というのはたかだか1mだったりもするのですが、そういったわずかな差であっても水の危険が及ぶかそうでないかが決まるため、低地にある古墳や古代集落はわずかな高みに造られています。

 では、古墳を見てみましょう。



 盛り土の復元はほとんどないようですが、埴輪の復元は豪華ですね。

 立派な標柱がありますよ。



 説明板。



 復元された埴輪について書かれていますね。

 ここの売りはまさしくこれで、往時の埴輪の並びを忠実に再現しているところなのです。

 本物は群馬県立歴史博物館に保管してあるそうですが、展示してあるとは書いていませんね。

 お、パンフレットとか入ってるかな?



 何もない!



 説明板その2。



 ここに書かれている通り、ほ場整備の際に発見されたというのが当時としては画期的なことで、普通はこのような低地には古墳は造られなかったというのが昔の考えだったのです。

 しかも古墳は地下に眠っていることもあるため本当に貴重な発見でした。

 墳丘がある古墳が地下にあるというと意味が分からないかもしれませんが、古墳がある場所自体が地盤の沈降によって低くなることがあり、さらに墳丘が削られて低くなったその土地に土が堆積して行くと古墳は地下に潜ってしまうのです。

 墳丘がなくなってその上に土が被っても周溝の跡は明瞭に残ったりするのですが、この古墳の凄いところは先ほども言いましたが埴輪列がはっきりと分かっていることですね。

 その埴輪たちを見てみようと思いますが、この古墳群の面白い点をもう一点指摘します。



 この図に記されている11基の古墳のうち、帆立貝形が5基もある!

 これだけ帆立貝形が密集している古墳群も珍しいです。

 では埴輪。



 これらの埴輪は復元当時は普通の埴輪の色のイメージだったのですが、時間が経って色あせてしまいねずみ色になってしまいました。

 これはこれで須恵器の埴輪のようで面白いですが、本物は須恵器ではなく土師器ですからね。



 帆立貝形古墳は主として古墳時代中期(5世紀)に各地でたくさん造られたのですが、なぜこの形状になったのかは誰にもわかりません。

 帆立貝形古墳の築造と形象埴輪の普及が同時期であることから、一説には円墳に埴輪祭祀のスペースを設けるために考案されたという説もあります。

 その場合、造出付き円墳とどう違うのか、という問題もはらんでしまい、そもそも、当時の人が造出付き円墳と帆立貝形古墳をどのように区別していたのかは誰にもわかりません。



 説明板にも書いてありましたが、前方部は王権(首長権)の継承儀式を再現しているのかもしれませんね。



 もっと間近に寄って見てみたいのですが、生垣が巡らされているので近くに寄ることはできません。

 円丘の方は裾の円筒埴輪以外はそんなに立っていませんね。



 墳丘上には家形埴輪と盾形埴輪、それに大刀埴輪が並べられています。

 しかしここは埴輪祭祀を勉強するうえで格好の遺跡ですね。

 高崎市の保渡田八幡塚古墳は言うに及びませんが、塚廻り4号墳もなかなかいいです。

 しかもこの田園風景がとても気持ち良い。

 『群馬の古墳物語 上巻』を読むと右島先生もすごく気に入っているようですが、私も少しここで休憩してから次に行きたいと思います。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板
・「塚廻り古墳群 パンフレット」 太田市教育委員会文化財課/編 2012年
・『群馬県古墳総覧』 群馬県教育委員会/編 2017年
・『群馬の古墳物語 上巻』 右島和夫/著 2018年

朝子塚古墳|群馬県太田市 ~古墳時代前期の太田地方の王を葬った大型前方後円墳~

2020-06-26 13:35:45 | 歴史探訪


 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


群馬県太田市牛沢町1110-2外
駐車場無し



現況


登頂可能

史跡指定


群馬県指定史跡
名称:朝子塚古墳
指定日:昭和54年7月11日

出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


4世紀末から5世紀初頭(説明板)
4世紀半ば(自説)

墳丘


形状:前方後円墳
墳丘長:124m(現地説明板)
墳丘高:後円部11.7m、前方部7.5m(『群馬の古墳物語 上巻』)
段築:2段か
葺石:あり
埴輪:あり

出土遺物


墳丘:円筒埴輪、人物埴輪、家形埴輪、器材埴輪、底部穿孔壺
周溝:円筒埴輪

 

3.探訪レポート                         


2019年1月23日(水)


 ⇒前回の記事はこちら

 今日は早朝から板倉町、館林市、千代田町、大泉町の古墳を見ています。

 つづいて太田市に来ました。

 今まで太田市内の古墳もいくつか見ているのですが、今日はまだ見ていない古墳の中で可及的速やかに見ておかなければならないと勝手に思っている古墳を見ます。

 まずは朝子塚古墳です。

 横腹を見ます。



 左(北西側)が後円部になります。

 邪魔にならない場所に雷電號を停め、墳丘へ向かいます。

 前方部側に来て、いつもの好きなアングルを確認。



 それでは墳丘に取り付きます。

 途中に段差があって2段築成に見えます。

 前方部墳頂から後円部方向。



 前方部は底辺があまり広がらないスレンダーな形状で、後円部径が65mなのに対し、前方部幅は48mで後円部径に比べて73.8%になっています。

 面白いのは同じ「ちょうしづか」という名前が付けられている山梨県を代表する甲斐銚子塚古墳と形状が似ているところで、甲斐銚子塚古墳は墳丘長169mで後円部径は92m、前方部幅は68mとなり比率は73.9%です。


 ※甲斐銚子塚古墳(山梨県甲府市)

 つまり両古墳は共通の設計思想によって造られた古墳の可能性が高く、甲斐朝子塚古墳が4世紀半ばの築造であるので、こちらの朝子塚古墳も同じころの築造と考えていいのではないでしょうか。

 両者とも同じヤマトの王につながる地方の王ということになり、ヤマトの宮殿での行事の際に一緒に飲んだ仲かもしれませんよ。

 北側の眺望。



 前方部エッヂ部分。



 くびれ部分から後円部方向を見ます。



 鞍部は近所の人たちの道となっているようで、掘割状の通路になっています。



 前方部を振り返ります。



 鞍部。



 つづいて後円部に行こうと思いますが、前方部と後円部の比高差が結構ありますよ。



 前期古墳らしい比高差ですね。

 結構急な斜面を登り後円部に来ました。

 前方部方向を見ます。



 あ、被葬者だ!



 朝子塚古墳の被葬者はアフロでした。

 北側の道路方面を見下ろします。



 後円部墳頂には雷電神社がありました。



 この辺は完全なる平野部ですから、雷様は昔から怖かったんですね。

 関東平野ではたまに見られますが、古墳の墳頂は雷神様を祀るにはうってつけの場所です。

 『群馬の古墳物語 上巻』によると、朝子塚古墳は昭和31年に群馬大学によって発掘調査がされており、後円部墳丘裾部分には裾を全周していたと思われる埴輪列の一部が見つかり、後円部墳頂の辺縁部分にも埴輪列が見つかりました。

 さらに墳頂の南寄りの部分に9m×3.5mほどの長方形をかたちづくった埴輪列があったことが分かっています。

 同書では長方形の埴輪列の大きさから想定してその直下に割竹形木棺を用いた主体部があり、さらに同様な主体部が北側にもあったとしており、その可能性は高いのではないでしょうか。

 残念ながら昭和31年の調査以来、発掘調査がされていないようです。

 雷電神社の参道が麓へ続いています。



 下に降りてみましょう。

 こちらに説明板がありましたね。





 説明板では築造時期を4世紀末から5世紀初頭としていますが、既述した通り私は4世紀半ばだと考えています。

 円筒埴輪が大量に出ているので、それを見れば時期を絞れると思うのですが。

 また、円筒埴輪などの普通の埴輪以外にも底部穿孔壺が出ていますから古い古墳であることは間違いないです。



 そういえば、いみじくも今私は「古い古墳」と言いましたが、古墳はただでさえ古いのに、「古い古墳」とか「新しい古墳」という言い回しをするのは面白いです。

 6世紀末の前方後円墳をツアーで案内するときなどは、「これが最新型の前方後円墳です!」と紹介することがありますが、お客様が不思議そうな顔をしていることがあります。

 前方部側に戻ってきました。



 では引き続き、太田市内の気になる古墳をめぐって見ますよ。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『群馬県古墳総覧』 群馬県教育委員会/編 2017年
・『群馬の古墳物語 上巻』 右島和夫/著 2018年

古海前原1号墳|群馬県大泉町 ~主体部が4層になっている珍しい古墳~

2020-06-26 12:07:28 | 歴史探訪


 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


群馬県邑楽郡大泉町大字古海295



現況


公園として整備されており登頂可能

史跡指定




出土遺物が見られる場所


大泉町文化むら埋蔵文化財展示室

 

2.諸元                             


築造時期


5世紀末(現地説明板)

墳丘


形状:帆立貝形古墳
墳丘長:53m(現地説明板)
段築:2段築成+基壇
埴輪:あり

出土遺物


周溝:円筒埴輪
墳丘:円筒埴輪、土師器、須恵器
埋葬主体:同向式画文帯神獣鏡、刀、馬具、農具、武器、刀子、堅櫛

 

3.探訪レポート                         


2019年1月23日(水)


 ⇒前回の記事はこちら

 大泉町文化むらを出て、古海前原古墳群へ向かいます。

 古海前原古墳群は先ほど見た古海松塚古墳群のすぐ隣だったんですね。

 行ったり来たりと効率が悪いですが仕方がないです。

 ナヴィに脳内を支配されてたどり着い場所には、きれいな墳丘が存在しました。



 説明板も立派なものが設置されていますよ。



 読んでみましょう。



 5世紀末に造られた墳丘長53mの帆立貝形古墳です。

 墳丘図。



 本当だ、竪穴系も埋葬主体が4層になっています。

 でも当初からそうする気は無くて、古墳築造時に造られた第4主体部の深さは常識的な深さです。

 その次の第3主体部は、この図からの印象だと第4主体部を少し破壊しているように見えます。

 2層くらいであれば見かけますが、4層にも重なてしまったということは、被葬者本人か周囲の重要人物がどうしてもこの古墳に埋葬したかったということが言えます。

 他に墳丘を造らずに、この古墳に埋葬したかった真意は何でしょう?

 なお、昭和初期の調査で8,432基という結果になっていましたが、最近数えなおしたら1万3000基を超えていることが分かりました。

 椅子に座る巫女の埴輪と言うのは、さきほど文化むらで見た複製のことでしょうか。



 墳頂に登ります。

 向こうの住宅が建っている方向に前方部があったようですが、今はもうありません。



 周囲は住宅街ですが、円丘部分だけでもこうやって残されて整備されているのはありがたいですね。

 墳頂には主体部についての説明が埋め込まれていました。



 第4主体部は粘土槨で、割竹形木棺と推測していますがおそらくそうでしょう。

 第3主体部以降は礫槨となっています。

 第3主体部の幅は30㎝で普通考えたらこの幅では乳児をのぞいて遺体は納められませんが、副葬品がなかったようなのが気になります。

 同范鏡が23面ある同向式画文帯神獣鏡は、第2主体部から出たんですね。

 下を見ると、円筒埴輪列がちょっとだけ再現されています。



 佇まいが何となく府中市の高倉塚を思い出させます。



 さきほど埋蔵文化財展示室で見た資料によると、この周辺には墳丘が残る古墳がまだいくつか残っているようです。

 でもこの後の予定もあるので今日のところは大泉町の探訪はこれで終わりにして、太田市へ向かおうと思います。

 古海前原古墳群にはまた改めて来てみたいです。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『群馬県古墳総覧』 群馬県教育委員会/編 2017年

大泉町文化むら埋蔵文化財展示室|群馬県大泉町 ~鹿角装大刀埴輪などの珍しい遺物が見られ大泉町の遺跡を知るには必ず訪れたい施設~

2020-06-26 10:52:12 | 歴史探訪


 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


群馬県邑楽郡大泉町朝日5-24-1



 

2.諸元                             



 

3.探訪レポート                         


2019年1月23日(水)


 ⇒前回の記事はこちら

 大泉町文化むらにやってきました。

 敷地内にはいくつかの建物があるようです。

 埋蔵文化財展示室がある展示ホール棟へ行きます。



 思っていたよりも立派な建物ですよ。

 入館は無料ということでお邪魔します!



 ショーケースに単独で展示されている人物埴輪がひときわ目立ちますね。





 複製品ということですが、古海からは結構凄いのが出てるんですね。

 しかし、いつも思うのは、上野の国立博物館は集めるだけ集めておいて展示する余裕がなく、宝の持ち腐れになっているのは大変もったいないことですね。

 といっても、博物館の方もなるべくそうはならないように展示替えをして工夫をしたり、あとは展示するにも結構お金がかかるので、そういう予算との兼ね合いもあり苦労していると推察します。

 縄文土器をチェック。
 


 蓋!



 弥生土器の蓋はたまに見るのですが、縄文土器の蓋(と思われるもの)って出土例があまりないため、これは貴重ですよ。

 この注口土器は大きくてゴージャス。



 注口部分は人の顔をイメージしているんじゃないでしょうか?

 では、この展示室の目玉であ古墳関係の展示を見てみましょう。

 さきほど現地を訪れましたが、古海松塚11号墳の展示コーナーです。



 あの子はいるかな・・・

 いた!

 いたけどパネル展示だ!



 そっか、本人は群馬県立歴史博物館へ出向してしまっているんですね。

 今日は探訪の最後に寄ろうと考えているので、夕方会えると思います。

 円筒埴輪たち。





 こちらのコーナーも古海松塚11号墳出土遺物です。



 鹿角装大刀埴輪というのは多分初めて見ました。



 古墳時代の刀には柄の部分など、一部のパーツに鹿角を使ったものがあったんですね。

 そういうもの自体、私は聞いたことがなかったのですが、それを埴輪にしてしまったという珍しい逸品です。



 古海地内10号古墳出土の円筒埴輪。



 ※写真のパネル展示で発掘時の埴輪列が示されていますが、ちゃんと撮ってくればよかった。

 古海前原1号墳出土の円筒埴輪。



 同じく古海前原1号墳出土の同向式画文帯神獣鏡(どうこうしきがもんたいしんじゅうきょう)。



 こちらはレプリカで、実物は群馬県立歴史博物館にあるそうです。

 同范鏡が全国で23面あるんですね。



 近くでは栃木県の牛塚古墳からも出ていますが、この牛塚は宇都宮市の雀宮牛塚古墳です。

 あと、クラツーでよくご案内している奈良県橿原市の新沢千塚古墳群からも出ていますね。

 おっと、出ましたよー。

 東海人進出の証です。



 御正作(ごしょうさく)遺跡では、古墳時代初期の住居跡が38棟と方形周溝墓が7基、円形周溝墓が1基見つかっており、そのうちの2基の方形周溝墓は一辺が25mを超える大型のものですから、古墳の築造までは至らなかったものの、この地域を治めた有力者の存在を明らかにしています。

 S字甕。



 東海人が関東へやってきて自分たちの故郷の土器の発展形として石田川式土器(群馬県太田市の石田川遺跡)を造りますが、五領式土器(埼玉県東松山市の五領遺跡)とは形が似ています。

 でもよくみると明瞭なちがいがあり、それを説明したパネルがありました。



 こちらは石田川式です。



 口縁がS字になっていますね。



 こちらは五領式土器。



 ただし、五領式土器とってもこれは一例で、五領式土器というのは私の印象ではあまり体系化されて整理されている印象がなく、ちょっと自分の中でも何とも言えない状態なのでもっと勉強します。

 以上、町の小さな展示室という感じでしたが鹿角装大刀埴輪などの珍しいものも見られて楽しかったです。

 個人的に一番の目玉だと思っている馬形埴輪は県立の方へ行ってしまっていますが、大泉町の遺跡について知るには必ず立ち寄りたい展示室ですね。

 さて、今日は事前調査をほとんどせずにこちらへやってきましたが、展示を見ていたら古海前原1号墳が復元されて現存することを知ったので、太田市へ向かう前にそれを見に行ってみましょう。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・展示資料

古海松塚古墳群/西ノ原1号墳|群馬県大泉町・千代田町 ~県内最古の馬形埴輪が出土した古墳群~

2020-06-26 09:07:21 | 歴史探訪


 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


群馬県邑楽郡大泉町大字古海



現況


住宅街

史跡指定


群馬県指定重要文化財
古海松塚11号古墳出土の埴輪類
平成20年3月27日

出土遺物が見られる場所


大泉町文化むら埋蔵文化財展示室

 

2.諸元                             


築造時期


古海松塚古墳群は5世紀後半から6世紀にかけての群集墳

出土遺物


多数

 

3.探訪レポート                         


2019年1月23日(水)


 ⇒前回の記事はこちら

 千代田町で「歴史ワンダーランド・赤岩堂山古墳」を見た後は、大泉町へ移動です。

 少し前に右島和夫さんの『群馬の古墳物語』の上下巻を買い、それを読んでみたら未踏の群馬県東南部にも面白そうな古墳がたくさんあることを知りました。



 今回はそれらの古墳を見にやってきたわけですが、探訪目的の一つは、大泉町の古海松塚(こかいまつづか)11号墳から出土した県内最古の馬の埴輪を見ることです。

 その埴輪は大泉町文化むらにある埋蔵文化財展示室に展示してあるそうなのですが、9時のオープン時刻より早くこちらに来てしまったので、展示を見る前に古海松塚古墳群の現況を見てみようと思います。

 上述書に掲載されている古墳全体図を頼りに、古墳群の最東端に記されている松塚1号墳の場所に来てみました。



 更地になっていますが、図によるとここに帆立貝形の松塚1号墳があったようです。

 ※後日註:この日の夕方に入手した『群馬県古墳総覧』によると、この古墳は古海松塚1号墳と記され、墳丘長42mの帆立貝形古墳です。

 古海松塚古墳群は昭和63年から平成5年にかけて60基も調査されたということですが、調査の理由は区画整理事業のためですから、その60基はもう存在しないと思っていいでしょう。

 それでも何か残っていないかなと思い、雷電號を低速で巡航させて周囲を伺ってみます。

 墳丘らしきものがありますが違うでしょうか。



 中世の村のようなコピー。



 いいですか、怪しいと感じたら間髪入れず通報ですぞ!

 あー、警察官の身体が持たない・・・

 公園の中に墳丘らしきものがありますよ。



 上述書の図を見るとこの公園内には小さな円墳が数基あり、その中でも比較的大き目な円墳の残骸がこれじゃないでしょうか。



 ※後日註:『群馬県古墳総覧』を見ると、周辺の古墳の墳丘が軒並み削平されている中で、径15mの円墳である古海松塚5号墳の墳丘の残りが「△」となっていることから、これは5号墳じゃないでしょうか。



 この公園と道路を挟んで南側にはゲートボール場(グラウンドゴルフ場?)があって、近所の方々が大勢集まってプレイしています。

 図を見ると、馬形埴輪が出土した11号墳の墳丘の位置は公園とゲートボール場にかかっていますが、さすがにそちらへカメラを向けるのは憚られるのでしないです。

 通報しないでね。

 大泉町のHPによると、11号墳は5世紀後半に築造された帆立貝形古墳で墳丘長は約35mです。

 ※後日註:『群馬県古墳総覧』によると、11号墳は高德寺東古墳とも呼ばれ、墳丘長は33m、周溝からは馬形埴輪以外にも円筒埴輪や人物・器財形埴輪が見つかっており、主体部からは三環鈴や六環鈴が出ています。

 なお、この公園の名前は「古海第二公園」と言いますよ。



 さて、図を見渡してみると、古墳群の中でもっとも大きいと思われる前方後円墳の25号墳が気になります。

 これも削平されていると思いますが、試しに現地へ行ってみましょう。

 この辺のはずですが・・・

 現況は雑木林ですね。

 道路側から観察すると林の中に墳丘らしきものがありますよ。
 


 何か神社でもあったのでしょうか。



 この場所は区画整理の範囲外になっていますが、大泉町ではなく千代田町の領域に入るんですね。



 そのため、破壊されずに残っているのでしょう。



 ※後日註:『群馬県古墳総覧』によると、この古墳は千代田町の西ノ原古墳群1号墳となっており、通称を観音山古墳と言い、墳丘長60mの堂々たる前方後円墳で、主体部は横穴式石室であることから後期の古墳でしょう。

 さて、予備調査をしないで思い付きで探訪するとこんな感じになってしまいますが、つづいて大泉町文化むらにある埋蔵文化財展示室へ行って見ますよ。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・『群馬県古墳総覧』 群馬県教育委員会/編 2017年
・『群馬の古墳物語 上巻』 右島和夫/著 2018年

元島名将軍塚古墳|群馬県高崎市 ~「イノの王」が眠る東国最古級の前方後方墳~

2020-06-22 14:32:20 | 歴史探訪
 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料


 

1.基本情報                           


所在地


群馬県高崎市元島名町162



現況


島名神社

史跡指定


高崎市指定史跡
名称:将軍塚古墳 附 周濠出土の底部穿孔壺型土器等一括資料
指定日:昭和48年1月31日(附は平成3年3月1日)

出土遺物が見られる場所


高崎市歴史民俗資料館

 

2.諸元                             


築造時期


4世紀後半(説明板)
3世紀第3四半期(『関東における古墳出現期の変革』)

被葬者像



墳丘


形状:前方後方墳
墳丘長:96m(現地説明板)
墳丘高:後方部約8.6m/前方部約4.7m(説明板)
段築:前方部2段、後方部3段と想定(『群馬の古墳物語 下巻』)
葺石:なし
埴輪:なし

周溝


発掘調査の結果、底面は有段であったことが分かった

主体部


後方部墳頂から2m下に1.8m×0.6mほどの竪穴
周囲に粘土が見られたことから粘土槨であったと想定

出土遺物


主体部:人骨、獣形鏡、碧玉製の石釧、刀、ヤリガンナの残欠、鉄片や木片
墳丘裾:底部穿孔壺、S字状口縁台付甕

 

3.探訪レポート                         


2013年5月5日(日)


 前日から私は比田井克仁著の『関東における古墳出現期の変革』を読んでおり、弥生時代から古墳時代に移り変わるころの関東地方を調べていました。



 関東地方では前方後「円」墳とは違うタイプの前方後「方」墳が、前方後円墳に先駆けて数多く築かれるのですが、該書の中では関東と濃尾地方が関係を濃密にした時期(3世紀第3四半期)のいくつかの東国の前方後方墳の名前が挙がっています。

 その中で最初は長野県松本市の弘法山古墳を見てみたいと思いました。

 そしてせっかく行くからには博物館も見てみたいと思いました。

 しかし調べてみると、松本市の考古資料を集めている考古博物館は、とても辺鄙なところにあり、何と休日はバスが走っていないのです!

 公共交通機関を使って来る人は平日に来いということですか。

 まあ、車社会の土地なので仕方がないですね。

 ※註:弘法山古墳や松本市考古博物館にはこの時から5年経った2018年11月になってようやく念願叶い訪れることができました。

 ⇒弘法山古墳のページはこちら

 ということで、別の古墳にしようと思ったところ、群馬県高崎市の元島名将軍塚古墳が良いと思いました。

 高崎であれば八王子から八高線で行けます。

 しかも高崎には「かみつけの里博物館」という施設があり、周りには整備された保渡田古墳群があり、いつか行ってみたいと思っていたので、ちょうど良いということで高崎に決定!

八高線に乗り武蔵七党の故地を北上する


 5時半に起床して、6時5分に出発です。

 コンビニに寄って、おにぎりとお茶と缶コーヒーを買って高尾駅に向かいます。



 日曜の早朝ですが、チラホラと人がいます。

 ホームには中央本線の松本行きが停まっていました。



 115系の長野支社色ですね。

 でももちろん今日はこれには乗りません。

 ちなみに松本へはこれで3時間半で行けます。

 今日まず乗るのは6時21分発の中央快速の東京行きです。



 E233系です。

 八王子に着くと、今度は八高線に乗り換えます。



 6時32分発の川越行きの209系3000番台です。

 八高線は通勤でも使ったことがありますが、隣の北八王子に会社や工場がたくさんあるので、平日の朝は一駅だけ凄い混みます。

 今日は椅子が全部埋まるくらいの混み具合です。

 定刻になりゆっくりと電車は走り始めました。

 八高線は単線で心なしかのんびり走るような気がします。

 さて、実は私は八高線では拝島までしか行ったことがありません。

 初めて行く場所ってワクワクしますよね。

 拝島あたりから進行方向左手の車窓を見ると、富士山の頭が見え隠れしています。

 箱根ヶ崎を過ぎると、東京都から埼玉県へ侵入です。

 埼玉県に入って最初の駅は金子駅で、金子と言ったら、古代末から中世初頭にかけての武蔵の武士団である、武蔵七党のひとつ村山党の一派金子氏の土地です。

 武蔵国は埼玉県側である北部側の方が東京都側の南武蔵よりも武士がよく繁茂していました。

 高麗川駅に着いたら乗り換えです。

 この路線は八王子と高崎を結んだので八高線という名前がついていますが、八王子と高崎の直通電車はありません。

 なぜならば、高麗川から北側は非電化区間だからです。

 電車は走れないのです。

 そのため、ここでディーゼルカーに乗り換えです。

 隣のホームにはキハ110系が待っていました。



 何となつかしい!

 キハ110系は、岩手の釜石線や北上線で何度か乗ったことがあります。

 発車するときディーゼルエンジンが唸り声を上げます。

 この音もなつかしい・・・

 高麗川を7時28分に出ると、私はロングシートに座っていたのですが、前に座っている中年の夫婦がサンドイッチを食べ始めたので、私もおにぎりを食べました。

 電車の中で食べるとなんか凄く美味しいんですよね。

 おにぎりを食べ終えて、さらに30~40分くらい乗っていると、寄居駅に着きました。

 寄居は秩父鉄道も走っています。

 そして隣の秩父鉄道のホームを見ると、昔の中央線のようなオレンジの車両が見えます。

 なつかしい201系かと思い前を見たら何と201系よりも古い103系じゃないですか!

 ここではJR(国鉄)のお古が活躍しているんですね。

 あー残念、写真は撮れませんでした。

 寄居を出てしばらく進むと、児玉駅に着きました。

 ここも武蔵七党の児玉党の故地ですね。



 往時、児玉党の武士団もこのような景色を見ながら馬を走らせていたかと思うと、とてもロマンを感じます。

 そして車内にいる地元の高校生の男子を見ても、中世の武蔵七党武士団の若武者のように見えてきます。

 次の駅は丹荘駅。

 こちらもやはり武蔵七党の丹党の勢力範囲ですね。



 丹党は丹治党ともいい、天正19年(1591)の九戸政実の乱(岩手県で戦われた秀吉の天下統一の最後の戦い)で政実の軍師として活躍した円子右馬丞元綱も丹党の流れです。

 丹荘駅を出て、少し大きな川である神流川を渡ると、いよいよ群馬県、上野(こうづけ)国です。

 群馬県に入って最初の駅である群馬藤岡駅では結構人が乗ってきました。

 そして群馬藤岡から三つ目が高崎駅です。

 8時57分、高崎に到着しました!

 おおよそ3時間の旅でした。

 意外と近い。

 高崎駅には湘南新宿ラインが停まっていました。



 E231系ですね。

 隣には、185系も停まっています。



 改札を出ると、まずはバスの乗り場と時間を確認するために、西口に行ってみます。



 正面(西側)には高崎市役所のビルが見えます。



 北側にもデパートの高島屋を初めとして商業施設がありますね。



 タワーレコード(CD屋)やジュンク堂(本屋)、ミュージックランド・キー(楽器屋)など東京でおなじみの店もあります。

 バスの時間はあらかじめ調べてきてはいますが、乗り場を確認するためにバス停に行ってみます。

 最初の目的地である元島名将軍塚古墳へ行くには、群馬中央バスの県立女子大行きで、1番乗り場でした。

 発車時刻は9時45分なので少し時間があります。

 東口も見てみましょうか。 



 こちらもきれいに整った町になっています。



 ヤマダ電気LABIもありますね。



 ちなみにヤマダ電機は前橋が発祥ですが、都内の人には昔からメジャーなビックカメラはここ高崎が発祥なのです。

 そして、コジマは栃木県、ケーズデンキは茨城県というように、北関東からは家電量販店がいくつも出現しているのです。

 実は私は群馬県は今まで長野や新潟に行く際に通過しただけで、町に降り立ったのは今日が初めてです。

 群馬県の県庁所在地は前橋ですが、県内で一番人口が多い自治体は高崎市なんですね。

 高崎は鉄道の場合も上越新幹線や長野新幹線が停まり、いろいろな線が集まっています。

 ※註:後で気づいたのですが、車のナンバープレートも群馬と高崎があります。

 そういうわけで、今日私は人間の数では群馬一番の町に来たわけです。

 少し時間があるので、上信電鉄を見に行ってみましょうか。

 入場券を買ってホームに入ると、ちょうど電車が入線してくるところでした。



 近づいてきます。



 可愛らしい電車ですね。

 ホームの先にはいくつか他の種類の電車も停まっています。

 右側の電車は昔の東武線にこんな顔をした電車がいましたが、それとは違うかな?



 ※註:東武顔をしていますが、帰宅後調べたら上信電鉄の自社発注車でした。

 いいなあ。



 さて、そろそろ良い時間になってきたので、バス乗り場へ向かいます。 

 今度はあらためて時間を確保して上信電鉄に乗りに来たいです。



 入場券は記念に取っておこうっと。

念願の前方後方墳


 バスの発車の時刻が迫ってきたので、高崎駅西口のバスターミナルの1番乗り場に行ってみるとバスが停まっていました。



 群馬中央バスの9時45分発、県立女子大行きです。

 元島名将軍塚古墳は高崎駅からは東の方向にあるのですが、バスは西口から出ているのです。

 バスは発車すると、まずは街中を走り、それから国道354号線に乗り東を目指します。

 初めての土地でバスに乗るって結構緊張しますよね。

 このバスは次のバス停が車内前方の掲示板に表示されないので、降り過ごさないようにアナウンスの声に注意します。

 おおよそ15分ほどで慈眼寺裏(じげんじうら)に到着しました。

 料金は360円です。

 バスを降りると、西に少し戻り上滝町のT字路を右折し北へ向かいます。

 バス停から5分ほど歩いたところで、右側前方にこんもりとした森が見えました。

 あれが古墳じゃないか?



 さらにその先には島名神社の入口がありました。



 事前の調べでは、元島名将軍塚古墳の前方部には島名神社の社殿があるということだったので、神社へ行ってみます。



 鳥居をくぐります。

 すると、古墳らしき土盛りがありました!



 標柱と説明板もあります!

 ここですね。

 間違いないです。

 まずは説明板を見てみましょう。



 なるほど、古墳の規模は全長96メートルですね。



 この大きさは私が住む都内では大きい方ですが、古墳大国の群馬ではとくに驚くほどではありません。

 でも、前方後方墳としては大きいほうなのかな?

 ちなみに私は前方後方墳を生で見るのは初めてになります。

 東国の人間としては、憧れの前方後方墳を見ることができて感動なのだ!

 さて、横の石段の上には島名神社の社殿があります。



 しかし気持ちが逸るので、まずは後方部に登って見てみましょう。

 後方部に登ろうとすると、前方に猫ちんを発見しました。

 ちょうど獲物を狙って飛びかかろうとしているところです。



 静かに近づいてみると・・・

 あ、やっぱり気付かれた。



 猫ちんは後方部墳頂に向かって走り去って行きました。

 私も猫ちんを追って後方部に登ります。



 後方部から前方部を見ると、だいぶ削られてしまっているのが分かります。



 古墳には埴輪が付きものだと思う方もおられると思いますが、元島名将軍塚古墳では埴輪は発見されていません。

 また、後方部中心にあった主体部(埋葬施設)からは人骨が発見されており、頭部を北向きにしていたそうです。

 主体部からの出土遺物は、人骨以外に獣形鏡が一点、碧玉製の石釧(いしくしろ=腕輪)が一点、あとは刀やヤリガンナの残欠、鉄片や木片が出ています。

 石釧は碧玉製では現在確認できるものとしては県内唯一の出土です。

 遺物の石釧と獣形鏡は、東京国立博物館へ行き、他のものは県立歴史博物館や元島名将軍塚古墳の近所にある歴史民俗資料館にあるそうです。

 国立博物館に持って行かれたということは相当貴重なものなんですね。

 後方部から降りて、順序が逆になってしまいましたが、神様にご挨拶をします。



 石碑の説明によると、島名神社の創立年代は不詳だそうです。

 ヤマト王権から東国には彦狭嶋王(ひこさしまおう=第7代孝霊天皇の子)が派遣されたという伝承があるのですが、石碑を読むとどうやら元島名将軍塚古墳は、彦狭嶋王の墓であるとの伝承があるようで、古墳が作られた4世紀後半(この時期に関しては改めて後述)に神社が創建されたと考えられているようです。

 それはあくまでも伝承ですが、史料上からは「延喜式」に「従四位上 嶋名明神」とあるそうなので、古い神社であることは確かです。

 また、以前は八幡宮だったそうです。

 既述した通り、社殿は古墳の前方部に建っているのですが、その南側は現在では地元で「将軍淵」といわれる浸食谷によって少し削られています。

 おそらく社殿を建てる際に社殿基部は整形しているものと思われます。



 それでは元島名将軍塚古墳の遠景を見てみましょう。

 道路に出て北側に回り込みます。

 写真では分かりづらいですが、北側から見ると8.6メートルを測る後方部は結構高さがあります。



 良い眺めですねえ。

 今度はもうちょっと角度を変えて、北東方向から見てみます。

 古墳を横から見る感じです。



 これも写真だと分かりづらいですが、肉眼では古墳らしさが良く分かります。

 しばらく道路に座ってお茶を飲みながら古墳を眺めます。

 気温も結構上がってきていて少し暑いですが、良い天気なのでこういう長閑な雰囲気を楽しむのも良いですね。

 さて、そろそろバスの時間なのでバス停に戻りましょう。

 バスの時間は10時50分。

 それを逃すと次は2時間後です。

 ほとんど時間が無くなってしまったので、この近くにある高崎市歴史民俗資料館には寄れません。

 残念ですが仕方がありません。

 ※註:この2年後に再訪した時は、高崎市歴史民俗資料館を見学することができました。

 10時50分を少し過ぎてバスがやってきました。

 それでは高崎駅まで戻り、高崎城を見てから昼飯を食べましょう。

 ⇒この続きはこちら

 

2015年5月6日(水)


 思っていたよりもかなり楽しめた高崎市歴史民俗資料館を出たあとは、元島名将軍塚古墳に向かいます。

 しかし2年前も来ており、しかも季節も同じであるので、とくに再訪する必要もないような感じもしますが、やはり将軍様に一言ご挨拶をしてから行きたいと思います。

 あれ?前回来た時に見た焼肉屋は名前が変わっている。

 そして駐車場の一画にはソーラーパネルが並べてあります。



 群馬県内を歩いていると、よくソーラーパネルが設置されているのを見ます。

 島名神社の入口に来ました。



 2年前に来たばかりなので新鮮味はないですね。

 それでもやはり、墳丘の上には登ります。



 そして前回と同じように北側に回り込み遠景を撮ります。









 さて、この元島名将軍塚古墳ですが、ここまで歩いてきたことで分かる通り、東山道武蔵路の沿線にあります。

 古墳が築造されたのは、比田井説を取ると3世紀後第3四半期ですので、それから400年以上経ってからここを歩いた中央の官人や遣いの人、それに旅人達は元島名将軍塚古墳を見て、昔の偉い人のお墓として認識していたんでしょうかね。

 (つづく)

その後の探訪


 2016年4月にクラツーと契約してから群馬の古墳ツアーとしては最初に造ったツアーに元島名将軍塚古墳を盛り込みました。

 お陰様でそのツアーは好評をいただき、現在までに10回催行しており、テレビ東京「旅スルおつかれさま ハーフタイムツアーズ」でも取り上げられました。

 ツアーにて探訪した日は以下の通りです。

 ・2017年4月2日(事前下見)
 ・同年4月8日
 ・同年12月9日
 ・2018年7月21日
 ・同年8月21日
 ・同年12月9日
 ・2019年5月29日
 ・同年6月2日
 ・同年11月17日
 ・2020年1月12日
 ・同年3月1日

 バスで乗り付けて、多いときは40名くらいの人数の時もあるので、おそらく現地の方々は最初はビックリされたかと思いますが、今はもう「あーまた物好きな人たちがきた」程度に思ってくださっているのでないでしょうか。

 現地の皆さん、毎回お騒がせして申し訳ありませんが、今後ともよろしくお願いいたします。

 

4.補足                             


元島名将軍塚古墳の被葬者像とその支配地域 2020年6月22日


 元島名将軍塚古墳の後方部東側裾部では石田川式土器が見つかっており、元島名将軍塚の被葬者は石田川式文化の統率者でした。

 石田川式の甕を見ると、濃尾の「S字状口縁台付甕」、通称「S字甕」とそっくりで、古墳時代の幕開けとともに濃尾からやってきた集団が利根川あるいは渡良瀬川をさかのぼって現在の群馬県域に侵入し、石田川式土器を作り、石田川式文化圏を形成したことが分かります。

 以下の写真は群馬県立歴史博物館で撮影したものですが、まずはこちらが高崎市新保遺跡出土の東海西部(濃尾)系のS字甕です。



 口縁部がS字になっていますね。



 と、ツアーの時に現物を見せてお客様に説明しても「分からない!」と言われることがありますが、そう見えるようになってください。

 つづいて、S字甕が在地化した中溝・深町遺跡出土の石田川式のS字甕です。



 濃尾の人びとが入ってくる前の群馬県域には樽式土器を使用する人びとが住んでいましたが、樽式文化の人びとは沖積低地の開発を上手にできず、そういった場所は弥生時代後期にも空白地が多く、石田川式文化の人びとは沖積地の開発をしつつ居住範囲を広げ、少し戦いの形跡はあるものの基本的には両者は住み分けをしていました。

 元島名将軍塚古墳を含めた群馬県域の初期古墳(前方後方墳)は石田川文化人が作りましたが、石田川文化人の勢力範囲は利根川と渡良瀬川の流域となります。

 利根川流域を見るとその中で最大規模のものは前橋市にある朝倉・広瀬古墳群に属する前橋八幡山古墳(墳丘長は前方後方墳としては東日本最大の130m)で、それに次ぐのが元島名将軍塚となり、前橋八幡山は利根川本流(現在の広瀬川)を支配地域とし、元島名将軍塚は利根川の支流である井野川流域を支配範囲としました。

 便宜上、私は元島名将軍塚の被葬者を「イノの王」と呼びます。

 それでは、イノの王の支配地域を現在分かっている遺跡の情報をもとに見てみましょう。



 この図にはいくつかの遺跡がプロットしてありますが、まず利根川の流路は図に書いてある通り、この図の範囲にある現在の利根川は往時はありませんので、利根川は無視してください。

 王の支配地域には被支配者の居住地域があるわけですが、古墳から北西方向に代表的な集落が集中しています。

 井野川の段丘の上には元島名遺跡や鈴ノ宮遺跡があり、井野川低地には高崎情報団地Ⅰ遺跡、同Ⅱ遺跡、南大類稲荷遺跡などがあります。

 それらの中には、小型の前方後方墳あるいは前方後方型の方形周溝墓が存在することがあり、その被葬者はイノの王の下、各集落を支配した有力者の墓でしょう。

 一方、北側の現在の利根川流路の方向にある萩原・沖中遺跡や西横手遺跡群といった遺跡には方形周溝墓群があり、西側の柴崎遺跡群からも周溝墓が見つかっています。

 水田跡もこの周辺では古墳時代以降のものが多数見つかっていますが、高崎JCTを造る際の発掘では多くの水田跡が見つかっており、イノの王の支配地域はコメもふんだんにあったと想定できます。

 では、王はどこに住んでいたのかというと、この周辺からは古墳時代前期の豪族居館跡は見つかっていません。

 気になるのは、古墳のすぐ東側の上滝榎町北遺跡で建物跡が検出されていることで、これについての詳細は私には分からず、もしご存じの方がいらっしゃったらご教示ください。

 なお、元島名将軍塚の向きですが、おおよそ後方部が榛名山へ向いています。

 元島名将軍塚が築造された後、榛名山は数回大噴火を起こしていますから、いま現地に行って榛名山を眺めても古墳時代人が見ていたものとは山容が違うのですが、群馬の古墳へ行ったときは、ぜひ榛名や赤城、そして浅間山などの周囲の山を眺めて往時の人たちの気持ちに思いを馳せてみてください。

元島名将軍塚古墳の後継古墳は?  2020年6月22日


 元島名将軍塚古墳に継ぐ首長墓を周辺から探してみると、井野川を下った直線距離で約4.5㎞の場所に、関越道建設によって湮滅した下郷天神塚古墳がありました。

 下郷天神塚古墳は、墳丘長102mで円筒・朝顔形Ⅱ式が出土しており、前方後円墳集成ではⅣ期となっています。

 ただ、Ⅳ期だと4世紀後半になるので、元島名将軍塚を比田井克仁さんの説を参考に3世紀第三四半期と考えている私からすると、元島名将軍塚古墳とは100年以上の間隔が開いてしまうことが気になります。

 両古墳の間を埋めるものとしては、前方後円墳集成でⅡ期とされる玉村町の川井稲荷山古墳が候補となりますが、当該古墳の墳丘長は43mでやや物足りない気がします。

 ただし、特筆すべきは、川井稲荷山古墳からは三角縁神獣鏡が出ている点で、濃尾勢力の影響下にあった井野川流域に初期ヤマト王権が調略の手を伸ばしてきた形跡であると考えます。



 なお、川井稲荷山古墳から出土した円筒埴輪はⅠ式とされます。

 元島名将軍塚の近くで三角縁神獣鏡を探せば、前橋天神山古墳や柴崎蟹沢古墳からも出ており、ヤマト王権は関東の中でもこの地域を特に重要視していたことが分かります。

 以上、現在のところ、元島名将軍塚のすぐ後を受けた後継者の墓に該当する古墳はありませんが、ヤマト王権にとって井野川流域が重要な場所であったことは事実です。

 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『前橋市史 第一巻』 前橋市史編さん委員会/編 1976年
・『群馬県史 資料編3 原始古代3』 群馬県史編さん委員会/編 1981年
・『群馬県史 通史編1 原始古代1』 群馬県史編さん委員会/編 1990年
・『太田市史 通史編 原始古代』 太田市/編 1996年
・『関東における古墳出現期の変革』 比田井克仁 2001年
・『群馬県古墳総覧』 群馬県教育委員会/編 2017年
・『群馬の古墳物語 下巻』 右島和夫/著 2018年
・『高崎市文化財調査報告書 第417集 元島名中子遺跡』 高崎市教育委員会・株式会社ノガミ/編 2018年

天川二子山古墳(朝倉・広瀬古墳群)|群馬県前橋市 ~良好な状態の墳丘を持つ後期の朝倉・広瀬古墳群を代表する前方後円墳~

2020-06-21 18:26:50 | 歴史探訪


 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


群馬県前橋市文京町3-2
JR両毛線前橋駅下車、徒歩約30分(実測)



現況


二子山児童公園

史跡指定


国指定史跡
史跡名:二子山古墳
指定日:昭和2年(1927)6月14日

出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


6世紀前半~7世紀初期(説明板)
6世紀前半(『群馬の古墳物語 上巻』)

被葬者像



墳丘


形状:前方後円墳
墳丘長:104m(現地説明板)
墳丘高:後円部約11m/前方部約9.5m(説明板)
段築:2段築成
葺石:あり
埴輪:あり

周溝


群馬県立文書館の敷地から周溝の跡が見つかり、前方部西側の周溝の幅は30m近いことが分かっている

主体部


未調査のため不明

出土遺物


周溝:円筒埴輪、土師器

 

3.探訪レポート                         


2015年5月5日(火)


 2015年GW上毛野探訪の2日目。

 昨日は21時半には寝てしまいましたが、とても快適に眠れて、起きたのは6時20分でした。

 今回は朝飯付の宿泊プランにしたので、食堂へ行き、朝からお腹いっぱい食べます。

 バイキング形式の場合、私はお米を食べてそのあとパンも食べることもありますし、完全なる野菜不足の私は、こういうときにここぞとばかりに野菜を食べるのですが、レンコンのきんぴらが特に美味しかった。

 さて、そろそろ出発しようと思いますが、足が相変わらず痛いので、どうなっているのかな?と思いかかとを見てみると、何と両足ともかかとにでっかいマメができています。

 ここまで大きいと、マメというよりかは水ぶくれみたいだ・・・

 実は今回は長距離を歩いた実績のないトレッキングシューズを履いてきたのですが、この靴はアスファルトの上を長距離歩くのには向いていないようです。

 とりあえず絆創膏を貼って、さらに手持ちがあと1枚になってしまったので、フロントに行って3枚もらってきました。

 当初の計画では、今日は上野国府の南門と思われる場所へまず行ってから、そこから南へ向かい、高崎市の元島名将軍塚古墳のあたりで今度は東へ向かい、夕方には伊勢崎市内のホテルに入る予定でした。

 つまりL字に移動です。

 しかし、この足の痛みではちょっと無理です。

 どうしようかなあ・・・

 仕方がない、今日は群馬県立図書館に一日籠って資料調査をしよう。

 8時過ぎに前橋カントリーホテルを出ます。



 前橋駅北口に来ました。

 図書館へはバス移動なので、とりあえずバス停のベンチに腰掛けてバスを待ちます。

 しかし、せっかく上毛野に来て、たかだかマメができた程度で見たいものを見ないのも何だかなあ・・・

 よし、無理しない程度に歩こう。

 予定を変更して、広瀬川右岸に展開する広瀬古墳群を見てみようと思います。

 ゆっくりと歩き出し、南口へまわります。



 おっと、家系のラーメン屋発見。

 実は昨日の夜、ホテルの部屋にあった周辺のお食事処マップにこのお店は載っていたのですが、昨日の夜の時点でたかだか5分歩くのも困難なほど足が痛くなっていたのです。

 おそらく南口で唯一のラーメン専門店だと思いますが、今度前橋に泊まったときは食べてみます。

 けやきウォークというショッピングモールの横を南下し、「天川原町」交差点を左折、しばらく歩くと前方左側にこんもりとした森が見えてきました。



 きっとあれに違いない。

 近づいてきます。



 やっぱりそうでした。

 天川二子山古墳は二子山児童公園の中にその墳丘を横たえていました。



 お、さすがは国史跡、立派な説明板があります。





 ※主要古墳の分布に関しては下図を参照してください。



 往時は150基とも200基ともいわれる古墳が存在し、それなりの規模を持つ首長墓級の前方後方墳や前方後円墳も17基は存在していましたが、現在残っている古墳は9基です。

 天川二子山古墳は、前橋二子山古墳とも呼ばれたりしますが、「天川」の方で名前が通っているようで、説明板によると、墳長104メートルを誇る前方後円墳です。

 前方後円墳のデザインの魅力の一つは、前方部の側面の麓から後円部を見た時の「くびれ」でしょう。



 古墳ガールは前方後円墳の平面形が可愛いと言いますが、やはり我々男子はこのくびれに色気を感じるはずです。

 国指定史跡を示す立派な石柱。 



 さあ、墳頂に登りましょう。

 まずは前方部に登ってみました。



 ところで、前方後円墳の形はどうしても丸い方が頭に見えてしまうのですが(「古墳ギャルのコフィー」みたいに古墳をキャラクター化すると必ずそうなる)、一応は四角い方が前ということになっているのです。

 実際当時の人がどう考えていたかは分かりませんが、最近までは丸い方に埋葬主体(遺体を納める場所)を設けるのが通常だと思われており、やはり遺体がある場所は「奥」と考えるのが一般的なので、丸い方が「後円」と呼ばれてしまったのかもしれません。

 でも古墳によっては前方部にも埋葬主体があるんですよね。

 ただし、高さから行ったら古墳時代の前半は丸い方が高いので、そう考えるとやはり、四角い方が前のような気もします。

 前方部から高い方である後円部を見ます。



 この構図も私が好きなアングルの一つです。

 なぜ好きか説明すると変態だと思われるので、聴きたい方は直接私にお訪ねください。

 ちなみに説明板によると、前方部の高さが9.5mなのに対し、後円部は11mで、その差は1.5mしか無いのです。

 説明板によると築造年代は6世紀前半から7世紀初期とかなり幅を取っていますが、前方部が高いことからおおよそこの通り、後期古墳であることは形状から分かりますね。

 墳丘は川原石で葺かれており、説明板によると保護のためにその上に薄く土を盛っているそうですが、ところどころ葺石が顔をのぞかせています。

 前方部から西の方の山々を望見すると、麓には群馬県立文書館があります。



 非常に興味のある施設ですが、文書館の近辺からは周溝の跡が発見されています。

 ただ、周溝の全体規模など詳細は分かっていないようです。

 ※註:2019年8月25日にクラツーで朝倉広瀬古墳群をご案内した際、文書館の見学もさせていただきましたが、古墳を古い絵図から調べる際にはそういった史料もありますのでぜひ訪れてみてください。

 次に後円部に登ります。

 後円部からは北の山々が見えますね。



 後円部墳頂。



 おっと、マニアにはたまらない三角点!



 「点」の旧字に注目!

 今度はさっきとは反対に、後円部から前方部を見ます。



 こう見ると前方部が高く見えますが、さきほども言った通りあまり高低差がないからで、後円部の方が少し標高があるんですよ。

 それでは墳丘から降ります。

 2段築成の段の部分ではジョギングをしている人がいました。



 おっと、公園内に大事なものが・・・



 昨日遊んで、忘れて行ってしまったんでしょうね。

 少なくとも家に着いた時点で忘れたことに気づいたはずだと思いますが、早く取りに来て欲しいな。

 今のところ、足の痛みは我慢できないほどでもないので、引き続きゆっくりと古墳めぐりをします。

 次は、東国最古級の古墳の一つである前方後方墳の前橋八幡山古墳です。

 (つづく)

 

4.補足                             


天川二子山古墳と朝倉君  2020年6月21日


 広瀬古墳群というのは、『前橋市史 第一巻』の定義によると、前橋旧市域の古墳、朝倉古墳群、後閑古墳群、山王古墳群の4地域の古墳群の総称で、戦前には150を超える古墳が現存していました。

 実は、「古墳群」という定義は難しく、延々と数キロに渡って古墳が続いている場合、どこからどこまでを「群」とするのか決めにくいのです。

 現在「広瀬古墳群」に含まれている古墳は、渋川市で利根川から分かれた広瀬川の流域のうち、前橋市街地以南の広瀬川右岸にある古墳群です。

 その地域には広瀬という地名は見当たらないものの広瀬川流域ということで「広瀬古墳群」という名称が定着していましたが、最近の前橋市のパンフレットでは「朝倉・広瀬古墳群」と表記し、右島和夫さんもそう呼んでいます。

 『前橋市史 第一巻』では、天川二子山古墳は 旧市域と朝倉古墳群の中間にあって、どちらに属して良いか決しかねるとしていますが、もちろん古代においてはそのような町名区割りはないわけで、この地は承平年間(931~938)に成立した『倭名類聚抄』に記載された上野国那波郡の朝倉郷の範囲であると考えられます。

 『倭名類聚抄』に記載されているということは、朝倉という地名は古い地名であるわけですが、実はもっと古い『日本書紀』「孝徳紀」の大化2年(646)3月2日の条に、朝倉君という人物が登場するのです。

 朝倉君といっても「あさくらくん!」ではないですよ。

 「君」というのは身分の高い人に与えられる姓の一つで、朝倉君(あさくらのきみ)という人物は朝倉という土地を治めることを朝廷から認定されている地元の豪族ということになります。

 その朝倉君は、前年に東国に派遣された国司が要求するままに馬や武器、それに布を差し出したのですが、要求自体は国司による権力をバックにした不当行為であるにも関わらず、それに応じられたということは朝倉君はかなりの財力を持っていたと考えられます。

 もっとも、646年の時点で「国司」という名前の官職はありませんでしたが、『日本書紀』は編纂された8世紀前葉の用語で内容を記述していますので、646年の時点で上野方面に派遣された中央の官人が地元の有力者である朝倉君に不当な要求をしたことがあったのは事実として考えてよいでしょう。

 その朝倉君ですが、天川二子山古墳の説明板では、当古墳は朝倉君の陵墓ではなかったかと推定していますが、『日本書紀』に登場する朝倉君の先祖の墓の可能性はあると思います。

 ちなみに、天川二子山古墳がある場所は現在では天川という住所ですが、「旧町名への旅 天川町・新町・高田町」によると、天川という地名は、利根川を「天の川」になぞらえ、その両岸をそう呼んだとの説があり、戦国期にはすでに天川という地名がありました。

 江戸期以降は天川村と呼ばれ、明治22年に前橋町に合わされ、明治25年に前橋町が市制を施行したときに前橋市内の大字になったという経緯があります。

 ただし、古代には前述した朝倉郷に含まれていたと考えられます。

 なお、『群馬の古墳物語 上巻』によると、天川二子山古墳の墳丘はほとんどすべて人工の盛り土と推測されています。

 また、築造時期に関しては、説明板には6世紀前半から7世紀初期とかなりの幅で書かれていますが、文書館の周溝跡からは6世紀中ごろの榛名山火山に伴う層が確認されたため、それ以前に築造された可能性が強くなりました。

 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『前橋市史 第一巻』 前橋市史編さん委員会/編 1976年
・『群馬県史 資料編3 原始古代3』 群馬県史編さん委員会/編 1981年
・『群馬県史 通史編1 原始古代1』 群馬県史編さん委員会/編 1990年
・『群馬県古墳総覧』 群馬県教育委員会/編 2017年
・『群馬の古墳物語 上巻』 右島和夫/著 2018年



鶴山古墳|群馬県太田市 ~ひとりの被葬者のために甲冑3セットが副葬された大型前方後円墳~

2020-06-21 16:08:02 | 歴史探訪


 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


群馬県太田市鳥山上町2140-3外



現況


畑の中にポツンと墳丘(私有地)

史跡指定


県指定史跡

出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


5世紀後半(現地説明板による)

被葬者像


武具類が充実しているため軍事的な働きに功績があった在地首長か

墳丘


形状:前方後円墳
墳丘長:102m
葺石:なし
埴輪:なし

周溝



主体部


竪穴系で長さ2.8m×幅0.8mの石室を設けていた
遺体は組合式の木棺に納められていた可能性が高いが木棺はすでになかった

出土遺物


石室内:短甲や冑その他の武具一式が3セット、鉄剣×2、大刀×5、鉄鏃、鉄製鎌、鉄製刀子、鉄製ノミ、鉄製斧、鉄製針、石製模造品
石室外:鉄鏃、鉄鉾
 

3.探訪レポート                         


2015年11月3日(火)


 ⇒前回の記事はこちら

 鶴山古墳を地図上で確認すると、亀山古墳のすぐ近くにあります。

 あれじゃないのか?



 高い方が後円部で、西の方を向いています。

 墳丘の周りは畑に囲まれていますが、到達できそうな道を探してみます。

 あ、五輪塔だ。



 道端にひっそりと五輪塔やそのパーツらしきものが集められています。



 この地域の中世武士の供養塔かもしれません。

 しかし、墳丘に到達できる道はないようですね。

 しかたがないので、畑仕事をされている方に挨拶をして、あぜ道を慎重に歩いてお邪魔させていただくことにします。



 後円部側に近づくと説明板も見えますよ。



 説明板が立っている部分は、いわば鞍部の部分で、説明板が向いている方向の微妙な土の高まりは前方部になりますね。

 つまり前方部は畑として利用されているわけです。



 とてもではありませんが、後円部には登れませんね。

 しかし墳丘はかなりペチャンコになっているように見えます。

 説明板を読んでみましょう。



 墳丘の高さは前方部が3.5mで、後円部が8mということで、これは現在の数値だと思うのですが、前方部の高さが後円部の半分というのは、前期古墳の特徴を示しています。

 したがって、5世紀後半というのは新しすぎる気がして、4世紀の古墳に見えるのですが、出土したものからすると5世紀後半ということになるのでしょう。

 現状ではかなり削られてしまっているようで、説明板の後ろの後円部は8mあったはずが全然そんな高さに見えないです。

 さきほど「ペチャンコ」という印象を持ったとおりですね。

 ただし現在は群馬県指定史跡ですから、これ以上破壊されることはないでしょう。

 西の蛇川の方から見ます。



 元々の墳丘長は102mということですが、現状では既述した通り小さくなっていました。

 つづいて新田郡家跡の方へ行ってみましょう。

 (つづく)
 

4.補足                             


 「3.探訪レポート」で述べた通り、前方部と後円部との比高差を見ると前期の古墳のように思えますが、『群馬の古墳物語 上巻』によると、出土した3セットの甲冑のうち最も新しいものは鋲留式の短甲で、5世紀前半でも中ごろに近い時期のものということなので、自然と古墳の築造時期もそのころを上限と考えることになります。

 また、同書では鉄製の鎹(かすがい)が出土したことを非常に珍しいこととし、5世紀中ごろとしては東日本で唯一の出土としています。

 なお、この鉄製の鎹が見つかったため木棺があったと想定されるのです。

 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『太田市の古墳』 太田市教育委員会/編 2010年
・『群馬県古墳総覧』 群馬県教育委員会/編 2017年
・『群馬の古墳物語 上巻』 右島和夫/著 2018年

亀山古墳|群馬県太田市 ~円墳と言われているが前方部のようなものが存在する古墳~

2020-06-21 09:06:17 | 歴史探訪


 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


群馬県太田市鳥山上町1509



現況


菅原神社境内

史跡指定



出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


不詳

被葬者像



墳丘


形状:円墳または帆立貝形もしくは前方後円墳
円丘部径:35m

周溝



主体部



出土遺物


円筒埴輪
 

3.探訪レポート                         


2015年11月3日(火)


 国府野遺跡を見た後は、田中橋で渡良瀬川を右岸に渡ります。



 きれいな流れですね。



 左岸側の景色。





 渡良瀬川を渡ってほどなく、東武伊勢崎線の足利市駅に着きました。



 まずは太田駅へ向かいます。







 太田駅では同じく東武の桐生線に乗り換えて、2駅目の治良門橋(じろえんばし)駅へ移動です。

 この駅名は難読駅名ですね。

 駅に着き、乗ってきた電車を撮影。







 行っちゃった。

 駅舎。



 つぎに目指す亀山古墳は菅原神社の境内にあるようなので、地図を見ながら菅原神社を目指します。



 駅の方から来た道を振り返ります。



 左が県道78号線に接続している街道で右が駅へつづく道です。

 おや、墳丘がありそうな森が見えてきましたよ。



 あちらの森も怪しいですが違うかな。



 墳丘発見!


 


 事前に調べたときは円墳になっていましたが、これは前方部じゃないでしょうか?



 かなり低いので帆立貝形にも見えますが、円丘の大きさからすると長いので前期の前方後円墳に見えなくもないです。

 ※註:後日出版された『群馬県古墳総覧』には、径35mの円墳もしくは前方後円墳と記されています。

 墳頂に登ります。



 墳頂から西側の眺め。



 神社の方に降りてみます。

 社殿の建築により墳丘が少し削られています。



 菅原神社社殿。



 境内神社の八坂神社。



 少し引いて見てみても、結構立派な墳丘ですよ。



 社殿右手にはイチョウの木があります。



 説明板。



 今上天皇(註:現在は上皇)は、昭和天皇の第5子でしたが初めての男子だったんですね。

 神社の境内には裏から入ってしまいましたが、こちらが正式な入口です。



 道路を渡って墳丘を見ます。



 さて、亀と来たら次は鶴ですね。

 つづいて鶴山古墳へ向かいますよ。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・『群馬県古墳総覧』 群馬県教育委員会/編 2017年

総寧寺・栗山古墳群|千葉県市川市・松戸市 ~国府台古墳群よりやや古い松戸市を代表する古墳群~

2020-06-17 20:46:02 | 歴史探訪


 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


千葉県松戸市栗山



現況


浄水場から道路を挟んだ西側の雑木林の中に半壊した古墳が1基現存

史跡指定



出土遺物が見られる場所


松戸市立博物館?
 

2.諸元                             


築造時期


6世紀前半

被葬者像



墳丘


形状:円墳

周溝



主体部



出土遺物


円筒埴輪、形象埴輪(人物、馬、家、大刀、鞆)
 

3.探訪レポート                         


歴史を歩こう協会 第7回歩く日⑦ 2020年6月14日(日)


 ⇒前回の記事はこちら

 ついに雨が降ってきましたが、梅雨ですから仕方がないですね。

 でもこの時期の少々の雨でしたら、むしろ風情があって良いです。

 ところどころ、紫陽花が咲いているし。

 つづいて松戸市内にある栗山古墳群を目指します。

 あ、ここは本を読んでいて出てきた総寧寺だ。

 ちょっと寄り道してみましょう。

 説明板があります。



 なんで戦国時代に後北条氏が近江のお寺を下総に移したんでしょうね?

 境内にお邪魔します。

 総寧寺は安国山と号する曹洞宗のお寺です。



 このでかい五輪塔が説明板にあった小笠原政信夫妻の供養塔ですね。



 小笠原政信は古河藩の2代藩主で、元和5年(1619)に関宿に移封されたので、そのときに総寧寺と縁ができたのでしょうか。

 不思議な楼門。



 これはいったい何でしょう?



 最初はトイレかと思ったのですがそうではなく、納骨堂のようですがそうでもなく、中に仏様が見えます。

 歴史のあるお寺ですがなかなかモダンなお寺でしたね。

 では、引き続き歩きましょう。

 次の栗山古墳群までは、金子さんにナヴィをお願いして私は楽をさせてもらいます。

 雨が降っていると紙の地図を広げながらだと歩きづらいので助かります。

 Google先生が指し示す道は、どうやら谷底の道のようですね。

 道の両サイドが高くなっており、前回市川を歩いた時も同じような場所を歩きましたが、市川や松戸の下総台地には枝状に谷が入り組んでいるところが多いです。

 武蔵野台地だと都心部分に似たような地形がありますが、多摩地域の方ではあまり見ない光景です。

 谷底を少し進むと今度は上り坂が現れました。

 栗山古墳群も台地の上にありますから、いったん谷に降りたらまた台地に登るのです。

 いま歩いた谷が市境になっているのですが、研究者によっては谷を境に明確に国府台古墳群とこれから訪れる栗山古墳群を別個のものと考える人もいれば、栗山古墳群を国府台古墳群の支群として扱う人もいます。

 私的には、やはり谷がありますから、別個にしたい気分ですが、今後よくよく考察してみようと思います。

 台地に上がると前方に浄水場らしきものが見えてきました。

 近くにあるはずですよ。

 あった!

 標柱が見えます!



 着きましたねえ。



 栗山古墳です!

 「群」とは書いてないですね。

 標柱は立っていますが、その裏は雑木林になっており、道路側から覗いても墳丘らしきものは見えません。

 結構ヤブが凄そうですが、なんとか入り込めそうな場所を見つけました。

 中へ入って見ましょう。

 あー、これですね。



 何号墳か分かりませんが、ありましたよ。

 つまりは、道路によって半分壊されちゃっているわけですね。

 林の中は思ったより藪は凄くないですが、でもあまり歩き回りたいとも思いません。



 他には墳丘らしきものはありませんね。

 出ましょう。

 道路から見るとこんな感じ。



 草を取り除けば古墳の断面が見えるじゃない!

 というわけで、私は生まれ故郷の松戸の古墳を初めて見ました。

 嬉しいなあ。

 初めて見たのがこの栗山古墳群になりましたが、栗山古墳群はこれでも松戸市を代表する古墳なんですよ。

 松戸市内には前方後円墳はないようで、私が机上で知っている古墳で思いつくのは河原塚古墳群くらいです。

 さて、お昼を少し回ってしまいましたが、堀之内貝塚へ行く前に矢切駅の近くにあるサイゼリヤでランチをしましょう。

 今日はそれほど暑いわけではありませんが、やはり飲みたくなりますね。

 安斉さんには申し訳ないですが、他の2名は飲みます。



 今日は日曜なので平日ランチはやってなくてグランドメニューからチョイスです。

 お気に入りのディアボーラ風ハンバーグ。



 金子さんがグラスワインを頼むということで、それなら私も。



 ひとまずゆっくり休憩してから午後の探訪を始めましょう。

 (つづく)
 

4.補足                             


 『市川市の古墳』によると、現在見られる古墳は私たちが見た半壊した古墳1基のみですが、周囲には2基の円墳の周溝が確認されています。

 栗山古墳群からは見事な埴輪が出土しており、形象埴輪としては、人物、家、馬、大刀、鞆などがあり、それ以外にも円筒埴輪が出ていますが、それらは群馬県や埼玉県の窯で焼かれたものです。

 それらの埴輪から栗山古墳群の築造時期は6世紀前半に遡ると考えられ、現在のところ、法皇塚古墳などの国府台古墳群より少し早いと考えられています。
 

5.参考資料                           


・現地標柱
・『市川市の古墳』 市川市考古博物館/編 2004年

国府台城跡/明戸古墳|千葉県市川市 ~古墳や戦国城郭の土塁が混然一体化した里見公園~

2020-06-15 20:21:25 | 歴史探訪

1.基本情報                           


所在地


千葉県市川市国府台3-9 里見公園



現況


里見公園内に土塁状の遺構らしきものが多数残るが後世にかなり改変されている模様

史跡指定



出土遺物が見られる場所



2.諸元                             


築城時期



廃城時期



目で見られる遺構


土塁

3.探訪レポート                         


市川の古代遺跡と松戸・鎌ヶ谷の小金牧跡探訪④ 2020年5月30日(土)


 ⇒前回の記事はこちら

 東京医科歯科大学で法皇塚古墳を見学した後は再度松戸街道に出て、北上します。

 里見公園に至る道が現れました。



 300mくらい歩くと公園入口に到達。



 しかし以前から不思議に思うのは、里見氏は房総半島南部の土豪で、下総の方にも影響力はもってはいましたが、この辺りの人たちからするとよそ者なんですよね。

 しかも第一次国府台合戦では里見氏の活躍は無く、第二次国府台合戦では負けた方です。

 ですから、地元民からすると勝った方の後北条氏を持ち上げてもいいような気がするのですが、さきほどの弘法寺でも説明板に里見氏の伝承が書いてありましたが、公園の名前も「里見公園」だし、ここでは後北条氏ではなく里見氏の方が人びとの心をつかんで今日に至るわけです。

 それはただ単に判官贔屓だからというわけでもなさそうで、これも調べる価値がありますね。

 明治から戦中までは軍隊の街。



 里見公園の案内図。



 今回の目的は、国府台城の遺構を確認することと明戸古墳を見ることです。

 では行きますよ。



 おっと、国府台城についての説明板だ!



 縄張り図は載っていませんね。

 改変が激しく、築城された当初の様子はもう分からなくなっているのでしょう。

 バラ園がありますよ。



 公園内を進んでいくと、城郭遺構と思われる土塁が連なり、古墳のような土盛りも見られます。

 あれは古墳じゃないの?



 でも古墳を示す標柱も何もないですね。

 「危険なので斜面に登るのはやめましょう」という看板は立っています。

 土塁の上にあるこちらは特別な一画のようです。









 切石積み石室に使ったような石ですね。



 こちらは石棺の蓋石じゃないでしょうか。



 木が伐採されて眺望が効いている場所があります。



 スカイツリーが見えますよ。

 スカイツリーブームもすっかり落ち着きましたが、やはりいまだにああいった高さのあるものを見ると嬉しいです。

 というわけで、呪力ズーム!



 コンディションが良いとこんな感じで富士山もこの方向に見えるようですね。



 では、引き続き公園内を散策しましょう。

 さきほど古墳じゃないかと思った土盛りの反対側。



 これは戦国期の土塁ですね。



 延々と続いておりかなり立派ですよ。

 おや、また古墳のような高まりがありますよ。



 登ってみましょう。

 市川市の最高所でした!



 古墳くさいですが、そういった説明もありません。

 降りましょう。





 公園内にある土塁の最北端へ到達。



 ただし、城域はここまでではありません。

 現在の里見公園の長軸は300mほどなのですが、『東葛の中世城郭』(千野原靖方/著)によると、往時の城域の長軸は650mほどあり、里見公園はその一部にすぎません。

 該書には縄張り図が掲載されていますが、図版が小さすぎて見えないよ!

 なお、該書は2004年に刊行されたのですが、当時の勤務地の近くにあった吉祥寺のPARCOの本屋に並んでいたのを購入しました。

 当時は余裕で図が見れたのですが、今ではもう老眼が進んで識別不能です。

 あれ、眼鏡外したら見れた!

 やはり、里見公園の敷地になっている場所に残っている遺構は、戦時中の砲兵陣地の構築もあって、どこまでが戦国時代のものかは判然としないようです。

 ここにも眺望ポイントがありました。



 この一画は最初に見た案内図に「火器使用可能区域」と書かれていたエリアで、千野原さんの図ではⅤ郭となっている場所です。



 土塁に囲まれているため、万が一火事になっても類焼する可能性が低いかも知れません。

 土塁の上を歩いて戻ります。



 ところで、明戸古墳はどこにあるんだ?

 多分、土塁のようなものがたくさんあるので、その中に溶け込んでいるんでしょう。



 ※後日注

 結局、この日はくまなく公園内を歩いたつもりだったのですが明戸古墳を見つけることができませんでした。

 帰宅後、Webで確認したらそれほど見つけづらい場所にあるわけではないですし、説明板もあるので、なんで見つけられなかったのか不思議です。

 この上の写真の背中側にあったんですよね・・・

 こういうことはたまにあって、縁がなかったように思えますが、実はその反対で、被葬者からの「もう一度来なさい」というメッセージですので、また機会を作って再訪しようかと思います。

 なお、明戸古墳は6世紀後葉に築造された墳丘長40mの前方後円墳で、V郭の土塁の北東側の一部と化しています。

 ※後日註その2

 この探訪の2週間後に再訪して石棺を確認してきました。

 この探訪記録の下で報告しています。



 しかしなんでこんな高所に滝があるんだ?



 この滝は人工的なものだと思いますが、揚水しているのでしょうか。

 ところで公園内は結構な人出で賑わっています。

 バラ園にも多くの家族連れやカップルが来ていますよ。



 おー、皇太后陛下!





 ダメだ、花の撮り方は良く分からん!

 というわけで、次は下総国分尼寺跡を目指します。

 ⇒この続きはこちら

歴史を歩こう協会 第7回歩く日⑥ 2020年6月14日(日)


 ⇒前回の記事はこちら

 法皇塚古墳を見学した後は、前回と同様に里見公園へ向かいます。

 松戸街道から公園へ向かう一本道で、安斉さんが面白いものを見つけました。



 レンガでできた塀の一部のようなものです。

 旧軍の遺構かなあ?などと話ながら里見公園に到着。

 バラ園へ寄ってみると2週間前は満開だったのに、あらま、とても寂しい様子になっています。

 辛うじて、チンチンは咲いている。





 チンチンは咲いている・・・

 2回言う必要はありません。

 おっと、雨が降り出しましたよ。

 今は11時ですが、梅雨の時期に2時間も傘無しで歩けたので良かったです。

 国府台城の遺構なのか古墳なのか良く分からないものを見たりしながら公園の北側の郭跡(千野原さんの図だとⅤ郭)にやってきました。



 では、前回見事に見つけられなかった明戸古墳の石棺を確認しに行きますよ。

 あ、あれだな。



 説明板も建っていてこんなに目立つのに何で前回は見つけられなかったのだろう?

 やはりこれは再訪しろという被葬者からのメッセージだったのでしょう。

 ご指示通り、再び見参!

 石柱。



 箱式石棺が2つ並んでいます。



 西日本でこういった物を見ていると、弥生時代のものもあるのですが、やたらに小さい物があって、これは絶対肉が付いていたら納められないでしょうというサイズのものが普通にあります。

 でもこの右側のものはとくに問題ないサイズで普通の大人が展伸状態で入りますね。

 説明板。



 石材は筑波石ということで、輸送の際に最短距離を取るのなら、説明板にある通り手賀沼水系から江戸川水系へ運べばいいのですが、両水系は古代においても繋がっておらず、現在の新京成が走っている場所に分水嶺があり、その部分を超えるために一部陸送になります。

 遠回りしても船での輸送の方が楽なので、その場合は手賀沼は通らないですね。

 さて、この石棺が築造当時からここにあったのか、ちょっと考えてしまいます。

 墳丘を復元するとこのように石棺のある場所は後円部の真ん中ですから、位置としては問題ありません。



 ただしその場合は、竪穴系の埋葬主体となるのです。

 私の常識では6世紀の古墳で、このようにそれなりの規模のものは横穴式石室を備えていたというのがあります。

 でも竪穴系ということは、古墳自体が5世紀以前なのかとも思いますが、出土した埴輪によって6世紀後葉と判断できるわけです。

 しかも竪穴系であれば、現在の墳頂よりも少なくとも2mくらい(石棺の天井石よりさらに1.5mは土があったでしょう)は土が盛られていましたから、その高さになると当然後円部の直径も大きくなり、墳丘長も40m以上になるんじゃないでしょうか。

 いといろな思いが交錯します。

 ※註:この日の夕方、市川市考古博物館の方にお聴きしたところ、石棺の位置は変わっておらず竪穴系の埋葬主体で、すなわちこれらが完全に隠れるくらい築造当時は土を盛っていたということを教えていただきました。さらに、この地域では横穴式石室の導入が遅れ、後期になっても竪穴系の埋葬主体が多いということを知りました。

 説明板の向こう側が前方部となります。



 説明板によると既述した通り40mの前方後円墳ということです。

 反対側の後円部の方を見ると、土塁と一体化しているので、もし石棺の露出や説明板などがなければ、これが古墳であるとは分からないかもしれません。



 墳丘から降りて前方部方向を見ます。



 一応、前方部から後円部方向を見る私が一番好きなアングル・・・



 江戸川。



 それではここでいったん休憩を取りましょう。

 市内でもっとも標高が高い地点を歩き、東屋に近づくと、先客がいるようです。



 ハロー。



 なんか浮かない表情ですね。

 何か悩み事があるんでしょうか?

 「俺は猫として果たしてこのままでいいのだろうか・・・」



 いやいや、私だって来月48歳になりますがこんなですよ。

 「君は君、俺は俺」



 座席はちょうどあと3個あるので、彼の邪魔にならないように座ります。

 ところが、「そこに居てもいいんだよ」と伝えたものの彼は席を外して行ってしまいました。



 肩を落としてトボトボとゆっくり歩き、やがて姿が見えなくなりました。

 さて、我々もお昼ご飯までもう少し頑張って歩きますか!

 ⇒この続きはこちら

4.補足                             


太田道灌と国府台(2020年6月13日)


 享徳3年12月27日(新暦では1455年1月15日)、鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を自邸に招いて殺害したことがきっかけとなり、関東地方に戦国時代が到来しました。

 この関東地方における戦国時代の第1フェーズのことを「享徳の乱」と呼びます。

 翌年、成氏が古河に拠点を定めたことにより、享徳の乱は大雑把に言って利根川(当時の流れ)を挟んだ東西対決と言え、利根川沿いにはお互いの城がボコボコと築城され始めます。

 例えば「西軍」の扇谷上杉家家宰の太田道灌が江戸城を築城して完成したのは、長禄元年(1457)とされます。

 江戸城は武蔵野台地の東端にありますが、そこから低地におり、国内有数の河川集中地帯を通って東へ進むと今度は下総台地に上がることになります。

 下総台地の国府台に城を築いたのも太田道灌だと伝わっています。

 ただしそれは、『東葛の中世城郭』によれば、『鎌倉大草紙』からの引用として、江戸城築城から20年ほど経った、文明10年(1478)12月のことで、下総境根原(柏市)の合戦に際して、構えた仮の陣城とされます。

 また、「永享記」には、文明11年7月に道灌の弟である資忠と武蔵千葉自胤が下総の臼井城を攻めた時に国府台に初めて築城したとあり、「鎌倉九代後記」にも文明11年7月15日にも道灌が臼井城を攻めた際に初めて城を構えたとあります。

 道灌はフットワーク軽く関東中を飛び回っていますが、文明10年12月から11年11月までは房総半島を中心に作戦行動をしており、その際に国府台の地に目を付けて築城したのでしょう。

 ただし、現在の国府台城跡に行っても、道灌が構築した土塁がどれであるかは分かりません。

 文明10年というと長尾景春が蠢動しており、道灌は4月には小机城を落とし、相模方面の景春与党は一掃されていましたが、下総では景春の有力与党である下総千葉孝胤(のりたね)が勢力を張っていました。

 以下に千葉氏の略系図を記します。

 14      15      16      17     
 満胤 ―+― 兼胤 ―+― 胤直 ―+― 胤将
     |      |      |
     |      |      |  18
     |      |      +― 胤宣
     |      |
     |      +― 賢胤 ―+― 実胤
     |             |
     |             |
     |             +― 自胤
     |  19
     |  馬加     20
     +― 康胤 ―+― 胤持
            |
            |  21
            +― 輔胤 ――― 孝胤
   

 享徳の乱の影響は千葉氏にも及び、18代胤宣のとき、古河公方成氏に通じた重臣の原胤房や大叔父馬加康胤は当主胤宣を攻撃し、胤宣やその父胤直らは死亡し千葉宗家の嫡系は滅亡、ただし実胤と自胤は辛うじて難を逃れて武蔵へ落ち延び、この系統が武蔵千葉氏と呼ばれる系統です。

 千葉氏を継いだのは、胤宣からすると大叔父にあたる馬加(まくわり)康胤で、この系統を下総千葉氏と言い、文明10年に道灌がターゲットにしたのは、この系統の孝胤(のりたね)です。

 道灌は、このとき武蔵千葉氏の自胤(よりたね)を庇護しており、自胤を千葉家の当主にすることを企図していました。

 長崎城(千葉県流山市)を拠点としていた孝胤は道灌の進出に対して出陣し、両軍は境根原(千葉県柏市)で激突、孝胤は打ち負け臼井城(千葉県佐倉市)に退却して籠城します。

 それに対して道灌勢は攻撃を仕掛け、落城させることに成功したものの資忠は戦死、孝胤はなおも逃げ、行方をくらましましたが滅亡することはなく存続します。

 そうこうしているうちに道灌が暗殺されたことにより自胤の力が劣え、最終的には孝胤側が千葉家を保つことができました。

小弓御所足利義明(2020年6月13日)


 文明年間の道灌の築城の際は、国府台で合戦が行われたという記録はありませんが、その後、戦国史上有名な「国府台合戦」が第一次と第二次にわたって繰り広げられました。

 だいたい全国の戦国合戦の話は江戸時代に書かれた軍記物という今でいえば小説によって現代に伝わっていることが多く、間違いやフィクションも含まれており、それを現代の中世史家が信用できる一次史料(合戦があったのと同時代の古文書)を使いながら史実を組み立て行っています。

 軍記物からの古いイメージですと、房総進出を目論む後北条氏とそれに抵抗する房総の里見氏が2度に渡って雌雄を決した戦いになると思いますが、さすがに今どきこういうふうに思っている人は少ないかも知れません。

 すでに多くの戦国マニアが知っている通り、第一次は、古河公方と小弓公方の抗争が主題で、それに小田原の後北条氏や房総の里見氏が関わった戦いで、里見氏に関しては小弓公方のために戦地にまで出張ってはきていますが、一戦も交えずに撤退しているのです。

 ではまず、本項では第一次国府台合戦に至る流れを小弓公方足利義明を中心に見ていきます。

 ちなみに、義明の読みは「よしあき」とされることが多いですが、古い本には「よしあきら」とふり仮名が降られていることがあることをお伝えしておきます。

 さて、第2代古河公方足方政氏とその嫡男高基は、永正3年(1506)から不和が表面化し、周囲のとりなしがあったものの根本的な解決には至らず、しかも鶴岡八幡若宮別当(雪下殿と通称される)を勤めていた高基弟の空然(こうねん)が突如挙兵してしまうという予想外の事象まで発生してしまいました。

 永正7年(1510)6月以降には、古河城には公方政氏がおり、関宿城には父と敵対している高基が住し、そして第三極として小山城には空然が存在するという鼎立状態が現出したのです。

 そして永正9年7月には、公方政氏が小山城へ走り、主不在となった古河城には高基が入り、もともと小山城にいた空然は城を出て小山領のどこかに移動し、つづいて空然が高基の味方をすることにより大勢が決まり、永正13年(1516)12月27日、政氏は小山城を出て岩槻城へ遷り、さらには久喜甘棠院(かんとういん)に隠遁し、政治生命が経たれ、古河公方の3代目は高基が継ぎました。

 高基からすると、つぎに邪魔になるのは弟空然です。

 急に俗世に戻ってきた空然でしたが、佐藤博信氏は空然は「政治意志の表明」を繰り返したと考察しています。

 例えば、足利様の花押から独自のものに変えたり、還俗して義明と称し、しかもその「義」の字は源氏の始祖ともいえる頼義・義家などの通字をから自ら採用したと考えられることからそういえます。

 ここで一度系図を確認しておきましょう。

 ①      ②      ③           ④      ⑤     
 成氏 ――― 政氏 ―+― 高基 ―――――――― 晴氏 ――― 義氏
            |
            |  小弓公方
            +― 義明 ――――――+― 義純
            | (雪下殿・空然)  |
            |           |
            +― 基頼       +― 頼淳

 ついで義明は、兄に対抗するために本拠地を大きく移動させます。

 永正14年10月15日、義明は上総の真里谷武田氏に擁立され、下総小弓城(千葉市中央区)を襲い、城主原氏を打ち破りそこを拠点としました。

 この義明の勢力は侮れないものがあり、まず弟の基頼は長兄でなくこの次兄に付きました。

 そして義明には雪下殿時代からの社家奉行衆が付きしがたい、小弓城近辺には関東足利氏の伝統的被官層が多く住んでおり、また真里谷武田氏以外にも安房の里見氏などの有力な領主層が後援しました。

 小弓城を拠点として、義明は最大の目標である古河公方の地位の奪取に邁進します。

 この義明の行動に対して高基は当然危惧を抱き、永正16年8月に高基は自ら出陣し、真里谷武田氏の属城である椎津城を攻撃しました。

 それに対して義明は高基側の関宿城の攻撃を執拗に画策します。

 高基は、義明からの積極的な「外患」に加え、子の晴氏と不仲になったり思い通りに動かない家臣が現れたりして「内憂」も抱えることになり、天文4年(1535)10月に亡くなってしまいました。

 晴氏は古河公方の地位とともに義明からの攻撃も相続し、義明のしつこさに手を焼くことになります。

 そこで晴氏が目を付けたのが後北条氏でした。

 北条氏綱は大永4年(1524)に江戸城を奪いましたが、それ以降、義明との関係が悪化していたのです。

 晴氏としてみれば、自身が命令するだけで義明のことを滅ぼしてくれればありがたいですし、氏綱としても自身の勢力を拡大するための大義名分を公方からもらえることはありがたいわけです。

 晴氏は「小弓御退治」の御内書を氏綱に与えます。

 ただしすぐには義明と氏綱の決戦の機会は生まれずしばらく時間が流れました。

第一次国府台合戦(2020年6月13日)


 動きがあったのは、天文7年(1538)のことで、氏綱は2月には山内上杉氏の重臣である大石氏の居城・葛西城を落城させ、太田資正の岩付城にも打撃を与えます。

 これを知った義明は奉行人筆頭である逸見山城入道祥仙らを国府台へ派遣して在城させ、氏綱も江戸城や河越城の防備を強化します。

 また、義明にとって癪に障るのは、この前年の9月には北条側に付いている高城氏の本拠地・小金城(松戸市)が完成していることで、関宿城や古河城を攻撃する際に非常に邪魔です。

 義明の先遣部隊はおそらく2月には国府台に在城していたと考えられますが、それから両者のにらみ合いが続き、9月下旬になり義明は、嫡子義純や弟基頼などの親族や自身の後援者である真里谷武田信応や里見義堯などを率い小弓城を出陣し、10月初旬には国府台に到着します。

 一方、氏綱も10月2日には氏康らを引き連れ小田原城を出陣し、江戸城に入城して準備を整え、国府台城から肉眼でも確認できる位置にある葛西城には旗ばかりをなびかせて、さも葛西城に進出してきているように見せかけておいて、北方に迂回し、松戸方面で太日川(今の江戸川)を渡り松戸台に先鋒部隊を上げました。

 それを知った義明は松戸台へ向かい、氏綱勢に攻撃を仕掛けます。

 しかし結果はあっけなく、義明は義純や基頼らとともに討ち死にしてしまいました。

 大将やその跡取りまでもが簡単に討ち死にしてしまうというのは普通はあり得ないのですが、そうなってしまった理由としては、義明勢はほとんど親族や馬回りという親衛隊と山城入道などの奉行衆という少数で戦ったことが挙げられます。

 おそらく一緒にいたであろう武田氏は、このときは武田氏自体の内訌のために多くの兵を引き連れてくることはできなかったと考えられ、本来であれば最も頼りになる里見義堯(よしたか)は、義明が国府台から松戸台に向けて進発した時に、国府台を動かずに望見していたのです。

 これではどう考えても義明が氏綱に勝つことはできません。

 しかも、義明は負けと悟って退却する暇もなく袋の鼠になっているような状況ですから悲惨です。

 そう考えると、氏綱の巧妙さに鳥肌が立ちます。

 もちろん江戸城から葛西城に進出して、そのままストレートに国府台に登ろうとするのは愚策ですから、それはしないとしても、少し離れた松戸台にわずかな手勢だけを率いた義明をおびき寄せているのは上手くいきすぎです。

 もしかすると、義堯の軍勢が国府台から動かないということを見越していて、そうしたのではないでしょうか。

 ちょっと異常な戦いですので、もっと深く考察してみようと思いますが、ともかく、この戦いで小弓御所は滅亡してしまいました。

5.参考資料                           


・『古河公方足利氏の研究』 佐藤博信/著 1989年
・『国府台合戦を点検する』 千野原靖方/著 1999年
・『新編 房総戦国史』 千野原靖方/著 2000年
・『東葛の中世城郭』 千野原靖方/著 2004年
・『図説 太田道灌』 黒田基樹/著 2009年