日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

国府台城跡/明戸古墳|千葉県市川市 ~古墳や戦国城郭の土塁が混然一体化した里見公園~

2020-06-15 20:21:25 | 歴史探訪

1.基本情報                           


所在地


千葉県市川市国府台3-9 里見公園



現況


里見公園内に土塁状の遺構らしきものが多数残るが後世にかなり改変されている模様

史跡指定



出土遺物が見られる場所



2.諸元                             


築城時期



廃城時期



目で見られる遺構


土塁

3.探訪レポート                         


市川の古代遺跡と松戸・鎌ヶ谷の小金牧跡探訪④ 2020年5月30日(土)


 ⇒前回の記事はこちら

 東京医科歯科大学で法皇塚古墳を見学した後は再度松戸街道に出て、北上します。

 里見公園に至る道が現れました。



 300mくらい歩くと公園入口に到達。



 しかし以前から不思議に思うのは、里見氏は房総半島南部の土豪で、下総の方にも影響力はもってはいましたが、この辺りの人たちからするとよそ者なんですよね。

 しかも第一次国府台合戦では里見氏の活躍は無く、第二次国府台合戦では負けた方です。

 ですから、地元民からすると勝った方の後北条氏を持ち上げてもいいような気がするのですが、さきほどの弘法寺でも説明板に里見氏の伝承が書いてありましたが、公園の名前も「里見公園」だし、ここでは後北条氏ではなく里見氏の方が人びとの心をつかんで今日に至るわけです。

 それはただ単に判官贔屓だからというわけでもなさそうで、これも調べる価値がありますね。

 明治から戦中までは軍隊の街。



 里見公園の案内図。



 今回の目的は、国府台城の遺構を確認することと明戸古墳を見ることです。

 では行きますよ。



 おっと、国府台城についての説明板だ!



 縄張り図は載っていませんね。

 改変が激しく、築城された当初の様子はもう分からなくなっているのでしょう。

 バラ園がありますよ。



 公園内を進んでいくと、城郭遺構と思われる土塁が連なり、古墳のような土盛りも見られます。

 あれは古墳じゃないの?



 でも古墳を示す標柱も何もないですね。

 「危険なので斜面に登るのはやめましょう」という看板は立っています。

 土塁の上にあるこちらは特別な一画のようです。









 切石積み石室に使ったような石ですね。



 こちらは石棺の蓋石じゃないでしょうか。



 木が伐採されて眺望が効いている場所があります。



 スカイツリーが見えますよ。

 スカイツリーブームもすっかり落ち着きましたが、やはりいまだにああいった高さのあるものを見ると嬉しいです。

 というわけで、呪力ズーム!



 コンディションが良いとこんな感じで富士山もこの方向に見えるようですね。



 では、引き続き公園内を散策しましょう。

 さきほど古墳じゃないかと思った土盛りの反対側。



 これは戦国期の土塁ですね。



 延々と続いておりかなり立派ですよ。

 おや、また古墳のような高まりがありますよ。



 登ってみましょう。

 市川市の最高所でした!



 古墳くさいですが、そういった説明もありません。

 降りましょう。





 公園内にある土塁の最北端へ到達。



 ただし、城域はここまでではありません。

 現在の里見公園の長軸は300mほどなのですが、『東葛の中世城郭』(千野原靖方/著)によると、往時の城域の長軸は650mほどあり、里見公園はその一部にすぎません。

 該書には縄張り図が掲載されていますが、図版が小さすぎて見えないよ!

 なお、該書は2004年に刊行されたのですが、当時の勤務地の近くにあった吉祥寺のPARCOの本屋に並んでいたのを購入しました。

 当時は余裕で図が見れたのですが、今ではもう老眼が進んで識別不能です。

 あれ、眼鏡外したら見れた!

 やはり、里見公園の敷地になっている場所に残っている遺構は、戦時中の砲兵陣地の構築もあって、どこまでが戦国時代のものかは判然としないようです。

 ここにも眺望ポイントがありました。



 この一画は最初に見た案内図に「火器使用可能区域」と書かれていたエリアで、千野原さんの図ではⅤ郭となっている場所です。



 土塁に囲まれているため、万が一火事になっても類焼する可能性が低いかも知れません。

 土塁の上を歩いて戻ります。



 ところで、明戸古墳はどこにあるんだ?

 多分、土塁のようなものがたくさんあるので、その中に溶け込んでいるんでしょう。



 ※後日注

 結局、この日はくまなく公園内を歩いたつもりだったのですが明戸古墳を見つけることができませんでした。

 帰宅後、Webで確認したらそれほど見つけづらい場所にあるわけではないですし、説明板もあるので、なんで見つけられなかったのか不思議です。

 この上の写真の背中側にあったんですよね・・・

 こういうことはたまにあって、縁がなかったように思えますが、実はその反対で、被葬者からの「もう一度来なさい」というメッセージですので、また機会を作って再訪しようかと思います。

 なお、明戸古墳は6世紀後葉に築造された墳丘長40mの前方後円墳で、V郭の土塁の北東側の一部と化しています。

 ※後日註その2

 この探訪の2週間後に再訪して石棺を確認してきました。

 この探訪記録の下で報告しています。



 しかしなんでこんな高所に滝があるんだ?



 この滝は人工的なものだと思いますが、揚水しているのでしょうか。

 ところで公園内は結構な人出で賑わっています。

 バラ園にも多くの家族連れやカップルが来ていますよ。



 おー、皇太后陛下!





 ダメだ、花の撮り方は良く分からん!

 というわけで、次は下総国分尼寺跡を目指します。

 ⇒この続きはこちら

歴史を歩こう協会 第7回歩く日⑥ 2020年6月14日(日)


 ⇒前回の記事はこちら

 法皇塚古墳を見学した後は、前回と同様に里見公園へ向かいます。

 松戸街道から公園へ向かう一本道で、安斉さんが面白いものを見つけました。



 レンガでできた塀の一部のようなものです。

 旧軍の遺構かなあ?などと話ながら里見公園に到着。

 バラ園へ寄ってみると2週間前は満開だったのに、あらま、とても寂しい様子になっています。

 辛うじて、チンチンは咲いている。





 チンチンは咲いている・・・

 2回言う必要はありません。

 おっと、雨が降り出しましたよ。

 今は11時ですが、梅雨の時期に2時間も傘無しで歩けたので良かったです。

 国府台城の遺構なのか古墳なのか良く分からないものを見たりしながら公園の北側の郭跡(千野原さんの図だとⅤ郭)にやってきました。



 では、前回見事に見つけられなかった明戸古墳の石棺を確認しに行きますよ。

 あ、あれだな。



 説明板も建っていてこんなに目立つのに何で前回は見つけられなかったのだろう?

 やはりこれは再訪しろという被葬者からのメッセージだったのでしょう。

 ご指示通り、再び見参!

 石柱。



 箱式石棺が2つ並んでいます。



 西日本でこういった物を見ていると、弥生時代のものもあるのですが、やたらに小さい物があって、これは絶対肉が付いていたら納められないでしょうというサイズのものが普通にあります。

 でもこの右側のものはとくに問題ないサイズで普通の大人が展伸状態で入りますね。

 説明板。



 石材は筑波石ということで、輸送の際に最短距離を取るのなら、説明板にある通り手賀沼水系から江戸川水系へ運べばいいのですが、両水系は古代においても繋がっておらず、現在の新京成が走っている場所に分水嶺があり、その部分を超えるために一部陸送になります。

 遠回りしても船での輸送の方が楽なので、その場合は手賀沼は通らないですね。

 さて、この石棺が築造当時からここにあったのか、ちょっと考えてしまいます。

 墳丘を復元するとこのように石棺のある場所は後円部の真ん中ですから、位置としては問題ありません。



 ただしその場合は、竪穴系の埋葬主体となるのです。

 私の常識では6世紀の古墳で、このようにそれなりの規模のものは横穴式石室を備えていたというのがあります。

 でも竪穴系ということは、古墳自体が5世紀以前なのかとも思いますが、出土した埴輪によって6世紀後葉と判断できるわけです。

 しかも竪穴系であれば、現在の墳頂よりも少なくとも2mくらい(石棺の天井石よりさらに1.5mは土があったでしょう)は土が盛られていましたから、その高さになると当然後円部の直径も大きくなり、墳丘長も40m以上になるんじゃないでしょうか。

 いといろな思いが交錯します。

 ※註:この日の夕方、市川市考古博物館の方にお聴きしたところ、石棺の位置は変わっておらず竪穴系の埋葬主体で、すなわちこれらが完全に隠れるくらい築造当時は土を盛っていたということを教えていただきました。さらに、この地域では横穴式石室の導入が遅れ、後期になっても竪穴系の埋葬主体が多いということを知りました。

 説明板の向こう側が前方部となります。



 説明板によると既述した通り40mの前方後円墳ということです。

 反対側の後円部の方を見ると、土塁と一体化しているので、もし石棺の露出や説明板などがなければ、これが古墳であるとは分からないかもしれません。



 墳丘から降りて前方部方向を見ます。



 一応、前方部から後円部方向を見る私が一番好きなアングル・・・



 江戸川。



 それではここでいったん休憩を取りましょう。

 市内でもっとも標高が高い地点を歩き、東屋に近づくと、先客がいるようです。



 ハロー。



 なんか浮かない表情ですね。

 何か悩み事があるんでしょうか?

 「俺は猫として果たしてこのままでいいのだろうか・・・」



 いやいや、私だって来月48歳になりますがこんなですよ。

 「君は君、俺は俺」



 座席はちょうどあと3個あるので、彼の邪魔にならないように座ります。

 ところが、「そこに居てもいいんだよ」と伝えたものの彼は席を外して行ってしまいました。



 肩を落としてトボトボとゆっくり歩き、やがて姿が見えなくなりました。

 さて、我々もお昼ご飯までもう少し頑張って歩きますか!

 ⇒この続きはこちら

4.補足                             


太田道灌と国府台(2020年6月13日)


 享徳3年12月27日(新暦では1455年1月15日)、鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を自邸に招いて殺害したことがきっかけとなり、関東地方に戦国時代が到来しました。

 この関東地方における戦国時代の第1フェーズのことを「享徳の乱」と呼びます。

 翌年、成氏が古河に拠点を定めたことにより、享徳の乱は大雑把に言って利根川(当時の流れ)を挟んだ東西対決と言え、利根川沿いにはお互いの城がボコボコと築城され始めます。

 例えば「西軍」の扇谷上杉家家宰の太田道灌が江戸城を築城して完成したのは、長禄元年(1457)とされます。

 江戸城は武蔵野台地の東端にありますが、そこから低地におり、国内有数の河川集中地帯を通って東へ進むと今度は下総台地に上がることになります。

 下総台地の国府台に城を築いたのも太田道灌だと伝わっています。

 ただしそれは、『東葛の中世城郭』によれば、『鎌倉大草紙』からの引用として、江戸城築城から20年ほど経った、文明10年(1478)12月のことで、下総境根原(柏市)の合戦に際して、構えた仮の陣城とされます。

 また、「永享記」には、文明11年7月に道灌の弟である資忠と武蔵千葉自胤が下総の臼井城を攻めた時に国府台に初めて築城したとあり、「鎌倉九代後記」にも文明11年7月15日にも道灌が臼井城を攻めた際に初めて城を構えたとあります。

 道灌はフットワーク軽く関東中を飛び回っていますが、文明10年12月から11年11月までは房総半島を中心に作戦行動をしており、その際に国府台の地に目を付けて築城したのでしょう。

 ただし、現在の国府台城跡に行っても、道灌が構築した土塁がどれであるかは分かりません。

 文明10年というと長尾景春が蠢動しており、道灌は4月には小机城を落とし、相模方面の景春与党は一掃されていましたが、下総では景春の有力与党である下総千葉孝胤(のりたね)が勢力を張っていました。

 以下に千葉氏の略系図を記します。

 14      15      16      17     
 満胤 ―+― 兼胤 ―+― 胤直 ―+― 胤将
     |      |      |
     |      |      |  18
     |      |      +― 胤宣
     |      |
     |      +― 賢胤 ―+― 実胤
     |             |
     |             |
     |             +― 自胤
     |  19
     |  馬加     20
     +― 康胤 ―+― 胤持
            |
            |  21
            +― 輔胤 ――― 孝胤
   

 享徳の乱の影響は千葉氏にも及び、18代胤宣のとき、古河公方成氏に通じた重臣の原胤房や大叔父馬加康胤は当主胤宣を攻撃し、胤宣やその父胤直らは死亡し千葉宗家の嫡系は滅亡、ただし実胤と自胤は辛うじて難を逃れて武蔵へ落ち延び、この系統が武蔵千葉氏と呼ばれる系統です。

 千葉氏を継いだのは、胤宣からすると大叔父にあたる馬加(まくわり)康胤で、この系統を下総千葉氏と言い、文明10年に道灌がターゲットにしたのは、この系統の孝胤(のりたね)です。

 道灌は、このとき武蔵千葉氏の自胤(よりたね)を庇護しており、自胤を千葉家の当主にすることを企図していました。

 長崎城(千葉県流山市)を拠点としていた孝胤は道灌の進出に対して出陣し、両軍は境根原(千葉県柏市)で激突、孝胤は打ち負け臼井城(千葉県佐倉市)に退却して籠城します。

 それに対して道灌勢は攻撃を仕掛け、落城させることに成功したものの資忠は戦死、孝胤はなおも逃げ、行方をくらましましたが滅亡することはなく存続します。

 そうこうしているうちに道灌が暗殺されたことにより自胤の力が劣え、最終的には孝胤側が千葉家を保つことができました。

小弓御所足利義明(2020年6月13日)


 文明年間の道灌の築城の際は、国府台で合戦が行われたという記録はありませんが、その後、戦国史上有名な「国府台合戦」が第一次と第二次にわたって繰り広げられました。

 だいたい全国の戦国合戦の話は江戸時代に書かれた軍記物という今でいえば小説によって現代に伝わっていることが多く、間違いやフィクションも含まれており、それを現代の中世史家が信用できる一次史料(合戦があったのと同時代の古文書)を使いながら史実を組み立て行っています。

 軍記物からの古いイメージですと、房総進出を目論む後北条氏とそれに抵抗する房総の里見氏が2度に渡って雌雄を決した戦いになると思いますが、さすがに今どきこういうふうに思っている人は少ないかも知れません。

 すでに多くの戦国マニアが知っている通り、第一次は、古河公方と小弓公方の抗争が主題で、それに小田原の後北条氏や房総の里見氏が関わった戦いで、里見氏に関しては小弓公方のために戦地にまで出張ってはきていますが、一戦も交えずに撤退しているのです。

 ではまず、本項では第一次国府台合戦に至る流れを小弓公方足利義明を中心に見ていきます。

 ちなみに、義明の読みは「よしあき」とされることが多いですが、古い本には「よしあきら」とふり仮名が降られていることがあることをお伝えしておきます。

 さて、第2代古河公方足方政氏とその嫡男高基は、永正3年(1506)から不和が表面化し、周囲のとりなしがあったものの根本的な解決には至らず、しかも鶴岡八幡若宮別当(雪下殿と通称される)を勤めていた高基弟の空然(こうねん)が突如挙兵してしまうという予想外の事象まで発生してしまいました。

 永正7年(1510)6月以降には、古河城には公方政氏がおり、関宿城には父と敵対している高基が住し、そして第三極として小山城には空然が存在するという鼎立状態が現出したのです。

 そして永正9年7月には、公方政氏が小山城へ走り、主不在となった古河城には高基が入り、もともと小山城にいた空然は城を出て小山領のどこかに移動し、つづいて空然が高基の味方をすることにより大勢が決まり、永正13年(1516)12月27日、政氏は小山城を出て岩槻城へ遷り、さらには久喜甘棠院(かんとういん)に隠遁し、政治生命が経たれ、古河公方の3代目は高基が継ぎました。

 高基からすると、つぎに邪魔になるのは弟空然です。

 急に俗世に戻ってきた空然でしたが、佐藤博信氏は空然は「政治意志の表明」を繰り返したと考察しています。

 例えば、足利様の花押から独自のものに変えたり、還俗して義明と称し、しかもその「義」の字は源氏の始祖ともいえる頼義・義家などの通字をから自ら採用したと考えられることからそういえます。

 ここで一度系図を確認しておきましょう。

 ①      ②      ③           ④      ⑤     
 成氏 ――― 政氏 ―+― 高基 ―――――――― 晴氏 ――― 義氏
            |
            |  小弓公方
            +― 義明 ――――――+― 義純
            | (雪下殿・空然)  |
            |           |
            +― 基頼       +― 頼淳

 ついで義明は、兄に対抗するために本拠地を大きく移動させます。

 永正14年10月15日、義明は上総の真里谷武田氏に擁立され、下総小弓城(千葉市中央区)を襲い、城主原氏を打ち破りそこを拠点としました。

 この義明の勢力は侮れないものがあり、まず弟の基頼は長兄でなくこの次兄に付きました。

 そして義明には雪下殿時代からの社家奉行衆が付きしがたい、小弓城近辺には関東足利氏の伝統的被官層が多く住んでおり、また真里谷武田氏以外にも安房の里見氏などの有力な領主層が後援しました。

 小弓城を拠点として、義明は最大の目標である古河公方の地位の奪取に邁進します。

 この義明の行動に対して高基は当然危惧を抱き、永正16年8月に高基は自ら出陣し、真里谷武田氏の属城である椎津城を攻撃しました。

 それに対して義明は高基側の関宿城の攻撃を執拗に画策します。

 高基は、義明からの積極的な「外患」に加え、子の晴氏と不仲になったり思い通りに動かない家臣が現れたりして「内憂」も抱えることになり、天文4年(1535)10月に亡くなってしまいました。

 晴氏は古河公方の地位とともに義明からの攻撃も相続し、義明のしつこさに手を焼くことになります。

 そこで晴氏が目を付けたのが後北条氏でした。

 北条氏綱は大永4年(1524)に江戸城を奪いましたが、それ以降、義明との関係が悪化していたのです。

 晴氏としてみれば、自身が命令するだけで義明のことを滅ぼしてくれればありがたいですし、氏綱としても自身の勢力を拡大するための大義名分を公方からもらえることはありがたいわけです。

 晴氏は「小弓御退治」の御内書を氏綱に与えます。

 ただしすぐには義明と氏綱の決戦の機会は生まれずしばらく時間が流れました。

第一次国府台合戦(2020年6月13日)


 動きがあったのは、天文7年(1538)のことで、氏綱は2月には山内上杉氏の重臣である大石氏の居城・葛西城を落城させ、太田資正の岩付城にも打撃を与えます。

 これを知った義明は奉行人筆頭である逸見山城入道祥仙らを国府台へ派遣して在城させ、氏綱も江戸城や河越城の防備を強化します。

 また、義明にとって癪に障るのは、この前年の9月には北条側に付いている高城氏の本拠地・小金城(松戸市)が完成していることで、関宿城や古河城を攻撃する際に非常に邪魔です。

 義明の先遣部隊はおそらく2月には国府台に在城していたと考えられますが、それから両者のにらみ合いが続き、9月下旬になり義明は、嫡子義純や弟基頼などの親族や自身の後援者である真里谷武田信応や里見義堯などを率い小弓城を出陣し、10月初旬には国府台に到着します。

 一方、氏綱も10月2日には氏康らを引き連れ小田原城を出陣し、江戸城に入城して準備を整え、国府台城から肉眼でも確認できる位置にある葛西城には旗ばかりをなびかせて、さも葛西城に進出してきているように見せかけておいて、北方に迂回し、松戸方面で太日川(今の江戸川)を渡り松戸台に先鋒部隊を上げました。

 それを知った義明は松戸台へ向かい、氏綱勢に攻撃を仕掛けます。

 しかし結果はあっけなく、義明は義純や基頼らとともに討ち死にしてしまいました。

 大将やその跡取りまでもが簡単に討ち死にしてしまうというのは普通はあり得ないのですが、そうなってしまった理由としては、義明勢はほとんど親族や馬回りという親衛隊と山城入道などの奉行衆という少数で戦ったことが挙げられます。

 おそらく一緒にいたであろう武田氏は、このときは武田氏自体の内訌のために多くの兵を引き連れてくることはできなかったと考えられ、本来であれば最も頼りになる里見義堯(よしたか)は、義明が国府台から松戸台に向けて進発した時に、国府台を動かずに望見していたのです。

 これではどう考えても義明が氏綱に勝つことはできません。

 しかも、義明は負けと悟って退却する暇もなく袋の鼠になっているような状況ですから悲惨です。

 そう考えると、氏綱の巧妙さに鳥肌が立ちます。

 もちろん江戸城から葛西城に進出して、そのままストレートに国府台に登ろうとするのは愚策ですから、それはしないとしても、少し離れた松戸台にわずかな手勢だけを率いた義明をおびき寄せているのは上手くいきすぎです。

 もしかすると、義堯の軍勢が国府台から動かないということを見越していて、そうしたのではないでしょうか。

 ちょっと異常な戦いですので、もっと深く考察してみようと思いますが、ともかく、この戦いで小弓御所は滅亡してしまいました。

5.参考資料                           


・『古河公方足利氏の研究』 佐藤博信/著 1989年
・『国府台合戦を点検する』 千野原靖方/著 1999年
・『新編 房総戦国史』 千野原靖方/著 2000年
・『東葛の中世城郭』 千野原靖方/著 2004年
・『図説 太田道灌』 黒田基樹/著 2009年


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