⇒前回の記事はこちら
姥山貝塚をあとにして、船橋法典駅へ向かいます。
ここからは次の目的地までは電車移動ですよ。
なんだかんだでもう11㎞くらい歩いていますが、これから後半戦に入ります。
こういう車両もカッコいいですねえ。
あ!
遺跡の説明板!
公園の敷地内に見つけました。
下郷後(しもごううしろ)遺跡です。
縄文早期後葉の炉跡が7基も見つかっているのに住居跡が確認されていないのが興味深いです。
早期後葉というと遊動生活から定住生活への過渡期で、そろそろ定住がポピュラーになってきた時期だと思うのですが、ここでは竪穴によるしっかりとした家はまだ建てていなかったのでしょう。
前期には普通の集落があったようです。
普通ってなんだ?
公園内はこんな感じ。
再度、駅へ向かいます。
ママに連れられたちいちゃい男の子が「電車!」と騒いでいるので、私も線路を見てみるとちょうど武蔵野線がやってきました。
姥山貝塚と武蔵野線。
あー、温泉施設でゆっくりしたい・・・
船橋法典駅に到着しました。
ここも地下駅ですね。
新八柱駅まで3駅乗ります。
武蔵野線は西国分寺近辺では今でもしょっちゅう乗りますが、千葉県側で乗るのは久しぶりです。
もう30年近く前になりますが、1年半くらいの間、武蔵野線に乗って新八柱と西船橋を通勤のため往復していた時期があったので、車窓の風景は当時も見ていたわけです。
なんとなく懐かしいような感じもしますが、よく覚えていません。
その頃、東松戸駅は北総線の駅として開業したばかりで、まだ武蔵野線は停まらなかったんですよね。
新八柱駅に到着。
あー、思い出した!
ホームから改札へ登る階段はホームの府中本町寄りだったんだ・・・
迂闊にもまったく記憶がなく、西船橋寄りの車両に乗っていました。
階段まで遠い・・・
しかもエスカレーターがいまだにない・・・
まだ午後の探訪が始まったばかりですが、階段を上る足取りが重くなっています。
さて、ここで一箇所、八柱にある遺跡を見に行こうと思います。
駅を出て数分歩き到着しました。
門前公園です。
公園では父子がサッカーボールを蹴って遊んでいます。
Webで見たところによると、この近辺に説明板があるはずなんですが・・・
あった!
これを見に来たのです。
金ケ作陣屋跡です。
陣屋といっても旗本の陣屋とかそういうのではなく、説明板に書いてある通りで、本日のこれからの探訪テーマにもなっている小金牧を管理するための陣屋があったのです。
といっても、実際の陣屋跡はこの説明板の裏手の高台ということですね。
というか、何でこんな高低差があるのか不思議ですが、小金牧のうちの一つである中野牧はちょうどこの辺りから東方向に展開しています。
八柱は昔住んでいた元山からは新京成で3駅で、子供の頃はこの辺も自転車での行動範囲でした。
でもこんなものがあったとは知りませんでした。
子供の頃はまったく興味がなかったので知らなくて当然ですね。
八柱の辺りが近世の頃には交通の要衝だったというのも知りませんでしたが、現代ではここから五香駅まで見事な桜並木がありますよ。
ところで、今更ですが「金ケ作」という地名が気になります。
作はもともとは「柵」かなあとか。
と言っても古代の城柵ではなくて、江戸期の馬牧の「柵」からの命名かも知れませんね。
後でお話しすると思いますが、この場所から東の方面に地名が付けられたのは明治になってからです。
それまでは地名らしい地名がない広大な地域が展開していたのです。
では、新京成の八柱駅へ向かいましょう。
⇒この続きはこちら
姥山貝塚をあとにして、船橋法典駅へ向かいます。
ここからは次の目的地までは電車移動ですよ。
なんだかんだでもう11㎞くらい歩いていますが、これから後半戦に入ります。
こういう車両もカッコいいですねえ。
あ!
遺跡の説明板!
公園の敷地内に見つけました。
下郷後(しもごううしろ)遺跡です。
縄文早期後葉の炉跡が7基も見つかっているのに住居跡が確認されていないのが興味深いです。
早期後葉というと遊動生活から定住生活への過渡期で、そろそろ定住がポピュラーになってきた時期だと思うのですが、ここでは竪穴によるしっかりとした家はまだ建てていなかったのでしょう。
前期には普通の集落があったようです。
普通ってなんだ?
公園内はこんな感じ。
再度、駅へ向かいます。
ママに連れられたちいちゃい男の子が「電車!」と騒いでいるので、私も線路を見てみるとちょうど武蔵野線がやってきました。
姥山貝塚と武蔵野線。
あー、温泉施設でゆっくりしたい・・・
船橋法典駅に到着しました。
ここも地下駅ですね。
新八柱駅まで3駅乗ります。
武蔵野線は西国分寺近辺では今でもしょっちゅう乗りますが、千葉県側で乗るのは久しぶりです。
もう30年近く前になりますが、1年半くらいの間、武蔵野線に乗って新八柱と西船橋を通勤のため往復していた時期があったので、車窓の風景は当時も見ていたわけです。
なんとなく懐かしいような感じもしますが、よく覚えていません。
その頃、東松戸駅は北総線の駅として開業したばかりで、まだ武蔵野線は停まらなかったんですよね。
新八柱駅に到着。
あー、思い出した!
ホームから改札へ登る階段はホームの府中本町寄りだったんだ・・・
迂闊にもまったく記憶がなく、西船橋寄りの車両に乗っていました。
階段まで遠い・・・
しかもエスカレーターがいまだにない・・・
まだ午後の探訪が始まったばかりですが、階段を上る足取りが重くなっています。
さて、ここで一箇所、八柱にある遺跡を見に行こうと思います。
駅を出て数分歩き到着しました。
門前公園です。
公園では父子がサッカーボールを蹴って遊んでいます。
Webで見たところによると、この近辺に説明板があるはずなんですが・・・
あった!
これを見に来たのです。
金ケ作陣屋跡です。
陣屋といっても旗本の陣屋とかそういうのではなく、説明板に書いてある通りで、本日のこれからの探訪テーマにもなっている小金牧を管理するための陣屋があったのです。
といっても、実際の陣屋跡はこの説明板の裏手の高台ということですね。
というか、何でこんな高低差があるのか不思議ですが、小金牧のうちの一つである中野牧はちょうどこの辺りから東方向に展開しています。
八柱は昔住んでいた元山からは新京成で3駅で、子供の頃はこの辺も自転車での行動範囲でした。
でもこんなものがあったとは知りませんでした。
子供の頃はまったく興味がなかったので知らなくて当然ですね。
八柱の辺りが近世の頃には交通の要衝だったというのも知りませんでしたが、現代ではここから五香駅まで見事な桜並木がありますよ。
ところで、今更ですが「金ケ作」という地名が気になります。
作はもともとは「柵」かなあとか。
と言っても古代の城柵ではなくて、江戸期の馬牧の「柵」からの命名かも知れませんね。
後でお話しすると思いますが、この場所から東の方面に地名が付けられたのは明治になってからです。
それまでは地名らしい地名がない広大な地域が展開していたのです。
では、新京成の八柱駅へ向かいましょう。
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