前回の記事の続きです。
気が付いたら長文になってしまったので、後半部分を分離して新たな記事に起こしました。
⇒前回の記事はこちら
氐(てい)の符氏の歴史を調べるには本当はここで中国の正史を紐解くのが一番なのですが、おそらく五胡十六国時代の史料が手元にあるという方はあまりいないんじゃないでしょうか。
ですので、前回紹介した小林さんの書物を参照します。

まず、符洛という名前ですが、姓が「符」ですね。
前回の記事で示した十六国の一覧を見ると、氐族が建国した前秦という国の創建者が苻健という人物だということが分かり、符洛は符健の甥にあたります。
符氏が属する氐は、『後漢書』によれば昆明の東北に氐種に属する白馬国があるため、元々は雲南地方に住んでいた種族の可能性があります。
彼らは紀元直後の王莽の乱以後に、隴から蜀地方の勢力に付随してその地方に移住し、牧畜や農耕を行っていたようなので、元々騎馬民族ではなかったのですね。
上述の符健の父・洪は、今の陝西省の有力な家に生まれ、311年の永嘉の乱の際に経済力に物を言わせて人材を集めて挙兵し、やがて東晋に属して将軍として活躍しますが、350年に側近に暗殺されてしまいます。
その跡を継いだのが三男の健です。
健の兄二人はすでに殺害されていました。
健は秦の国号を掲げて自立したため東晋に攻められますが、辛くもそれを退けた後、翌351年には亡くなってしまい、子の生が跡を継ぎます。
ところが、片眼が不自由だった生は暴虐な性格であったため、357年には従弟の堅が泥酔状態だった生を殺害して王位に就きます。
ここまでで一旦関係系図を挙げますので関係を整理してみてください。
符洪 -+- 〇 -+- 青(洪二男の子の可能性もあり)
| |
| +- 洛(青とともに洪二男の子の可能性もあり)
|
+- 〇
|
|
| ①
+- 健 -+- 〇
| |
| | ②
| +- 生(暴虐)
|
| ③
+- 雄 --- 堅
※数字は秦の即位順
小林さんは、まだ符氏が東晋に属していた時代、堅は人びとに「東海の魚」と呼ばれていたらしいことを挙げて、堅が遼東半島か朝鮮半島方面に赴任していたのではないかと推測しています。
つまりは倭国に近い場所ですね。
つづいていよいよ、応神天皇になった人物かも知れない符洛が登場します。
堅が涼州を平定したあとの376年、洛が北魏攻略を担当しました。
洛は堅の従兄にあたります。
洛は走っている牛を捕まえられるほど勇敢で、弓を射れば鉄を射通すほどの剛力と言われた男でしたが、その戦闘力は重宝するものの同時に危険人物でもあるので堅からは冷遇されていました。
不平不満が絶頂に達した洛はついに謀反を企て、380年には東夷の国ぐにに激を飛ばし協力を要請します。
使者が向かった先は、鮮卑、烏丸、高句麗、百済、薛羅(せつら)、休忍(きゅうにん)等の国ぐにで、小林さんは薛羅は新羅のことで、休忍というのは日本列島にあった勢力のことだと推測しています。
確かに休忍という名前は私も聴いたことがなく、伽耶の勢力もしくは日本列島の勢力であった可能性は高いでしょう。
ところが、洛が協力を要請した東夷の国ぐにはことごとくそれを拒絶します。
洛もここに至っては引くに引けず、長安を攻めようとしますが、ついに堅との戦いに敗れて捕縛されてしまいました。
でも死罪にはならずに涼州への流罪となったのです。
つづいて、その堅も戦いに敗れ処刑され、いよいよ洛が日本列島へ逃れて応神天皇となる、という筋書きになるのですが、これ以上はネタバレになってしまうので気になった方は上述の本を読んでみてください。
なお、五胡十六国時代は北魏が439年に華北を統一して終わったと既述しましたが、それでもまだ中華の完全統一には至らず、続いて南北朝時代になり、588年に隋の文帝による統一まで待たないとなりません。
以上、簡単に説明した3世後半から6世紀末までの時代は、日本では古墳時代にあたり、ヤマト王権が発足してから聖徳太子の時代(蘇我王権時代)までにあたりますので、この時代の日本古代史を解明しようとする場合は、上にその一部をご紹介したように、中国大陸の動きをきちんと把握しておく必要があります。
日本の古墳時代を考察する上では、まずは五胡十六国について基礎的な知識を備えておくといいので、その時代について書かれた本を読むことをお勧めします。
小林さんの本はちょっと・・・、という方には古い本ですがこういった本がお勧めです。


ところで、中国大陸で五胡十六国の戦いが繰り広げられていた時代のヨーロッパでは、黒海沿岸に居たゲルマン族の一派である東ゴート族が、東から遠征してきたフン族によって征服されます。
このフン族は匈奴のことであるという説がありますが(そうだとすると既述した鮮卑の軻比能に圧迫されて西へ移動した可能性があります)、これによりドナウ川北岸に居た西ゴート族がドナウ川を渡ってヨーロッパになだれ込み、「ゲルマン民族の大移動」という現象が始まるわけです。
そしてついに、410年には西ゴート族はローマを占領してしまいます。
この東から西への民族大移動によってヨーロッパの国ぐにが相当な影響を被ったわけですが、フン族が匈奴である可能性を鑑み、上述した五胡十六国時代の中国での動乱との関連は無いはずは無いと思います。
さらに朝鮮半島に目を転じると、建国してからおそらく半世紀くらいだった百済の近肖古王が南下を企てる高句麗に対して逆襲し、371年には高句麗の平壌城を陥落させ、故国原王を戦死させて、一時的に高句麗の力を削ぐことに成功しています。
この頃の倭国と百済の通交を物的に証拠立てる物として「七支刀」がありますが、七支刀は369年に鍛造されたもので、百済の対高句麗政策の一環として、372年に近肖古王が倭国の王にプレゼントしたものです。
これにより、百済は倭および中国の東晋と軍事同盟(東晋に対しては朝貢関係ですが)を結んで高句麗と対峙していくことになります。
重ねて言いますが、こういったユーラシア大陸の各地で同時期に起きた現象は関連性があると考えられ、こういった現象が起きる原因の大きなものとしては気候の寒冷化が挙げられます。
気候の寒冷化とそれに伴う歴史の動きに関してはまた機会があればお話ししたいと思います。
■おまけ
私はたまにクラブツーリズムのツアーで福岡県宮若市の竹原古墳をご案内することがあり、装飾壁画について説明する際に中国の「四神思想」について触れます。
そこでお客様からたまに「四神思想っていつ頃日本に入ってきたんですか?」と質問されることがあるのですが、それに関して参考資料の存在をお伝えします。
中国の前漢時代末から後漢時代(紀元前1世紀~紀元2世紀)にかけて作られた銅鏡に方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)という鏡があります。
その方格規矩鏡には四神思想が表現されていると言われていますが、佐賀県唐津市の桜馬場遺跡からも出土しており、桜馬場遺跡は魏志倭人伝に出てくる末廬国の範囲に入る遺跡ではないかと言われています。
つまり、2世紀の日本人が鏡を見てその意味を理解したかは分かりませんが、すでにその頃には四神思想が日本人に伝わるきっかけは存在したということが言えるわけですね。
気が付いたら長文になってしまったので、後半部分を分離して新たな記事に起こしました。
⇒前回の記事はこちら
* * *
氐(てい)の符氏の歴史を調べるには本当はここで中国の正史を紐解くのが一番なのですが、おそらく五胡十六国時代の史料が手元にあるという方はあまりいないんじゃないでしょうか。
ですので、前回紹介した小林さんの書物を参照します。

まず、符洛という名前ですが、姓が「符」ですね。
前回の記事で示した十六国の一覧を見ると、氐族が建国した前秦という国の創建者が苻健という人物だということが分かり、符洛は符健の甥にあたります。
符氏が属する氐は、『後漢書』によれば昆明の東北に氐種に属する白馬国があるため、元々は雲南地方に住んでいた種族の可能性があります。
彼らは紀元直後の王莽の乱以後に、隴から蜀地方の勢力に付随してその地方に移住し、牧畜や農耕を行っていたようなので、元々騎馬民族ではなかったのですね。
上述の符健の父・洪は、今の陝西省の有力な家に生まれ、311年の永嘉の乱の際に経済力に物を言わせて人材を集めて挙兵し、やがて東晋に属して将軍として活躍しますが、350年に側近に暗殺されてしまいます。
その跡を継いだのが三男の健です。
健の兄二人はすでに殺害されていました。
健は秦の国号を掲げて自立したため東晋に攻められますが、辛くもそれを退けた後、翌351年には亡くなってしまい、子の生が跡を継ぎます。
ところが、片眼が不自由だった生は暴虐な性格であったため、357年には従弟の堅が泥酔状態だった生を殺害して王位に就きます。
ここまでで一旦関係系図を挙げますので関係を整理してみてください。
符洪 -+- 〇 -+- 青(洪二男の子の可能性もあり)
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| +- 洛(青とともに洪二男の子の可能性もあり)
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+- 〇
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| ①
+- 健 -+- 〇
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| | ②
| +- 生(暴虐)
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| ③
+- 雄 --- 堅
※数字は秦の即位順
小林さんは、まだ符氏が東晋に属していた時代、堅は人びとに「東海の魚」と呼ばれていたらしいことを挙げて、堅が遼東半島か朝鮮半島方面に赴任していたのではないかと推測しています。
つまりは倭国に近い場所ですね。
つづいていよいよ、応神天皇になった人物かも知れない符洛が登場します。
堅が涼州を平定したあとの376年、洛が北魏攻略を担当しました。
洛は堅の従兄にあたります。
洛は走っている牛を捕まえられるほど勇敢で、弓を射れば鉄を射通すほどの剛力と言われた男でしたが、その戦闘力は重宝するものの同時に危険人物でもあるので堅からは冷遇されていました。
不平不満が絶頂に達した洛はついに謀反を企て、380年には東夷の国ぐにに激を飛ばし協力を要請します。
使者が向かった先は、鮮卑、烏丸、高句麗、百済、薛羅(せつら)、休忍(きゅうにん)等の国ぐにで、小林さんは薛羅は新羅のことで、休忍というのは日本列島にあった勢力のことだと推測しています。
確かに休忍という名前は私も聴いたことがなく、伽耶の勢力もしくは日本列島の勢力であった可能性は高いでしょう。
ところが、洛が協力を要請した東夷の国ぐにはことごとくそれを拒絶します。
洛もここに至っては引くに引けず、長安を攻めようとしますが、ついに堅との戦いに敗れて捕縛されてしまいました。
でも死罪にはならずに涼州への流罪となったのです。
つづいて、その堅も戦いに敗れ処刑され、いよいよ洛が日本列島へ逃れて応神天皇となる、という筋書きになるのですが、これ以上はネタバレになってしまうので気になった方は上述の本を読んでみてください。
なお、五胡十六国時代は北魏が439年に華北を統一して終わったと既述しましたが、それでもまだ中華の完全統一には至らず、続いて南北朝時代になり、588年に隋の文帝による統一まで待たないとなりません。
以上、簡単に説明した3世後半から6世紀末までの時代は、日本では古墳時代にあたり、ヤマト王権が発足してから聖徳太子の時代(蘇我王権時代)までにあたりますので、この時代の日本古代史を解明しようとする場合は、上にその一部をご紹介したように、中国大陸の動きをきちんと把握しておく必要があります。
日本の古墳時代を考察する上では、まずは五胡十六国について基礎的な知識を備えておくといいので、その時代について書かれた本を読むことをお勧めします。
小林さんの本はちょっと・・・、という方には古い本ですがこういった本がお勧めです。


ところで、中国大陸で五胡十六国の戦いが繰り広げられていた時代のヨーロッパでは、黒海沿岸に居たゲルマン族の一派である東ゴート族が、東から遠征してきたフン族によって征服されます。
このフン族は匈奴のことであるという説がありますが(そうだとすると既述した鮮卑の軻比能に圧迫されて西へ移動した可能性があります)、これによりドナウ川北岸に居た西ゴート族がドナウ川を渡ってヨーロッパになだれ込み、「ゲルマン民族の大移動」という現象が始まるわけです。
そしてついに、410年には西ゴート族はローマを占領してしまいます。
この東から西への民族大移動によってヨーロッパの国ぐにが相当な影響を被ったわけですが、フン族が匈奴である可能性を鑑み、上述した五胡十六国時代の中国での動乱との関連は無いはずは無いと思います。
さらに朝鮮半島に目を転じると、建国してからおそらく半世紀くらいだった百済の近肖古王が南下を企てる高句麗に対して逆襲し、371年には高句麗の平壌城を陥落させ、故国原王を戦死させて、一時的に高句麗の力を削ぐことに成功しています。
この頃の倭国と百済の通交を物的に証拠立てる物として「七支刀」がありますが、七支刀は369年に鍛造されたもので、百済の対高句麗政策の一環として、372年に近肖古王が倭国の王にプレゼントしたものです。
これにより、百済は倭および中国の東晋と軍事同盟(東晋に対しては朝貢関係ですが)を結んで高句麗と対峙していくことになります。
重ねて言いますが、こういったユーラシア大陸の各地で同時期に起きた現象は関連性があると考えられ、こういった現象が起きる原因の大きなものとしては気候の寒冷化が挙げられます。
気候の寒冷化とそれに伴う歴史の動きに関してはまた機会があればお話ししたいと思います。
■おまけ
私はたまにクラブツーリズムのツアーで福岡県宮若市の竹原古墳をご案内することがあり、装飾壁画について説明する際に中国の「四神思想」について触れます。
そこでお客様からたまに「四神思想っていつ頃日本に入ってきたんですか?」と質問されることがあるのですが、それに関して参考資料の存在をお伝えします。
中国の前漢時代末から後漢時代(紀元前1世紀~紀元2世紀)にかけて作られた銅鏡に方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)という鏡があります。
その方格規矩鏡には四神思想が表現されていると言われていますが、佐賀県唐津市の桜馬場遺跡からも出土しており、桜馬場遺跡は魏志倭人伝に出てくる末廬国の範囲に入る遺跡ではないかと言われています。
つまり、2世紀の日本人が鏡を見てその意味を理解したかは分かりませんが、すでにその頃には四神思想が日本人に伝わるきっかけは存在したということが言えるわけですね。