日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

上浜田遺跡(浜田歴史公園)|神奈川県海老名市 ~ワンちゃんパラダイスと化した鎌倉武士の居館跡~ 【歴史を歩こう協会・第1回歩く日 ⑩<最終回>】

2019-02-11 21:43:37 | 歴史探訪
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 相模湖に水没した地域から移ってきた鳳勝寺ならびに八坂神社を拝したあとは、再度古墳群に戻ります。

 上浜田古墳群では、すでに1号・2号・6号・7号(瓢箪塚)を見ました。

 3号はすでに湮滅しており、4号はその後の調査で中世の塚であることが分かったので、残りは5号墳ですね。

 探しに行きましょう。

 ところが、古墳の場所に行っても墳丘も説明板も見当たりません。

 この辺だと思うのですが・・・



 湮滅してしまったのかもしれません。

 ということで、諦めて本日最後のスポットへ向かいます。

 本日の最後は、さきほどの三塚公園の説明板にもチラッと書いてあった上浜田遺跡です。

 遺跡は「浜田歴史公園」として整備されています。



 説明板がありますよ。



 上浜田遺跡は縄文や奈良・平安、そして中世の複合遺跡で、鎌倉時代の武士の館跡が見つかったという珍しい遺跡です。



 公園内を見てみようと思ったところ、ご主人様に連れられた白いワンちゃん(後で聞いたら真ん丸のチワワでした)がずっとこちらを見ています。

 ご主人様が「行くよ」と言って連れて行こうとしても、どうも私たちに興味があるようでその場を動かないのです。

 吠えるわけでもなく、尻尾を振っていて、遊んでもらいたいような雰囲気です。

 そうしたら今度は、また別の2匹の黒い小型犬を連れた方がやってきて、そちらのワンちゃんは2匹とも活発で、遊んで欲しいらしく飛び跳ねながら私たちに突撃してきます。

 「人が好きでね。人なら誰でもいいんです」とご主人様がいうと、オーメンさんが「我々を人間だと思ってくれてるんですね」と返しました。

 大丈夫、中身はどうであれ、私たちも見た目はちゃんと人間に見えますから。

 私は猫ちんも好きですが犬も好きなので、しゃがんで戯れます。

 そこに先ほどの白いワンちゃんも介入。

 鎌倉武士の館の上はワンちゃんパラダイスと化しました。

 本当に犬は可愛いですね。

 将来はまた犬を飼いたいです。

 ジジ子のようなシュナウザーがいいな。

 さて、この公園には地表面に柱跡などが表示されています。

 こちらは附属屋。



 名前からして用途が不明なのでしょう。

 こちらは井戸跡。



 井戸跡の左隣には柵列の表示があります。



 厩跡は結構広いですね。



 ※さきほどの2匹の黒いワンちゃんが写っていますが、可愛かった。

 そろそろバスが来る時刻ですね。

 主屋跡の上を歩いて公園から出ます。



 本当は通路ではないはずですが、ショートカットをする場合はどうしてもこの上を歩いてしまいますよね。

 さて、好都合なことに歴史公園の前にバス停があり、10分に1本くらいの割合で海老名駅行きがあるので、ここからはバスで駅まで戻りますよ。

 海老名駅までは3駅。

 ちょうど16時に海老名駅に戻ってきました。

 ここで解散式。

 朝9時45分に集合して16時に解散という、ちょうどよい感じの歴史歩きになりましたね。

 オーメンさんは帰宅するとのことなので、残った5名で懇親会(クラツーの場合は勉強会)を開催です。

 近くの居酒屋がちょうど16時にオープンしていたので入りました。



 本日の感想やら、次回以降どこに行きたいかなどを話します。

 初参加のかんめいさんから感想を聞いた感じでは、やはり今回の目論見通り、一般的にはこれくらいの歩行距離がMAXということだと思います。



 今までの懇親会では意外なことにほとんど歴史の話はしなかったのですが、今回はとくに歴史に興味がある方たちが集まったので今までよりも普通に歴史の話ができましたね。

 歴史の集まりなわけですから、こうでなければ。

 2時間の飲み放題コースにしたので、18時過ぎには終了。

 普通であれば飲みが始まる時間ですよね。

 でも最近は私も夜遅い時間は苦手になってきたので、こういう早めに飲んでさっさと帰宅して寝る、というスタイルが一番快適です。

 というわけで、

 ・金子さん
 ・茂樹さん
 ・オーメンさん
 ・池上さん
 ・かんめいさん

 本日も一日ありがとうございました!

 (了)

 

鳳勝寺・八坂神社|神奈川県海老名市 ~相模湖建設時に水没した勝瀬から移転~ 【歴史を歩こう協会・第1回歩く日 ⑨】

2019-02-11 20:42:38 | 歴史探訪
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 上浜田古墳群の存在は以前から知ってはいたのですが、どういうわけかあまり興味が湧きませんでした。

 ところが、先日当会の関根さんのレポートを読んだら俄然興味が湧いてきて、今回歩いてみることにしたわけです。

 百聞は一見に如かずとはよく言ったもので、やはり実際に歩いてみると楽しさが分かりますね。

 さて、次は古墳ではなく、この近くにある「形成に特殊な経緯のある地域」のお寺と神社を訪ねてみようと思います。

 鳳勝寺へ行ってみたいのですが、ここは近道かな・・・

 そう思ってさっきは現代の国分寺への近接に失敗したわけですが、懲りずに突撃します。

 基本、私は攻撃系の人物で守備は苦手です。

 絶えず攻めていたい。

 山道の右手に八坂神社の境内がありますが、そこへ行きたいのです。

 ところがずっとフェンスが続いており、神社の境内へ入る場所がありません。

 唯一見つけたゲートには鍵が掛かっていました。

 仕方がない、迂回するか、と思ったところ、池上さんがフェンスの途切れた場所を発見しました。

 ナイス。

 その隙間から侵入。

 八坂神社です。





 説明板がありますよ。



 ここに皆さんに説明したかったことが書いてありました。

 先ほど、「形成に特殊な経緯のある地域」と言いましたが、相模湖を造る際に水没予定となった日連(ひづれ)村の勝瀬という地域の人たちがこの地に移住してきたわけです。

 相模湖は今ではイルミネーションや花火で有名ですが、人造湖なのですよ。

 と言っても、元々相模川は流れていましたよ。

 日連という地名は今でも残っており、少し前の行政区画では津久井郡藤野町で、現在は相模原市緑区となります。

 10年くらい前に相模湖で測量のアルバイトをしていた頃はたまにその辺にも行っていました。

 津久井郡には難読地名が多くて、例えば寸沢嵐は「すわらし」と読みますし、普通に「まきの」かと思った「牧野」が、「まぎの」と濁るのです。

 中世の頃は奥三保(おくさんぽう)と呼ばれる独特な地域で、戦国時代は武田と北条に半分ずつ税を納める地域もありました。

 社殿。



 現在のこの辺りの住所は「勝瀬」ですが、移ってきた当初は旧来の国分だったのが、昭和30年になって地名表記を故郷の地名である「勝瀬」に変更してもらったのです。

 しかし、自分の故郷が水没するってとても悲しいことですよね。

 それを乗り越えて、この地域の方々は現在暮らしているわけです。



 つづいて鳳勝寺を訪れます。



 石仏が並んでいますが、頭部がないですね。



 明治の廃仏毀釈の影響でしょうか。

 山門をくぐります。



 当初はこちらに来て勝瀬のことを話そうと思っていたのですが、八坂神社で済んでしまいました。

 なかなか立派なお寺ですね。





 鳳勝寺は春日山と号する曹洞宗のお寺で、津久井郡での開山は戦国時代の頃のようです。

 さて、本日最後の目的地は鳳勝寺から見て丘の反対斜面にあるので、もう一度丘を登りますよ。

 結構な急坂。

 ※かんめいさんはこの後の親睦会の時に「最後のこの坂がきつかった!」と述懐していました。

 登りきるといい景色が見れます。



 時刻はもうすぐ15時半です。

 オマケのツアーという位置づけでもう1時間も歩いていますね。

 でも残り2箇所です。

 頑張りましょう。

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上浜田1号墳・2号墳|神奈川県海老名市 【歴史を歩こう協会・第1回歩く日 ⑧】

2019-02-11 19:45:56 | 歴史探訪
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 上浜田古墳群の探訪を続けます。

 今度は、3つの古墳があるようなネーミングの「三塚公園」を目指します。

 茂樹さんは疲れを知らないようで、率先して道を見つけてくれます。

 はい、公園発見!



 公園内を見渡すと、2基の古墳らしき土盛が横たわっていますね。

 説明板があるので読んでみましょう。





 なるほど、「三塚公園」という名前にはなっていますが、現在残っているのは1号墳と2号墳だけなのですね。

 でも形状は不明か・・・



 説明板の位置から見て、右手が1号墳。



 左手が2号墳ですね。



 現在の姿や想定される元の地形から想像すると、もしかすると1号墳は前方後円墳ではないでしょうか。

 もう少し引いて、左手に前方部があるという想定で写真を撮ります。



 一方、2号墳は円墳かなあ・・・

 寒さで体温が奪われてくるように感じますが、もう少し歩きましょう。

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上浜田6号墳|神奈川県海老名市 ~秋葉山勢力と同じく東海出自の人物の墓か~ 【歴史を歩こう協会・第1回歩く日 ⑦】

2019-02-11 19:26:58 | 歴史探訪
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 海老名市内で最大規模の瓢箪塚古墳を見た後は、上浜田6号墳へ向かいます。

 かつては古墳がポコポコとあったこの丘陵も今では完全な住宅街ですね。

 その住宅街を歩き、わずかに残る6号墳の墳丘を発見しました。



 丘陵の縁という立地ですね。



 瀕死の状態ですが、よくぞ生き残ってくれていました!

 きちんと説明板もあります。



 復元すると一辺が22mほどの方墳ということで、秋葉山5号墳とほぼ同じサイズですね。

 秋葉山古墳群も現状みられる5基の古墳のうち、1基だけ方墳があります。

 ここ上浜田古墳群も現状みられる古墳のうち、形状が不明な古墳があるものの、方墳はこれ1基だけのようです。

 時代も4世紀だとすると、まだ秋葉山古墳群の被葬者がサガミの王として君臨していた時代と考えられ、この6号墳の被葬者は秋葉山と同じく東海に出自を持つ人物で、秋葉山勢力に嫁いだ女性か、もしくは秋葉山勢力をサポートした有力者の可能性があると思います。

 では、墳丘に登りましょう。



 削ってしまった部分はロータリーのようになっていてベンチも置いてありますが、いったい何の用途に使うんでしょうか。



 これ以上は壊さず、ずっと残しておいていただきたいですね。

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瓢箪塚古墳|神奈川県海老名市 ~ヤマト王権の重要な協力者が眠る海老名市最大の前方後円墳~ 【歴史を歩こう協会・第1回歩く日 ⑥】

2019-02-11 19:01:52 | 歴史探訪
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 海老名市立郷土資料館(海老名市温故館)の方に丁寧かつマニアックな解説および現地案内をしていただき、私たちは非常にエキサイトしました。

 楽しかったですねえ。

 でも気づけば空模様は快晴だったのが曇りとなってきて、時刻も14時半となっています。

 立春は過ぎましたが、まだまだ冬ですから、そろそろラストスパートということにしましょう。

 なお、クラツーで今度ご案内するときは、ここでお終いの予定です。

 カタログ上ではここでお終いなのです。

 でも、常連のお客様が想定している通り、カタログ上の探訪が終わってもまだ時間が早い場合は、無料オプションツアーをやります。

 もちろん任意参加です。

 そのオプションツアーとして用意しておこうと思っているのが、これから行く上浜田古墳群です。

 今回初参加のかんめいさんは少し疲れてきたように見受けられますが、もう少し頑張りましょう。

 今では私たちと普通に歩いている仲間も、「最初はきつかった」と後で述懐することが多いです。

 まあ、義務ではないのできついことを無理に続ける必要はないわけですが、人間の身体は、やはり続けているとそれなりに対応できるようになってきます。

 では、行きますよ。

 上浜田古墳群へ向かう途中、現代の国分寺に寄ろうと思いましたが、近道をしようとして逆に失敗してしまいました。

 この辺は起伏のある地形なので、それが災いしてうまく到達することができませんでした・・・

 仕方ないので割愛します。

 バス通りをテクテクと歩いていくと、前方にこんもりとした森が見えてきました。



 きっとあそこに違いない。

 近接すると、「ひさご塚公園」の看板が出ています。



 この辺は丘の上なのですが、そこからさらに高所へ行くんですね。

 階段を登ると前方後円墳が横たわっていました。



 説明板もあります。



 ここには4世紀から5世紀初頭というちょっと広い年代幅が書かれていますが、秋葉山古墳群の築造が終わった後、それに続く形で造られたわけです。

 復元すると墳丘長は80mもあるそうで、秋葉山古墳群最大の1号墳よりも一回り大きいですね。

 普通に考えれば、秋葉山古墳群に続く首長墓ということになり、4世紀後半か5世紀初めの頃の築造とすると、ちょうど畿内や関東各地の前方後円墳が巨大化した時期に当たります。

 そうなると、「いわゆる河内政権」とされる百舌鳥・古市古墳群を築造した「倭の五王」の時代に相模一帯を収めた有力者の墓の可能性があり、しかもヤマト王権にとって非常に重要なパートナーだったことが想定できます。

 では、墳丘に登りましょう。

 お、後円部に三角点。



 クラツーでもたまに三角点が好きな方がいらっしゃいますよ。

 それにしてもいい景色。

 周りを見下ろしながら金子さんが「抜けがいいですね」とつぶやきました。



 なるほど、「抜けがいい」という言葉は眺望にも応用できますね。

 音楽をやっている人間の場合、抜けがいいといった場合は、ある特定の楽器の輪郭がとくに際立ってよく聴こえる場合などに使います。

 歌にも同様に使いますね。

 この眺望の良い土地は、サガミの王墓の立地として極めて適切かと思います。

 ただし、実は神奈川の古墳は全体的に調査が遅れており、相模川と金目川のちょうど中間あたりの平野にあった真土大塚山古墳の位置づけがはっきりしないことには、歴史の構築に確実性が加わらないのです。

 真土大塚山古墳はきちんと調査をする間もなく破壊されてしまったのですが、三角縁神獣鏡が出ているので、ヤマトにとって重要な人物が葬られていたことは確かです。

 しかし、形状も大きさも分からない・・・

 そのため真土大塚山古墳の位置づけによって、この瓢箪塚古墳の被葬者の位置づけも変わるというわけです。

 ちなみに、海老名市温故館の方もおっしゃっていましたが、秋葉山古墳群も主体部を調査すれば、もしかしたら三角縁神獣鏡が出てくるかもしれませんよ。

 さて、後円部から前方部を見てみましょう。



 今度は前方部から後円部。



 結構高低差があるので、5世紀にかからず、4世紀に収まる古墳のように見えます。

 そうなると、河内政権以前の、佐紀古墳群の被葬者たちが政権を運営していた時代の東国での有力者かもしれませんね。

 いやあ、しかしいいですねえ、この古墳。

 では続けて上浜田古墳群を探訪しましょう。

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相模国分寺跡・海老名市立郷土資料館(海老名市温故館)|神奈川県海老名市 ~東国最古の人工水路跡も残る~ 【歴史を歩こう協会・第1回歩く日 ⑤】

2019-02-11 18:02:27 | 歴史探訪
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 まるで顔が濡れたアンパンマンのように衰弱してしまっても、美味いラーメンを食べれば元気100倍に戻るのは私だけではないと思います。

 それでは、午後の探訪も楽しみましょう。

 ここで本日の探訪ルートをもう一度確認しておきます。



 ここに書いていないスポットも訪れつつ歩いてきましたが、午後の最初は相模国分寺跡からです。

 おや、出来立ての看板がありますぞ。



 こちらにも出来立ての説明板が。



 日付を見ると2019年2月って書いてる!

 本当に最近設置したものなんですね。

 僧房というのは国分寺に持する僧侶たちの宿舎で、僧侶は国家によって選ばれた人々で僧寺には20名、尼寺には10名の定員が定められていました。

 説明板に書いてある通り、一人の僧侶に与えられた区画の面積は、9m✕6.57mですので、59.13㎡となります。

 もちろん、柱や壁があるのでこれよりも若干狭くなりますが、結構広いですね。

 ここに長屋の要領で僧房が建っていたわけです。



 というか、お坊さん一人の住まいが現在の3DKの間取りの高尾幕府とほとんど同じくらいの床面積じゃん!

 もしかして我が家って狭いのかなあ?

 大丈夫、こういうときは菅公さんのように梅を愛でましょう。





 この説明板も同様に新しい。





 相模国分寺の伽藍配置は上の図の通りで、七重塔と金堂が並ぶ法起寺式と呼ばれる形態ですが、面白いのは周りの回廊部分の東側が回廊になっておらず築地塀になっていたことです。

 予算がなかったのでしょうか。

 そして図中に「逆川」と書かれているのが人工河川です。



 海老名市立郷土資料館(海老名市温故館)の前まで来たので、国分寺跡を見学する前にこちらを見学しましょう。



 温故館に来ると、いつもボランティアの方から楽しい解説を聞くことができます。

 その日によって詰めている方は違うのですが、今日の方も熱心に解説してくださいます。

 私たちメンバーも好奇心が旺盛なので、どんどん質問しますし、解説する方は質問されると嬉しいんですよね。

 本郷遺跡の方形周溝墓で見つかった土器棺(弥生後期)。



 こちらは杉久保遺跡で見つかった勝坂式土器(縄文中期)。



 何だかんだで気づくと40分くらいガイドの方を捕まえていました。

 その方に国分寺跡のガイドをお願いすると、東国最古級の運河(人工水路)の跡を案内してくださるとのことです。

 というわけで、お外に出ます。

 現在の相模国分寺跡で基壇の上に礎石が乗った状態で整備されているのは、塔跡と金堂跡です。

 塔跡の礎石でどれが本物でどれが後世の物か教えていただき、つづいて金堂跡を見て、運河跡へ向かいました。

 ここの北方建物跡の説明も新しい。



 植木で柱跡を示しています。



 水路跡は先ほど見た新しい説明板にも地図上に示されていましたが、国分寺跡の北東部に行くと当時の水路跡が道路になって残っているそうです。

 この正面方向へ向かって水路があったんですね。



 水路跡の道へ少し入り、振り返ります。



 ガイドの方について皆さん、水路跡を歩いていきます。



 ガイドの方は、見学者に「ブラタモリで取り上げてもらえば」と言われることがあるそうで、確かに私たちを含めてこういうのが好きな人は多いでしょうね。

 そうえいば、池上さんに聴きましたが、昨晩のブラタモリでは武蔵小杉を取り上げて、以前「東国を歩く会」で武蔵小杉を歩いた時と同じコースを歩き、紹介しているネタも同じようなものだったそうで「そっくり、というかそのままだった」ということでした。

 冗談で「番組制作者が俺のブログを見てパクったね」と話しましたが、もちろんそんなことは無く、あの界隈を歩くと誰が歩いても自動的に同じようなルートになって同じような話題になるということですね。

 つまりは歴史マニアのツボは共通ということです。

 さて、少し歩くと船着き場が見つかった場所に来ました。



 見ての通り、現在でも少し高くなっていますよね。

 この上では倉も見つかったそうです。

 荷揚げしたものを保管しておく倉でしょう。

 ここから水路跡を見ると道の両側が高くなっていて、これはまさしく河道の光景ですね。



 みんな、大喜び。

 ここが逆川跡と呼ばれる所以は、この地域の川は通常は北から南へ流れているのですが、自然河川から水を導入して造ったこの運河は、逆方向へ水が流れており、そのことから逆川と呼ばれるようになりました。

 こちらの郷土かるたの文面は最近変えたそうです。



 以前は「日本最古の」だったのですが、最近畿内でここよりも古い運河が見つかってしまったので、「相模最古の」に改訂したそうです。

 「東国最古」でも良かったと思いますね。

 ここに人工河川が開削されたのは大化改新の頃で、それから100年少しあとに国分寺を創建したときは、この運河を物資の運搬に活用したそうです。

 大和とか河内・和泉に古い運河があるのは日本書紀の記述を見ても想定できますが、東国の場合は非常に貴重ですね。

 遺構は見つかってはいないものの、日本書紀によると5世紀の頃に河内・和泉に人工河川を造ったとあり、そのときは渡来人の技術者が活躍しました。

 こちらはどうなんでしょうねえ。

 そして、まだ見つかっていない運河もあると思います。

 もし、現在は自然の川だと思い込んでいる河川も、もし流れている箇所が高い場所だったり、不自然な景観である場合は、もしかすると古代の運河かもしれませんよ。

 いやー、面白かったですねえ。

 ガイドの方にお礼を言って、私たちは本日最後の探訪箇所である上浜田古墳群へ向かうことにしました。

*     *     *


 帰宅してから「今昔マップ」で昔の地図を見てみました。

 明治39年の測図を見ると、私たちが歩いた道が川筋として表記されています。



 昭和になってからの地図を見ると、何の変哲もない普通の道として描かれていますが、昭和41年の測図だけはきちんと掘割状になっているのを現しています。



 いいねえ。

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相模国分尼寺跡|神奈川県海老名市 ~金堂跡に残る礎石は往時の物か~ 【歴史を歩こう協会・第1回歩く日 ④】

2019-02-11 15:22:02 | 歴史探訪
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 龍峰寺境内から彌生神社の境内を経て、石段を下がって丘から降りてきました。

 でもここもまだ、相模川の低地から一段高い場所ですよ。

 県道407号線を南下して、国分尼寺跡を目指します。

 この道も明治からある古い道なのですが、今は交通量が多いこの近辺の主要な道となっています。

 明治時代からそれほど拡幅されていないのにもかかわらず、片側一車線ずつの車道を設けてしまったため、ほとんど歩道を作るスペースが残っておらず、歩行者にとっては大変危険な道です。

 小さいお子さんには歩かせたくないですね。

 この道を以前、クラツーの中型バスで南下しましたが、すれ違うのが大変な道でした。

 そんなデンジャラスな県道を歩き、国分尼寺跡に到着。

 講堂跡。



 講堂跡と細い道路を挟んで、少し広めの公園のようになっている場所に金堂跡があります。



 ここは以前、先ほど言ったバスを使ったツアーの時は停める場所がないため割愛しましたが、今度の徒歩のツアーではご案内します。

 ※相模国分尼寺跡をめぐるツアーをクラブツーリズムで行う予定です。
 ※3月10日発行の「歴史への旅」に掲載される予定ですので、発表までしばらくお待ちください。




 金堂というのは普通のお寺でいうところの本堂のことで、仏様が安置されています。

 現在見ることのできる遺構は、金堂跡の基壇と礎石です。

 よーく見ると、結構な数の礎石が規則正しく並んでいるのが分かりますよ。

 ※海老名市立郷土資料館の方の説明によると、ここの基壇に並ぶ礎石を動かしたりいじったりした記録はないそうなので、往時の物(1300年前の物)である可能性が高いです。

 このあと訪れる僧寺跡は整備が進んでいますが、こちらの尼寺跡は現在のところあまり見るべきものがないように思えます。

 でもマニアにとっては基壇と礎石があるだけでも嬉しいのです。

 というわけで、お腹が空いてきましたね。

 食事場所を探しましょう。

 今回は少人数ということもあり、食べる場所は決めてきませんでした。

 当会の特徴は、こういった行き当たりばったりなところです。

 食べる場所はこれから探す!

 歩いていると、「国分寺そば」というお店の電柱広告があるので、そこを目指してみましょう。

 相鉄線の踏切に来たら遮断機が下りました。



 「そうにゃん」お尻!



 「そうにゃん」顔面!



 そういえば、私はまだ一度も相鉄に乗ったことがないような気がします。

 今度乗ってみようっと。

 テクテクと歩き、僧寺跡の近くまで来て店を発見しました。

 ところがです!

 凄い混雑!

 ここでは食べられませんね。

 金子さんがスマホで近辺のお店を探してくれたところ、ラーメン屋が近くにあるようです。

 行ってみましょう!

 よし、発見!

 ところがまたまた!

 ランチ営業をやってない・・・

 仕方がない、次!

 そして金子さんの探査によってようやく家系ラーメンのお店にたどり着きました。



 家系ですが、店名は「屋」であって「家」ではありません。

 私は一番シンプルなラーメンをチョイス。



 うーん、美味い!

 家系の中でも濃い目に入り、チャーシューが特に美味しい。

 家系はご飯が食べ放題の店が多いですが、いつもは1膳のところ、空腹のあまり2膳食べてしまいました。

 茂樹さんは「若い人ってラーメン好きだよねー」と言いつつ、普段はこういうのは食べないけど美味かったと言っています。

 皆さんに好評で良かった。

 かんめいさんからは「食べるの早い!」と言われてしまいましたが、スミマセン、この会は昼飯にはあまり時間を掛けないのです。

 でも、確かに私は普段ダスキンの仕事をしている関係もあってか、食べるのが早くなっているのかもしれませんね。

 あまり体にいいことではないので気を付けたいです。

 それではお腹一杯になって元気を取り戻したので、午後の探訪も頑張りましょう!

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瑞雲山龍峰寺・彌生神社|神奈川県海老名市 ~貴重な江戸中期建立の水堂~ 【歴史を歩こう協会・第1回歩く日 ③】

2019-02-11 14:35:08 | 歴史探訪
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 あ、また猫ちん。



 私たちにはまったく興味を示さず、悠然と民家の敷地へ歩いてきました。



 現在私たちが歩いている道は、明治39年の陸軍の地形図にも書かれている道ですから、もしかすると江戸時代からの道かも知れません。

 私の歩き方としては、ポイントとポイントとの間は極力古い道を歩くことにしています。

 そうすると、江戸期の馬頭観音や道標などが見つかることがあるからです。

 でも今日は何もありませんねえ。

 この古い道を阻むように、大和厚木バイパス(246号)が現れました。

 バイパスの向こうに旧道が見えますが、歩行者はここを渡れません。



 横にある歩道橋を行きますよ。

 歩道橋に登ったら、高所からの写真を撮るチャンスです。





 バイパスを渡り歩いていると、皆さん左手の地形が気になるようです。



 あの丘は今歩いている丘の続きで、あの丘の向こうは谷となっており、目久尻川が流れています。

 「めくじり」という名前の由来は、昔、川に河童が住んでおり、その河童たちが人間の食べ物を盗むようになったため、村人たちは川狩りを行い、捕獲した河童のリーダーの処刑に当たっては、憎さのあまり最初に目を「くじり取って」から殺害したため、そこから目久尻川という名前が付いたという伝承が残っています。

 本当かどうかは分かりませんが、河童の伝承が残っているということに注目すべきだと思います。

 龍峰寺の裏手にやってきました。

 お、三ツ鱗!



 横長の三角形なので、鎌倉北条ではなく小田原北条ですね。

 池上さんが、「さっきの常泉院にもありましたよ」と教えてくれました。

 見逃してた~。

 しかし不思議な伽藍配置だなあ。



 こちらが本堂です。



 瑞雲山とありますね。



 臨済宗龍峰寺は、南北朝時代の1341年に現在の海老名市立海老名中学校付近に創建され、昭和の初めころに現在地に移ってきました。

 本堂は比較的新しい建築のようですが、こちらの観音堂が風格があって素晴らしいですね。







 江戸中期の元文2年(1737)に再建ということで、大変貴重な木造建築物です。

 龍峰寺の南側には清水寺公園というのがあり、説明板にも書かれている清水寺(せいすいじ)というお寺も気になりますね。

 今度調べてみよう。

 ちなみに、この水堂は明治39年測量の地図にもちゃんと掲載されていますよ。

 ところで、トイレに行きたいですが見当たりません。

 まあ、男なのでいざとなったら「どこでもトイレ」です。

 以前、とある著名な歴史研究家の名誉教授に「知ってる?女性だって立ってできるんだよ」とご教示していただいたことがありました。

 ただ、これに関しては史料的な裏付けや遺物での確認はしていないので何とも言えません。

 山門も立派です。



 龍峰寺からは隣の彌生神社へ抜けられます。

 蚕に関する神社かな?



 彌生神社社殿。







 祭神が系統の異なる4柱の神様で随分とまとまりが悪いですが、ここに書いてある通り、4つの神社を合祀した結果こうなっているのです。

 ここも結構な高低差。



 石段を下りて振り返ります。



 さて、そろそろお昼になりますので、つぎの国分尼寺跡を見学したらお昼を食べる場所を探しましょう。

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金龍山常泉院|神奈川県海老名市 ~北条藤菊丸の北進と関係?~ 【歴史を歩こう協会・第1回歩く日 ②】

2019-02-11 14:14:30 | 歴史探訪
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 秋葉山古墳群を出て南へ向かいます。

 今日はいつもよりもゆっくり歩きますよ。

 本気を出すと競歩になってしまいますからね。

 しばらく丘の上を歩きます。

 大山は普段のダスキンの仕事での活動範囲からもよく見える山ですよ。



 あ、猫ちん。



 最初に皆さんにお配りしたルートマップには主な場所しか記載しておらず、私たちの会の特徴は道すがら見つけたスポットには極力立ち寄るところです。

 過去は寄り道ばっかりして、当初の予定通り完歩できないことも度々ありましたね。

 秋葉山古墳群がある丘の西側には常泉院があるので探訪してみましょう。



 常泉院は曹洞宗の寺院です。



 山号は金龍山。



 由緒が書いてあります。





 これによると、元々この地には鎌倉時代に創建された福泉寺という真言宗のお寺があり、それがのちに荒廃し、天文19年(1550年)に厚木市七沢の曹洞宗広澤寺3世勇安賢存によって再興されました。

 由緒書きの最後に秋葉山古墳群のことがチラッと書いてありますね。

 ※海老名市立郷土資料館の方の話によると、秋葉山古墳群が残っているのは該所が常泉院の土地だったために守られたことも大きいとのことです。

 本堂。



 ところで、天文19年というと、この地に小田原北条氏の勢力が伸びてきたころで、1540年頃の生まれである氏照は、当時藤菊丸と名乗り、常泉院から北に2㎞ほどの座間市入谷にある星谷寺周辺に居住していた可能性があります。

 当時はまだ大石氏に養子に入る前で氏照の史料は乏しいのですが、常泉院の再興は小田原北条氏の北上と関連した動きかもしれません。

 それではさらに南下しますよ。

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秋葉山古墳群|神奈川県海老名市 ~東海勢力の関東進出の証である前方後方墳と東国最古の前方後円墳をダブルで擁する古墳群~ 【歴史を歩こう協会・第1回歩く日 ①】

2019-02-11 12:11:36 | 歴史探訪
 昨日、クラツーのツアーを終えて高尾へ戻ってくると、少し雪が降っていて公園なんかは薄く雪が積もっていました。

 ところが、朝家を出ると天候はバッチリ!

 雪は積もっていません。

 気温は少し低いですが、風はなくて快晴です。

 これは絶好のコンディションですな。

 本日はJR相模線の海老名駅に集合です。

 相模線は単線のローカル路線ですので、途中すれ違いのために駅に長めに止まることがあります。

 八王子から海老名へは車ではあっという間ですが、相模線で行くと45分くらい掛かります。

 海老名に近くなってくると、進行方向左手には最初の目的地である秋葉山古墳群が乗っかる丘陵が見え、右手の大山はくっきりときれいな姿を現しています。

 9時33分、海老名駅に到着。



 今までは9時集合が多かったのですが、今日はいつもよりもゆっくり目の9時45分の集合にしています。

 今回は人数も少なめで、皆さんすぐに集まりました。

 今回のメンバーは私以外には、

 ・現状最年少で今日も最遠から来たハードロック好きの金子さん
 ・K姉妹ならぬ夫妻での参加が多いが今日はソロ参加の茂樹さん
 ・米軍の無線を傍受しながら歩く軍事マニアのオーメンさん
 ・かつては宇宙の仕事をしていた物理学の池上さん

 そして、昨年CTの出雲伯耆ツアーに来てくださり今回が初参加のかんめいさんの合計6名です。

 いつもながら面白い方々に集まっていただきました。

 皆さん、ご参加ありがとうございます。

 海老名の駅前も発展が著しいですね。



 海老名の駅前はスペースに余裕があるようで、商業施設はたくさんありますがゴチャゴチャしておらず、とても素敵な雰囲気です。

 引っ越そうかな。

 「たかおばくふ」の開業を国家に申請したばかりですが、ここで海老名に引っ越したら「えびなばくふ」に改名しないといけませんね。

 ところで、今回のルートはこのように考えています。



 ※「Yahoo!地図」を加工転載

 それでは、最初の目的地である秋葉山古墳群へ向かいましょう。

 コミュニティバスに乗って行きますよ。

 旧会では歩くことにこだわりましたが、新しい会では時間短縮と効率アップおよび疲労低減のため、公共交通機関の利用を厭いません。

 バス乗り場は西口にあるということなので、西口へ来ましたがバス乗り場が分からない。

 近くに案内所のようなものがあったのでそこの方に尋ねてみると、西口は西口でも、小田急&相鉄の西口でした。

 西口違いか!

 というわけで、急いで小田急&相鉄の海老名駅の方向へ向かい、そこの西口でバス停を探します。

 JRでいえば東口ですね。

 ややこしい。

 あまりバス乗り場っぽくない場所にバス停を見つけることができ、無事に10時4分発のバスに乗車することができました。

 バスは住宅街の狭い道をウネウネと縫うように走っていき、駅から数えて10個のバス停である「秋葉山古墳群前」で下車。

 それでは史跡めぐりのスタートです。

 バス停のある道路に向かって左手の丘の上に秋葉山古墳群が展開しています。

 古墳群の一番北側から見ていきますよ。

 一番北にある4号墳。



 海老名最高地点である細い丘陵の上に、尾根の形に合わせるように古墳が並び、現在は5つの古墳を見ることができます。

 4号墳の北にも6号墳があるのですが、現在は見ることができず、国指定史跡の範囲にも入っていません。

 4号墳は『えびな文化財探求書 其ノ弐 史跡秋葉山古墳群』(海老名市教育委員会/編)によると3世紀後半に築造された37.5mの前方後方墳です。

 つづいて尾根上を南へ向かいますよ。

 この南は現在は道路が尾根を分断しており、いったん堀切のような道路へ降ります。

 いい眺めですね。



 かなりの高低差。



 この丘の上に住んでいる人は心肺機能が強化されますね。

 もう一度、古墳の丘に取り付きます。

 おっと、さきほど5号墳をすっ飛ばしてしまった。

 3号墳の墳丘から5号墳を見ます。



 前述書によると5号墳は一辺が20mの方墳で、4世紀前半の築造とされています。

 多摩の大岳山が見えますね。



 あの山の右手平野部にオーメンさんの家があり、もう少し手前には高尾幕府があるはずです。

 池上さん家の方向も同じですね。

 八王子城は見えないかなあとか、津久井城はどこかなあなどと、こういった景色はいくらでも楽しめますね。

 天正18年(1590)の夏は、津久井城を攻める徳川の支隊(本多忠勝や平岩親吉など)がこの眼下を侵攻していったのでしょう。
 
 つづいて、3号墳を麓から見ます。



 3号墳は上述書では3世紀後半に築造された前方後円墳で、墳丘長は51m。

 ただし、前方部は削平されており、現在はありません。



 この前方部があった場所の広場って何に使ったんでしょうねと、皆さんと話します。



 ※あとで海老名市立郷土資料館で教えていただいたことによると、戦後に戦災孤児の施設を作るために削平してしまったそうで、そのとき後円部側で木棺が顔を出し、木棺はすぐに埋め戻したそうですが、前方部はきれいさっぱり削平されてしまったとのことです。

 茂樹さんが梅が咲いていることに気づきました。



 そっかー、気づけばもう梅の季節ですね。



 ということは、そろそろ花粉症が・・・

 遊歩道を歩いていくと前方に1号墳の横腹が見えました。



 1号墳は、4世紀前半に築造された前方後円墳で、墳丘長は59mあり、秋葉山古墳群で最大の古墳です。

 そして左手には2号墳が。



 2号墳は前方後円墳としてのきれいな形を残しています。

 前述書によると3世紀末~4世紀初頭に築造されて、墳丘長は50.5mです。



 それにしても、昨晩は高尾やオーメンさんの住んでいる青梅では雪が積もったので、古墳の表面がドロドロベチャベチャだったら嫌だなあと心配していたのですが、こちらはまったく雪がなくて良かったです。

 古墳群は定期的な手入れがなされているようでとてもありがたいですが、それにも増してこの季節ですので、墳丘の形がよく分かって素晴らしいですね。

 1号墳の横を歩き、駐車場までやってきました。

 ここで説明板を見ながらおさらいと全体的な説明をします。

 まず、古墳の位置はこうなっています。



 ご覧の通り古墳は細い丘陵の上に並んでいるのですが、周囲の地形を見てみるとこうなります。



 秋葉山古墳群の位置は現在の相模川の河口から約17㎞ほど遡った場所になります。

 弥生時代の後期、東海勢力が相模湾や東京湾に進出しますが、彼らの出自は大きく分けて、三河から西遠江の山中式土器を使うグループ(山中式勢力)と東遠江の菊川式土器を使うグループ(菊川式勢力)に分かれます。

 一言で「東海」といっても結構広い範囲なので、土地勘のない方は地図で確認してみましょう。



 ※「Yahoo!地図」を加工転載

 これらのうち、相模川流域に進出したのは山中式勢力で、相模川のすぐ西側を流れる別水系の金目川(下流域は花水川と呼ばれる)には菊川式勢力が進出し、東京湾に入り、武蔵野台地の辺縁部にも菊川式勢力がテリトリーを広げていきます。

 厳密には多少の混在がありますが、おおむねそのような傾向が読み取れます。



 この地図で見ても分かる通り、相模川流域の低地および相模野台地のちょうどど真ん中に秋葉山古墳群がありますね。

 相模川流域に進出した山中式勢力を代表する人物の墓が、先ほど見た4号墳の被葬者である可能性も考えられ、彼(彼女)とその後継者の墓が立ち並ぶ秋葉山古墳群は、海老名市の最高所において地域の象徴的な存在でもあったはずです(具体的な歴史ストーリーについては後述します)。

 つづいて、説明板を見ながら各古墳のスペックを確認してみましょう。



 一番注目すべきは、この表で3号墳と4号墳が同時期(3世紀後半)に築造されていると示されている点です。

 3号墳は、いわゆる「纒向型前方後円墳」と呼ばれるもので、定型化された前方後円墳の第1号である奈良県桜井市の箸墓古墳よりも古い可能性があります。

 ですので、私は説明板に書かれているより早く、3世紀前半の築造と考えます。

 秋葉山古墳群は本格的な発掘がされておらず、年代決定が難しいのですが、纒向型前方後円墳が築造されているということは、すでに奈良を本拠地とする畿内勢力(ヤマト王権)の影響力がこの地に及んでいることの証となり、南関東では、千葉県市原市の神門古墳群と並んで、この地域は畿内勢力の関東進出の橋頭保となったことが分かります。

 そうなると問題は4号墳の築造時期です。

 4号墳はさきほど伝えた通り、前方後方墳という形状から東海勢力の墓であることが分かり、通常は東海勢力の方が畿内勢力よりも早く関東に進出して古墳を築造しますので、4号墳の方が3号墳よりも古い古墳である可能性があります。

 現在のところは、ほぼ同時期の3世紀前半に築造されたと仮定して、以下のストーリーを提示します。

 1.弥生末期には相模川流域の諸勢力によってエビナの有力者がサガミを代表する王として推戴され君臨していた。

 2.エビナの有力者は山中式勢力出身で、当時の南関東は東海勢力によって席捲されていたが、それを追うようにして東海勢力の背後から畿内勢力が関東進出を目論んだ。

 3.畿内勢力は、相模川流域に君臨していたサガミの王の調略に成功し、畿内勢力の王族がその元へ婿入りし、彼は相模川流域を拠点にして畿内勢力の拡大に尽力した。

 4.婿に入ったヤマトの王族はサガミの王位を継ぎ、彼が3世紀前半に亡くなると3号墳に埋葬され、彼とほぼ同じくして亡くなった王妃は、もともとの出自である東海勢力の墓制を採用し、4号墳に埋葬された。

 現状、私が想定するストーリーは以上で、なおかつ、方墳である5号墳が4号墳のすぐ南に築造されていることから、4号と5号が一つのグループで、3号と1・2号が一つのグループと仮定すると、5号墳の被葬者は地元エビナにゆかりの深い人物の墓で、2号と1号がサガミの王の後継者であると考えます。

 具体的には、5号の被葬者はヤマトの王族出身のサガミの王と地元出身のその妻との間に生まれた娘で、近隣の有力者に嫁ぎ、死後に実家のあるエビナへ戻ってきて埋葬されたというストーリーです。

 女系として、先祖代々の四角形の形状を継承したというわけです。

 という感じで、秋葉山古墳群を題材にして、弥生末期から古墳時代初期のこの周辺の歴史を想像してみました。

 つづいて、このまま歩いて国分寺跡方面へ向かいますよ。

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