日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

秋葉山古墳群|神奈川県海老名市 ~東海勢力の関東進出の証である前方後方墳と東国最古の前方後円墳をダブルで擁する古墳群~ 【歴史を歩こう協会・第1回歩く日 ①】

2019-02-11 12:11:36 | 歴史探訪
 昨日、クラツーのツアーを終えて高尾へ戻ってくると、少し雪が降っていて公園なんかは薄く雪が積もっていました。

 ところが、朝家を出ると天候はバッチリ!

 雪は積もっていません。

 気温は少し低いですが、風はなくて快晴です。

 これは絶好のコンディションですな。

 本日はJR相模線の海老名駅に集合です。

 相模線は単線のローカル路線ですので、途中すれ違いのために駅に長めに止まることがあります。

 八王子から海老名へは車ではあっという間ですが、相模線で行くと45分くらい掛かります。

 海老名に近くなってくると、進行方向左手には最初の目的地である秋葉山古墳群が乗っかる丘陵が見え、右手の大山はくっきりときれいな姿を現しています。

 9時33分、海老名駅に到着。



 今までは9時集合が多かったのですが、今日はいつもよりもゆっくり目の9時45分の集合にしています。

 今回は人数も少なめで、皆さんすぐに集まりました。

 今回のメンバーは私以外には、

 ・現状最年少で今日も最遠から来たハードロック好きの金子さん
 ・K姉妹ならぬ夫妻での参加が多いが今日はソロ参加の茂樹さん
 ・米軍の無線を傍受しながら歩く軍事マニアのオーメンさん
 ・かつては宇宙の仕事をしていた物理学の池上さん

 そして、昨年CTの出雲伯耆ツアーに来てくださり今回が初参加のかんめいさんの合計6名です。

 いつもながら面白い方々に集まっていただきました。

 皆さん、ご参加ありがとうございます。

 海老名の駅前も発展が著しいですね。



 海老名の駅前はスペースに余裕があるようで、商業施設はたくさんありますがゴチャゴチャしておらず、とても素敵な雰囲気です。

 引っ越そうかな。

 「たかおばくふ」の開業を国家に申請したばかりですが、ここで海老名に引っ越したら「えびなばくふ」に改名しないといけませんね。

 ところで、今回のルートはこのように考えています。



 ※「Yahoo!地図」を加工転載

 それでは、最初の目的地である秋葉山古墳群へ向かいましょう。

 コミュニティバスに乗って行きますよ。

 旧会では歩くことにこだわりましたが、新しい会では時間短縮と効率アップおよび疲労低減のため、公共交通機関の利用を厭いません。

 バス乗り場は西口にあるということなので、西口へ来ましたがバス乗り場が分からない。

 近くに案内所のようなものがあったのでそこの方に尋ねてみると、西口は西口でも、小田急&相鉄の西口でした。

 西口違いか!

 というわけで、急いで小田急&相鉄の海老名駅の方向へ向かい、そこの西口でバス停を探します。

 JRでいえば東口ですね。

 ややこしい。

 あまりバス乗り場っぽくない場所にバス停を見つけることができ、無事に10時4分発のバスに乗車することができました。

 バスは住宅街の狭い道をウネウネと縫うように走っていき、駅から数えて10個のバス停である「秋葉山古墳群前」で下車。

 それでは史跡めぐりのスタートです。

 バス停のある道路に向かって左手の丘の上に秋葉山古墳群が展開しています。

 古墳群の一番北側から見ていきますよ。

 一番北にある4号墳。



 海老名最高地点である細い丘陵の上に、尾根の形に合わせるように古墳が並び、現在は5つの古墳を見ることができます。

 4号墳の北にも6号墳があるのですが、現在は見ることができず、国指定史跡の範囲にも入っていません。

 4号墳は『えびな文化財探求書 其ノ弐 史跡秋葉山古墳群』(海老名市教育委員会/編)によると3世紀後半に築造された37.5mの前方後方墳です。

 つづいて尾根上を南へ向かいますよ。

 この南は現在は道路が尾根を分断しており、いったん堀切のような道路へ降ります。

 いい眺めですね。



 かなりの高低差。



 この丘の上に住んでいる人は心肺機能が強化されますね。

 もう一度、古墳の丘に取り付きます。

 おっと、さきほど5号墳をすっ飛ばしてしまった。

 3号墳の墳丘から5号墳を見ます。



 前述書によると5号墳は一辺が20mの方墳で、4世紀前半の築造とされています。

 多摩の大岳山が見えますね。



 あの山の右手平野部にオーメンさんの家があり、もう少し手前には高尾幕府があるはずです。

 池上さん家の方向も同じですね。

 八王子城は見えないかなあとか、津久井城はどこかなあなどと、こういった景色はいくらでも楽しめますね。

 天正18年(1590)の夏は、津久井城を攻める徳川の支隊(本多忠勝や平岩親吉など)がこの眼下を侵攻していったのでしょう。
 
 つづいて、3号墳を麓から見ます。



 3号墳は上述書では3世紀後半に築造された前方後円墳で、墳丘長は51m。

 ただし、前方部は削平されており、現在はありません。



 この前方部があった場所の広場って何に使ったんでしょうねと、皆さんと話します。



 ※あとで海老名市立郷土資料館で教えていただいたことによると、戦後に戦災孤児の施設を作るために削平してしまったそうで、そのとき後円部側で木棺が顔を出し、木棺はすぐに埋め戻したそうですが、前方部はきれいさっぱり削平されてしまったとのことです。

 茂樹さんが梅が咲いていることに気づきました。



 そっかー、気づけばもう梅の季節ですね。



 ということは、そろそろ花粉症が・・・

 遊歩道を歩いていくと前方に1号墳の横腹が見えました。



 1号墳は、4世紀前半に築造された前方後円墳で、墳丘長は59mあり、秋葉山古墳群で最大の古墳です。

 そして左手には2号墳が。



 2号墳は前方後円墳としてのきれいな形を残しています。

 前述書によると3世紀末~4世紀初頭に築造されて、墳丘長は50.5mです。



 それにしても、昨晩は高尾やオーメンさんの住んでいる青梅では雪が積もったので、古墳の表面がドロドロベチャベチャだったら嫌だなあと心配していたのですが、こちらはまったく雪がなくて良かったです。

 古墳群は定期的な手入れがなされているようでとてもありがたいですが、それにも増してこの季節ですので、墳丘の形がよく分かって素晴らしいですね。

 1号墳の横を歩き、駐車場までやってきました。

 ここで説明板を見ながらおさらいと全体的な説明をします。

 まず、古墳の位置はこうなっています。



 ご覧の通り古墳は細い丘陵の上に並んでいるのですが、周囲の地形を見てみるとこうなります。



 秋葉山古墳群の位置は現在の相模川の河口から約17㎞ほど遡った場所になります。

 弥生時代の後期、東海勢力が相模湾や東京湾に進出しますが、彼らの出自は大きく分けて、三河から西遠江の山中式土器を使うグループ(山中式勢力)と東遠江の菊川式土器を使うグループ(菊川式勢力)に分かれます。

 一言で「東海」といっても結構広い範囲なので、土地勘のない方は地図で確認してみましょう。



 ※「Yahoo!地図」を加工転載

 これらのうち、相模川流域に進出したのは山中式勢力で、相模川のすぐ西側を流れる別水系の金目川(下流域は花水川と呼ばれる)には菊川式勢力が進出し、東京湾に入り、武蔵野台地の辺縁部にも菊川式勢力がテリトリーを広げていきます。

 厳密には多少の混在がありますが、おおむねそのような傾向が読み取れます。



 この地図で見ても分かる通り、相模川流域の低地および相模野台地のちょうどど真ん中に秋葉山古墳群がありますね。

 相模川流域に進出した山中式勢力を代表する人物の墓が、先ほど見た4号墳の被葬者である可能性も考えられ、彼(彼女)とその後継者の墓が立ち並ぶ秋葉山古墳群は、海老名市の最高所において地域の象徴的な存在でもあったはずです(具体的な歴史ストーリーについては後述します)。

 つづいて、説明板を見ながら各古墳のスペックを確認してみましょう。



 一番注目すべきは、この表で3号墳と4号墳が同時期(3世紀後半)に築造されていると示されている点です。

 3号墳は、いわゆる「纒向型前方後円墳」と呼ばれるもので、定型化された前方後円墳の第1号である奈良県桜井市の箸墓古墳よりも古い可能性があります。

 ですので、私は説明板に書かれているより早く、3世紀前半の築造と考えます。

 秋葉山古墳群は本格的な発掘がされておらず、年代決定が難しいのですが、纒向型前方後円墳が築造されているということは、すでに奈良を本拠地とする畿内勢力(ヤマト王権)の影響力がこの地に及んでいることの証となり、南関東では、千葉県市原市の神門古墳群と並んで、この地域は畿内勢力の関東進出の橋頭保となったことが分かります。

 そうなると問題は4号墳の築造時期です。

 4号墳はさきほど伝えた通り、前方後方墳という形状から東海勢力の墓であることが分かり、通常は東海勢力の方が畿内勢力よりも早く関東に進出して古墳を築造しますので、4号墳の方が3号墳よりも古い古墳である可能性があります。

 現在のところは、ほぼ同時期の3世紀前半に築造されたと仮定して、以下のストーリーを提示します。

 1.弥生末期には相模川流域の諸勢力によってエビナの有力者がサガミを代表する王として推戴され君臨していた。

 2.エビナの有力者は山中式勢力出身で、当時の南関東は東海勢力によって席捲されていたが、それを追うようにして東海勢力の背後から畿内勢力が関東進出を目論んだ。

 3.畿内勢力は、相模川流域に君臨していたサガミの王の調略に成功し、畿内勢力の王族がその元へ婿入りし、彼は相模川流域を拠点にして畿内勢力の拡大に尽力した。

 4.婿に入ったヤマトの王族はサガミの王位を継ぎ、彼が3世紀前半に亡くなると3号墳に埋葬され、彼とほぼ同じくして亡くなった王妃は、もともとの出自である東海勢力の墓制を採用し、4号墳に埋葬された。

 現状、私が想定するストーリーは以上で、なおかつ、方墳である5号墳が4号墳のすぐ南に築造されていることから、4号と5号が一つのグループで、3号と1・2号が一つのグループと仮定すると、5号墳の被葬者は地元エビナにゆかりの深い人物の墓で、2号と1号がサガミの王の後継者であると考えます。

 具体的には、5号の被葬者はヤマトの王族出身のサガミの王と地元出身のその妻との間に生まれた娘で、近隣の有力者に嫁ぎ、死後に実家のあるエビナへ戻ってきて埋葬されたというストーリーです。

 女系として、先祖代々の四角形の形状を継承したというわけです。

 という感じで、秋葉山古墳群を題材にして、弥生末期から古墳時代初期のこの周辺の歴史を想像してみました。

 つづいて、このまま歩いて国分寺跡方面へ向かいますよ。

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