日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

【常陸国那珂川・久慈川流域古代史探訪 その8】スペック上の値よりも巨大に見える愛宕山古墳ときれいに復元されている円墳・馬塚古墳【茨城県水戸市】

2019-03-28 06:45:03 | 歴史探訪
 現在、吉野ヶ里遺跡ほかツアーのため福岡のホテルにいます。

 今回は14名様のご参加、ありがとうございます!

 昨日は吉野ヶ里遺跡をご案内し、今回も卑弥呼様の呪力により晴れました!

 吉野ヶ里遺跡のスミレ。



 お昼は吉野ヶ里のハンバーグ。



 美味い。

 筑紫君磐井が造らせた岩戸山古墳の墳丘テラス部はかなり幅が広いです。





 福岡はもう桜の見ごろを迎えています。





 昨日の夕飯。





 今回も美味しいご飯、ご馳走様でした。

 さて、本日のご案内は3日目となりますが、さきほど露天風呂に浸かってきて、朝食時間まで少しあるので先日の茨城探訪の続きを書こうと思います。

*     *     *


 ⇒前回の記事はこちら

 茨城古代史探訪の2日目のスタートです。

 東横インの朝食メニューは店によって違うので、毎回泊まるのが楽しみです。

 さて、ここのお店は何が出るかなあ?

 おっと、もっとも基本的なメニューだった!

 昔ながらの東横インらしいメニューでした。

 ちょっと残念ですが、曜日限定でカレーをやっており、朝から大好物のカレーを食べられて嬉しい。

 というわけで出発です。

 チェックアウトを済ませ、駐車場に向かうと、何か小さな塊が頭に落ちてきました。

 あれ、雪?

 雪というよりかは、アラレのようなものがパラパラ降ってきます。

 昨日は気持ち悪いほど暑かったですが、今日は打って変わって肌寒いです。

 天気が持ち直してくれるといいなあと願いつつ、雷電號を始動させ、まずは水戸市内の愛宕山古墳を目指します。

 愛宕山古墳付近の地図を見ると、バスで古墳に近接することは難しそうなので、まずはバスが停められそうな場所を探しましょう。

 雷電號を注意深く巡航させていると、赤い鳥居の背後に古墳のようなこんもりとした土盛りが視界に入りました。

 とっさの判断で鳥居の前の駐車場に雷電號を駐機。

 ここが愛宕山古墳かな?



 いや、違うな。

 全然小さいです。

 まあ、ちょうどよい場所なのでこの辺から徒歩で古墳へ向かうことにします。

 一盃山稲荷神社っていうんですね。

 拝殿。



 神様にご挨拶。

 本殿。



 神社裏手から坂道を登っていきます。

 おー、いい眺望だ。



 住宅街を歩いていくと、目の前に墳丘が現れました。



 ここですね。

 残念ながら全体を撮影することは難しいです。

 今は前方部右側の角にいるようです。

 そのまま前方部の底辺に沿った道を歩きます。

 いや、この古墳はでかい。

 前方部底辺が随分と長いです。

 墳丘長は136.5mということなので、それを考えると、古墳時代後期の古墳の前方部幅の特徴が良く出ています。

 愛宕山古墳はその名のごとく、墳頂に愛宕神社が祀られており、前方部麓の鳥居の前にやってきました。



 では登りますよ。



 前方部から石段を振り返ります。



 前方部から後円部を見ます。



 いや、やっぱりこの古墳はでかい。

 前方部にある天満宮。



 眺望。



 段築が分かります。



 この古墳はスペック上の墳丘長である136.5mよりも大きいんじゃないでしょうか?



 素晴らしいボディ。



 お、立派な拝殿が見える。



 いいですねえ。





 眺望。



 本殿。



 愛宕神社がある後円部から前方部を見下ろします。



 ところで、どこかに説明板はないかな?

 今度は西側の石段を降りてみます。

 あったー!



 ここに書いてある通り、仲国造の墓との言い伝えがあるようですが、築造時期が6世紀初頭だとすると時代が合わないですね。

 でも、国造ではないとしても、6世紀に那珂川流域を治めた王の墓であることは間違いないでしょう。



 愛宕神社西側の鳥居。



 付近の地図があります。

 おや、近くにもう一つ古墳があるみたいですよ。

 行ってみましょう。


 
 まあ、「古墳跡」と書かれていたので、墳丘はなくて標柱1本とかのパターンですかね。

 あら、普通にあった!



 しかも、標柱にきちんと説明も書いてある!



 馬塚古墳といって、直径14mの円墳ですね。



 バックにはさきほど探訪した愛宕塚。



 それでは車へ戻ります。

 最初に訪れた稲荷神社を背後から見ます。



 なんか、ここも古墳っぽいなあ・・・



 では雷電號に搭乗し、次の場所を目指しますよ。

 (つづく)

史料で探る茨城の歴史
茨城県高等学校教育研究会歴史部
山川出版社






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【常陸国那珂川・久慈川流域古代史探訪 その7】著名な人面付土器が出土した泉坂下遺跡と考古展示は薄いが新しい時代の展示が豊富な茨城県立歴史館【茨城県常陸大宮市/水戸市】

2019-03-24 17:56:00 | 歴史探訪
 ⇒前回の記事はこちら

 今回催行する茨城の古代史ツアーは古墳三昧なのですが、少しアクセントを付けようと思い、弥生遺跡である泉坂下遺跡もご案内します。

 Webを使っての事前調査では、現地には説明板があるだけのようなのですが、それでも現地に行くことによって古墳時代になる前の久慈川流域の空気に触れることができれば、何かしらのインスピレーションを貰えるかもしれません。

 そう思いつつ、雷電號を走らせますが、今一遺跡の場所、というか説明板が立っている場所が分かりません。

 田んぼの中の一本道で、低速で走りながら周囲を見ていると、遠くに説明板らしきものが見えます。

 きっとあれに違いない。

 先ほど見た説明板らしきものの方向へ向かっていくと、泉坂下遺跡の幟が道端に点々と現れました。

 力入れてるなあ。

 遺跡を示す標識もあります。

 ところが、それに導かれて舗装されていない道に入っていくと、少しヤバイ雰囲気の道が先に続いています。

 まあでも、意外と雷電號はオフロードが平気なので(もちろん限度はあります)突き進みますよ。

 よし、説明板発見!

 でも車を停める場所がない。

 あれだけ道端に幟を立てて誘っておきながら、行った先には駐車スペースもないというのはなかなかシュールですね。

 でもおそらくこの道は誰も来ないでしょう。

 エンジンをかけたまま説明板を読みに行きます。



 なるほどこの地点から段丘方面に遺跡が広がっているんですね。



 本当に河岸の低地の遺跡だ。



 地形図で確認してみましょう。



 段丘方面の景色。





 久慈川方面の景色。





 なんでこんな何もないところにお客様を連れてくるのかというと、ここではこのような面白い土器が発見されているからです。



 これは両国で開催された「発掘された日本列島 2014」で展示されていた「人面付土器」と呼ばれるものです。

 左の小さいのが同じ常陸大宮市の小野天神前遺跡から出土したもので、右のは那珂市の海後遺跡から出土したもの、そして中央の堂々としているのが77.7㎝もあるこの地から出た人面付土器なのです。

 茨城県などの北関東地方では、縄文時代から再葬墓というものが営まれてきました。

 それは、一度埋葬して白骨化したものを再び壺に入れて葬るという風習で、弥生時代中期中葉までこの風習が続き、稀にその壺に人面が付けられることがあるのです。

 再葬墓というものは茨城県の弥生時代から古墳時代への移り変わりを知るには外せないものなので、せめてこの有名な人面付土器の故郷をマニアの皆様に見ていただきたいというのが私の想いです。

 ところで、ここはバスでは絶対に来れませんね。

 当日はどうしようかな・・・

 ちょっと考えます。

 では、ここから脱出しましょう。

 車を転回させるのもちょっと大変そうなので、このまま突き進んでみます。

 道はどんどん狭く、そして荒れてきます。

 あー、ダメだ。

 これ以上行けない!

 まあ、遺跡めぐりをしているとたまにこういうことがあるので、慌てず焦らず対処します。

 以前、ひたすらバックで脱出したこともありましたが、ここでは何とか転回できそうです。

 田んぼに落ちずに無事に脱出。

 将来、ポルシェを入手して史跡めぐりをしたいと思っていますが、ああいった車は史跡めぐりには向いていないので、史跡めぐり用には雷電號の方がいいですね。

 さて、次は本日の最後の見学地である茨城県立歴史館へ向かいます。

 50分ほど巡航し、水戸市内の茨城県立歴史館へやってきました。



 本来の入館料は150円ですが、JAF割引が効きましたよ!

 やったー、30円引きだ!

 それでは常設展示を見てみましょう。

 あれれ、ここの展示は写真撮影不可なものばっかりじゃないですか。

 一般的には自館収蔵の物は撮影OKなのですが、ここは自館収蔵の物も撮影ダメで、しかもレプリカであってもダメなのです。

 あんまりだ。

 でも、決まりは決まりですから、仕方がないですね。

 古い時代から順に時代を下っていくオーソドックスな展示です。

 土偶発見。



 県内出土って・・・

 あんまりだ。

 お、縄文時代の人骨。



 うーん、思っていたより考古関係が薄い・・・

 舟塚古墳のジオラマ。



 舟塚古墳出土の埴輪は撮影OKですね。



 条数が多い円筒埴輪と朝顔形埴輪だ。





 盾持ち埴輪。



 力士もいますねえ。


 しかし、単に「舟塚古墳」と言われても、同じ通称の古墳は複数あるので小美玉市の舟塚古墳であることを展示に明示して欲しいですね。

 展示は律令時代から中世へと移り変わっていきますが、何としたことか!

 茨城なのに平将門関連の展示がほとんどないではないか!

 やはり、将門は逆賊とされているので、県立の場合はお上の顔色を窺って将門の展示ができないのでしょうか。

 とても悲しいことです。

 スミマセン、機嫌が悪いわけではないのですが、なんかここではネガティヴ・コメントばかりですね。



 中世の頃の霞ケ浦周辺の地形。



 香取海が広がっています。

 古代の頃もだいたいこんな感じだと思いますが、もう少し海に近い場所の土の堆積が少なく、内海が広かったと思います。

 さすが、水戸だけあって水戸藩の展示は豊富ですね。



 水戸黄門が編纂を命令した大日本史がある!



 いいねえ。



 私は博物館を評価できるほど偉い人ではありませんが、古代史好きとしては物足りない博物館でした。

 でもそれは博物館が悪いわけではなく、博物館のターゲットとする客層と私の趣味が合わないだけですよ。

 戦国時代や近世・幕末の展示は比較的豊富なので、そういったものが好きな方には楽しめる場所だと思います。

 というわけで、意外と時間を使わなかったので16時に本日の探訪が終了してしまいました。

 博物館の見学のために取っておいた時間が丸々1時間空いてしまったわけです。

 でも今日も沢山動いたのでこの辺で探訪を終わらせてホテルへ向かおうと思います。

 なお、こちらの茨城県立歴史館はツアーには入れていませんよ。

 さて、本日の宿泊地は水戸です。

 一人で旅をするときは東横インに泊まることにしているのですが、東横インは全国各地にありますし、値段も安いし、10回泊まると1回無料で泊まれるので、今はそのポイントを貯めているところです。

 どこへ行っても同じ室内。





 歴史中心で活動していますので余計な費用はかけたくないですし、現在の私の所得では十分に贅沢なホテルです。

 さて、夕飯でも買ってきますか。

 初めての水戸駅。

 こちらは南口。



 那珂川支流の桜川。





 北口へも行って見ます。



 北口には水戸城跡が展開しているんでね。

 なるほど少し地形が高くなっています。

 少しの間散歩し、コンビニでビールと少々の食べ物を買ってホテルへ戻ります。

 節約、節約。

 というわけで、楽しい一日でした。

 明日もツアーの下見の続きをしますよ。

 ⇒この続きはこちら


茨城県の歴史散歩
茨城県地域史研究会
山川出版社



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【常陸国那珂川・久慈川流域古代史探訪 その6】ヤマト王権に早期に協力した王の墓か・茨城県で2番目に大きい梵天山古墳【茨城県常陸太田市】

2019-03-24 16:40:10 | 歴史探訪
 ⇒前回の記事はこちら

 時刻は13時を過ぎましたが、今日は松屋の牛めしを朝ご飯として食しているせいか、まだお腹が空きません。

 なので、とくに休憩は設けず、今度は那珂川流域から久慈川流域へ行って見ますよ。

 久慈川流域最大の前方後円墳である梵天山古墳へは、性海寺を目標に行きます。

 40分ほど巡航し、性海寺に到着しました。

 気づけば少し曇ってきていますが、寒くはありません。

 では梵天山古墳を見に行きますよ。



 まずは性海寺に参拝してから。



 性海寺は梵天山宝金剛院と号する真言宗のお寺です。





 墳丘へは本堂の左奥から登れるようです。

 ここからですね。





 説明板に書かれている通り、梵天山古墳は墳丘長151mを誇る茨城県内で2番目に大きい古墳です。

 築造された年代ははっきりしないようですが、墳形から5世紀中ごろということで、古墳時代中期後半と考えているようです。

 でも、後円部と前方部の高低差が結構あるのと、後円部の直径と前方部の幅の開きが大きいことから、もう少し早い時期の古墳ではないかと思います。

 試しに、墳丘長に占める後円部径の割合を求めると、0.54となり、前方部幅は墳丘長の38%にしかなっておらず、4世紀前半(と私は考えている)に築造された山梨県甲府市の甲斐銚子塚古墳の数値と近似です。

 『茨城の考古学散歩』(茨城県考古学協会/編)によると、2004年の茨城大学の測量調査により、墳丘長は160mであることが分かり、そうすると前述の値も少し変わってきますが、墳丘長が違うことが分かったのなら後円部の直径や前方部の幅も従来とは違う値が出ていそうです。

 また、同書によれば、表面採集された壺型埴輪片によって築造時期は4世紀後半と考えられるようになっているそうですが、宮城県名取市の雷神山古墳が奈良県天理市の渋谷向山古墳の相似形であることを考えると、梵天山古墳は4世紀半ばの築造ではないでしょうか。



 梵天山古墳群に関して、『茨城の考古学散歩』(茨城県考古学協会/編)には非常に興味深い記述があり、上の図の3号墳は何と直径が100mもあり、それだけでも異様に大きいのですが、さらに径30mの4号墳と本来は一体型の古墳で、双円墳という全国を見渡しても極めて珍しい墳丘だというのです。

 これは2000年の茨城大学の調査により分かったことだそうで、『茨城の考古学散歩』ではサラッと記述されていますが、軽くは聞き逃せない問題ですね。

 これについては今後もっと調べてみます。



 では、墳丘へ登ってみますよ。

 鞍部に登り、前方部を見ます。



 かなり立派なボディです。



 ただ、樹木が植わっているので視界が効かずに、今一スケール感を楽しむのは難しいです。



 いったん麓まで降りてみます。

 傾斜はなだらかで楽に降りれます。



 説明板には周溝がないと書かれていましたね。

 多分本当はあるんじゃないかな。

 手前に小さな土盛りがありますが、これは円墳の13号墳ですね。



 再び後円部へ登り、後円部から前方を眺めます。


 
 後円部墳頂には神社がありました。





 ここで梵天山古墳周辺の地形を確認しておきましょう。



 ※これを見ると確かに3号墳は巨大円墳のようですが、当日は探訪しなかったのでまた後日調べに行きたいと思います。

 南東の久慈川方面の眺望。



 ところで、梵天山古墳は久自国造・船瀬足尼(ふなせのすくね)の墓という伝承があります。

 ここで常陸国内の国造の分布を見てみましょう。



 私は関東の国造は6世紀末から7世紀初めに設置されたと考えており、そうなると梵天山古墳の築造時期と想定できる4世紀とは大きな時代の開きがあります。

 ですので、久自国造の墓である可能性はほとんどないと思いますが、銚子塚古墳や雷神山古墳などと同じく、東国の豪族としては早期にヤマト王権への協力を申し出た王の墓であることには間違いないでしょう。

 そしてこの地の国造が8世紀ころの時点では物部氏の系統とされていることも考えてみたいです。

 あれ、これは葺石っぽいですが。



 麓に下りて後円部裾から前方部方面を眺めてみます。

 全体が収まる写真が撮れると嬉しいんですがねえ。

 少し周りを歩いてみましょう。

 これくらいが限界かな。



 それでは、久慈川流域でもう一つ行って見たい遺跡があるのでそちらへ向かいますよ。

 ⇒この続きはこちら


常陸の古墳
茂木 雅博
同成社


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【常陸国那珂川・久慈川流域古代史探訪 その5】十五郎穴横穴墓群・馬渡埴輪製作遺跡【茨城県ひたちなか市】

2019-03-24 13:13:51 | 歴史探訪
 話が前後してしまいますが、先週の水曜日(20日)はクラツーにていつもの講座をやらせていただきました。

 東北地方の室町時代、日本書紀、関東の古墳時代後期の3本で延べ55名様に来ていただくことができました。

 皆様、ありがとうございました!

 4月からはそれぞれ開始時間が30分早まりますので、よろしくお願いいたします。

 さらに、その翌日は大好評の山梨古代史ツアーをご案内してきました。



 遺跡も素晴らしいですが、このコースはランチがまた素晴らしい。

 ゼルコバのフレンチです。



 ゴボウがこんなに美味しくなるのかと驚愕したスープ。



 メインはサーモンにように見えますが、ニジマスです。



 ワインを使った特別な養殖方法で身が赤くなっているのです。

 デザートもまた素晴らしい・・・



 気温が高いとシャーベットはとくに美味しいですね。

 お客様はワインを飲んでいただいても構いませんが、私は帰宅後にサイゼリヤで赤ワイン500㎖のデカンタ(399円)を飲んで文字通り留飲を下げます。

 この日はリニアも走っていましたね。

 初めて生で見ました。



 というわけで、上記のような美食をいただくことは叶いませんでしたが、面白歴史スポットを堪能した茨城の下見の続きをお届けします。

*     *     *


 ⇒前回の記事はこちら

 森の中の小径を進んでいきます。



 今日は天気が良くて暖かいので気持ちよく歩けますが、暗い時間とか寒い日とかにこういう道を一人で歩いていると心細くなりますよね。

 本当に到着するのだろうか、とか。

 視界が開けました。



 あ、でもこれは横穴墓がある景観ではないですね。

 さらに進みます。

 台地から低地へ降りていくと、モワッと熱気が昇ってきました。

 夏のように暑くて逆に不気味です。

 お、あった!



 横穴がボコボコと開いていますね。

 確かにこういう場所は子供が好きだな。



 大人の私も好きよ。

 標柱。



 説明板もきちんとあります。



 ここに書いてある通り、横穴墓は古墳の横穴式石室と同様な構造を持つものも多く、墳丘がないだけで中身は普通の高塚古墳と同じと考えていいでしょう。

 副葬品だってたまに凄いのが出たりしますよ。

 ただし、十五郎穴横穴墓群の場合は後世に住居や墓として使われたので遺物は残っておらず、2010年からの調査でいろいろなものが見つかりました。

 埋文センターにはこんな写真も展示してありました。



 蕨手(わらびて)刀ですね。

 埋文センターに貼ってあった読売新聞の記事によると、十五郎穴横穴墓群の被葬者については、朝廷が蝦夷(エミシ)を征討する際の海路で物資を運んだ豪族の姿が浮かび上がったとして、この地図が書かれていました。



 とりあえず、「蝦夷征討」という東北に対する差別的表現は気にしないとして、その記事に書かれてあった『続日本紀』の記載を確認してみます。

 神亀元年(724)、それまで仙台市太白区にあった陸奥国府(郡山遺跡第2期)が北上し、多賀城に移りましたが、その前年(養老7年)の2月13日の条によると、常陸国那珂郡の大領(長官)である外正七位上の宇治部直荒山(うじべのあたいあらやま)が私有財産から籾(おそらく稲籾でしょう)3000石を陸奥の鎮所に献じたとして、一気に外従五位下に昇進しています。

 荒山は中央官庁に勤める人物ではないので位階に「外」が付いていますが、もし「外」が付かなければ、従五位下から貴族の仲間入りですから破格の待遇と言えます。

 このような経済力のある豪族がこの近辺にいたわけですが、この十五郎穴横穴墓群に荒山の墓がある可能性があるわけですね。

 常陸に来て、図らずもエミシ関連の史跡に来ることができて嬉しい。

 ところで、「まむしに注意」の看板があるところで私は一度もまむしを見たことがありませんが、藪の中や湿った場所などの人目に付かない場所にひっそりいるそうなので、気を付けるのに越したことはありません。



 石室内を拝見させていただきます。



 いや、不思議。



 これだと明治時代に吉見百穴を見た坪井正五郎さんが「日本列島の先住民であるコロポックルの住処」と言ったのも頷けます。

 横穴墓からの景観。



 東南方向が開けており、眼下は那珂川の支流である本郷川の低地です。



 遠くの高速道路の看板をズーム。



 では、この地を後にします。



 10分ほど巡航して、馬渡埴輪製作遺跡に到着。



 こちらにも説明板があります。





 ではここで、もう一度地形の確認をしましょう。



 馬渡埴輪製作遺跡から虎塚古墳までは3㎞強です。

 湿地の上の歩道を歩きます。



 夢見て咲いています。



 説明板が現れました。



 この辺りはA地区ですね。



 さきほど、埋文センターで見た地図を確認します。



 見渡すと説明板がいくつか立っているのが見えます。

 一つずつ見ていきましょう。

 ここは何だ?



 粘土を採掘した場所でした。



 ではここは?



 工房跡。



 ここは斜面にあるので想像がつくでしょう。



 はい、窯跡です。



 ここは?



 住居の跡も見つかっているんですね。



 埴輪職人たちの公務員寮のようなものかもしれません。

 でも、職場のすぐ横で生活するのはストレスになりそう。

 サボって家で寝てるときっと上司が「大丈夫かー?」と様子を見に来ますよね。

 昔の人も気苦労が絶えません。

 窯跡を低い方から見ます。



 それほど高低差はないですね。

 この程度の高低差でも半地下式の登り窯は造れたんですね。

 というわけで、次も古墳を見に行きますよ。

 ⇒この続きはこちら


装飾古墳と海の交流 虎塚古墳・十五郎穴横穴墓群 (シリーズ「遺跡を学ぶ」134)
稲田 健一
新泉社


 
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【常陸国那珂川・久慈川流域古代史探訪 その4】東国で最も有名な装飾古墳・虎塚古墳とS字甕マニアにも来て欲しいひたちなか市埋蔵文化財調査センター【茨城県ひたちなか市】

2019-03-24 11:37:54 | 歴史探訪
 昨日、常陸国からの帰りもワケあって下道を走ってきたわけですが、最後のかすみがうら市の探訪を終えたのが14時で、帰宅はなんと20時半になってしまいました。

 6時間半もかかってしまった!

 高速を使えれば3分の1の時間で帰って来れたはずなのに・・・

 仕方ないです。

 今は我慢の時。

 というわけで、前回の記事の続きをお伝えします。

 なお、重ねて申し上げますが、今週末(3月30日~31日)のツアーで訪れる場所ですので、参加予定の方であらかじめ内容を知っておきたくない方は、静かにPCあるいはスマホのブラウザを閉じて、お散歩がてらランチにでもお出かけください。

*     *     *


 ⇒前回の記事はこちら

 今日は朝から素晴らしい古墳を立て続けに見ることができています。

 つづいて、装飾古墳として著名なひたちなか市の虎塚古墳へ向かいますよ。



 30分ほど巡航してひたちなか市埋蔵文化財調査センターに到着。

 まずは、古墳を見る前に展示室を見学しましょう!



 展示は旧石器時代から始まるオーソドックスな展示です。

 縄文時代の装身具が充実していますよ。

 おー、大珠コレクション。



 縄文時代の女性のおしゃれとしては、ピアスが有名ですが、ペンダントもなかなか素敵ですね。



 これは大きくて綺麗。



 でも、どんなに美しい女性でも顔に入れ墨をしていたかもしれない。

 しかしそれは現代人の美的感覚で奇異に思うだけで、自分がもし縄文時代人だったら気にしない、というか当たり前に思うことでしょう。

 もちろん縄文土器も展示してあります。

 常陸の縄文土器については私はほとんど知らないので非常に興味深いです。

 地方によるデザインの違いって面白いですよね。

 そして当地方には宮城県宮城郡七ヶ浜町の大木囲貝塚が標識である大木式土器も南下してきています。



 大木式は縄文時代前期から中期の土器です。

 大木式土器は南下だけでなく北上もして、岩手県一戸町の御所野遺跡でも影響を受けたものが出土し、展示室に飾ってありますよ。

 土器の展示、楽しい!



 お、この三反田(みたんだ)遺跡の展示は素晴らしい。



 外来系土器が展示してあります。

 駿河から伊豆にかけての土器である大廓(おおぐるわ)式土器。



 東海人が進出してきた証ですね。

 そして我らがS字甕!



 こちらにもありましたねえ。



 しかもパネル展示でも詳しく解説している!



 S字甕を追って全国を行脚している私ですが、恥ずかしながら今回のツアーのテーマの場所である那珂川および久慈川流域がS字甕の濃密分布地域であることは今知りました。



 いやー、面白い・・・
 
 ツアー当日にもしS字甕マニアの方がいらっしゃったら喜んでくださるでしょう。



 ほほほ、こちらの埴輪は笑い顔だ。



 なんかみんな嬉しそう。

 各地の人物埴輪を見て思うのは、顔つきが縄文由来の人びとと違うような気がして、最近ではその埴輪が出土した古墳に葬られた支配者層の顔ではないかと考えるようになりました。

 古墳時代の支配者層は縄文由来の被支配者層とは違う民族や別の地方からやってきた人びとである可能性があります。

 そういう観点からすると、こちらの笑い顔の埴輪からは日ごろからニコニコしていた支配者層が想定できますが、笑い顔というのは「神様に対して笑っている」と考えることもできます。

 つまり祭祀の一つのバリエーションとしての表現と考えることもできます。

 まあでも、人の笑顔を見るのは気持ちの良いことですから、私たち普通の人でもこちらの埴輪を見てポジティヴな気持ちになるのも確かなことです。

 このあと訪れる予定の馬渡埴輪製作遺跡で造られた円筒埴輪もあります。



 こちらは馬渡埴輪製作遺跡が見つかるきっかけとなった馬の形象埴輪。



 これは何でしょうか?



 へー、分割して造ってあとで合体させるんですね。



 日本人って「合体もの」が好きですが、ロボットが合体して戦うアニメのルーツは古墳時代に求められるかもしれません。

 ちなみに、世界に誇れるキャラクターデザインのルーツは縄文時代の土偶だと勝手に思っています。

 今後は一億総アーティスト社会を構築しましょう。

 これはまた珍しい。



 古墳時代後期のわらじが見つかったんですね。

 古代人というと裸足というイメージがあるかもしれませんが、すでに草鞋を履いていたわけです。

 なお、人物埴輪や古墳の装飾壁画を見るとブーツのようなものを履いていることがありますので、馬に乗る支配者層はズボン(袴のようなもの)を穿いてブーツ着用だったのでしょう。

 これまた凄いものが。



 赤ちゃんにおっぱいをあげている造形です。

 赤ちゃんが異様に小さいとか、そういうのはあまり気にすることは無いです。

 群馬では人が馬に乗っている埴輪も見つかっていますが、それも人が異様に小さいです。

 写実性云々よりも本質が理解できればいいのです。

 そしてここの一番の目玉は虎塚古墳の実物大石室模型でしょう。



 来週の石室公開日にお客様をお連れしたまたやってきますが、本物は写真撮影不可なので、これを撮影して溜飲を下げましょう。

 展開するとこんな感じ。



 他にも素晴らしい展示が多くありますが、あまり紹介するのも来訪者の楽しみを削いでしまう可能性がありますので、興味のある方はぜひこちらへおいでください。

 入館は無料で、かなりの量の無料の資料も手に入りますし、有料頒布している資料もたくさんあって嬉しいです。

 経済難なのにまた何冊も買ってしまった・・・

 いいです、昼を抜きます。 

 これから行く虎塚古墳周辺の図。



 さて、それでは古墳を見に行きましょう。

 ポップな案内標識。



 虎塚古墳は建物のすぐ近くにあります。



 虎塚古墳は古墳時代終末期の装飾壁画で有名なので、円墳とか方墳を想像する方もいるかもしれませんが、このように立派な前方後円墳です。



 石室も重要ですが、墳丘にも着目してみましょう。



 なお、周辺地形はこんな感じです。



 周堤に乗ります。



 墳丘にも登れるようになっていますよ。

 前方部墳頂から後円部墳頂を見ると、ご覧の通りほとんど同じ高さで後期前方後円墳の特徴が現れています。



 前方部。



 前方部の幅は38.5mあり、後円部径の32.5mよりも大きいですね。

 前方部の裾がガーッと広がっている辺りも前方後円墳の最終形の雰囲気が抜群です。

 7世紀前半にこんな56.5mもの前方後円墳を造ってしまったこの土地の社会背景は興味深いものがありますね。

 後円部南側に石室への入口があります。



 来週この中に入りますよ。





 後円部裾から前方部を見ます。



 再度前方部側へ。

 ちょっと離れて全体を撮影。



 石室公開のお知らせがトイレの壁に貼ってあります。



 では、続いて十五郎穴横穴墓へ行ってみましょう。

 ⇒この続きはこちら



装飾古墳と海の交流 虎塚古墳・十五郎穴横穴墓群 (シリーズ「遺跡を学ぶ」134)
稲田 健一
新泉社






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【常陸国那珂川・久慈川流域古代史探訪 その3】全国を見渡しても屈指の巨大円墳・車塚古墳【茨城県東茨城郡大洗町】

2019-03-23 06:04:03 | 歴史探訪
 ⇒前回の記事はこちら

 日下ヶ古塚古墳の横腹を見つつ、車塚古墳を目指します。



 少しも歩かずに道路際に巨大な墳丘が現れました。



 あー、でもフェンスに囲まれている。



 中に入れないのかな・・・

 説明板発見。



 直径88m!

 でかいですねえ。

 周溝を加えると120mにもなります。





 神様が祀られているようで鳥居があります。

 あ、でも扉が閉まっていますね。



 あれ、鍵はかかっていません。

 失礼いたします!



 葺石のようなものがありますが、普通の葺石としては使えない小さなサイズの石もありますね。



 小さいのは説明板に書かれていた墳丘テラスの部分に敷き詰められていた石でしょう。

 振り返ります。



 墳頂には神様がいらっしゃいました。



 説明板には墳高は13mと書かれていましたが、直径の割には低いように思えます。

 でもこちらも見晴らしがとてもいいです。





 海も少し見える。









 日下ヶ古塚もチラッと見えます。



 段築もはっきりしている。





 では、車に戻りますよ。

 あ、あれは姫塚ではないでしょうか。

 さきほどの説明板には、日下ヶ古塚と車塚以外にも姫塚と坊主塚の2基の古墳が描かれていましたね。



 そしてあれが坊主塚かな。



 こちらも普通に民家の敷地の中のようなので遠くから眺めるだけにとどめておきます。

 しかし、今日も朝から素晴らしい古墳を立て続けに見られて楽しくて仕方がありません。

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常陸の古墳
茂木 雅博
同成社









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【常陸国那珂川・久慈川流域古代史探訪 その2】太平洋を臨む丘に佇む大型前方後円墳・日下ヶ塚古墳と幕末の磯浜海防陣屋跡【茨城県東茨城郡大洗町】

2019-03-23 04:49:48 | 歴史探訪
 ⇒前回の記事はこちら

 素敵な前方後方墳である茨城町の宝塚古墳を見た後は、東の海の方を目指します。

 大洗の代表的な古墳を見てみましょう。

 30分ほど運転し、大洗町の中心部に入りました。

 子供の頃、母親に連れられて大洗に海水浴に来たことがありますが、あれはもう35年以上前のことです。

 小学校の低学年のころまでは、毎年のように近所のミーちゃん母子やトモちゃん・ナオちゃん母子とともに夏になると海水浴へ行っていたような気がします。

 松戸に住んでいたので房総半島が多かったですし、伊豆にも行きました。

 あ、今日は海岸までは行きませんよ。

 これから目指す日下ヶ古塚(ひさげづか)墳と車塚古墳の近くには駐車場が無いようなので、なるべく近い場所に停めて見に行ってみます。

 まずは日下ヶ塚古墳から。

 海岸段丘でしょうか、急な坂道を登っていきます。



 登りきると視界が開けました。

 おーっ、墳丘が見えるぞー!



 説明板もあります。



 ここにも書いてありますが、別名を常陸鏡塚とも言い、磯浜古墳群の一基です。

 「坂東東限の水上交通を掌握した被葬者像」っていうのがいいですね。



 墳丘長は103.5mで、後円部中央に粘土槨に包まれた木棺があったわけです。

 説明板には前方部が2段とありましたが、後円部は3段でしょうか。
 
 ということで、早く墳丘に登りたいですが、その前に日下ヶ塚古墳の海側にある平らに整形された郭のような一画へ行ってみます。



 これは古代の遺跡ではなく、磯浜海防陣屋跡と言って、江戸後期の天保年間に築造されたものです。

 登ってみましょう。

 西側には筑波山が見えます。



 大洗町のホームページによると、水戸藩第9代藩主徳川斉昭(烈公)の命により築造されました。



 おー、海だー!



 おおよそ南東方向に視界が開けています。





 大きなフェリーも見えますよ。



 さて、この土壇状の遺構の規模は、幅が約36mで奥行が約24mあり、当時の建物で使われていたと思われる軒桟瓦・桟瓦・軒丸瓦・丸瓦・平瓦などの瓦が見つかっています。



 上陸した米英の軍隊に対してここでどうやって戦うつもりだったのかは、具体的には分かりませんが、砲台跡は見つかっていないようですね。

 建物自体は、元治元年(1864)の元治甲子の変(天狗党の乱)で焼失しました。



 陣屋から見る日下ヶ塚古墳。



 では、本来の目的である日下ヶ塚古墳へ行ってみます。

 周溝の跡も分かりますね。



 墳丘に登ります。

 後円部から見た前方部。



 かなり細いですが、下野型の古墳のように元々このような設計だったわけではなく、後世に削られてしまったのでしょう。

 不自然に削られているのが目立ちます。



 後円部墳頂には石碑があります。





 現在は後円部墳頂から海の眺望は樹木にさえぎられて今一つです。



 山側はよく見えます。





 おや、車塚の墳丘も見えますね。



 古墳チラリズムだ。



 この後はあの巨大円墳に行きますよ。

 後円部から見下ろすと3段に見えますが、『茨城の考古学散歩』(茨城県考古学協会/編)によると2段だそうです。



 説明板には墳丘長は103.5mとありますが、もっと大きく見えますねえ。



 なかなか見ごたえのあるボディです。





 では、墳丘から降りますよ。



 いいねえ、日下ヶ塚古墳。



 タンポポ。





 ではつづいて、隣にある車塚古墳へ行ってみましょう。

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常陸の古墳
茂木 雅博
同成社



 
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【常陸国那珂川・久慈川流域古代史探訪 その1】綺麗に整備されており見学しやすい前方後方墳・宝塚古墳【茨城県東茨城郡茨城町】

2019-03-22 20:19:14 | 歴史探訪
 来週の土曜日(3月30日)からクラツーにて一泊二日で茨城の古墳をご案内してきます。

 今日はその直前の下見のために茨城に出張り、今は水戸のホテルでビールを飲みながらこの記事を書いています。

 資料をたくさん確保してきたので、それを参照しつつ本日の探訪の様子を簡単にご報告しますが、ツアーに参加予定の方にはネタバレになってしまうかもしれませんので、それが嫌だなーという方は閲覧しないほうが良いかもしれませんよ。

 なお、今回も出先でブログを書いているため、画像の編集はほぼ出来ずに撮ってきたものをそのまま載せますので、お見苦しいものがありましたらゴメンナサイなの。

*     *     *


 高速道路を安全運転するのが大好きな私ですが、今日は訳あって下道で茨城まで行かないとなりません。

 最初に目指すのは茨城町で、高速を使えば1時間半くらいで行けると思いますが、下道だと結構掛かりそうです。

 というわけで、4時15分に出発しました。

 カーナヴィに指示された道路は、甲州街道から環七に乗り、ついで水戸街道で行くという非常にベタなコースです。

 でもまあ、その無難な線で行きましょうか。

 甲州街道で都心へ向かうのは慣れた道です。

 でも環七に入ると未知の領域となります。

 水戸街道に関しては、私は千葉県松戸市出身なので非常になじみがあるのですが、自分の運転で走るのはもしかしたら生まれて初めてかもしれません。



 昔、魚釣りをするために従兄弟と自転車を漕いで江戸川へ行った時や、高校時代の同級生と20歳くらいの時にわざわざラーメンを食べに取手に行ったりした時のことを懐かしく思い出します。

 利根川に近くなってくると濃霧に包み込まれました。

 でかい川って霧に包まれやすいんですかね。

 霧に包まれた坂東太郎さんを越えて茨城県取手市に入ると、水戸証券の看板がありました。



 昔、CMで「水戸は水戸でも水戸証券」とやっていたのを思い出しました。

 私なんかですと、まだバリバリのドラマ「水戸黄門」の世代ですよ。

 お銀さんって結構なお歳になってもシリーズの最初に裸を披露していましたが、普段から美に関して努力していないと人様に裸を見せることはできませんので、そういったプロ意識には敬意を表します。

 あ、ダスキンさん!



 朝の水戸街道は、当然ながら上りが混んでおり、今走っている下りは空いています。

 しかもバイパスによって結構スムーズに走れて、それほどストレスを感じずに走ることができています。

 3時間ばかり運転を続け、そろそろお腹が空いてきました。

 すると前方に松屋を発見!

 よし、朝飯に牛めしを食べて、今日も昼飯を抜こう!



 お腹いっぱい幸せ気分になりました。

 時刻がだんだん通勤時間のコアタイムになってきたので、ちょっと道が混んできました。

 なので、ナヴィに従わず、方向だけは間違わないようにして、KKD(経験・勘・度胸)での運転に切り替えます。

 そして9時ちょうど、4時間45分かけて最初の目的地に到着しました!

 茨城町の宝塚古墳です。

 簡易的な駐車スペースの裏手が高くなっており、おそらくそこに古墳があるんでしょう。



 行ってみますよ。

 お、墳丘らしきものが見えてきました。



 バーン!



 よし見っけ!

 あれ、古墳の前に平坦地が広がっていますよ。

 ちょっと気になるので行ってみましょう。



 ここには元々、学校か何かあったのでしょうか。

 ※帰宅後調べたら、茨城町立川根小学校野曽分校の跡地で、昭和44年に廃校になったそうです。

 おー、素晴らしい眺望。



 眼下は現在は田んぼになっていますが、往時は涸沼(ひぬま)がこの辺にまで広がっていました。



 宝塚古墳の被葬者は涸沼の上に君臨していたわけですね。

 では、墳丘を見に行きましょう。

 こちらが後方部ですね。



 前方部へ回ります。

 周溝も残っている。



 綺麗な前方後方形をしていますね。





 墳丘に登ります。

 前方部から後方部を見ます。



 高低差はメリハリがありますが、極端ではないです。

 後方部の墳頂は、一部分だけ植物が植えられています。



 後方部のエッヂを確認。



 綺麗に整備されているため、エッヂが効いています。

 墳頂からの眺望は、現在は樹がさえぎっていて良くありません。



 後方部から前方部を見下ろします。











 そして説明板は後回しになってしまった・・・



 説明板によると、墳丘長は39.3mとなっていますが、『茨城の考古学散歩』(茨城県考古学協会/編)によると、周溝内側下端で計測すると41.2mあるそうです。

 また、同書に拠れば、葺石と埴輪は認められず、周溝は墳丘と同じ形で幅6m、深さ80㎝で構築されています。



 説明板には町内で最も古い古墳としておきながらも、4世紀末から5世紀初めの築造としています。

 関東地方には弥生末期から東海人が進出してきていますが、茨城県は関東の中で東海人の進出が最も遅れた場所です。

 なので、東海人のシンボルともいえる前方後方墳であっても4世紀末以降と判断してるわけですが、その理由は周溝から出土した土師器を基にしていると思います。

 ただ、私はもう少し古い古墳ではないかと思うのですが、私自身、まだ茨城の古墳についての経験値が少ないので、今後よく見聞・考察して、茨城の古墳時代の始まりについての理解を含めたいと思っています。

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常陸の古墳
茂木 雅博
同成社






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笛吹市から甲府市にかけての笛吹川流域の主要古墳

2019-03-19 14:28:24 | 歴史コラム:古代
 今月はダスキンに出社する日が少ないのですが、昨日は久しぶりに朝から夜中まで長時間働いてきました。

 いやー、掃除は疲れますね。

 昨日の朝の段階では、今日は4時に起きて山梨に行こうと思っていたのですが、朝自然に目が覚めたのが6時半たっだたので止めました。

 なので今日は幕府政所に籠って今後のツアーの企画を考えています。

 ところで、先日の16日(土)はクラツーの新宿アイランドウイングにていつもの90分講座を3本やらせていただきました。



 今回は延べ62名様のご参加、ありがとうございました!

 同じ内容は明日もやりますよ。

 そしてその翌日の日曜日は、千葉の古墳ツアーをご案内してきました。





 12名様のご参加、ありがとうございました!

 お昼の釜飯も美味しかったですね。



 飛行機はうまく撮れなかった・・・



 というわけで、明後日(木曜日)はまた山梨の古代史ツアーをご案内してくるのですが、今日は次回のツアーの企画を考える必要もあり、山梨の古墳について考察しています。

 笛吹市から甲府市にかけてのあたりの主な古墳分布はこのようになっています。



 山梨県の古墳時代については、クラツーでやっている関東の古代史講座の中でも少し触れましたが、県内には弥生時代の終わりころ、東海勢力が入ってきます。

 東海勢力は古墳時代の始めには北関東にまで進出して、関東各地の支配者となるのですが、その中でもいち早く山梨県や神奈川県に入ってきたわけです(山梨が関東かどうかは微妙ですが、時代によっては中央政府が関東地方の一部と認めていたことがありました)。

 そして関東の諸地域と同じく、最初に築かれた古墳の形状は前方後方墳で、県内唯一の小平沢古墳がそれです。

 築造時期は4世紀の始めといわれ、墳丘長は45mで、3世紀後半に造られた同じ前方後方墳の長野県松本市・弘法山古墳(63m)より小型です。



 『山梨県最大の方墳、竜塚の謎に迫る 記録集』(笛吹市教育委員会/編)によると、過去に主体部を調査したところ、石が見つからなかったため、石室を造らずに木棺を直葬したのか粘土槨を設けたものであろうと考えられています。

 前方後方墳ということは、古墳時代の始めに甲府盆地の笛吹川流域を治めた王は東海人ということがいえるでしょう。

 ところが、関東で東海人が支配者となった証拠とされる前方後方墳ですが、ルーツをたどっていくと東海ではない可能性もあります。

 通説では東海地方といわれているので私もいつもはそのように説明しているのですが、近江や丹後にルーツが追える可能性があります。

 まだきちんと証拠を掴めていない段階なので怪しい言説になってしまいますが、もし丹後(丹波)だとすると、全国的に見ても前方後方墳が造られることのなくなった6世紀に造られた出雲の前方後方墳の謎も解けるかもしれません。



 ※山代二子塚古墳

 弥生時代終わりごろは出雲と丹波の墓制は違って、出雲で大型化された四隅突出型墳丘墓は、東へ波及する際に丹波を飛び越えて北陸地方へ行っています。



 なので仮説としてこう考えてみます。

 反目していた丹波と出雲の勢力がヤマト王権が発祥する少し前に和合し、出雲-丹波-近江-東海というラインで一大勢力を築き上げ、吉備や讃岐などの勢力を中心として発足したヤマト王権中枢と合併して、3世紀半ばに本格的なヤマト王権がヤマトの地に発足した・・・

 私はヤマト王権の本拠地は奈良の纒向遺跡であると考えており、纒向遺跡で出土する外来土器の半分は東海系なので、初期ヤマト王権では、東海の勢力が非常に大きな役割を果たしたと考えていますが、東海勢力というのは既述した通り、出雲・丹波・近江を含めた勢力ではないかと最近は少し考えを拡げました。

 日本書紀には王権と吉備との関連(吉備の豪族の反乱伝承など)が多く語られていますが、出雲との政治的な話は出てこず、出雲に関しては神話の世界に追いやっており、他の神話と無理やり結合して支離滅裂な話になっています。

 三輪山に出雲の神が祀られていることも鑑み、「出雲~東海ライン」勢力は吉備などの「譜代」勢力とは違う「外様」勢力として別個の扱いを受け、それとの関係が出雲のそういう扱いとして反映しているのではないでしょうか。

 関東地方に出雲の神がやけに多く祀られているのも、「出雲~東海ライン」勢力がもしあったのであれば、その勢力が弥生末期に関東に入ってきたこととつなげることができるかもしれません。

 ただし、関東に数多い出雲の神は、もっと新しい時代に祀られた可能性もありますので、これは今のところ仮説として今後検証していこうと思います。

 さて、山梨に話を戻すと、小平沢古墳が造られた後は、前方後円墳の大丸山古墳が築造されます。

 山梨県立考古博物館に入るとき、建物の裏に山が見えますが、その頂上にあります。



 現在、国指定史跡になってはいるのですが、用地買収が完全に終了しておらず、それが済んだら史跡公園として整備することも可能になります。

 大丸山古墳の墳丘長は99mとも120mとも言われており、こういったはっきりしないところも今後の調査で分かると面白いですね。

 この古墳の主体部は変わっていて、組み合わせ式の石棺が埋葬主体なのですが、その石棺の上に石室(当然竪穴式)を設け、石室の方は副葬品の収蔵庫のようになっています。

 石棺から男女の遺体が発見されたので、おそらく関係は「キョウダイ」のはずですが、面白いのはこれまた珍しい2人用の石枕が置かれていたことです。

 さらに、国内最古級の「竪矧板革綴」の短甲も出土しており、非常に興味深い古墳です。

 なお、普通の一人用の石枕はこんな感じです。



 そして、大丸山古墳の次は、あまり時を経ずに甲斐銚子塚古墳が築造されます。



 墳丘長169mを誇る4世紀代では東日本でもっとも大きな古墳です。

 ただし、少し後になりますが、4世紀のうちには宮城県名取市に168mの雷神山古墳も築造されますので、4世紀のヤマト王権にとって東日本におけるもっとも重要なパートナーは甲斐銚子塚古墳と雷神山古墳の勢力と言えます。

 甲斐銚子塚古墳の築造でかなり大きな力を誇示した当地の勢力ですが、次は直径72mの円墳である丸山塚古墳になります。



 169mの前方後円墳から72mへの円墳になったわけですから、相当力を減じたようにも見えますが、円墳として見ると72mというのは巨大です。

 さらにつづいて、かんかん塚古墳という墳丘長25m✕幅20mの楕円形の変わった古墳となってしまいます。



 ※右がかんかん塚古墳

 かんかん塚古墳は前方後円墳という説もあったのですが、現在ではそれは間違っていたことが分かったのか知りませんが、新しい資料にも現れません。

 ともかく、大きさから見たら曽根丘陵の勢力は完全に力を失ってしまったことが想像できますが、今お話しした流れに関わる大きな謎が一つ残っています。

 それは山梨県内で2番目に大きな古墳である天神山古墳です。

 墳丘長132mの堂々たる前方後円墳なのですが、実態が分かっておらず、いつ頃の古墳かはっきりしないのです。

 従いまして、曽根丘陵の勢力の歴史はこの古墳の本格調査を待たなければまだまだ解明まで遠いわけですね。

 一方、曽根丘陵の東側の銚子原の勢力は、甲斐銚子塚古墳が築造されたのと同じこと、岡銚子塚古墳を築造します。



 墳丘長92mの前方後円墳で、甲斐銚子塚にそっくりな形をしている古墳です。

 おそらく被葬者は、笛吹川流域を治める甲斐銚子塚古墳被葬者の右腕的存在の有力者であったと考えられ、甲斐銚子塚の後円部直径が92mなので、岡の墳丘長はその直径サイズと同じにして、また後円部の高さが甲斐が15mなのに対し、岡は7.5mなので、高さはちょうど半分という設計基準が見て取れます。

 さて、5世紀になると関東各地で帆立貝式古墳の築造が始まり、この古墳の登場によって私はいわゆる「前方後円墳体制」が関東に定着したのではないかと考えているのですが、山梨県内でも5世紀の帆立貝式古墳が造られるようになります。

 そしてその場所はそれまでの丘陵上ではなく、笛吹川河岸の低地部になるわけです。

 なお、低地部には古墳時代の集落も多く見つかっています。

 いずれ、上述した古墳をめぐるツアーを催行できればいいなあ。



新版 山梨県の歴史散歩 (新全国歴史散歩シリーズ)
山梨県高等学校教育研究会社会科部会
山川出版社







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【歴史を歩こう協会ソロプレイ 飛鳥の史跡探訪 その8<最終回>】飛鳥水落遺跡・明日香村埋蔵文化財展示室・そして再度、豊浦寺跡【奈良県明日香村】

2019-03-14 13:18:49 | 歴史探訪
 昨日(3月13日)はクラツーにて山梨の古代史ツアーをご案内してきました。



 ナイスな快晴。

 ポカポカ陽気の下、古墳や縄文遺跡、そして博物館などを見学してきましたよ。



 24名様満席御礼!

 皆様、ご参加ありがとうございました!

 このコースはお昼も素晴らしいのです。



 レストラン・ゼルコバのフレンチ。





 料理はどれも美味しいですが、最後のデザートも俊逸です。



 このツアーは21日(木)も催行します。

 ご参加予定の方、よろしくお願いいたします。

 ということで、先週の飛鳥探訪の続きをお届けします。

 今回が多分最終回です。

*     *     *


 ⇒前回の記事はこちら

 飛鳥寺の参詣を終えたので、あとは橿原神宮前駅まで戻ります。

 路線バスもあるようですが、あまり遠くないので歩きましょうか。

 おっと、遺跡を見つけてしまった。



 飛鳥水落遺跡だ。

 ほー、ここに水時計が置かれていたんですね。



 しかし、飛鳥は日本書紀に書かれていることが数多くリアルに残っていますね。



 リアル日本書紀ワールド。



 昭和になってから観光のために人造した町とは違いますね。

 明日香村埋蔵文化財展示室。



 こういう佇まいの資料館は面白いことが多いので期待できます。

 係の人とか、誰もいらっしゃらないようです。



 レプリカですが、「猿石」があります。



 本当に飛鳥は奇妙な石造物が多いですね。



 国内を探してもこれほど独特な地域はないのではないしょうか。

 やはり蘇我氏はペルシャ人か?

 本日の探訪の関連で、小墾田宮関係。





 「小治田宮」(小墾田宮のこと)と書かれた墨書土器が残っているんですね。



 これは何でしょう。



 ひやー、これは「リアル続日本紀」だ。



 あ、この石人像は飛鳥資料館で見たことがある。



 男女が抱き合っています。
 




 さきほど見た水時計。







 こちらも本日探訪してきました。
 


 飛鳥時代の貴族の衣装ってド派手ですね。



 なんか、日本っぽくないですが、色とりどりの明るい色の服を着て仕事した方が楽しく仕事ができそうです。



 身分によって色分けしていますから、一目で自分より上位か下位か分かるわけですから、そういうのを気にする人は頑張って昇進しようと頑張るかもしれません。

 でも、この後の律令国家は家柄によって昇進できる上限がおおよそ決まっていたので(たまに例外もありますが)、飛鳥時代もそういうのはあったかもしれませんね。

 お、可愛らしいお姉さん。



 天皇陛下であられましたか!

 大変ご無礼をいたしました!

 世が世なら不敬罪で死刑になりそうですが、貴男は誰がお好みですか?

 私は・・・

 その他、キトラや高松塚などの古墳関係の展示もあって、ここはとても面白いです。

 入るときには気づきませんでした、玄関の外には礎石が並んでいます。





 さて、駅へ向かいましょう。

 またまた道標が。



 あとは地図を見ずに適当に歩きます。

 方向さえ合っていればたどり着くでしょう。

 あれ、この景色は朝見たような・・

 またもや豊浦寺跡に来ちゃいました。

 そういえば、飛鳥時代の遺構が見れるって書いてありましたね。

 庫裡のチャイムを押すとお寺の方が出てきてくださいました。

 飛鳥時代の遺構の拝観は200円です。

 これですね。



 石が敷いてあるより上の層は版築で、段々と色あせてきてしまっているそうです、よく見ると確かに層によって色味が違うのが分かります。



 日本書紀には豊浦寺を作るより前に推古天皇の豊浦宮があったと記されていますが、実際に掘ったら寺の遺跡よりも下から柱の跡が出てたので、それが実証されました。



 楽しい。



 礎石もあります。



 今まで私が列島各地で見てきた古代寺院などの礎石は、丸っぽい形のものばかりだったのですが、飛鳥ではきっちりと四角く仕上げたものがあって面白いです。





 こっちは丸いの。



 豊浦寺の現在の伽藍配置は中世以降のもので、古代は現在の本堂の場所が講堂で、道路の向かいの公民館が金堂、そしてそのさらに向こうに塔があったそうです。

 お寺の方にいろいろと教えていただき楽しかった。

 それでは、塔跡を見に行きます。

 甘樫坐(あまかしにいます)神社。



 うわ、盟神探湯(くがたち)の説明だ。



 小学生のときだか中学生のときだか忘れましたが、盟神探湯の話を初めて聞いたときは恐怖しました。

 熱湯の中に手を入れるなんて恐ろしいことを考えたものですね。

 あ、ありました!

 こちらが豊浦宮の塔心礎と石碑ですね。



 ていうか、ここは普通のお宅の敷地内、玄関前じゃないですか・・・

 いやー、200円納めた甲斐がありました。

 最後の最後まで充実の歴史歩きです。

 では、再び駅へ向かいますよ。

 路地を入った遠くの方に説明板のようなものが見えます。

 そう思って行ってみると自治体の掲示板だったっりすることもありますが、ここは飛鳥ですから何かしらの遺跡の説明に違いないでしょう。

 うわーっ。



 消えてる・・・



 ここには何があったのでしょうか。

 おや、こちらではイタチが出るんですね。



 朝来るときに見かけた団体さんが歩いていたのはこの池の堤でした。



 鳥さんがいます。



 こんなお祭りもあるんですね。



 ちなみに私のノートPCは2月11日に我が家に届いたので「神武號」と呼んでいます。

 ちょっと遠回りになってしまいましたが、橿原神宮駅に到着。

 電車に乗る前に撮影タイム。





 本日も東横INNの上大宮駅前店に連泊なので、近鉄に乗ってのんびりと移動です。

 上大宮駅に到着。

 結局今日も昼を食べなかった・・・

 夕飯は松屋の牛めし。



 美味い・・・

 松屋では生ビールの小ジョッキが180円ですよ。

 いやー、昨日も楽しかったですが、今日の飛鳥探訪も頭がおかしくなりそうなくらい楽しかったです。

 個人での飛鳥探訪は2度目でしたが、あと2回来れば飛鳥の遺跡はほとんどコンプリートできそうです。

 それでは、明日のお仕事も頑張ってきますよ。

 (つづく、かもしれない)

カラー版 古代飛鳥を歩く (中公新書)
千田 稔
中央公論新社




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【歴史を歩こう協会ソロプレイ 飛鳥の史跡探訪 その7】飛鳥寺!【奈良県明日香村】

2019-03-11 17:48:46 | 歴史探訪
 昨日の夜、3泊4日のヤマト王権中枢部探訪から帰着しました。

 3泊4日と言っても、前半の2日間は個人的な調査旅行で、後半の2日間がクラツーのお仕事でした。

 このツアーでは近鉄の大和八木駅から特急に乗って東国へ帰るのですが、最近のお気に入りは大和八木駅の構内で売っているサンドウィッチです。



 これを食べるのが楽しみでした。

 特急の中でコーヒー飲みながら食べようっと。

 そして、私たちが乗る特急が来るまでの間は、いつものように撮影会です。

 お、ちょうどよく「しまかぜ」がいる。



 カッコいいですねえ。

 でも普通電車も好きです。



 特急はいろいろな車種があります。



 近鉄は私のイメージでは普通の電車と比べて有料の特急の本数の割合が高い気がします。

 あまり本数の無い路線でも、有料特急はバンバン走っているように思えます。

 実際のところはきちんと調べていないので分かりませんよ。



 近鉄良いですね。

 もしかしたら数年後はこちらに住んでいるかもしれません。

 というわけで、本日は前半2日目の飛鳥探訪の続きをお伝えします。

*     *     *


 ⇒前回の記事はこちら

 今日は飛鳥に来て正解でした。

 天気もバッチリですし、大化前代の飛鳥時代の歴史を堪能することができています。

 酒船石遺跡の近くには明日香民俗資料館がありますのでチョロッと寄ってみます。

 お、本日の昼前にお伺いした川原寺さんのポスターが貼ってありますよ。



 建物の2階に展示があるようです。

 うん、名前の通り、民俗関係の展示ですね。



 施設の名前が「民俗資料館」ではなく、「歴史民俗資料館」であれば考古遺物などの展示も期待できますが、民俗資料館の場合はこういう雰囲気ですね。

 お米が3種類。







 ホテルでの昨日の朝食では黒米を食べました。

 今日の朝は出てなかったなあ。

 では、飛鳥寺へ向かいますよ。

 おや、道端に説明板があります。



 凄いですね。

 飛鳥寺の瓦を焼いた窯ですよ。



 ということはわが国最古級の瓦窯跡ということになりましょうか。

 そして14時半過ぎ、飛鳥寺に到着!



 前回飛鳥に来たときはここの前の道を通りましたがスルーしました。

 そのときは雷電號でめぐっていたのですが、思いのほか不自由で、非常に効率が悪かったです。

 やはり飛鳥は歩いてめぐるのがいいですね。



 驚くなかれ!



 こんなにアツいお寺の説明板もなかなかないですね。

 古の飛鳥に心躍りますが、現実には拝観料を納めて境内にお邪魔させていただきます。

 今日は予想外にお金の減りが早い・・・

 本堂に上がると、お寺の方が飛鳥大仏の前で解説してくださいます。

 短い解説の後は、私からの質問攻撃。

 いやー、楽しい!

 しかも、こちらは写真撮影がOKということですので、私は一人残って飛鳥仏を撮りまくります。



 本来、お寺の中で一番重要な施設は仏像が安置されている本堂ではなく、塔なのです。

 飛鳥寺も古代の寺院らしく塔を中心とした伽藍配置となっており、金堂が完成してから大仏を造って建物内に搬入したそうです。

 もともと、塔にはお釈迦様の骨(仏舎利)を納めることになっていました。

 日本最古の仏舎利。



 この仏様も火災にあって損傷を受け、少し痛々しい感じがしますが、困難を克服してきた表情にも見えます。



 現在は釈迦如来像が単独で安置されていますが、当初は脇侍もおり、当然光背もありました。





 正面から見ると少し顔の向きを傾けているのが分かるのですが、聖徳太子が生まれた橘寺の方を向いているそうですよ。



 釈迦如来に向かって右側には阿弥陀如来像。



 この掛け軸はハングルで何か書かれていますよ。



 向かって左には、聖徳太子が16歳の時をイメージしてくつった像があります。







 この釈迦如来像は最初にここに安置されてからまったく場所が変わっていないというのも驚異です。



 うーん、この場から去りがたい・・・



 あ、次の方々がやってきそうなのでこの辺で辞去させていただきます。

 感動のあまり、歌でも歌いたい気分です。

 当時の伽藍の復原図。



 廊下に出るとちょっとした展示コーナーがありました。

 発掘時の写真がたくさんあって興味深い。



 おおーっ!

 6世紀の瓦だーっ!



 6世紀というと関東ではバリバリの前方後円墳の時代ですよ!

 そのときすでにこちらではお寺が造られていたわけです。

 山田寺の瓦!



 大官大寺!



 本日訪れた橘寺!



 なんか私も感嘆符ばっかりだ!



 誰もいない廊下で40代のおっさんが独り言を発しながらはしゃいでいる光景は異様だと思います。

 光背の一部も出土しているんですね。





 凄い・・・

 そして百済の土器も。



 もしかしてちゃんと見るのは初めてかもしれない蹴鞠。





 感動に震えながらお堂を出ます。





 境内を散策します。







 鐘楼。



 つづいて入鹿の首塚へ行きますよ。

 飛鳥に来ると何気なく置かれている石が実は凄い物ではないかと勘繰ってしまいます。



 ここですね。



 いらっしゃいました。



 ようやく入鹿に逢えました。



 五輪塔の背後には今日の午前中登った甘樫丘があります。

 五輪塔から飛鳥寺。





 中大兄皇子と中臣鎌足はここで出会ったんですね・・・



 感慨無量。



 飛鳥寺に参拝できたので今日の目的は達しました。

 結局、昼を食べずに15時15分。

 早めにホテルに戻って駅前の松屋で牛丼食べようっと。

 ⇒この続きはこちら


直木孝次郎 古代を語る〈9〉飛鳥寺と法隆寺 (直木孝次郎古代を語る 9)
直木 孝次郎
吉川弘文館




 


  



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【歴史を歩こう協会ソロプレイ 飛鳥の史跡探訪 その6】 蘇我馬子の邸宅跡か・島庄遺跡と水辺の祭祀遺構か・坂船石遺跡【奈良県明日香村】

2019-03-10 07:37:45 | 歴史探訪
 こちらのホテルは大浴場(温泉)が5時にスタートなので、早起きして行ったところ貸し切り状態でした。

 露天風呂もあって気持ちよかった。

 そして6時半から朝食。



 漬物関係は普段食べないのですが美味しいです。

 豆腐がとても美味しかったので山盛りお替り。



 ちょっとだけ洋風も食べたくてタバスコとチーズをたっぷりかけたナポリタン。



 うん、これも美味い。

 デザート。



 異様にヨーグルトが食べたくなって3杯食べました。



 しかも上にかけたハチミツがすごく美味い。

 ハチミツだけ舐めていたいと思うのはプーさんである蓋然性が高いです。

 ヒトのプーさん。

 というわけで、これから2日目を案内してきますが、その前に一昨日の探訪の続きを1本アップします。

*     *     *


 ⇒前回の記事はこちら

 つづいて、蘇我馬子の邸宅があったらしい島庄辺りを見てみます。

 多分、この辺だと思うのですが。



 Webで説明板を見た気がするので周辺を探しています。



 うーん、見当たりませんね。

 やはり事前にきちんと調べてこないとダメですね。

 まあでも、この辺に蘇我馬子が住んでいたのは間違いないでしょう。



 『明日香村の文化財⑥ 島庄遺跡』によると、島庄遺跡は飛鳥時代を中心とした縄文時代から中世までの複合遺跡で、7世紀の遺構に関しては蘇我馬子の邸宅や天武の子の草壁皇子の「嶋宮」の跡との「関連性が注目」されるということです。



 それでは、飛鳥寺方面へ歩きます。

 素敵な通りに出ました。



 食事ができる店もありますが、まだ行けそうなので歩きます。

 せっかく面白い場所に来ているので、座って30分も食事をしていたら時間がもったいない。

 ・・・なんて強がりを言いますが、本当は予算が厳しいのです。

 天理教の教会だ。



 もちろんお会いしたことはありませんが、何代目かのダスキンの社長で天理教の方がいらっしゃったそうです。

 甘樫丘が見えます。



 つづいて坂船石遺跡にやってきましたが、亀形石造物の見学はこれまた有料ですぞ。

 せっかく来たので見てみましょう。

 谷状の場所にありますね。



 なるほど、水に関する祭祀遺構ですか。



 祭祀遺構ということは、要するに何かわからないということですね。



 いや、でも飛鳥時代のものでしょうから貴重ですし面白いですね。





 ホントだ、足が4本あって亀のような形をしている。







 こんな感じの地形の場所にあります。







 今度は無料で見られる場所へ行ってみましょう。











 蘇我氏の本拠地である飛鳥を歩いていると石を使ったものが数多く散見できて、列島内でもかなり特殊な地域という感じがしますね。





 蘇我氏はペルシャ人だという人がいますが、確かにオリエンタルな雰囲気もあります。



 いや、面白い。



 ではさらに歩き続けましょう。

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飛鳥史跡事典
木下 正史
吉川弘文館



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【歴史を歩こう協会ソロプレイ 飛鳥の史跡探訪 その5】蘇我氏の権力の大きさを見せつけられる石舞台古墳【奈良県明日香村】

2019-03-09 21:22:32 | 歴史探訪
 12時過ぎにお客様一行と合流し、奈良県内の古代史ツアーの1日目をご案内してきました。





 今回は14名様のご参加、ありがとうございます!

 日中は上着がいらないくらいのポカポカ陽気で、気持ちよく歩けましたね。



 歴史探訪を終えホテルに入り、さきほど夕飯を食べて部屋に戻ってきました。

 夕飯の一部。



 この奈良の古代史ツアーの夕飯はいままではフレンチでしたが、今日は懐石でした。







 美味しかったー。

 というわけで、まだ20時過ぎということで昨日の探訪の続きをアップします。

 ホテル内にある温泉には明日の朝5時に行きますよ。

*     *     *


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 橘寺で聖徳太子のことをいろいろ考えつつ、さらに蘇我氏のコアゾーン深くに入り込んでいきます。



 時刻はそろそろ13時ですが、東横INNでの朝ご飯をたくさん食べたおかげでまだお腹が空きません。

 対岸に岡寺の塔が見えます。



 気持ちの良い飛鳥路。



 誰もいないので、即興の歌を歌いながら歩きます。



 次は石舞台古墳を目指しますよ。





 案内板が現れました。





 橋を渡った先に礎石のようなものがあります。



 なんでしょうか。



 石舞台古墳がある石舞台地区までやってきました。



 どこにあるのかなあ。



 入口発見!

 おやまあ、ここも有料ですか。

 250円支払います。

 と思ったら、JAF割引が効いて200円になった!

 やったー。

 でも今年の4月からは300円に値上げするそうですよ。

 説明板。



 一辺が55mの方墳または上円下方墳ということで、特別大きいわけではなく、7世紀初頭のこれくらいの古墳は関東にも結構あります。

 同時期の千葉県栄町の龍角寺岩屋古墳は一辺が78mの方墳ですし、上円下方墳で言ったらちょっと時代はずれますが、埼玉県川越市の山王塚は一辺が63mあります。

 あれ、私は何を張り合っているのだろうか?

 いくら威張っても蘇我氏には勝てませんね。
 


 石室の玄室長は7.8m、羨道部分は11.5mということで、合わせると19.3mで、石室の全長をみても大型石室であることには違いありませんが、他の古墳に飛びぬけているわけではありませんね。

 だから、張り合っても仕方がないって・・・

 おー、これですなあ。



 四角く象った墳丘らしきものの上に巨石で造られた横穴式石室が露出しています。



 いや、さきほどの説明板のスペックでは感じませんでしたが、実際のヴォリューム感は凄いですね。



 でかいじゃん。



 周溝の中のあの人工物らしい石は何でしょうか。



 お、石室の中に入れるようになっていますね。







 今まで数多くの石室に入ってきましたが、やはり石舞台古墳の石室の石は1個がでかい・・・



 蘇我氏の権力の大きさをまざまざと見せつけられた気分です。



 でも他の場所にある古墳の横穴式石室も土を取り除いたら巨大な石が全貌を現すに違いありません。



 まあしかし、ここは特別ですね。



 比べるものを一緒に写さないと写真ではこのスケール感は伝わらないかも。



 いやー、楽しかったー。









 ちょうど二上山が見えます。





 埼玉県行田市の八幡山古墳は「関東の石舞台」と呼ばれてかなり凄いですが、やっぱり中央の権力者には適いませんね。

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古墳deコーフン!
ウルカ・ミュージックレコード
ウルカ・ミュージックレコード


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【歴史を歩こう協会ソロプレイ 飛鳥の史跡探訪 その4】聖徳太子の生誕地と伝わる太子造立7ヶ寺の一つ橘寺【奈良県明日香村】

2019-03-09 11:37:55 | 歴史探訪
 本日は奈良県桜井市の纏向遺跡や大神神社などをめぐるツアーをご案内します。

 お客様一行はお昼ごろにこちらに到着するので、私は大和八木駅で合流すべく、駅前のミスドで待機しています。



 さすがに今日は早朝から史跡めぐりをする気が起きず、ゆっくりホテルを出てきましたよ。

 皆様と合流するまでの間に昨日の探訪記事の続きを一本アップしようと思います。

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 川原寺跡では住職さんから楽しい話を聴かせていただき、つづいて川原寺跡の向かいにある橘寺(たちばなでら)へ向かいます。



 聖徳太子の生誕地ですぞ!



 講座では「聖徳太子はいなかったかもしれない」と話していますが、今度クラツーの日本書紀講座にて聖徳太子の話をするため、最近は聖徳太子の姿がいつも脳内にチラチラしています。

 聖徳太子はいなかった、というのは私の場合は、厩戸皇子(うまやどのみこ)は実在しても、聖徳太子の事績は、本当は蘇我馬子がやったことではないかということを言いたいわけです。



 6世紀後半から7世紀前半の100年間くらいは、蘇我氏の全盛期で、蘇我氏が天皇だったと考えることもできるのですが、ことはそう単純ではありません。

 そもそも、当時はまだ天皇はおらず、大王が倭国を治めており、その大王もまだ世襲だったかどうかも分かりませんし、その大王というものの実態を明らかにしないと話が進まないのです。



 ですので、今はまず、大王や貴族(倭国の支配者層)の実態解明に躍起になっているのですが、重要なのは6世紀後半の大王はすでに姓を持っていないと考えられるところ、蘇我氏は「蘇我」(プラスもう一つの姓)という姓を持っており、やはり大王家と蘇我家では格が違うのです。

 その辺が気になっているところです。

 説明板がありますよ。



 橘寺は聖徳太子が建立した7つのお寺の一つとされています。

 拝観は有料です。



 お邪魔いたします。





 さきほどの川原寺は南北の軸で門、中金堂、講堂が並んでおり、すなわち仏様は南面していたわけですが、橘寺は東西の軸で伽藍が配置されており、本堂は東を向いています。



 境内図拡大。



 本堂には上がれるようになっています。





 堂内の撮影は禁止です。

 普段はセカセカしている分、こういう場所ではリラックスしたいですね。

 お線香の匂いが落ち着きます。

 では、境内を散策します。









 古代の金堂の跡です。














 橘寺の橘。



 そもそも、このお寺の名前の由来は、田道間守(たじまもり=現在はお菓子の神様)が垂仁天皇に命じられて不老不死になれるという柑橘系の果物を海外に取りに行き、それを植えたことが由来です。

 なお、田道間守が戻ってきたときには垂仁天皇はすでに亡くなっており、田道間守はショックのあまり自害してしまいました。

 垂仁天皇や田道間守関連は先日奈良に来た時にめぐりました。

 おや、さきほどは亀石という奇妙な石造物を見ましたが、ここにも石造物がありますよ。



 なるほど、二つの表情が刻されているんですね。









 古代の回廊跡もあります。







 鐘楼。





 東門から出ます。



 東を向いているということは、単純に考えて蘇我氏の本拠地へ向いているということでしょうか。

 では、再び歩き始めましょう。

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聖徳太子 本当は何がすごいのか
田中 英道
扶桑社





 
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【歴史を歩こう協会ソロプレイ 飛鳥の史跡探訪 その3】いつ何のために造ったのか判らない奇妙な亀石と飛鳥四大寺のひとつ川原寺跡(弘福寺)【奈良県明日香村】

2019-03-08 23:27:37 | 歴史探訪
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 朝、ホテルで作成したオリジナル地図を眺めながら、どのルートで歩くか戦略を練ります。

 まずは少し南下して、亀石を見てから東へ向かって、川原寺跡や橘寺に参拝しようと思います。



 交差点の左手に見える瓦葺の和風建築はセブンイレブンの店舗ですよ。



 道路を渡って少し行くとありました!



 うわ、こっちを向いてる!

 確かに亀のように見えますが、なかなかコミカルなデザインですね。



 いつのものかも何の目的で造ったのかも分からないというところが面白いですね。



 亀石近辺から甘樫丘を見ます。



 おっとダスキンさん、今日は2ポイント目!



 いや、別にポイントは貯めていませんよ。

 亀石の近くのこの大きな石仏も気になります。



 つづいて川原寺跡へ向かいます。

 遠くにお寺の建物があって、その手前に基壇のようなものが見えますね。



 ここから失礼します。



 門跡でしょう。



 門をくぐると、左手に基壇が一つ。



 右手にも塔心礎らしきものが見える基壇があります。



 左手の基壇上には礎石は見当たりません。



 でも基壇の下に礎石のようなものがありますね。



 もう一つの基壇はやはり塔跡でしょう。



 礎石が揃っています。



 塔跡から門跡を見ます。



 回廊跡。





 前方後方形の礎石!



 では、現役のお寺へ参りましょう。



 古代の川原寺の法灯を受け継ぐのは真言宗豊山派の弘福(ぐふく)寺です。



 川原寺は飛鳥寺、薬師寺、大官大寺とともに「飛鳥の四大寺(しだいじ)」と呼ばれ、天智天皇が母・斉明天皇の供養のために建立したと伝わっていますが、『日本書紀』に建立に関する記事はありません。

 もともとは斉明天皇が短期間営んでいた川原宮の跡地のようです。



 確実なところでは、『日本書紀』によると、天武天皇が即位2年目(673年)の3月に川原寺で一切経の書写をしています。



 川原寺はたまに「かわらでら」と振り仮名がふってあることがありますが、「かわはらでら」ですよ。

 説明板を読んでいると、住職さんがいらっしゃいました。

 今日は何となくフラッとお伺いしたのですが、たくさんお話をお伺いすることができて楽しいです。

 山門をくぐったときは気づかなかったのですが、足元を見ると礎石だらけです。





 説明には「めのうの礎石」とありますが、私は初めて見るものです。



 滋賀県の方から運んできた可能性が高いそうですが、住職さんが子供の頃は、三韓からの貢ぎ物と教えられたそうです(※帰宅後、Webで調べてみると、本居宣長が礎石を見て「瑪瑙(メノウ)」と思ったらしく、そのために「めのう石」と伝承されたようですが、実際は「白大理石」だそうです)。



 ところで、この礎石は往時の中金堂の礎石ですが、28個あったと聞いたので、頭の中でいろいろ考えても28個は変だなあと思いました。



 4×7という配置は不可思議で、普通は4×6とか4×8じゃないかと思ったわけです。

 そうしたら、住職さんが他の職員の方に声を掛けてくださって、その方のノートを見させていただきました。



 へー、こうなっていたんですね!

 こういうのを知ると本当に私は中央の歴史や文化に疎いアズマエビスだなあと思います。

 世の中のことはまだまだこれっぽっちも知らないんですね。



 なお、都が平城京に移った際、他の三大寺は平城京へと移転しましたが、川原寺はこの場所にとどまったそうです。





 気づいたら45分も滞在していました。

 住職さん、楽しいお話を聴かせていただきありがとうございました。

 今度は前方後円形の礎石!







 つぎに、川原寺跡の向かいにある橘寺へ向かいます。

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謎の大寺 飛鳥川原寺
網干 善教,NHK取材班
日本放送出版協会





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