日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

山梨県立考古博物館|山梨県甲府市 【甲信古代史探訪 その7】

2018-11-25 19:20:44 | 歴史探訪
 今日は朝の2時からずっと歴史に集中できていて、いろいろと捗りました。

 クラツーの来年3月以降の企画を新規で2本考えているのですが、そのうちの1本ができました。

 今年の春に那須地方の古墳ツアーを発表したのですが、何としたことか、珍しく最少催行人数に達することがなく中止となりました。

 私的には那須の古墳は超お勧めなので、そのリベンジの機会を伺っています。

 次回、1月10日発行の「歴史への旅」では、私の古代史ツアーのうち、関東地方のツアーは「流域の古代史」というシリーズに再編を開始し、3月10日号で再編完了と考えています。

 古代史はとくに河川の流域に各地の王様(首長)が勢力を張っていたので、多摩川とか相模川とか、そういった河川ごとにツアーをする予定です。

 そのなかで、上述した那須地方は那珂川の流域になるのですが、那珂川は茨城県を流れて太平洋に注いでいます。

 1月10日号では「流域の古代史」シリーズで那珂川をやろうと思い、その企画を本日考えていたわけです。

 ただ、茨城県の北部や栃木県の北部(つまり那珂川流域)は、関東でもやや遠いので、1泊2日のツアーとします。

 ですので、参加してくださる方からすると少しハードルが高くなってしまい申し訳ないです。

 というわけで、どんなツアーになるかは、来年まで楽しみにしていてくださいね。

 では、信州・甲州の古代史探訪の続きをお届けします。

*     *     *


 ⇒前回の記事はこちら

 松本市立考古博物館の見学を終え時計を見ると12時半を過ぎています。

 もうお昼ですが、昨日ショッキングなことがあったため今日は食欲がありません。

 実は朝起きたときはテンションが低かったのですが、こういう時こそ少し無理してでも出かけたほうがいいと思って、雷電號を走らせてきました。

 私にとっては車の運転はときにストレス解消になります。

 すでに午前の行程は終わりましたが、やはり古墳は楽しいですね。

 徐々に調子が戻ってきましたよ。

 でもお腹は空かない・・・

 朝から何も食べていませんが、このまま甲斐国へ移動します。

 ※結局この日は帰宅後にゼリー飲料を1個飲んだだけでビールも飲まずに終わりました

 それでは、ようやくここから本来の目的である「ツアーの下見」に移行しますよ。

 松本ICから長野自動車道に乗り、岡谷JCTから中央道へ入り、諏訪湖の湖畔を走り抜け、しばらく進んで甲斐国へ侵入です。

 八王子市民の私は信州へ行ったときは甲州まで戻ってくると家の近くまで帰ってきたなと思います。

 甲府南ICで降りると山梨県立考古博物館はすぐ近くにありました。

 ここまで1時間15分の移動時間でした。



 考古博物館の裏手には銚子塚古墳があり、そこもツアーの行程に含まれていますが、まずは博物館から見学しますよ。



 入館料を支払い中に入ると、縄文土器がお出迎えです。



 笛吹市一の沢遺跡出土の中期の深鉢です。

 いいねえ。

 重要文化財ですよ。

 こちらも同遺跡同時代の遺物ですが、随分とデザインが違いますね。



 流線形が素晴らしい。

 おー、各時代の土器がズラーッと並んでる!

 草創期はありませんが、早期から前期。



 中期。



 中期は豊富ですね。



 まだ続きますよ。



 そして後期と晩期。



 こういう古い順(編年順)に見れる展示って大好き。

 あ、可愛らしい土偶。



 こちらも一の沢遺跡出身で、「いっちゃん」と言うそうです。

 縄文時代の顔の造形(土器の把手に顔が付いていたりもする)は、このように目が切れ長になっているものをよく見かけるのですが、いっちゃんは優しい目をしています。

 なぜか、眺めていると涙が出そうになります。

 こちらは同じような説明が松本市立考古博物館でもありましたね。





 縄文人はだいたい5~6歳までの子供は「神の子」として考えていたようです。

 縄文時代は現代では考えられないほど、子供を産むのも育てるのも大変だったと想像でき、縄文時代の1万年以上の間、人口は右肩上がりに増加していったわけではないようです。

 それがお米を食べるようになって(つまり稲作が導入された弥生時代になって)人口増加率は上がったらしいです。

 おっ、土偶ちゃんたち大集合!



 この土偶は耳飾りをしていますね。



 女性4人組と言えばSPEEDか、いやMAXか?



 女性2人組と言えばピンク・レディーか?



 3人組ならキャンディーズでしょうか?



 だんだん古くなっていってそのうち本当に縄文時代まで遡りそうな勢いですが、こちらの3人組は実は縄文時代の土偶ではないのです。

 弥生時代の容器型土偶といって、弥生時代前期末から中期前半という短期間に東海から東北南部で造られたもので、現在は30余個しか見つかっていない大変珍しいものなのです。



 いやー、甲斐は我が家からそれほど遠い場所ではないですが、異文化って感じがして楽しいです。

 お、この遺跡見に行きたい!



 方形周溝墓がこんなにたくさん復元されているとは!

 元の遺跡はこんな感じ。



 「方形周溝墓er」にとっては堪りませんね。



 あ、「ホーケーシューコーバー」なんて人、聴いたことないですね。



 ※後日註:上の平遺跡はこの翌年探訪しました(⇒探訪レポートはこちら

 おっとー、ここにもありました!

 バーン!



 ババーン!



 東海系土器です!



 ひゃー。



 ふぁー。



 S字甕ですよ!





 口縁部がS字になってるでしょ?



 しかしこれほど大々的に展示しているとは予想もしていませんでした。





 ありがたい・・・

 この古墳の編年も分かりやすくていいですね。



 郡内は古墳少ないんですね。

 信茂さまーっ!

 これはメロンパンでもチョコに抹茶フレーバーがコーティングされたものでもありません。



 勇気を出してこのボタンを押してください。



 ほら、開いた。



 古墳の横穴式石室を説明しているんですね。

 展示はまだまだ、国分寺や古代寺院、そして中世以降と続きますが、今日は時間の都合でここまで見て終了とします。

 あれ、企画展やってる。

 火焔型土器ではなく、水煙文土器ですか?

 安道寺遺跡出土の中期の土器。



 こちらはこの後訪れる予定の釈迦堂遺跡から出土したものですね。



 重要文化財です。

 面白いですねえ。





 縄文時代中期の編年の表も便利ですね。



 今日は時間の都合で30分ほどでササっと見ましたが、やはり最低でも1時間は欲しいですね。

 ここはクラツーのお客様もきっと喜びますよ。

 つづいて銚子塚古墳を見に行きます。

 ⇒このつづきはこちら

やまなし遺跡探検
山梨県考古学協会
山梨日日新聞社




松本市立考古博物館|長野県松本市 ~弘法山古墳について知りたければこちらへ~ 【甲信古代史探訪 その6】

2018-11-25 10:03:44 | 歴史探訪
 ここ数日、朝の寒さが深化して、起床するのも大変になってきました。

 それでも今日も2時に起床してずっと歴史をやっています。

 2時はまだ朝ではないとよく言われますが、昨日はツアーから帰ってきてすぐに夕飯を食べて、18時には就寝してしまったので睡眠時間はちゃんと確保できていますよ。

 今日は終日、幕府に逼塞している予定なのですが、休養のためということもありながら、なんと次回の給料日がまだまだ先なのに手元には184円しかなくて、この軍資金では何もできません。

 何もできないどころか、食べるものも厳選する必要があるのですが、幸い、今年も岩手の友人から兵糧米の援助が届いたので、お米だけは何とか確保できています。

 あとは、納豆があれば今日の食事は大丈夫ですが、問題は明日以降ですね。

 会社に行く電車賃もない・・・

 まあ、そんなことを嘆いていても無いものは無いので、そういった難しい社会の仕組みは考えずに今日は歴史に没頭します。

 というわけで、前回の続きをお届けしますよ。

*     *     *


 ⇒前回の記事はこちら

 当初は弘法山古墳を見る前に考古博物館を見学しようと思っていましたが、図らずも先に古墳に遭遇してしまいました。

 まあ、順番は別にいいですね。

 弘法山古墳から考古博物館へは車ならすぐです。



 近隣の史跡マップ。



 それでは、常設展から行きますよ!



 常設展示は原始時代から時代が下っていくオーソドックスな形式ですが、実はこれが一番わかりやすくていいです。

 最初は土偶がお出迎え!

 坪ノ内遺跡からいらっしゃいました。



 縄文中期中頃の方です。

 こちらも同じく坪ノ内遺跡から。



 後期後葉です。

 そしてこちらは山影遺跡から。



 中期中頃です。

 バーン!



 縄文土器、いいねえ。







 縄文時代は、死産した子や生まれた子供の胎盤を土器に入れて、玄関の床下などに埋葬することが行われたそうです。





 実際、胎盤は出土しないはずなので、なぜそういう説明がされているのかは分かりません。

 ※後日註:化学的な成分分析で分かるそうです。

 石棒その他!



 ここにも土偶!



 ハロー。



 亀ヶ岡文化は松本にまで及んでいたのですね。



 一応、こう見えてもこの方は遮光器土偶の仲間です。

 有名なのは青森県つがる市で出土した重要文化財の遮光器土偶ですが、あちらでは大量に出土しており、JR五能線の木造駅はこんな造形で有名ですね。



 さて、一番興味のある弘法山古墳のコーナーに来ました。



 さきほど、古墳の墳頂にあった説明板にも書かれていましたが、墳頂で出土した遺物は東海系なのです。





 今日は企画展示で古墳の特集をやっているようなのであとで見に行ってみましょう。

 あなた様は誰?



 女鳥羽川遺跡からおいでの方で縄文時代後期のお生まれのようです。

 縄文時代の遺物で2大スターは土器と土偶だと思いますが、脇役でも素晴らしいキャラクターもいて、例えば「土板」と呼ばれる、これまた用途不明の製品もあります。

 こちらは土板に人の姿が現れているものです。



 女性の全身を描いていますが、分かりますか?

 では、企画展の方に行ってみます。

 古墳時代が始まる前の弥生時代の墓制である方形周溝墓と円形周溝墓の長野県内での分布図。



 円形の方が少ないですが、基本的には円形は方形に混ざって造られています。

 作り分けの理由に関しては分かりません。

 なお、古墳時代になっても方形周溝墓が造られる地域もありますよ。

 長野県内の古墳の分布図。



 24番が弘法山古墳ですが、松本平近辺は目立つような古墳の分布は見られませんね。

 最古級の古墳が松本に造られたのに、その後は今日の朝見てきた県北部の千曲川流域や県南部の天竜川流域の飯田地方にまとまっています。

 両河川は水系が違うので、それぞれの水系ごとに一つの政権があったと考えていいと思うので、そう考えると古代の長野県は「科野」という一まとまりの地域ではなかったと考えられます。

 天竜川の水源が諏訪湖ですので、南の飯田の勢力は諏訪の勢力との関係が考えられそうです。

 松本平の古墳分布も掲示してあって、これを見ると、地味ではありますが古墳時代を通じて古墳の築造が続いたことが分かります。



 この表は分かりやすくていいですね。



 改めて弘法山古墳の説明。



 弘法山古墳と関連して考えられる出川南・出川西遺跡(さきほど墳丘から見た南松本駅の西側に所在)では東海系土器が大量に出土しており、それが展示してあります。



 というわけで、松本でも東海勢力の露出度が高くなっていましたね。

 面白くなってきました・・・

 ⇒この続きはこちら





弘法山古墳|長野県松本市 ~国内最古級の前方後方墳~【甲信古代史探訪 その5】

2018-11-25 08:37:04 | 歴史探訪
 ⇒前回の記事はこちら



 森将軍塚古墳は有名な古墳ですが、今までなかなか探訪の機会がなく、ようやく訪れることができました。

 そして長野県内にはもう一つ、以前から行ってみたいとずっと思っている古墳があるのです。

 松本市の弘法山古墳。

 国内最古級の前方後方墳です。

 今でこそ古墳については講座やツアーでお客様に対して解説したりしていますが、実は古墳探訪を始めたのは2009年のことで、まだ9年しか経っていないのです。

 当初はまずは自宅近くの古墳や古墳の跡地をいくつかめぐり、翌2010年に母の故郷の宮崎県に家族で行ったときに、私だけ別行動で西都市の西都原古墳群を見てきました。

 それにより古墳への興味が爆発してしまったのです。

 つづいて、いろいろ調べているうちに、2013年には前方後方墳に対して異様に興味が湧き、その年のGWに前方後方墳を見に行くことにしました。

 そのとき候補に挙がったのが、松本市の弘法山古墳と群馬県高崎市の元島名将軍塚古墳で、そのときの気分で訪れたのは元島名将軍塚古墳でした。

 面白いことにその後縁があって、元島名将軍塚古墳はクラツーのツアーで何度もご案内していますが、弘法山古墳にはなかなか行く機会がなく、今日、ようやくその機会が訪れたわけです。

 あれから5年・・・

 5年間想い焦がれた会ったことのない恋人に会いに行くような気分です。

 森将軍塚古墳を出て更埴ICから長野自動車道に乗ると、あっという間に松本に到着。

 古代人からすると瞬間移動のようなものですね。

 まずは松本市立考古博物館へ行ってみようと思います。

 おや、あの山の上には古墳があるんじゃないか・・・

 初めて来たまったく土地勘のない場所ですが、遠望した丘になんとなく古墳の匂いがしたので、近くに車を止めて確かめに行きます。



 おっと、説明板発見!



 なんだー、先に古墳に来ちゃった。

 まあいいでしょう。

 遊歩道を歩いて丘を登っていきます。



 あれかな?



 よし、弘法山古墳に到着!

 さっそく墳丘に登ります。

 ここもまたいい眺めだなあ。



 西側の松本市街地の眺めです。

 あれ!

 建物の看板に大きく「古墳」って書いてある!



 なんだ、「古着」か・・・

 弘法山古墳は墳丘長66mの前方後方墳で、先ほどから強調している通り国内最古級の前方後方墳で、その築造時期は3世紀半ばから後半と考えられます。

 古墳の造られている場所は中山と呼ばれる南北約3㎞の独立丘の北側先端部分で、前方部が北西へ向いており、墳丘からは東・北・西の眺望が開けています。

 後方部から前方部を見ます。



 北北西、3㎞強の地点には松本城がありますが見えませんね。



 あの山が終わっているあたりの手前にあるはずなのですが・・・



 しかし、いい眺めだ・・・



 後方部の墳頂には主体部の表示がありますよ。





 東海系の土器・・・

 ククク・・・

 前方後方墳の見どころは、後方部の角の部分ですが(前方後円墳の場合は、後円部は丸いので角がない)、後方部のエッヂは効いていません。



 今度は前方部へ。

 前方部から後方部を見ます。



 初期の古墳らしく高低差がありますね。

 でもそもそも、前方後円墳と前方後方墳は出自が違うので、前方後円墳で説明されるような墳丘デザインの変遷が前方後方墳に当てはまるとも限りません。

 くびれ部分はあまりよく分からないかな。



 あ、よく見る特急が走ってる!



 南松本駅ですね。

 ここも中央線の駅ですから、我が家の最寄り駅の高尾駅から一本です。

 ※ちなみに各駅停車でも松本行きがあるのですが、例えば9時47分高尾駅発に乗ると松本駅到着はなんと14時です!

 墳丘全体を写真に収めたいなあ・・・

 でも丘の上にあるので下がれる位置にも限界があります。

 これ以上は無理。



 よし、念願の弘法山古墳を見ることができた!

 冒頭にお伝えした通り、私は前方後方墳に異常に執着しているのですが、その理由は、関東地方の初期古墳は前方後方墳が多く、それらは東海の勢力が関東に入部して築造した古墳だからです。

 関東の初期古墳を関東の地元の人ではなく東海地方の人びとが造ったという事実を知った時に、一気に興味が最高潮に達してしまったのです。

 在地でもヤマトでもなく東海!

 古墳時代の初め、東海勢力は関東に軍事侵攻をしたのでしょうか、それとも平和裏に関東を治めたのでしょうか。

 時代的にはちょうど邪馬台国の卑弥呼が亡くなる前後になります。

 ですから、邪馬台国とも絡めて東日本の古代史を探求するときに重要な鍵を握るのが東海人や彼らの造った前方後方墳なのです。

 私自身、今はまだ調査を進めている段階でまとまった話をできる状況ではないのですが、もう少し進展したら皆さんにご報告します。

 では、松本市考古博物館へ向かいましょう。

 ⇒このつづきはこちら

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 ところで、長野県の県庁は長野にありますが、広大な長野県(ほぼ古代の信濃国の範囲)において、長野は北に偏っていますよね。

 松本だとちょうど真ん中で良かったのにと思う方もおられるかもしれません。

 その辺の経緯は、こういった本を読むと分かりやすく解説されていますよ。

物語廃藩置県
高野 澄
新人物往来社


 明治になって新しい行政区画が誕生したのですが、今から1300年以上前に律令国家を作るときにもそれまでの国造を解体して評という単位に編成し直したりしました。

 明治の官僚たちはもちろん律令国家のやり方を勉強していたはずです。

 こういった行政区画の変遷の歴史も楽しいですね。


森将軍塚古墳|長野県千曲市 ~眺望抜群の長野県を代表する古墳~ 【甲信古代史探訪 その4】

2018-11-25 07:13:45 | 歴史探訪
 昨日(2018年11月24日<土>)は、クラツーにて東京都大田区から世田谷区にかけて存在する荏原台古墳群をご案内してきました。

 現地集合・現地解散の街歩きツアーです。

 天候はおおむね晴れで、気温は少し寒かったですが、歩くにはちょうどよいくらいでした。

 お昼はクラツーにしては珍しくステーキ!

 ただし、私と添乗員さんはステーキよりも安価なハンバーグでした。







 ステーキもいいなあ、と思いましたが、ハンバーグも大好物なので嬉しかったです。



 アッツアツで美味い。

 今回は20名様のご参加ありがとうございました!

 私のツアー初、小学生の方も来てくださいましたよ。

 都内の古墳を見たことによりもっと歴史が好きになってくれればと思います。

 ところで、今月は「歴史への旅」の最新号が出ていましたが、まだ紹介するのを忘れていました。

 今号は、私のツアーは4ページに渡って散在していますが、14ページと15ページが私のツアーのページです。

 今日は15ページを掲載します。



 このページの下段右が上述のツアーで、同じものを12月4日(火)にも催行しますが、4日の方も定員に達しておりキャンセル待ちの方が二桁に迫る勢いのようなので、なるべく近いうちにもう1日設定させていただきます。

 それと、下段左の山梨の古代史ツアーも好評で、当初は中型バスを使用して行く予定だったのが、想定外ですぐに定員に達してしまったため大型バスに切り替え、そのためまだ少しお席の余裕があるようです。

 その他、来年早々、群馬や千葉の古墳ツアーもありますので、興味のある方はいらしてくださいね。

 ⇒クラブツーリズム公式サイト内の稲用ツアー検索結果ページはこちら

 ※システムの都合上、カタログ掲載のツアーが検索結果に出てこない場合もありますので、その場合はクラブツーリズムへ電話にてお問い合わせください

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 ⇒前回の記事はこちら

 森将軍塚古墳館を見学し、古墳の概要は掴みました。

 それでは実際に古墳を見に行きましょう。

 山の麓には「科野のムラ」というのが再現されおり、実際の屋代清水遺跡の上に作られています。



 では山を登りますよ。

 登り始めてすぐ、山の斜面に山城の竪堀のようなものを見つけました。



 もしかすると、切り出した木材を落とすための造作かな?

 しかし、先ほども姫塚古墳へ行くために軽い山登りをしましたが、ここでも山登りとは・・・

 息が切れます。

 最近、山城も登っていないしな。

 ハーハー言いながら麓から10分ほど登ると、小さな墳丘らしきものが現れました。



 2号墳ですな。





 将軍塚はもう少し上の方に見えています。



 葺石で装飾された墳丘に近づく・・・



 この辺にも円墳がポコポコあるようです。

 おや、葺石かな。



 関東でよく見る丸い川原石とは趣が違いますね。

 おー、素晴らしい雄姿!





 後円部の麓に来ました。


 
 南側の裾を歩いて前方部へ向かいます。

 おや、埴輪だ。



 これは川柳将軍塚古墳の説明板にもあった埴輪棺の復元ですね。



 いびつな形状のため、前方部からの眺めもちょっと雰囲気が違います。



 前方部へ登ります。







 前方部から後円部を見ます。



 後円部に登ります。

 東側、倉科方面の眺望。



 後円部の1段下には円筒埴輪が並んでいますね。

 後円部から前方部を眺めます。





 後円部の墳頂には石室の範囲が分かるように表示がされています。



 さきほど古墳館で見た竪穴式石室ですが、巨大でしたよね。



 森将軍塚古墳からの眺望は素晴らしいと聞いていましたが・・・

 おー、いいねえ。



 北側の平野が一望できますよ。



 戸隠山方向手前のここから約5㎞の地点に先ほど訪れた川柳将軍塚古墳や姫塚古墳が乗っかる丘があります。







 麓には先ほど見学した森将軍塚古墳館が見えますね。



 後円部の先端は一段下がっており、埴輪が並べられています。



 ここの斜面を登ってきました。



 おや、石室のようなものが見えますよ。



 前方部の隅の方にも主体部らしきものを示す表示がありますね。



 3号石室の表示です。

 先ほど見た石室のようなものを見に行きましょう。









 前方部からの眺め。



 前方後円墳で一番好きなアングルだ。

 前方部の対岸の高みに登ると少し高い位置から墳丘を眺めることができます。







 いやー、楽しかったー。



 麓からは10分以上登ることになるので、実はバスも運転されているのです。

 でも有料なので私は使いませんでした。

 富裕層の方はどうぞお使いください。

 今度は登った道とは違う道で降りていきます。

 途中にも説明板が。







 名残惜しい景色。



 だいたい30分くらいの探訪でした。

 つづいて、午前中のうちに松本市の弘法山古墳も見てしまいますよ。

 ⇒このつづきはこちら

新・古代史謎解き紀行 継体天皇の謎 信越東海編
関 裕二
ポプラ社