日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

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【古墳時代前期および中期前半】遊牧騎馬民族「氐」の符氏の歴史【五胡十六国時代】

2018-12-22 14:55:11 | 歴史コラム:古代
 前回の記事の続きです。

 気が付いたら長文になってしまったので、後半部分を分離して新たな記事に起こしました。

 ⇒前回の記事はこちら

*     *     *


 氐(てい)の符氏の歴史を調べるには本当はここで中国の正史を紐解くのが一番なのですが、おそらく五胡十六国時代の史料が手元にあるという方はあまりいないんじゃないでしょうか。

 ですので、前回紹介した小林さんの書物を参照します。

海翔ける白鳥・ヤマトタケルの景行朝―四世紀・五胡十六国時代 (小林惠子日本古代史シリーズ)
小林 惠子
現代思潮新社


 まず、符洛という名前ですが、姓が「符」ですね。

 前回の記事で示した十六国の一覧を見ると、氐族が建国した前秦という国の創建者が苻健という人物だということが分かり、おそらく同族ではないかと想像できます。

 実際その通りで、符洛は符健の甥にあたります。

 符氏が属する氐は、『後漢書』によれば昆明の東北に氐種に属する白馬国があるため、元々は雲南地方に住んでいた種族の可能性があります。

 彼らは紀元直後の王莽の乱以後に、隴から蜀地方の勢力に付随してその地方に移住し、牧畜や農耕を行っていたようなので、元々騎馬民族ではなかったのですね。

 上述の符健の父・洪は、今の陝西省の有力な家に生まれ、311年の永嘉の乱の際に経済力に物を言わせて人材を集めて挙兵し、やがて東晋に属して将軍として活躍しますが、350年に側近に暗殺されてしまいます。

 その跡を継いだのが三男の健です。

 健の兄二人はすでに殺害されていました。

 健は秦の国号を掲げて自立したため東晋に攻められますが、辛くもそれを退けた後、翌351年には亡くなってしまい、子の生が跡を継ぎます。

 ところが、片眼が不自由だった生は暴虐な性格であったため、357年には従弟の堅が泥酔状態だった生を殺害して王位に就きます。

 ここまでで一旦関係系図を挙げますので関係を整理してみてください。


 符洪 -+- 〇 -+- 青(洪二男の子の可能性もあり)
     |     |
     |     +- 洛(青とともに洪二男の子の可能性もあり)
     |
     +- 〇
     |
     |   
     |  ①
     +- 健 -+- 〇
     |     |
     |     |  ②
     |     +- 生(暴虐)
     |
     |        ③
     +- 雄 --- 堅

 ※数字は秦の即位順

 小林さんは、まだ符氏が東晋に属していた時代、堅は人びとに「東海の魚」と呼ばれていたらしいことを挙げて、堅が遼東半島か朝鮮半島方面に赴任していたのではないかと推測しています。

 つまりは倭国に近い場所ですね。

 つづいていよいよ、応神天皇になった人物かも知れない符洛が登場します。

 堅が涼州を平定したあとの376年、洛が北魏攻略を担当しました。

 洛は堅の従兄にあたります。

 洛は走っている牛を捕まえられるほど勇敢で、弓を射れば鉄を射通すほどの剛力と言われた男でしたが、その戦闘力は重宝するものの同時に危険人物でもあるので堅からは冷遇されていました。

 不平不満が絶頂に達した洛はついに謀反を企て、380年には東夷の国ぐにに激を飛ばし協力を要請します。

 使者が向かった先は、鮮卑、烏丸、高句麗、百済、薛羅(せつら)、休忍(きゅうにん)等の国ぐにで、小林さんは薛羅は新羅のことで、休忍というのは日本列島にあった勢力のことだと推測しています。

 確かに休忍という名前は私も聴いたことがなく、伽耶の勢力もしくは日本列島の勢力であった可能性は高いでしょう。

 ところが、洛が協力を要請した東夷の国ぐにはことごとくそれを拒絶します。

 洛もここに至っては引くに引けず、長安を攻めようとしますが、ついに堅との戦いに敗れて捕縛されてしまいました。

 でも死罪にはならずに涼州への流罪となったのです。

 つづいて、その堅も戦いに敗れ処刑され、いよいよ洛が日本列島へ逃れて応神天皇となる、という筋書きになるのですが、これ以上はネタバレになってしまうので気になった方は上述の本を読んでみてください。

 なお、五胡十六国時代は北魏が439年に華北を統一して終わったと既述しましたが、それでもまだ中華の完全統一には至らず、続いて南北朝時代になり、588年に隋の文帝による統一まで待たないとなりません。

 以上、簡単に説明した3世後半から6世紀末までの時代は、日本では古墳時代にあたり、ヤマト王権が発足してから聖徳太子の時代(蘇我王権時代)までにあたりますので、この時代の日本古代史を解明しようとする場合は、上にその一部をご紹介したように、中国大陸の動きをきちんと把握しておく必要があります。

 日本の古墳時代を考察する上では、まずは五胡十六国について基礎的な知識を備えておくといいので、その時代について書かれた本を読むことをお勧めします。

 小林さんの本はちょっと・・・、という方には古い本ですがこういった本がお勧めです。

魏晋南北朝 (講談社学術文庫)
川勝 義雄
講談社


中国文明の歴史〈4〉分裂の時代―魏晋南北朝 (中公文庫)
森 鹿三
中央公論新社


 ところで、中国大陸で五胡十六国の戦いが繰り広げられていた時代のヨーロッパでは、黒海沿岸に居たゲルマン族の一派である東ゴート族が、東から遠征してきたフン族によって征服されます。

 このフン族は匈奴のことであるという説がありますが(そうだとすると既述した鮮卑の軻比能に圧迫されて西へ移動した可能性があります)、これによりドナウ川北岸に居た西ゴート族がドナウ川を渡ってヨーロッパになだれ込み、「ゲルマン民族の大移動」という現象が始まるわけです。

 そしてついに、410年には西ゴート族はローマを占領してしまいます。

 この東から西への民族大移動によってヨーロッパの国ぐにが相当な影響を被ったわけですが、フン族が匈奴である可能性を鑑み、上述した五胡十六国時代の中国での動乱との関連は無いはずは無いと思います。

 さらに朝鮮半島に目を転じると、建国してからおそらく半世紀くらいだった百済の近肖古王が南下を企てる高句麗に対して逆襲し、371年には高句麗の平壌城を陥落させ、故国原王を戦死させて、一時的に高句麗の力を削ぐことに成功しています。

 この頃の倭国と百済の通交を物的に証拠立てる物として「七支刀」がありますが、七支刀は369年に鍛造されたもので、百済の対高句麗政策の一環として、372年に近肖古王が倭国の王にプレゼントしたものです。

 これにより、百済は倭および中国の東晋と軍事同盟(東晋に対しては朝貢関係ですが)を結んで高句麗と対峙していくことになります。

 重ねて言いますが、こういったユーラシア大陸の各地で同時期に起きた現象は関連性があると考えられ、こういった現象が起きる原因の大きなものとしては気候の寒冷化が挙げられます。

 気候の寒冷化とそれに伴う歴史の動きに関してはまた機会があればお話ししたいと思います。

 ■おまけ

 私はたまにクラブツーリズムのツアーで福岡県宮若市の竹原古墳をご案内することがあり、装飾壁画について説明する際に中国の「四神思想」について触れます。

 そこでお客様からたまに「四神思想っていつ頃日本に入ってきたんですか?」と質問されることがあるのですが、それに関して参考資料の存在をお伝えします。

 中国の前漢時代末から後漢時代(紀元前1世紀~紀元2世紀)にかけて作られた銅鏡に方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)という鏡があります。

 その方格規矩鏡には四神思想が表現されていると言われていますが、佐賀県唐津市の桜馬場遺跡からも出土しており、桜馬場遺跡は魏志倭人伝に出てくる末廬国の範囲に入る遺跡ではないかと言われています。

 つまり、2世紀の日本人が鏡を見てその意味を理解したかは分かりませんが、すでにその頃には四神思想が日本人に伝わるきっかけは存在したということが言えるわけですね。

 本日のYouTube。

 太っても岡村靖幸だ!


『もしも僕らがGAMEの主役で』/DAOKO



 真夏のサイダー/DAOKO



ShibuyaK/DAOKO



 ステップアップLOVE/DAOKO × 岡村靖幸



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【古墳時代前期および中期前半】日本古代史の謎を解くために必要な中国大陸の知識【五胡十六国時代】

2018-12-22 14:11:31 | 歴史コラム:古代
 小説や漫画、そしてゲームや映画などで日本人に馴染みの深い「三国志」には、日本の古代史での大人気ジャンルである「邪馬台国」についての記述があります。

 ただし、「三国志」といっても「エンタテインメント三国志」の基本になっているのは明代に書かれた「三国志演義」と呼ばれる物語であり、三国志演義は三国を統一した晋の史官である陳寿が3世紀末頃に編纂した正史としての「三国志」を元にしています。

 従いまして、邪馬台国を研究する上では、正史の三国志が必携の史料となります。

 三国時代は最終的には三国のうちの魏でも蜀でも呉でもない、魏から正統性を受け継いだ晋の統一をもって終了します。

 それが280年で、日本ではもしかすると卑弥呼の跡を継いだ台与がまだ存命中かもしれず、10代崇神天皇の御代かもしれません。

 さて、三国の統一に成功した晋の初代皇帝武帝(司馬炎)は統一が完了した途端、気が緩んだためか遊びまくる「ダメ皇帝」と化してしまい、290年に晋の2代目を継いだ恵帝も暗愚だったため、晋は早くもグダグダになり始め、恵帝は趙王司馬倫により301年に廃され、晋の王族たちが相争う「八王の乱」が発生します。

 各地の王族は司馬倫打倒に動き、その年のうちに司馬倫は殺害され、恵帝が再び帝位に就きますが混乱は収まりません。

 このようにまともな政治が行われなかった時期に、隠者となった知識人たちの中から「竹林の七賢」と呼ばれる人びとが現れます。

 306年には恵帝の異母弟(初代武帝の第25子=武帝、随分頑張った!)の懐帝が継ぎ、八王の乱は終結。

 懐帝は学問に秀でた慎み深い人物であり、皇帝になる前の評判も良く、それがために皇帝に推されたわけですが、皇帝になってからもその人物の高さは変わらなかったものの、乱れた世の中を正すほどの器量は持ち合わせていませんでした。

 もちろん、本人の器量だけでなく、彼をサポートする人物に恵まれなかったことも原因かもしれません。

 懐帝が即位した当初は、「これで世の中は良くなる!」と期待した人も多かったようですが、ちょうどその頃、北方アジアでも大きな動きが発生し中華を脅かし始めていました。

 中国の王朝は代々、北方や西方にいる遊牧騎馬民族の脅威にさらされてきており、三国志に馴染んだ方はすぐに匈奴(きょうど)や烏桓(うがん)、そして鮮卑(せんぴ)などの名前を思い浮かべると思います。

 三国時代の魏の曹操は異民族を自らの戦力の一角に加えて戦いましたが、蜀の劉備や呉の孫権も同じことをしています。

 彼ら北方西方の遊牧騎馬民族たちは、三国時代から晋の時代に移り変わっても、相変わらず軍事力として徴用されたり、南下して中華の人と同じように農耕を始めたりしながら中国の王朝と関わっており、上述の「八王の乱」の際にも戦力として活躍しています。

 その彼らが中華の混乱状況を見て南下を企て始め、永嘉の乱という大動乱が惹起され、後の世に「五胡十六国時代」と呼ばれる時代に移り変わっていきます。

 五胡十六国時代の命名の元は、五胡と呼ばれる5つの異民族および漢族が16の国を相次いで建国したからであり、上述の八王の乱が終結した306年の2年前には、早くも匈奴の前趙や氐の成漢といった国ぐにが建国され始めるため、この頃を五胡十六国の開始期として、439年の北魏による華北統一によって終了とします。

 この時代の日本は、古墳時代の前期から中期前半にあたり、巨大な前方後円墳が列島の広範囲に築造された時代です。



 ※奈良県天理市の行燈山古墳(崇神天皇陵)

 この時代を『日本書紀』の記述をもとにどの天皇の時代か推測すると、初代神武や欠史八代についてはひとまず考えないとしても、10代目の崇神はすでに没したあとと考えられ、11代目の垂仁から20代目の安康の時代に該当すると考えます。

 ヤマト王権は崇神によって発足し、前方後円墳による地方への影響力を高めていき、垂仁を経て景行の代である4世紀前半までには東は福島県(もしかすると宮城県南部)、西は鹿児島県の一部を除くほぼ九州全土にまで影響を及ぼしていました。

 伝説的にはヤマトタケルの東西への遠征もあり、ヤマトの影響力は広範囲に広がっており、4世紀には15代目の応神天皇が出現します。

 『日本書紀』によると、応神は母の神功皇后が新羅を討伐するために出征中の大本営であった福岡県で生まれた天皇で、ヤマトに入部して王位を継ぎました。

 この神功皇后が新羅を討伐した話をそのまま史実として受け入れるのは難しいですが、日本書紀にも九州出身と記されている応神天皇の出自には多くの古代史マニアが関心を向けていることでしょう。

 そして、この謎を解くにはどうしても当時の中国大陸の動きを知っておく必要があり、それが五胡十六国時代に当たるわけです。

 今回は、五胡十六国時代を理解するための基礎的なことをまとめてみますので参考にしてください。

 ■五胡のプロフィール

 五胡とは匈奴・鮮卑・羯(けつ/かつ)・氐(てい)・羌(きょう)の5つの「胡(えびす)」を指します。

 つまり、中国から見た異民族なわけで、現代人からすると差別的表現が含まれているように見えますが、今となっては歴史用語ですので気にしない方がいいかもしれません。

 まずはこれら五胡の出自について簡単にまとめます。

 ※「Wikipedia」は五胡十六国について簡潔にまとめてあるのでそれを利用させていただくとともに、『三国志』などの史料を参照しました。

 遊牧騎馬民族である匈奴は、『史記』によると紀元前4世紀にはすでに一つの勢力となっており、中華の国ぐにと戦っています。

 スキタイは匈奴の分派であるとも言われています。

 その匈奴は代表者(王)のことを単于(ぜんう)と呼んでおり、紀元前3世紀の頭曼(とうまん)単于の子に冒頓(ぼくとつ)がいました。

 冒頓は紀元前209年に父や父の後継者とされていた異母弟らに謀反を企て、彼らを殺害して単于に就きます。

 冒頓はライバルの東胡(匈奴と同じく遊牧騎馬民族)を滅ぼし、東胡の生き残りが烏桓(うがん)山と鮮卑山に逃れ、それぞれが烏桓(烏丸と表記されることもある)もしくは鮮卑と自らを呼ぶようになり、当初鮮卑は匈奴の支配下にありましたが、匈奴の力が衰えるのに乗じ独立します。

 鮮卑ではその後、檀石槐(だんせきかい)や軻比能(かひのう)といった英主が現れ、軻比能は魏の曹操・曹丕・曹叡の3代と戦いを繰り返し、最後は暗殺されます。

 なお、軻比能が活躍した時代には匈奴の力はかなり衰えており、軻比能はかつての匈奴の領域を丸々手に入れたと言われています。

 については詳しいことは分かっていませんが、匈奴の流れと考えられています。

 は西方の青海湖(現在の青海省)周辺を生活圏にしており、チベット系と言われています。

 氐もいつくかのグループに分かれており、興国氐王の阿貴と白項氐王の千万は、211年に馬超に協力して魏の曹操と戦いますが(潼関の戦い)、その後、阿貴は魏の夏侯淵に攻め滅ぼされ、千万は西南の蜀へ逃れます。

 217年には蜀の劉備が漢中に進撃し、それに対し魏は陰平郡の氐の酋長・強端に協力を依頼し、強端は蜀の呉蘭と雷銅を討ち取ります(呉蘭や雷銅の名前を見ただけで興奮する人は三国志マニア!)。

 ところで、中国では中華の四周にいる異民族のことを北狄(ほくてき)・東夷(とうい)・南蛮(なんばん)・西戎(せいじゅう)と政治的に呼び、その中の西の異民族である戎族の無弋爰剣(むよくえんけん)という人物が紀元前5世紀に現れ、彼によって族が形成されたと言われています。

 なお、馬超の父馬騰の母は羌族の人なので、馬超も血の4分の1は異民族ということになります。

 以上の5つの異民族が4世紀初頭の晋の乱れに乗じて積極的に南下を企て、中国大陸はさらなる混乱状態になるわけですね。

 ちなみに私たち日本人は中国からすると東夷にあたります。

 では次に、十六国について簡単にまとめてみましょう。

 ■十六国のプロフィール

 十六国の国名を羅列しますと以下の通りになります(括弧内は創設者の名前です)。

 ①匈奴が建てた国ぐに

  前趙(劉淵)304~329

  夏(赫連勃勃)407~431

  北涼(沮渠蒙遜)397~439

 ②鮮卑が建てた国ぐに

  前燕(慕容皝)337~370

  後燕(慕容垂)384~409

  南燕(慕容徳)400~410

  南涼(禿髪烏孤)397~414

  西秦(乞伏国仁)385~431

 ③羯が建てた国

  後趙(石勒)319~351

 ④氐が建てた国ぐに

  成漢(李特)304~347

  前秦(苻健)351~394

  後涼(呂光)389~403

 ⑤羌が建てた国

  後秦(姚萇)384~417

 これだけだと13国なわけですが、「胡」、すなわち中国人が差別的に「えびす」と呼んでいる異民族以外にも、漢族が建てた国ぐにがあります。

  前涼(張軌)301~376 

  西涼(李暠)400~421

  北燕(馮跋)409~436

 さらに、350年から352年までの足掛け3年しか続かなかった冉魏(ぜんぎ)という漢族の国もありましたが、これは短命のために五胡十六国には含まれません。

 ということで、以上、16の国ぐにになります。

 と言われても・・・

 と思う方も多いと思います。

 単に国の名前を羅列しただけではまったく意味が分からないですよね。

 細かい国名とか建国年などよりも重要なのは、中華の北部を異民族が席捲した時代が長く続いたという認識と、上述の五胡十六国の国ぐにの王たちが場合によっては日本の古墳時代の歴史にも大きく関わってくる可能性があるということです。

 遊牧騎馬民族は現代人の私たちからは想像できないような長距離を移動することを厭いませんし、船によって海を渡ることは苦手なように思えますが、船を自在に操る人びとを支配下にするか、もしくは協力者として関係を結べば、海を渡ることも可能です。

 そのような遊牧騎馬民族と倭国との関連については、戦後間もない頃に江上波夫さんが「騎馬民族征服王朝説」を開陳し、一世を風靡したことが知られています。

 現在ではこの説をそのまま信じる人は少ないようですが、例えば小林惠子(やすこ)さんは、日本の古代天皇のほとんどを大陸の出身として考えています。

 そのため、おそらくアカデミズムのほとんどの方からは、小林さん説は「トンデモ」として扱われていると思いますが、私は小林さんの説に非常に興味があるのです。

 今のところは小林さん説を否定するにも肯定するにも、私自身その前提の知識があまりにも貧弱なので、小林さん説を一つの素材として、日本の古墳時代と同時代の中国大陸の情勢を追いかけてみるのも楽しいことではないかと思っています。

 小林さんは『海翔ける白鳥・ヤマトタケルの景行朝』の中で、中国の五胡十六国の氐で活躍した符洛(ふらく)という武将が日本列島に渡ってきて応神天皇になったと述べています。

海翔ける白鳥・ヤマトタケルの景行朝―四世紀・五胡十六国時代 (小林惠子日本古代史シリーズ)
小林 惠子
現代思潮新社


 これを聴いた途端、「そんな話、あるわけないだろう!」と怒り狂う人もいるかもしれませんが、私たち歴史マニアにとって必要なのは、この話を聴いたときに、「その符洛という人はいったいどんな人なんだろう?」と興味を示す好奇心だと思います。

 好奇心を持って調べ始めると、自然と古代史の知識も深まります。

 結果的に肯定するか否定するかは別として、最初から否定して相手にしない場合と好奇心を持って調べてみる場合の違いによって、古代史の楽しみの幅に違いが出てくると私は考えています。

 というわけで、好奇心を持った方々に向けて符洛という人物のプロフィールをご紹介します。

 ⇒記事が長くなってしまったので分離して別記事にしました

 最後に今日も関係ないYouTubeをいくつか。

 Computer Love/Kraftwerk



 Sports Men/細野晴臣



 Lose Your Sight/Sadesper Record



 Neo-Future/相対性理論


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灌漑稲作・養蚕・甕棺墓は大陸から直接日本へ伝わり、しかるのち韓国に伝わったのか/韓国南部には弥生人の集落が普通に存在したのか

2018-12-19 20:00:22 | 歴史コラム:原始
 私が子供の頃に習ったことを思い出したり、書店で普通に売られている書籍を読んだりすると、弥生時代に稲作や環濠集落などの文化が朝鮮半島から渡ってきたというのが通説となっているようです。

 確かに、稲作も環濠集落もそして青銅器も中国大陸が起源ですから、陸路を通っていくと中国の遼東半島あたりから朝鮮半島へ伝わり、海を越えて日本列島に伝わったと考えるのが自然な気がします。

 ちょうど川の上流から下流へ向かって水が流れるのと同じようなイメージです。

 これについては数年前までは私もとくに疑いもせずにいたのですが、古代史をやっていく過程で、もしかしたら朝鮮半島を経由せずに、中国大陸から直に渡ってきた文化もあったのではないかと思い始めました。

 もっというと、日本列島から朝鮮半島へ渡った文化もあったのではないかと思うのです。

 弥生時代のいろいろな文化の中で、やはり重要なのは稲作です。

 とくに、きちんと水田を作って栽培する灌漑稲作はどういう経路で列島まで伝わったのでしょうか。

 前回の記事では、宮本一夫さんの『農耕の起源を探る イネの来た道』を参照して、稲作が列島へ伝播したルートについては3つの説があるとお話ししました。

 宮本さんは朝鮮半島を経由したルートを支持しているわけですが、それが事実かどうか私も調べているものの、いくら調べても朝鮮半島より日本列島の方が水田跡の遺跡は古いのです。

 ただしこれは、弥生時代の開始時期を紀元前10世紀とすることを前提としますが、最初期の水田跡として、佐賀県唐津市には菜畑遺跡があり、また福岡県福岡市には板付遺跡があります。



 ※板付遺跡の水田跡

 いくら調べてもこれらの遺跡より古い遺跡を朝鮮半島で見つけることができないのです。

 ※私の調査不足かもしれませんので、もしご存知の方がいらっしゃったら教えてください

 もちろん、韓国でも古い稲作の痕跡はあるのですが、それは土器に付着したもみ殻の跡などで、上述の宮本さんの本にも書かれているとおり、かなり根拠の弱いものばかりで、宮本さんの文章もその部分に関しては非常に気弱な感じが漂っており、章の最後には韓国の稲作について以下のようにまとめてあります。

 「おそらくはイネ栽培は谷部などの湿地帯を利用した天水田であり、地形環境に応じた自然農法的な栽培段階であり、水田などは存在しない段階であった。事実、水田や水路を備えた灌漑農法は無文土器時代以降でないと発見されていない」

 無文土器時代というのは、一般的には紀元前1500年から紀元前300年くらいの間と言われており、大変長い時代で、その前期であれば菜畑遺跡などよりも古い可能性があり、後期であれば確実に日本よりも遅くなってしまいます。

 という感じで、宮本さんの文章はその部分に関しては非常に歯切れが悪く、つまりは灌漑水田は日本の方が早く行っていたと考えざるを得ません。

 韓国の遺跡の詳細については日本語で出版されている本が少ないので私が知らないだけかもしれませんが、インターネット上をいくら探しても日本より古い韓国の灌漑水田跡は出てこないので、現段階では、日本の方が早かったと考えてよいのではないでしょうか。

 だとすると、通説とは違って、灌漑水田はむしろ日本から韓国に伝わった可能性もあります。

 他にも朝鮮半島を経由せずに直接九州に伝わったものとしては養蚕があります。

 吉野ヶ里遺跡の甕棺で見つかった絹は、遺伝子を調べた結果、紀元前2世紀頃の中国江南地方で飼われていた四眠蚕の絹であることが分かっており、この時点では四眠蚕は朝鮮半島にはまだ伝わっていません。

 なお、四眠蚕とか三眠蚕などの数字は蚕が繭を作るまでの脱皮する回数で、蚕は脱皮する直前、眠ったように静かになることからそう言われているそうです。

 稲作も四眠蚕と同じく、中国大陸から直接日本に渡ってきたと考えていいでしょう。

 さらに、北部九州で見つかる甕棺墓も同様で、韓国南部で見つかるものは日本列島から文化が持ち込まれた可能性もあり、もっと時代が新しくなりますが、半島南西部で見つかる前方後円墳は、明らかに日本列島から伝わった墓制です。

 このように、何でもかんでも朝鮮半島から日本列島に伝わったと決めつけるのではなく、中国から直に来たものもあれば、日本から韓国に伝わったものもあるかもしれないということを私たちは知っておく必要があります。

 どういうわけか、日本の書店に並ぶような一般的な本ではあまり詳しく書かれないのですが、韓国南部では日本の弥生土器(弥生系土器)が見つかることが多々あり、勒島(ヌクト)遺跡では大量に見つかっており、韓国南部の各地には弥生人が広く移住していたと考えられています(『国立歴史民俗博物館研究報告第151集』所収「三韓と倭の交流」<武末純一/著>)。

 反対に北部九州には半島人の集落も見つかっているので、現在の「日本」とか「韓国」とか、そういった国家や国境線で古代史を見ても意味がないでしょう。

 ※この文章は私の勘違いが含まれている可能性もあるので、明らかな勘違いがあったらご教示ください

 というわけで、今日も関係ないYouTubeをいくつか貼り付けておきます。

 New Order5連発!

New Order - Academic (Official Audio)


New Order - Here To Stay (Official Music Video)


New Order - Round and Round (Official Music Video)


New Order - Your Silent Face


New Order - Age Of Consent

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弥生時代の開始は実年代ではいつになるのか?/『農耕の起源を探る イネの来た道』(宮本一夫/著)を読む

2018-12-16 12:02:12 | 歴史コラム:原始
 昨日は弥生時代について考えはじめ、結局最後は縄文時代のお嫁さんの見つけ方まで想像して終わりましたが、今日は弥生時代の話に戻します。



 ※吉野ヶ里遺跡出土の甕棺

 北部九州が弥生時代に移り変わった時点での特徴的な遺跡といえば、環濠集落と水田、そして支石墓と呼ばれる独特な墓です。

 弥生時代になると土器も変化が見られ、縄文時代は深鉢というバケツを長くしたような形状の土器が多数派で後期・晩期に器種が多様化するのですが、弥生土器では煮沸用としては深鉢から甕に変わり、貯蔵用に壺が登場し、祭祀に使われたと思われる高坏や鉢が現れます。

 その土器の作り方(焼き方)も変化するとされ、大陸系磨製石斧という石器も登場します。

 これらはすべて、同時期の朝鮮半島南部に展開した無文土器文化に見ることができるため、一般的には弥生時代開始時期の各要素は朝鮮半島から渡ってきたと言えます。

 これらの要素は逆に日本列島から朝鮮半島へ渡ったと考える人もいますが、その場合は、これらの要素が発生するまでの流れが日本列島で追えなければなりませんが、それは難しいです。

 とくに、何の脈絡もなく今までの縄文的な墓制から支石墓を発明するというのはまずあり得ません。

 さて、日本の面白いところはすぐにそれを自己流にアレンジし、場合によってはもっと良いものにしてしまうところで、これは現代も変わりませんね。

 つまり、上述の要素が列島に入ってきた後はすぐに在来の縄文文化と融合し、日本独特のものになってしまったのです。

 というわけで、ここで私がもっとも関心があるのは、これらが列島に入ってきた実年代です。

 普段、人前で喋るときには、「原始時代の場合は実年代はそれほど気にしないほうがいいです」と言うことが多いのですが、それは私の脳内でまだ実年代を決めるまでに至っていないからです。

 昨日も述べましたが、この辺で弥生時代の開始時期を決めようかなと思い、今日は宮本一夫さんの『農耕の起源を探る イネの来た道』を朝から読んでいます。

農耕の起源を探る―イネの来た道 (歴史文化ライブラリー)
宮本 一夫
吉川弘文館


 ちなみに、吉川弘文館の「歴史文化ライブラリー」シリーズは本当に面白い本が多いですよ。

 論理的でかつ平易な文章で書かれた本が多く、興味があるジャンルに関してはまずこのシリーズの本を読んでみることを強くお勧めします。

 以下、『農耕の起源を探る イネの来た道』の内容をもとにお話しします。

 中国大陸ではイネを栽培するより前にアワやキビを人工的に栽培することが始まっていますが、その開始時期は、1万2800年前から1万1500年前にかけてユーラシア大陸全体で起きた気候の寒冷化(ヤンガードリアス)が原因ではないかと考えられます。

 つまり、今までは自然に生えていたアワやキビを採集して食べていたのが、気候の寒冷化で自然のものが減少していく過程で、人間が自分たちで栽培できないか試行錯誤を始めたのがきっかけではないかと考えられるわけです。

 イネが栽培化されたのはアワやキビの栽培化からかなり遅れ、紀元前4000年頃、長江下流域の崧沢(すうたく)文化で本格化します。

 それ以前の河姆渡(かぼと)文化でもイネは栽培されていたようですが、野生のイネを相当数採集していたという見解があるそうです。

 この栽培イネが山東半島の東端まで伝播するのが紀元前2500年頃で、山東半島東端まで来てしまえば、次なる地は朝鮮半島ということが想像できますね。

 そしていよいよ日本列島へという流れになりますが、日本列島へ伝播した時期は、宮本さんは紀元前8世紀(紀元前701年~800年)と考えており、佐倉の歴史民俗博物館は紀元前950年と発表しているわけです。

 さて、当然ながら栽培イネは自ら種を飛ばして日本列島へやってきたわけではなく、それは人の移動が伴いました。

 長江中下流域に居た民族が長い時間をかけて日本列島まで移動してきたのか、各地の民族が玉突きのような形で東へ向かったのか、大変興味がある問題です。

 人の移動は何の脈略もなく起こるものではないと考えられ、国家ができる前の段階では、そのきっかけは気候の変動とそれに伴う動植物相の変化や病気の蔓延などが考えられます。

 栽培イネが出身地を出発して山東半島まで来た時点では、中国大陸においてもまだ国家というものは誕生していません。

 中華人民共和国の公式の見解では、中国最初の王朝である夏(か)は紀元前2070年に発足したとしており、それよりも前の話です。

 となると、人のダイナミックな移動は伴わずに、隣あった文化同士の交流の中で栽培イネが伝播し、それが連続して発生して山東半島まで行ってしまったと考えることもできます。

 ところで、上述の宮本さんの説や歴博の説が出る前は、弥生時代の開始、つまり栽培イネの日本列島への伝播は紀元前5世紀とか4世紀とか言われていました。

 そうすると、人の移動と絡めた場合、非常に都合がよいのです。

 というのも、その当時は中国大陸では春秋時代にあたり、都市国家が激闘を繰り返しており、それによる難民や「落ち武者」のような王族もたくさん発生したからです。

 例えば、紀元前473年には呉が滅び、紀元前334年には呉のライバルだった越が滅び、これらの大国の滅亡によって多くの人びとが海を渡って日本列島へ逃れてきたことが想定でき、この人びとが日本列島に弥生文化を持ち込んだ可能性を提示できるからです。

 ところが、紀元前8世紀や10世紀だとそのような大きな戦乱が記録上認められず、強いて言えば、紀元前10世紀であれば、殷から周へ変わった時期に遠くもないので、その関連も考えることができるかもしれません。

 いったい何が契機となって栽培イネが日本列島に渡ったのか、非常に面白い問題ですが、戦争を原因とする人の移動でないとすると、やはり、隣り合った地域同士の交流で「良いもの」として取り入れていき、それが日本列島にまで到達したと考えるのが素直でしょう。

 ところで、紀元前2500年に山東半島まで到達した栽培イネは、その後、どのルートで日本列島に渡ってきたのでしょうか。

 それについては、かなり昔(戦前)から各説が提示され、現在は以下の説があります。

 1.山東半島から朝鮮半島へ渡り、朝鮮半島を南下して北部九州へ(もう一つの考えとして山東・遼東半島を経由せず華北から遼東半島の付け根から朝鮮半島へ渡ったという説もある)

 2.山東半島ではなく、長江の河口域から朝鮮半島南部と北部九州へそれぞれ直接渡った(半島南部から北部九州へも渡った)

 3.山東半島でも長江河口域でもなく、華南から台湾島へ渡り、琉球列島を北上した

 まず、3番に関しては現在支持する人は少ないようで、沖縄にはむしろ平安時代になってから九州から稲作が入っていったことが分かっています。

 2番は、上述した呉越の滅亡を結び付けると面白くなるのですが、考古学的見地からは比定されます。

 というのも、もしそうだとすると、江南地域と韓国もしくは九州で同じ系統の土器が出るなどの考古学的な証拠があるはずなのですが、そういうものは一つもないからです。

 となると、呉越の滅亡により日本の弥生時代が始まったというドラマティックな説も成り立たなくなりますね(ただし、弥生の「始まり」ではないとしても、日本の古代氏族の安曇氏は呉人の子孫との伝承があるので、何かしらの関係があると考え今後も探求していきます)。

 というわけで、宮本さんは1番の説を支持しています。

 あ、そろそろお昼なので、この続きはランチを食べてからにします。

 カップラーメンの「ねぎみその逸品」(ニュータッチ)が今日のランチです。

ニュータッチ 凄麺 人気ランキング12食セット タイプA
ヤマダイ
ヤマダイ


 今日も全然関係ないYouTubeをいくつか。

Evil Line/Coaltar of the Deepers


Star Love/Coaltar of the Deepers


Snow/Coaltar of the Deepers


Water Bird/Coaltar of the Deepers


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縄文時代はどうやってお嫁さんを見つけてきたのか?

2018-12-15 21:30:56 | 歴史コラム:原始
 18連勤が終わった後は、何と3連休なのです!

 もちろん、必要があって取った休みなのですが、少し歴史をする時間があります。

 昨日は古墳のことで頭が一杯でしたが、本日の夕方以降は弥生時代について考えていました。

 というのも、私は人前で話すときに、弥生時代の実年代について旧来の紀元前5世紀から弥生時代が始まるという説と、何かとエグイことを発表する国立歴史民俗博物館が提示する紀元前10世紀から始まるという2つの説を並べて紹介することが多いのですが、そろそろ自分でもどちらの説を採用するか決めないとお客様にも迷惑がかかるかもしれないなあと思い始め、いろいろと調べたり考察したりしていたのです。

 と、それはそれとして、弥生時代の特徴的な遺跡に環濠集落がありますよね。



 ※吉野ヶ里遺跡

 先日のクラツーでの関東古代史講座では関東地方の環濠集落の話をして、関東の環濠集落は昔の利根川より西側に存在し、とくに南関東においては東海人の影響が強いことを話しました。

 関東地方には弥生時代に「国」はできなかったと考えていますが、国以前の「勢力」のようなものがあって、土器の流れによってそれら「勢力」の盛衰について想像できると思います。

 さて、環濠集落は弥生時代が始まって間もなく、紀元前9世紀(と言っているところが歴博の年代観を採用したことを表明している!?)には福岡県福岡市に登場します(那珂遺跡)。

 環濠集落のルーツは中国大陸です。

 中国大陸もあれだけ広いですから、いくつもの文化圏があり、そのなかの渭河(日本では渭水と呼ばれることが多い)流域の文化圏で紀元前5000年くらいに生まれた仰韶文化の中で、紀元前4500年ころから造られ始めました。

 当時の中国人(随分アバウトな言い方ですが)がどうして環濠集落を造ったのかは分かりませんが、ちょうどその頃、ヒプシサーマル期と呼ばれる暖かい気候に移行している時期ですので、そういった気候の変動と関係があるでしょう。

 なお、その頃の日本列島は縄文前期にあたり、日本でも縄文海進というダイナミックな地形の変化が起こっている時期で、やがて中期になると大型集落がたくさん登場してきてバブリーな雰囲気になっていきます。

 このように環濠集落について調べるために手元の資料をいくつか参照していたころ、思いがけず、「半族」というものの説明が『中国の歴史01 神話から歴史へ』(宮本一夫/著)の中に出てきました。

神話から歴史へ(神話時代 夏王朝)
宮本 一夫
講談社


 半族というのは人類学で使われる言葉で、その字の通り、1つの集団が2つに分かれることです。

 これを読んですぐに思いついたのが、縄文前・中期に北東北から南北海道を覆った円筒式土器文化圏内のムラ内の建物配置です。

 当該文化圏内では三内丸山遺跡が有名ですね。

 普通、縄文時代の集落というと広場を中心にしてその周囲に環状に家を建てていた様子を想像すると思いますが、円筒式土器文化圏ではそういったイメージとは違っており、これまた先日の東北の縄文講座のときに説明したばかりでした。



 ※『北の縄文『円筒土器文化の世界』~三内丸山遺跡からの視点~』(北の縄文研究会/編)より転載

 でも、そのときは単に「違い」を説明しただけで、それ以上深い話はしなかったのですが、この配置はまさしく、半族ではないかと思ったのです。

 そしてこうして分かれている理由は、婚姻のためでもあったでしょう。

 以前から私は、縄文時代はどうやってお嫁さんを見つけたのか考えてきて、2つか3つくらいの家族しか住んでいない集落がむしろ普通で人口密度もかなり低いですから、もしかしたら兄妹などの近親婚で子供を産むケースもあったのではないかと思ったりもしましたが、円筒式文化圏の場合は、ムラの成員がある程度増えた場合、半族にしてそれぞれから配偶者を出してなるべく血が濃くならないように人為的にコントロールしていたのではないかと考えたのです。

 宮本さんの該書では、半族をさらに半族させ、4つの集団とすると安定すると述べられています。

 この「4つの集団」と「婚姻」というものをミックスした時に次に私の頭に浮かんだのが、東京都国立市の緑川東遺跡から出土した4本の石棒です。



 それぞれ1mもある巨大石棒で、くにたち郷土文化館で見れますよ。

 この遺跡については、先月の関東の縄文講座の時に説明したのですが、これらの石棒は4000年前(縄文後期)の敷石遺構から見つかりました。

 縄文後期には関東地方で敷石「住居」が頻繁に見つかるようになるのですが、「住居」ではなく「遺構」と呼んでいる理由は、床面積が3.2m×2.8mの偏円形で炉がないためです。

 大きさに関しては特段小さいとは思いませんが、炉がないので住居ではないとするのには反対もできません。

 それはそれとして、この石棒は4つあった各「半族」の象徴といえる物ではないでしょうか。

 この敷石遺構のなかで、各半族に関係する祭祀が行われていたのではないかと思いついたのです。

 もっと具体的に言うと、「結婚式」とか・・・

 というように、今日もまたとりとめもない話をしてしまいましたが、古代史はこうやっていろいろと想像できるところが本当に楽しいですね。

 ちなみに、緑川東遺跡からは関西系の土器が出土しており、土は地元のものらしいので、遠く関西地方からお嫁さんがやってきた可能性もありますよ。

 最後に全然関係ないですが、YouTubeを3本。

 Plastic Love/竹内 まりや



 Aquarian Age/Coaltar of the Deepers



 ラビリンス/MONDO GROSSO

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4世紀における東日本最大の権力者は甲府盆地にいた!/継体天皇は山梨出身か!?

2018-12-13 23:45:52 | 歴史コラム:古代
 しばらくブログの記事をアップしていませんでした。

 Facebookにはチョコチョコと書いているので無事は確認できると思いますが、先月の26日(月)から本日までクラツーとダスキンで18日間連続稼働だったこともあり、なかなかブログを書く余裕がありませんでした。

 なおかつ今は高尾幕府の移転の準備中で、その作業もこれからさらに忙しくなる状況になっています。

 上述の18日間の内、クラツーのツアーは3日催行し、座学も3日(計8本)やらせていただきました。

 それらについての報告もろくにできていなくて申し訳ありませんが、合計197名の皆様、ご参加ありがとうございました。

 それらのうち、12月1日(土)は山梨県の古代史ツアーをご案内しており、今月の23日も再度ご案内しますが、そこで探訪する甲府市の甲斐銚子塚古墳が気になって仕方がありません。



 ※甲斐銚子塚古墳

 甲斐銚子塚古墳の近くには岡銚子塚古墳もありますが、単に「銚子塚古墳」と呼んだ場合は甲斐銚子塚古墳のことを指します。



 ※岡銚子塚古墳

 今日はその銚子塚古墳について考えたことをチョロッとお伝えします。

 銚子塚古墳は墳丘長169mを誇る大型前方後円墳です。

 通説では4世紀後半に築造されたといわれており、私もツアーや講座ではそのように説明しているのですが、実は内心ではもっと古いのではないかと思っています。

 というのは、銚子塚からは東海系のS字甕という土器が見つかっており、S字甕は3世紀の古墳から見つかることがあるからです。

 ただ、S字甕も変遷があって、銚子塚から見つかったものは新しめのもので、赤塚次郎さんがC類としている、東海地方で松河戸様式が造られている頃のデザインです(Webサイト「S字甕研究室」)。

 そのC類が4世紀後半のものであれば、銚子塚も4世紀後半でいいのですが、比田井克仁さんは松河戸様式を4世紀前半に位置付けています(『関東における古墳出現期の変革』)。

 ただし、土器と実際の年代を対応させる際には、考古学者によって結構な違いが出てしまいますので、比田井さんの説を無条件に受け入れるのはよくないことかもしれませんが、私は銚子塚の築造時期は、4世紀前半で良いのではないかと思っています。

 その理由は、銚子塚古墳は以下の3点において景行天皇の墓といわれている奈良県天理市の渋谷向山古墳(310m)と類似性が確かめられるからです。

 1.墳丘長に占める後円部の割合(比率)がほぼ一緒(誤差の範囲)

 2.同じような場所に造り出し部分が存在する

 3.周溝の平面形が墳丘の相似形(ただし渋谷向山古墳は盾形の可能性もある)

 これらのうち特に大事なのは、1番と2番だと思います。



 ※渋谷向山古墳

 渋谷向山古墳は白石太一郎さんによると4世紀中葉の築造(『古墳からみた倭国の形成と展開』)ですので、4世紀中葉と言った場合は、西暦333年から366年くらいと考えられ、前半と言った場合は西暦301年から350年となるため、微妙な感じがしないでもないですが同時期と考えていいと思います。

 赤塚さんの上述のサイト上の編年を見ると、赤塚さんは銚子塚を4世紀初頭と考えているようで、そうすると渋谷向山よりも古くなってしまいます。

 なので、「そっちがそっちなら!」と意気込んで、渋谷向山古墳が4世紀初頭の築造である証拠を見つけようと思って資料を探してみますが・・・

 天皇陵ということもあって情報が少なすぎます。

 でも、通説では崇神天皇陵といわれている行燈山古墳のあとに渋谷向山古墳が造られた事になっていますが、順番が逆じゃないかという説もあるようです。

 ただし、きちんとした根拠を見つけるには至っていません。

 古墳を調べ始めると、このようにとりとめもない展開になってしまうことが多いのですが、銚子塚が4世紀前半の築造にしろ後半の築造にしろ、どちらの時代にしてもその当時、この被葬者は岐阜県より東側の東日本を代表する勢力であったことは確かです(宮城県名取市の雷神山古墳<168m>の被葬者が唯一銚子塚に匹敵する勢力となります)。

 そしてその銚子塚の被葬者が懇意にしていたのが景行天皇であり、『日本書紀』によると景行はヤマトタケルを東国に派遣してヤマトの与党を増やしたとありますが、ヤマトタケルが実在ではなかったとしても、『日本書紀』に描かれているとおり、東日本の勢力はこの時期に次々とヤマト王権の影響下に入って行ったことが考古学的に証拠立てることができ、『日本書紀』の信ぴょう性が高まるわけです。

 さて、銚子塚の面白い点をさらに2点お話しします。

 先述した東海系のS字甕が出る古墳は、通常は前方後方墳ですが、銚子塚は前方後円墳なので東海系勢力ではなくバリバリのヤマト勢力の墓なわけです。

 銚子塚の近くには山梨県内で唯一発見されている小平沢古墳(こびらさわこふん)という前方後方墳があり、そこからもS字甕が見つかっており、県内の他の遺跡からも東海系土器が見つかっていますので、山梨にも確実に東海系の勢力がやってきたことが分かります。

 銚子塚はその子孫の墓だと思われますが、ヤマトの勢力下に入ったあとも引き続き東海地方と通交があったために、S字甕の新しいヴァージョンを造っていたのでしょう。

 そしてもう一点ですが、銚子塚の形状は剣菱形と言われる前方部が少し尖った形であったことが分かっています。

 剣菱形前方後円墳は、古墳時代後期にいくつか見ることができますがかなりの少数派です。

 関東では、栃木県宇都宮市の塚山古墳(5世紀後半・98m)や埼玉県行田市の埼玉古墳群にある瓦塚古墳(6世紀前半・73m)も剣菱形と言われおり、6世紀最大の前方後円墳(318m)で欽明天皇の墓の可能性がある見瀬(五条野)丸山古墳も剣菱形の可能性があります。



 ※見瀬丸山古墳

 なお、継体天皇の墓とされる今城塚古墳(6世紀前半・190m)もかつては剣菱形だと思われていましたが、調査の結果、そう見えるのは地震による墳丘の盛土の滑落のためだということが分かっています。

 この珍しい形状をしていることも面白いですが、普通は古墳時代後期に出てくる形状なのに、それをいち早く4世紀に採用しているということで、剣菱形のルーツっていったいどこなのか?という話に発展するわけです。

 下手すると、欽明天皇の墓の形状のルーツは甲府の王の墓だった!ということになりかねないのです。

 欽明天皇は継体天皇の息子で、継体天皇は出自が謎で北陸と言われることが多いですが、実は山梨だったりして・・・

 みたいなエグイ話に発展するかもしれません。

 嗚呼、やっぱりとりとめなくなってきました。

 この辺でやめておこうと思いますが、最後にお知らせです。

 今年最後のクラツーの講座が12月17日(月)にあります。

 「古墳の基礎知識と楽しみ方」と「律令国家の基礎知識と遺跡の楽しみ方」という2本の講座です。

 もしご興味がありましたら、以下のクラツーの公式サイトをご覧ください。

 ⇒「古墳の基礎知識と楽しみ方」講座はこちら

 ⇒「律令国家の基礎知識と遺跡の楽しみ方」講座はこちら

 さて、今日は珍しく夜更かししてしまいました。

 もう寝ます。

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