goo blog サービス終了のお知らせ 

SENgoKU anD VISIon -乱世を追う-

戦国・江戸時代 武将 甲冑・刀剣・茶道具 博物館・美術館・城・茶室などを巡る拝見記。その他の雑記もあり。

1504 加賀本多博物館 大坂の陣 本多政重と加賀藩

2015-05-29 | 探訪
お次も金沢
009_001
藩老本多蔵品館
では無く、
008
加賀本多博物館 
4月に名称と場所を変更してリニューアルオープンしたそうで、初入館となります
006_001
記念特別展「大坂の陣 本多政重と加賀藩」
期間:4月17日(金)~6月28日(日)
honda
大坂の陣図屏風
六曲一隻、江戸後期の作品。主に夏の陣の様子を描いているが一部冬の陣の様子も見られる。
夏の陣最後の戦いとなった天王子・岡山合戦が描かれており、そこには本多政重の家紋である立ち葵紋の旗印がみられる。
本多正純書状
十二月十四日付、本多政重宛。大坂冬の陣で真田丸に籠もり幕府方を撃退した真田幸村を調略するよう正純より弟の政重へ指示した内容。これより前に幸村の叔父・真田信尹が単独で調略を行なった様だが失敗に終わり、今度は真田信尹と政重が共同で工作する様に伝えているのだが、本多政重が参加した意図は何故なのか不明です。

この他の展示より

本多政重所用 色々威二枚胴具足
兜は黒漆塗の頭形兜、頬当には大きな鷲鼻が付く。
本多政重が宇喜多秀家の家臣として参加した関ヶ原の戦いで着用したと伝わります。

さてさて新しい場所に移った訳ですが少々手狭に感じました。特に以前の2階にあった中央の大きな展示場所は結構見応えがあったので残念です。 

1504 石川県立美術館 百万石の名宝

2015-05-24 | 探訪
今回からは金沢シリーズ
003
石川県立美術館
002_001
加賀前田家 百万石の名宝 -尊經閣文庫の名品を中心に-
期間:4月24日(金)~6月7日(日) 
「加賀藩前田家が収集し、公益財団法人前田育徳会が管理する国宝15点、重要文化財35点を含む役130点の美術工芸や文書典籍の名品を一挙公開します。」(公式より)
kaga100
前田利家所用 刺繍菊鍾馗図陣羽織 
前に菊花、後に鍾馗を刺繍した陣羽織で利家の正室・芳春院(まつ)のお手製とされる。
天正十三年(1585)越中の佐々成政を攻める羽柴秀吉を松任に出迎えた利家が着用していたと伝える。
前田利家所用 鍾馗図幟  
縦3m62cm横1m63cmと長大な幟旗で、鍾馗図は狩野永徳筆とされる。
天正十二年(1584)佐々成政との末森合戦で利家が使用し、戦功のあった奥村永福に恩賞として与えた。
太刀 銘 光世作(名物大典太) 附・革包太刀拵
国宝。平安後期、筑後三池の刀工・典太光世の作。「天下五剣」のひとつで足利尊氏以来、足利将軍家に伝来した。
足利義昭より豊臣秀吉へ譲られ、秀吉から前田利家へ与えられた。
附属の革包太刀拵は茶色の皺革包で萌黄の糸巻きが施されており、前田利常が本阿弥光甫に作らせたとされています。
刀 無銘 正宗(名物太郎作正宗)
国宝。相模の刀工・五郎入道正宗の作。
三河・刈谷城主水野信元が所持し、その子・水野太郎作正重に伝わった。名称はこの正重が所持していた所から付けられている。その後正重から徳川秀忠へ献上され、徳川家光より養女・大姫が前田光高へ輿入れの際に引出物として下賜された。
刀 無銘 義弘(名物富田郷)
国宝。南北朝時代の刀工・郷義弘の作。
信長・秀吉の家臣であった富田一白が所持した事から富田郷と呼ばれる。
その後に堀秀政が金16枚で購入し秀吉に献じたとされる。秀吉より一時期甥の秀次へ渡っていたが、後に秀吉の下へ戻り、秀吉の死後に遺品として前田利長へ下賜された。
後水尾天皇御宸翰 忍 
「忍」の一字を大字で書いた一幅。後水尾天皇はこの一字を好んで書いたようで京の実相院や修学院離宮などにも遺されている。
こちらは後水尾天皇より前田利常に贈られたもので、徳川幕府よりの様々な圧力を受けた両者の心情を表しているように見受けられます。
龍虎図 狩野探幽筆
水墨により竜虎の対峙を描いた作品。十分な余白をとりながら様々な技法を駆使し龍と虎が相対する場面を法眼時代の探幽は巧みに表現しています。
前田利常書状  小堀遠州勘返
卯月二十四日付。利常の茶の湯に関する問いに、遠州が返答を直接書き込んで返した書状。
この書状以外にも茶の湯に関する利常と遠州のやり取りが複数伝わっており、遠州を信頼する利常の姿がみられます。
大井戸茶碗 銘 福嶋
大名物。胴部に轆轤目が走り、全体は穏やかな形の大井戸茶碗。福嶋正則が所持したことから銘が付く。
「井戸茶碗 福嶋」と前田利常が箱書きをしている。

この他、前田利家の甲冑や利長の兜、茄子茶入 銘 富士(附:利休茶約)、雪舟筆の四季花鳥図屏風、一休墨蹟、松花堂昭乗筆の葡萄図等々前田家伝来の名品が拝見できました。
特に大典太以下の国宝三振が揃って展示されたのは39年振り!との事で眼福でした。
 

湯木美術館 千家歴代と樂歴代の茶道具

2015-05-20 | 探訪
続いても大阪
055
湯木美術館
056
春季展「千家歴代と樂歴代の茶道具 ―利休のデザインと展開―」
期間:1月6日(火)~3月29日(日)

前・後期拝見しました
yuki1503
黒筒茶碗 銘キリキリス 長次郎作 
長次郎としては数の少ない筒形の茶碗。厚造りで腰は強く張っている。胴には縦に箆目がある。
千宗旦が「キリキリす(花押)」と箱書している。
信楽鬼桶水指
上に開いた形の水指で、口は楕円。胎土は長石を含んで荒く、自然釉が部分的に黄色く溶けて景色となる。
千宗旦の箱書より武野紹鴎、清水道閑所持であった事が分かる。
黒大棗 利休在判
黒大棗 丿貫在判

利休在判のものは、肩が張り四角に近い姿で薄造。丿貫在判は肩に丸みがあり厚手である。利休と丿貫は親交があったものの対極に位置するような人物でしたが、棗も違いがあったようです。 
 

1503 藤田美術館 組むたのしみ

2015-05-16 | 探訪
大阪
007_001
藤田美術館
006
組むたのしみ
期間:3月7日(土) ~ 6月14日(日) 
fujita1503
茶杓 銘 東方朔 / 藤の裏葉 千利休作
櫂先が急角度に曲げられ蟻腰。珍しい2つの銘(東方朔 と 藤の裏葉)を持つ茶杓。
江月宗玩の書付によれば、竹田にて利休が秀吉へ献上した茶杓で、後に伏見にて秀吉より連歌師の里村紹巴へ与えられた。
利休尺牘 雪の文 千利休筆
十一月一日付。宛名は不明の手紙で茶会の招待状となっている。
「昨日より今日も雪、目を驚かし申候」と利休の素直な心情が記されている。
布袋茶箱
小堀遠州所持の茶箱。唐物文淋茶入や象牙茶杓など豪華な内容が組まれているが、最も豪華なのは箱自体で松花堂昭乗の布袋の絵と江月宗玩の漢詩が蒔絵で表されている。
おそらく昭乗と江月より遠州への贈り物であったのかも。 

1503 大阪城天守閣 豊臣と徳川

2015-05-12 | 探訪
今回は大阪
002_001
大阪城天守閣
004_002
大坂の陣400年記念特別展「豊臣と徳川」
期間:3月21日(土)~5月10日(日)
toyotoku
前田利家所用 萌黄糸威二枚胴
全体金箔押の伊予札二枚胴の鎧。前田利家所用の具足(金小札白糸素懸威胴丸具足)に似ているが胸板の形状等違いが見られる。前田利家より津田遠江重久が拝領した。
津田重久は明智光秀の家臣で、本能寺の変でも活躍。織田信長旧蔵の太刀(津田遠江長光)を光秀より拝領している。その後は豊臣氏、前田氏と仕えている。 
木村重成所用 大身槍 銘 長門守
刀長55.3cm。室町時代備前長船忠光の作。
木村重成は豊臣秀頼の家臣。大坂夏の陣・若江合戦で井伊直孝の軍勢と戦い戦死した。
松平忠直所用 兜蓑
松平忠直が兜につけて用いた「赤熊」と呼ばれる赤毛の引き廻し。
忠直が豊後・熊野神社に寛永10年(1633)奉納したとされる。
松平忠直は結城秀康の嫡男。大坂夏の陣最後の戦い(天王寺・岡山合戦)では忠直の軍勢が真田信繁を討ち取り、大坂城一番乗りを果たすなど一番の戦功を挙げている。
しかし思ったような恩賞を得られなかった事から、次第に幕府に反抗的な態度をとり豊後に配流となった。 

1503 名古屋市博物館 エピソードでたどる 書の散歩道

2015-05-07 | 探訪
名古屋
008_001
名古屋市博物館 
014_001
エピソードでたどる 書の散歩道
期間:2月28日(土)~4月5日(日)
nagoya1503
森長可遺言状
尾藤知宣宛、天正十二年三月二十六日付。秀吉の家臣であった尾藤知宣に自分の死の後の遺品配分や家族の処遇を依頼する内容。この時期は秀吉と織田信雄・徳川家康連合との間で小牧・長久手の戦いが行なわれており森長可は秀吉方として戦っていた。この手紙が書かれる直前に羽黒の戦いで敗戦を喫していた長可は次ぎの戦に不退転の決意で挑む覚悟があり、この様な手紙を残したと思われる。実際この十日後に三河中入りを決行し討死している。
森長可は父と兄を早くに戦で亡くし、弟3人も本能寺の変で失っている。書状では末弟・千丸(後の忠政)に自分の跡を継がせるのは嫌がっており、2ヵ所も「いやにて候」と記されているのが印象的。
本阿弥光悦書状巻
1巻(20通のうち3通)前田利政宛。関ヶ原の戦いの後、所領を没収され京都嵯峨に隠棲していた前田利政宛の書状。「中風で不自由しています」「病気をお見舞いくださり」「寄る年波には勝てず」といった内容で、実際に字の乱れ等が見られ病に苦しむ光悦の姿がそこにあります。
連歌懐紙「第二 船」 近衛信尹等寄合書
百韻連歌を近衛信尹が記したもの。所々信尹以外の人物が記しているそう。
参加者は、発句を後陽成天皇、脇を信尹が、他には八条宮智仁・聖護院道澄・西洞院時慶・飛鳥井雅庸など。
松花堂昭乗起請文
竹腰正信宛、寛永十五年五月十日付。
寛永十五年(1638)の松花堂昭乗は前年瀧本坊住職を退き、江月宗玩とともに奈良吉野へ旅するなど悠々自適の生活をおくっていた。しかし尾張より善からぬ噂が聞こえてくる、それは昭乗が養福院清心なるものから古筆を騙し取ったとされるもので、昭乗は見せてもらった事も一行たりとも貰った事がないと否定し、このことが大納言様(尾張藩・徳川義直)に知れたら死んでも死にきれないと記している。
富士山図并和歌 烏丸光広筆
富士山と「黄葉集」より和歌「おのれのみ富士の根かくや~」を記している。光広は東行記でも富士山を描いており好んで描いていたようだ。
012
勝海舟所用 椅子 
木・藤製。晩年の海舟が使用し、次女の疋田孝子に譲られた。 (写真のもの、掛軸も海舟筆)
 

1503 三重県総合博物館 親鸞 高田本山専修寺の至宝

2015-05-03 | 探訪
今回も津
005
三重県総合博物館
004-222_001
親鸞 高田本山専修寺の至宝
期間:3月21日(土)~5月10日(日)
shinran_A4
竹一重筒花入
節が上下2ヶ所にあり、割れのため表裏2ヶ所ずつ鎹で留められている。
裏に銀文字で「古織 重然(花押)と書かれている。
竹茶杓
幅広で櫂先はゆったりと曲げられている。箱書きにより瀬田掃部作である事が分かる。
四方釜 
京の釜師・西村道仁の作。正面に「大黒庵」の文字が鋳出されている。
武野紹鴎所持。
楽水指 銘「烏柿」 道入作
荒れ肌で蓋付の水指。濃赤の釉より熟柿を、ひび割れを繕った黒漆を烏に見立て銘が付いた。
利休弟子七人衆 
専修寺の住職は第17世圓猷上人より茶道宗旦古流の家元も兼ねる茶人でもあったそうで、上記の茶道具も残された茶会記より使用していた事が分かる。掛軸の「利休弟子七人衆」は利休の弟子とされる7人を記したものだが、通常の七哲とはやや人物を異にしている。
紹介すると「古田織部」「瀬田掃部」「細川忠興」の3人は同じだが、他の4人が「金森出雲守長近」これは金森長近だが、出雲守は称していない。おそらく養子の金森可重と混同しているのだろう。次に「蒲生飛騨守秀行」 だが、これは利休七哲に数えられる父・蒲生氏郷と間違っていると思われる。残りの2人は「小堀遠州」「佐久間将監」で利休の弟子ではない。

今回の展覧会のメインは専修寺に伝わる親鸞関係の品。なかでも親鸞筆の国宝・西方指南抄や三帖和讃ですが、茶道具も展示があり私はこちらがメインで拝見しました。一度専修寺の宝物館にも行ってみたいと思いました。
 

1503 石水博物館 津観音大宝院の歴史と美術

2015-05-02 | 探訪
今回は三重県津市
001_001
石水博物館
002
企画展「津観音大宝院の歴史と美術」
期間:3/13(金)~5/17(日)
「「津の観音さん」と親しまれ、古くより多くの信仰を集めてきた津観音(恵日山観音寺)大宝院は、津市大門にある真言宗の古刹です。津観音の歴史は和銅2年(709)にまで遡ると伝わり、1300年もの間庶民の心のよりどころとしてあり続けてきました。大宝院はその本坊で、文安元年(1444)に開創し、長い歴史とともに貴重な文化財が、歴代院家によって引き継がれてきました。本展では、近年三重県および津市の文化財指定を受けた寺宝を中心に、同寺に伝わった貴重な密教美術をはじめ、地元津に関係が深い歴史資料、近世絵画や工芸、茶道具などを公開します。」(公式より)
tu1503
羽柴秀吉書状
大宝坊宛、六月十二日付。天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの最中、秀吉の陣中に見舞いの品を届けた大宝坊への礼状。
白衣観音像  狩野探幽筆
岩の上に悠然と座る観音の姿を描いた作品。背景には大きな円光のみを表し瀟洒な表現となっている。
「法印探幽行年六十七歳筆」の落款がある事から寛文8年(1663)の作と分かる。
探幽は狩野永徳の次男・孝信の子で母親は佐々成政の娘と伝わる。探幽は茶の湯とも関係が深く大名物の種村肩衝を所持しており、茶釜の下絵を手掛けている。
千利休書状
松井友閑宛、十月廿一日付。堺代官・松井友閑に宛てた手紙。内容は大墨屋が虚堂墨蹟を持ってきた事。立村の井戸茶碗は未だ見ていない事。暇がなく伺えないが忘れてはいませんと伝えている。
古田織部書状
横浜一庵宛、六月一日付。横浜一庵より直衣を貰った事への礼状。
横浜一庵は豊臣秀長の家臣。娘のひとりが小堀遠州の父で同じく豊臣秀長の家臣であった小堀正次の側室になっている。一庵は慶長元年(1596)の大地震で亡くなっているので、この書状はそれ以前のもの。

石水博物館は川喜田半泥子の作品を収蔵・展示していますが、現在は巡回展の最中。なので津観音大宝院の宝物の展示となったのでしょうか。展示室はあまり広くないので、次回機会があれば津観音に行って他の宝物も拝見してみたいと思いました。