ラミーユ浦和 活き活きクラブ

わたしたちは60歳以上のシニアのグループです。ブログを通じて「絆」を強めて行こうと開設しました。

南鴻沼遺跡の発掘その1

2013-07-19 | 情報

H25-7-17土合公民館の「地域と自然と歴史を学ぶ講座:南鴻沼遺跡の発掘調査」を受講しました。定員が50名の教室が、中高年の方々でほぼ満席の盛況でした。

さいたま市教育委員会文化財保護課々長小倉均氏による、H23~H24年に実施された発掘調査の詳しい内容の講義でした。

遺跡は建設工事中の市道町谷本太線がさいたま市役所から大宮バイパス方面に向かって真っすぐ延びた、新幹線・埼京線高架の少し手前、鴻沼川近くの建設工事現場です。中央区大戸1丁目あたりで、近くには大戸貝塚遺跡があります。

遺跡では今から約4000年前の縄文時代後期の丸木舟や土器などが多数見つかったそうです。

この辺りは大宮台地であり、何故丸木舟があったのか疑問に思いましたが、同じシリーズの講座「鴻沼と見沼低地の自然と歴史を探る」(H23-1-15)の資料「関東平野の古地理変遷」によると、

①縄文時代早期(約7000年前)地球温暖化に伴い氷河が融け、急速に海面上昇が起こり、縄文の海が荒川低地や見沼低地に進入してきた。

②縄文時代前期(約6000年~5500年前)には縄文の海が進んで、海岸線が荒川低地では川越付近まで、見沼低地では大宮の寿能付近まで達した。

③縄文時代後期~弥生時代には縄文の海は次第に低下していった。

とありますので、縄文時代後期は縄文の海が低下して、海岸線が下がった後、低地に残った水溜り(沼)や川があった湿地帯で、生活をするには舟を必要としたからではないかとおもわれます。

また、同じ資料の中の国土地理院「大地条件図大宮」の微地形区分図を見ると、遺跡の辺りは台地の中でも浅い谷であったことが分かります。

つづく

                                               ひろちゃん

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