合気拳法 猿田会

新しく誕生した合気道の拳法
静岡県伊東市にて活動中

何処で触る?

2011-08-30 05:50:50 | 日記
よく合気道では持たれるのではなく持たせる、打たれるのではなく打たせると云われる。

これは分かるようで良く分からない。

単なる心構えの問題なのか?

私が思うに相手が持って来るにせよ打って来るにせよ相手と自分が接触する空間位置をこちらが設定(誘導)する事が持たせる事であり打たせる事になる。

(勿論これは組手での話、相手は思い通りに動いてはくれない)

接触する瞬間は何もしないけれど接触する空間位置はこちらが設定する。

その時に相手を吸収できる骨格と筋肉のバランスを保つ(ニュートラルにする)。

それを空間そのものを操作すると言う人もいる。

確かにそうかもしれない、空間認識能力は必要でそれには開祖の本を読むのが一番。

万象先生の足跡 その3(続き)

2011-08-28 10:39:41 | 一隅を照らす
大正十一年十月召集解除、陸軍砲兵少尉として除隊した清水青年は、はやる心を抑えて中断していた古流武術の修行に、黒田道場高岡彌平先生の門を再び叩いた。高岡彌平先生は既に齢七十三歳であったが、益々矍鑠(カクシャク)として広く信望を集めていた。軍隊帰りの青年将校清水少尉を迎えて、良き後継者を得た高岡先生は心から喜び、精魂こめてそのもてる技を注ぎ込むのである。

黒田道場には以前多くの人達が入門していたが、嗣子正義氏が不在されたことも起因して一時寂れ、これらの門下生の足も遠のき、稽古も下火になっていた。そこへ烈々たる執念を燃して軍隊から帰ってきた清水少尉の古流武術修行の気魄に、これら先輩諸氏もふるい立たされ、再び道場は活気を取り戻し、稽古にも熱気を帯びた。この頃の清水青年の修行は、富山県庁勤務であったが、昼休みは武徳会で弓術修行、午後の勤務が終るとそのまま黒田道場に通い、午後九時頃一旦食事のため帰宅してまた道場に出かけ修行し、午前二時頃帰宅する毎日であったという。後年、万象先生は父治之先生のこと及び黒田道場へ通った徃時を回想し、「父は約五尺五寸、この頃の人にしては長身で痩形であった。私の小さい頃はよくそこへ坐れと言って説教されたものです。そして正月二日には必ず自身の篆刻の彫り初めが終ったあと、竹や蘭等の墨絵を指導もしてくれたものだが、私は古武術に夢中だったのでその指導にも身が入らずものにはならなかった。いまふりかえって考えるとその頃の父の気持ち
がわかるような気がする。父は特に蟹の水墨画が得意で筆を使わないで人差指に墨をつけてさらさらと画いたものだが誠に見事なものであった。私は多久間流を習っていた頃、毎日夕方から道場へ通って、午後九時過ぎに一旦帰り、また出かけて午前二時頃に帰宅するのだが、父はそれよりも遅くまで起きていて自分の仕事に精出していたものです。」と、門弟に語っている。まさに、この父にしてこの子あり、その頃の清水家の光景が想像される。清水青年は、このような武術の家柄と父治之氏の藝道に対する情熱を受け継ぎ、武術の本流である古流武術にとりつかれ、老師高岡彌平先生の胸を借りて、只管修行に邁進するのであった。

万象先生は各地の奉納演武や古流武術大会において門弟を相手に多久間流の柔術を演武するときには、必ず「向詰(ムコウヅメ)」という形を加えられたが、この形は高岡先生と技の研究に励んでいたある日、この技を先生に掛けると先生は「来たっ。来たっ。」といってパッと受身をされた。その瞬間、万象先生が技の真髄を開眼されたという最も強烈な感銘深い技である。明治四十五年目録、大正五年免許、大正十四年八月吉日遂に高岡彌平先生からその持てる技すべてを伝授された清水青年は、四心多久間見日流和術を初め含む。)、民彌流居合術の免許皆傳を印可された。齢二十六の時である。

なお、先生はその前年の大正十三年秋、治之先生の水墨画の門弟であった若林東助氏次女雪枝氏と結婚、新居を星井町四ツ家に設けられ、大正十五年一月長男矩之氏が出生されている。

その後も引き続き黒田道場において高岡先生の高弟として古流武術修行にいそしんでいたが、武術の真髄を探求してやまない清水青年は、多久間流の柔術に隠し技として形ばかり残されている当身技について研究の必要性を痛感していた。

万象先生の足跡 その3

2011-08-28 10:27:26 | 一隅を照らす
一隅を照らす 第二節 万象先生の足跡 10ページ

(三) 古流武術修行

当時、富山市内には中教院に四心多久間見日流和術(以下多久間流と称する。)及び改心流剣術を中心に教える黒田道場、木町には天神真楊流柔術と小野派一刀流剣術を教えている吉田道場があり、ともに富山藩伝来の古流の武術を教えていることで有名であった。

柔道に疑問を感じた清水少年は、まさに亡びゆかんとするこの古流武術に目をつけ、富山藩のみに伝わる多久間流を教えている黒田道場を選んだ。黒田道場は振武館と称し、当時富山藩士だった黒田正好先生は既に亡く、正郡先生の代になり、正好先生高弟の高岡彌平先生が正郡先生の後見役として姿を見せ指導されていた。黒田道場に入門して高岡彌平先生に多久間流和術の手ほどきを受けた清水青年は今までの疑問が一挙に解決した。これが武術というものだ、と。これから柔道修行を止め、本格的な古流武術修行にのめりこんでいくのである。

しかし折角始めた修行も現役召集により修行中断のやむなきに至る。大正十一年、二十二歳の清水少年は甲種勤務演習のため金沢砲兵二十二連隊に召集されたが、原隊がシベリヤ出兵中のため、甲種勤務教育としてさらに京都の代二十二連隊に配属された。この機会に念願の馬術を存分に修行したことは言うを俟たない。この頃、面白いエピソードがある。(以下昭和五十二年三月の武道新聞に掲載された)

伊吹山は琵琶湖の西側湖畔へ稜線をひろげ、その山麓一帯に陸軍の実弾射撃場があった。折しも実弾射撃訓練を終えて世間話に興じている清水見習士官ら五人のところへ、中学時代の先輩に当る中尉が近寄って来た。そして、「おい貴様ら、これから散歩だ。」と五人を湖畔に引率した。湖畔には澄み切った水面に突堤が足を伸ばし、折から荷揚された四斗俵が突堤上に積み上げられていた。中尉はこれに目をつけ、「これから盤持ちの力比べだ。」と、最も小柄な清水見習士官を除いて他の四人に次々と指命して持ち上げさせた。が、いずれも途中で力尽き失敗した。この四人の見習士官はいずれも野砲兵に選ばれるだけあって六尺豊かな巨漢そろいである。中尉は最後に残った小柄な清水見習士官を見て、「清水、やれるかな・・・・・・。」と、口ごもった。時到る。前に出た清水見習士官は、四斗俵に手をかけるや否や、ひょいっと、両手高々と頭上に差上げたのであった。

まさかこの小柄な清水見習士官にできると思っていなかった中尉は他の四人とともにあっけにとられ声も出なかった。一ときおいて、拍子抜けした声で、「おい、皆んな帰ろう・・・・・・。」と呟きながら、あたふたと引き揚げたのである。かつて、富山中学校時代、後柔道で名をはせた強豪志甫周平氏等とともに柔道修行の一環として、校庭にあった力石を競って差上げながら、足・腰・腕力を鍛え、遂に卒業の年(十八歳)には7斗俵(二十八貫)を差上げていた清水見習士官にとって四斗俵位はなんでもなかったのである。しかしながら、力技の発揮もこれが最後となった。古流柔術の修行に入ってからは高岡先生の技の前には力技の無力を徹底的に教えこまれることになるのである。

組手は後ろ業のつもりで

2011-08-21 06:27:32 | 日記
組手でそもそもどう相手と対すれば良いのか?分からないと思う。

合気道の場合は後ろ業のつもりで相手に対すると良い。

そうすれば取り敢えず足が止まる事はない。

止まらなければその人の実力なりの遣りようが出てくる。

もっと具体的な理由は幾つかあるのだがここでは割愛する。

万象先生の足跡 その2

2011-08-19 21:22:13 | 一隅を照らす
一隅を照らす 第二節 万象先生の足跡 8ページ

(二) 武術への道

武術は少年期、父治之先生から吉田流弓術の手ほどきを受け、その修行は一生続くのであるが、これが万象先生の古流武術探究のきっかけとなった。

小学校に入って間もなく、さらに柔道に憧れ、毎朝父治之先生の枕もとに坐りこんで頼みに頼んだという。漸く許され、当時総曲輪にあった大日本武徳会富山支部柔道主任教授吉野伴治先生に師事する。大きい上級生や大人達ばかりが相手であったので投げられる毎日であったが、そのうち要領を体得、投げられようとする瞬間、相手の帯又は身体を支点として体を捌き、決して投げられることがない自信がつき、また、背負投を得意とし、小柄な身体とバネを生かし相当な猛者をも豪快に投げ飛ばし口惜しがらせた。

その後、県立富山中学校に進学した清水少年は、剣道を選び中川・古賀両師に学んだ。しかしながら、帰校後は引き続き、武徳会に通って柔道の修行を続けていた。大正九年八月主任教授の薦めにより、京都武徳殿において昇段試験を受け、柔道初段を允許された。当時、柔道初段は極めて栄誉な時代であり、新聞にニュースとして報道されたものである。

この間、大正八年徴兵検査で甲種合格、翌九年二月富山県に就職、十二月一年志願兵として金沢野砲兵連隊に入隊、同十年十一月予備役に編入陸軍伍長として除隊、再び県内内務部に復帰した。

少年期の清水少年は柔道の修行に専念しつつ、柔道というものに武術としての疑問を感じ初めていた。

○自分のような小兵の者でも鍛練によって誰からも投げられない方法がある。

○しかし、小兵の者が大兵の者を投げて勝つには技が限定される。

○当身技や関節技はあるにはあるが、これも制限されている。

○従って、柔道ではなんといっても大兵の者が有利である。

○武術というものは、身体の大小に拘らず、敵に勝つことを訓練する術ではなかったか。