合気拳法 猿田会

新しく誕生した合気道の拳法
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万象先生の足跡 その3

2011-08-28 10:27:26 | 一隅を照らす
一隅を照らす 第二節 万象先生の足跡 10ページ

(三) 古流武術修行

当時、富山市内には中教院に四心多久間見日流和術(以下多久間流と称する。)及び改心流剣術を中心に教える黒田道場、木町には天神真楊流柔術と小野派一刀流剣術を教えている吉田道場があり、ともに富山藩伝来の古流の武術を教えていることで有名であった。

柔道に疑問を感じた清水少年は、まさに亡びゆかんとするこの古流武術に目をつけ、富山藩のみに伝わる多久間流を教えている黒田道場を選んだ。黒田道場は振武館と称し、当時富山藩士だった黒田正好先生は既に亡く、正郡先生の代になり、正好先生高弟の高岡彌平先生が正郡先生の後見役として姿を見せ指導されていた。黒田道場に入門して高岡彌平先生に多久間流和術の手ほどきを受けた清水青年は今までの疑問が一挙に解決した。これが武術というものだ、と。これから柔道修行を止め、本格的な古流武術修行にのめりこんでいくのである。

しかし折角始めた修行も現役召集により修行中断のやむなきに至る。大正十一年、二十二歳の清水少年は甲種勤務演習のため金沢砲兵二十二連隊に召集されたが、原隊がシベリヤ出兵中のため、甲種勤務教育としてさらに京都の代二十二連隊に配属された。この機会に念願の馬術を存分に修行したことは言うを俟たない。この頃、面白いエピソードがある。(以下昭和五十二年三月の武道新聞に掲載された)

伊吹山は琵琶湖の西側湖畔へ稜線をひろげ、その山麓一帯に陸軍の実弾射撃場があった。折しも実弾射撃訓練を終えて世間話に興じている清水見習士官ら五人のところへ、中学時代の先輩に当る中尉が近寄って来た。そして、「おい貴様ら、これから散歩だ。」と五人を湖畔に引率した。湖畔には澄み切った水面に突堤が足を伸ばし、折から荷揚された四斗俵が突堤上に積み上げられていた。中尉はこれに目をつけ、「これから盤持ちの力比べだ。」と、最も小柄な清水見習士官を除いて他の四人に次々と指命して持ち上げさせた。が、いずれも途中で力尽き失敗した。この四人の見習士官はいずれも野砲兵に選ばれるだけあって六尺豊かな巨漢そろいである。中尉は最後に残った小柄な清水見習士官を見て、「清水、やれるかな・・・・・・。」と、口ごもった。時到る。前に出た清水見習士官は、四斗俵に手をかけるや否や、ひょいっと、両手高々と頭上に差上げたのであった。

まさかこの小柄な清水見習士官にできると思っていなかった中尉は他の四人とともにあっけにとられ声も出なかった。一ときおいて、拍子抜けした声で、「おい、皆んな帰ろう・・・・・・。」と呟きながら、あたふたと引き揚げたのである。かつて、富山中学校時代、後柔道で名をはせた強豪志甫周平氏等とともに柔道修行の一環として、校庭にあった力石を競って差上げながら、足・腰・腕力を鍛え、遂に卒業の年(十八歳)には7斗俵(二十八貫)を差上げていた清水見習士官にとって四斗俵位はなんでもなかったのである。しかしながら、力技の発揮もこれが最後となった。古流柔術の修行に入ってからは高岡先生の技の前には力技の無力を徹底的に教えこまれることになるのである。

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