大正十一年十月召集解除、陸軍砲兵少尉として除隊した清水青年は、はやる心を抑えて中断していた古流武術の修行に、黒田道場高岡彌平先生の門を再び叩いた。高岡彌平先生は既に齢七十三歳であったが、益々矍鑠(カクシャク)として広く信望を集めていた。軍隊帰りの青年将校清水少尉を迎えて、良き後継者を得た高岡先生は心から喜び、精魂こめてそのもてる技を注ぎ込むのである。
黒田道場には以前多くの人達が入門していたが、嗣子正義氏が不在されたことも起因して一時寂れ、これらの門下生の足も遠のき、稽古も下火になっていた。そこへ烈々たる執念を燃して軍隊から帰ってきた清水少尉の古流武術修行の気魄に、これら先輩諸氏もふるい立たされ、再び道場は活気を取り戻し、稽古にも熱気を帯びた。この頃の清水青年の修行は、富山県庁勤務であったが、昼休みは武徳会で弓術修行、午後の勤務が終るとそのまま黒田道場に通い、午後九時頃一旦食事のため帰宅してまた道場に出かけ修行し、午前二時頃帰宅する毎日であったという。後年、万象先生は父治之先生のこと及び黒田道場へ通った徃時を回想し、「父は約五尺五寸、この頃の人にしては長身で痩形であった。私の小さい頃はよくそこへ坐れと言って説教されたものです。そして正月二日には必ず自身の篆刻の彫り初めが終ったあと、竹や蘭等の墨絵を指導もしてくれたものだが、私は古武術に夢中だったのでその指導にも身が入らずものにはならなかった。いまふりかえって考えるとその頃の父の気持ち
がわかるような気がする。父は特に蟹の水墨画が得意で筆を使わないで人差指に墨をつけてさらさらと画いたものだが誠に見事なものであった。私は多久間流を習っていた頃、毎日夕方から道場へ通って、午後九時過ぎに一旦帰り、また出かけて午前二時頃に帰宅するのだが、父はそれよりも遅くまで起きていて自分の仕事に精出していたものです。」と、門弟に語っている。まさに、この父にしてこの子あり、その頃の清水家の光景が想像される。清水青年は、このような武術の家柄と父治之氏の藝道に対する情熱を受け継ぎ、武術の本流である古流武術にとりつかれ、老師高岡彌平先生の胸を借りて、只管修行に邁進するのであった。
万象先生は各地の奉納演武や古流武術大会において門弟を相手に多久間流の柔術を演武するときには、必ず「向詰(ムコウヅメ)」という形を加えられたが、この形は高岡先生と技の研究に励んでいたある日、この技を先生に掛けると先生は「来たっ。来たっ。」といってパッと受身をされた。その瞬間、万象先生が技の真髄を開眼されたという最も強烈な感銘深い技である。明治四十五年目録、大正五年免許、大正十四年八月吉日遂に高岡彌平先生からその持てる技すべてを伝授された清水青年は、四心多久間見日流和術を初め含む。)、民彌流居合術の免許皆傳を印可された。齢二十六の時である。
なお、先生はその前年の大正十三年秋、治之先生の水墨画の門弟であった若林東助氏次女雪枝氏と結婚、新居を星井町四ツ家に設けられ、大正十五年一月長男矩之氏が出生されている。
その後も引き続き黒田道場において高岡先生の高弟として古流武術修行にいそしんでいたが、武術の真髄を探求してやまない清水青年は、多久間流の柔術に隠し技として形ばかり残されている当身技について研究の必要性を痛感していた。
黒田道場には以前多くの人達が入門していたが、嗣子正義氏が不在されたことも起因して一時寂れ、これらの門下生の足も遠のき、稽古も下火になっていた。そこへ烈々たる執念を燃して軍隊から帰ってきた清水少尉の古流武術修行の気魄に、これら先輩諸氏もふるい立たされ、再び道場は活気を取り戻し、稽古にも熱気を帯びた。この頃の清水青年の修行は、富山県庁勤務であったが、昼休みは武徳会で弓術修行、午後の勤務が終るとそのまま黒田道場に通い、午後九時頃一旦食事のため帰宅してまた道場に出かけ修行し、午前二時頃帰宅する毎日であったという。後年、万象先生は父治之先生のこと及び黒田道場へ通った徃時を回想し、「父は約五尺五寸、この頃の人にしては長身で痩形であった。私の小さい頃はよくそこへ坐れと言って説教されたものです。そして正月二日には必ず自身の篆刻の彫り初めが終ったあと、竹や蘭等の墨絵を指導もしてくれたものだが、私は古武術に夢中だったのでその指導にも身が入らずものにはならなかった。いまふりかえって考えるとその頃の父の気持ち
がわかるような気がする。父は特に蟹の水墨画が得意で筆を使わないで人差指に墨をつけてさらさらと画いたものだが誠に見事なものであった。私は多久間流を習っていた頃、毎日夕方から道場へ通って、午後九時過ぎに一旦帰り、また出かけて午前二時頃に帰宅するのだが、父はそれよりも遅くまで起きていて自分の仕事に精出していたものです。」と、門弟に語っている。まさに、この父にしてこの子あり、その頃の清水家の光景が想像される。清水青年は、このような武術の家柄と父治之氏の藝道に対する情熱を受け継ぎ、武術の本流である古流武術にとりつかれ、老師高岡彌平先生の胸を借りて、只管修行に邁進するのであった。
万象先生は各地の奉納演武や古流武術大会において門弟を相手に多久間流の柔術を演武するときには、必ず「向詰(ムコウヅメ)」という形を加えられたが、この形は高岡先生と技の研究に励んでいたある日、この技を先生に掛けると先生は「来たっ。来たっ。」といってパッと受身をされた。その瞬間、万象先生が技の真髄を開眼されたという最も強烈な感銘深い技である。明治四十五年目録、大正五年免許、大正十四年八月吉日遂に高岡彌平先生からその持てる技すべてを伝授された清水青年は、四心多久間見日流和術を初め含む。)、民彌流居合術の免許皆傳を印可された。齢二十六の時である。
なお、先生はその前年の大正十三年秋、治之先生の水墨画の門弟であった若林東助氏次女雪枝氏と結婚、新居を星井町四ツ家に設けられ、大正十五年一月長男矩之氏が出生されている。
その後も引き続き黒田道場において高岡先生の高弟として古流武術修行にいそしんでいたが、武術の真髄を探求してやまない清水青年は、多久間流の柔術に隠し技として形ばかり残されている当身技について研究の必要性を痛感していた。