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アーチ型の骨格構造と動きについて

2015-04-23 | 太気拳意拳コラム
 中国では意拳以外にも、実に多くの武術を見ることができ、また名人と言われる日本でも有名な先生方にも度々接することができました。特に長春の譚吉堂先生(八極拳)は、多くの八極拳の先生方と比べると、あまり見栄えはしないのですが(失礼ですが…)その力量感、実際に触れたときの打撃力はすさまじく、最も印象に残っています。後に王薌斎先生の弟子で八極拳でも有名な趙華舫先生にも教えて頂きましたが、譚先生の八極拳と趙先生の八極拳は、系統は異なれども(李大忠→李貴章→李万成→李樹雲→趙華舫先生)全く同じだったので比較的学び易いものでした。
 また大学近くの林の中で、毎朝一人で通背拳を練習されていた人がおり、その動きもさることながら身体からあふれるオーラと言うか威圧感がすごくて、一目で指導をお願いしました。日本では常松先生が通背拳を広められており、私も短期間ながら教えて頂くことができました。常松先生は大変功夫のある方で、中国においても先生ほどの名人は少ないのではないかと思います。その通背拳は大変コンパクトで無駄がなく、狙った獲物は逃がさないような正確さ、巧みさ、速さがありました。これに対しこの人は同じ祁家通背拳でも、まるでゴリラのようにダイナミックで力量感、重圧感があり、ほとんど別の拳法に見えました。太極拳、八卦掌、六合八法など、同じ門派でも外面上は全く別の動きをするものがありますが、祁家通背拳においてもここまで異なるとは驚きでした。この方は張啓明先生と言い、それより毎朝マンツーマンで教えて頂きましたが、初めの一か月は、伸肩法などの準備運動と摔掌という一手のみをただ繰り返すだけで、次の一か月は別の鑚拳という一手、三か月目はまた初めの摔掌に戻ってそれのみの練習、4か月目はやはり鑚拳の一手に戻って、と結局4か月毎日学んでも僅か二手しか習えませんでした。しかし返ってそれが大変勉強になりました。その後張先生は突如来なくなり、会うことができなくなりました。(数か月後北京の南のはずれで一人で練習している張先生を偶然発見し声をかけたら、仕事場が変わったのであそこではもう練習できなくなった、とのことでした。)

 今にして思うことですが、譚先生先生の八極拳にしても、張先生の通背拳にしても、或いは私が後に学んだ六合八法にしても、みな共通の動かし方があり、それは腰や肩などの身体の回転とその力が直線に出力されるアーチ型の運動です。この動きは特に名前もなく、姚宗勲先生に学んだ時も、「このように動かす」と言われただけで、澤井先生にも同じように説明を受けたことがありました。名前もないので手取り足取りで感覚を伝えるしかないのでしょうが、韓氏意拳を創始された韓競辰先生は、このアーチ型の動きを“U形転換”と名付けられ重視されているようで、これは実に分かりやすい説明です。
 アーチ型の形状と動きは以前にも書きましたが、回転軸を安易に脊髄と決めつけず、また力の向かう方向も何が何でも相手の居場所と決めつけるのではなく、最も力が出る自然な方向であり、正に圓と方による動きです。これも私が接した範囲ですが、このような動きをしている武術家の打撃力は想像を絶するほどの破壊力があり、逆に有名な名人の先生方もこの運動がない人は、どんなに見栄えの良い演武をしても打撃力にはそれほどではありませんでした。
 今さらながら王薌斎先生の図形は、実に妙なるものだと思っています。

王薌斎先生



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青島の海鮮料理

2015-04-20 | 中国料理
 青島では料理も海鮮が中心となります。また香港とは異なった北方の海鮮料理です。例えば山東名物の水餃子でも、中の具は豚肉よりもサワラが多く(鲅魚水餃)、時にはヒラメでもありました。
青島の食堂での定番は、アサリの唐辛子炒め(辣蛤蜊)、シャコの塩茹で(原汁蝦虎)、アイナメと豆腐の煮込み(黄魚頓豆腐)、カキの天ぷら(軟炸海蠣)、カレイのから揚げ(椒塩偏口魚)、ヒラメの揚げ煮込み(葱焼牙鮃魚)、イイダコの和え物や炒め物(炒八帯蛸)、小さいイカの炒め物、ほら貝やバイガイ、サルボウ貝(赤貝に似た貝)の葱炒め、やカキと海苔のスープなどで、どこでも食べられます。またクラゲやナマコ、アワビなど他の地方ではお高い食材もここでは割と手頃な値段で食べられました。
 私が住んでいたのは海の目の前でしたので、休日や夜はよく釣りもしたし、漁民から直接魚を買うこともしばしばで、近所の市場に行っても新鮮な魚介類が豊富に並んでいました。青島の料理は、味付けは比較的単純で新鮮な素材の味を活かしたものが多かったような気がします。

 定番のアサリの唐辛子炒めも実に簡単で、砂抜きしたアサリをよく洗って、唐辛子(店によって、赤唐辛子、青唐辛子、或いは一味唐辛子と異なります)とニンニク生姜、ネギのみじん切りを入れ、ただ炒めるだけです。簡単ですから今が旬のアサリで是非作ってみてください。ビールにもぴったりです。

 アイナメと豆腐の煮込みも、実に簡単です。アイナメでなくても黒ソイや、カサゴ、メバルなど小ぶりの白身の根魚であればなんでも美味しくできます。魚屋さんやスーパーで鱗や内臓を取ってもらったものを選んでください。油を引いた鍋にニンニク、生姜、ネギ、魚を入れてよく焼きます。そこに熱いお湯を入れると一気に白濁した白湯になります。更に豆腐を入れて煮汁が少なくなるまで煮込み、塩と胡椒、好みで唐辛子を入れ味付けし、最後に黒酢を加えて出来上がりです。
お店によってはスープが多くて、スープとともに魚や豆腐をご飯にかけて食べるスタイルと、煮汁を少なくなるまでしっかり煮込んで、魚と豆腐を食べるスタイルがありました。
尚、黄魚とは青島ではアイナメをさしますが、一般的にはイシモチや関西のニベなどの魚を言い、上海ではこのイシモチと豆腐で煮込みます。(ちなみに青島ではイシモチを黄花魚と言っていました。)またここに咸菜(日本の高菜や雪菜の漬物と同様のもの)や春雨を加えたりしますが、これもまた大変美味しいく身体も温まります。




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魚の群れのように、その2

2015-04-15 | 練習日記
 中国の青島に駐在していた頃は、釣りにもハマっていました。青島は三方を海に囲まれた街で、私の宿泊場所も目の前は海でした。私はもっぱらアイナメやソイ、カレイなど根魚狙いでしたが、地元の人達はサヨリなどいわゆる光物(青物)の回遊魚を釣っている人も少なくなかったです。春先のサヨリの刺身や天ぷらなど本当に美味しく私の大好物です。しかしサヨリはかなり繊細な魚で、同じ回遊魚のイワシやアジ、サバと違って群れにあたってもなかなか数が釣れません。一匹釣りあげると、魚が跳ねた瞬間群れが一斉に四方八方に散ってしまうのです。暫くするとまたどこからともなく集まってきて群れで泳ぎだすのですが、結構辛抱が必要です。

 前書きが長くなりましたが、前回澤井先生の動きは、全身各部が魚の群れが一斉に方向転換するように同時に動き出すと言いましたが、それは同一方向の場合もありますが、このサヨリの群れのように、左右手足が全く別の方向に動き出し、またすぐに一つとなることもあり、まさに蛸の足の如くでした。意拳ではよく“整体(ジョンティ)”と言い身体を一塊にすることを求めますが、整体とは実に深い意味があり、このような身体の各部がそれぞれ同時に動きそれぞれがその仕事を行うこともまた整体状態の一つと言えるでしょう。
 例えば蛇が進むにしても、頭の部分は前方に向かい、胴体はそれぞれ左右に動きますが、決してその力が無駄に使われているのではなく、蛇の形状に最も適した力であり、それぞれ相乗効果があります。いつも言うことですが、我々の動きも例えば崩拳一つを見ても、それぞれの細胞がそれぞれの仕事をこなし、相乗効果が発揮されて初めて整体となるのであり、いわゆる六面力もまたこのような意味です。いわゆる争力とか順力逆行も本来はこのようであるべきですが、心地よさを求め意識するあまり、破体となり、力が漏れて、結局はこの効果はプラスマイナスゼロの相殺効果になってしまう人が少なくないかと思います。これも我々が陥り易い病気ですので、わずかな動きにも注意が必要です。


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魚の群れのように

2015-04-13 | 練習日記
 どの練習が澤井先生のもので、どの練習が姚宗勲先生、或いは韓星橋先生のものですか?などとたまに聞かれることがあります。確かにおおまかにはありますが、実は明確な区別はありません。どの練習も動きそのものは、澤井先生に学んでいた時とは異なるものになってしまいましたし、姚先生に学んでいた時ともまた異なってしまっています。韓先生のお弟子さんに学んでいるときも、当時はよく見てよく真似することが学習の基本でしたが、次第にその中に含まれる拳勁をどうやって得ていくのかと研究していくうちに自然と今の練習になっていったのが現実です。
 恐らくは、会員の皆さんも私の動きとは徐々に変わっていくでしょうし、そもそも形を優先すること自体、王薌斎先生が否定したものなので当然のことでしょう。しかしその拳勁は変わることはありません。例えば趙道新先生は王先生に指導を受け、王先生もその才能と実力を認めていましたが、趙道新先生の伝えた心会掌は外面的には形意拳八卦掌と六合八法拳によく似ています。張長信先生の伝えたものも站椿と摩擦歩、僅かな試力を基礎として、具体的な拳術練習は形意拳や六合八法です。姚宗勲先生は王薌斎先生の指導をもとに独特の練習体系を確立し、兄弟弟子に指導しました。姚宗勲先生とほとんど係わりのない兄弟弟子も、実際には間接的にこの方法を参考にして自己の練習体系を確立させていったと推測できます。
私の場合は、初めに澤井先生に学びましたので、その感覚が全ての動きの根本にあります。例えば、崩拳(だけではなく、実際はすべての動作がそうですが)などの練習での間合いを詰めるというか追っていくと行くか、このような動きは澤井先生に手取り足取りの指導の中で身体が感じ取ったものであり、他の意拳の先生から学んだものもこの能力を活かせるように行っています。実際に私が接した範囲では、他の門派でも達人と言われる人達はこのような能力に優れていたし、どんなに有名で偉い先生達もこれができていない人は触れてしまえばそのレベルは残念なものでした。
 
 澤井先生から学んだものの中の一つに、身体全てが一瞬に同時に動き出すというものがあります。その動きは魚の群れがみな一瞬に方向転換する様に似て、またエビが突然跳ねる様で、身体の全てが同時に動き出すため、剣術でよくいわれる動きの起こりがわからないものです。多くの人は発力とか打拳の際に最後に加速度をつけようとしますが、それとは反対に初速というか、静から動に移る速さが根本的に異なるものです。
 速く見える動きは、どこかと比べて早いのであって、例えば胴体に比べて手先が早いので速く見えるし、相手が遅くてこちらが速い場合も同様です。しかし身体が同時に動き、相手とも呼応していると、オーバーな言い方ですが地球の自転のように速さも感じられません(というか見抜けません)。初速も終速も区別なく、最初から最後まで最高の速度を継続しています。早く動こうとする人は往々にして身体のどこかがその速度に追いついていません。会員の方は、是非この点をよく理解して練習してください。


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蛇の筋肉

2015-03-30 | 練習日記
 以前澤井先生に、たまには動物園に行って一日中動物をよく観察してみるのもよい勉強だ、と言われたことがあります。実は王薌斎先生も同じことを弟子達によく言われたそうです。動物の動きは人間の想像をはるかに超える能力を持っていますが、それは大型動物に限らず、エビのような素早い反射神経や、シャコが水中で硬い貝をワンパンチで粉砕する力など小動物にも当てはまります。
 昔、蛇を捕まえようとつかんだところ、細い体なのにその力強さに驚かされました。その筋肉は力強くても硬いことはなく、かといって柔らかくだらけてもおらず、全ての筋肉細胞が等しい力を以て協調しているようで何とも妙な感覚でした。(本当かどうかは分かりませんが)、かつて王先生はとある武術家に対して、彼の力は我々よりずっと太く強く、私が茶碗なら彼は水瓶のようである、しかしまた細いところは竹竿の如くである。と評したと言われています。つまり全身全てに同一の力が必要であり、蛇をつかんだ時はまさにそんな感じがしました。
 私が教え受けたいわゆる名人達人と呼ばれる人達の腕の感触は、みなこの蛇の筋肉に似て、力強くも決して硬くなく全ての部分が止まっておらず、例えばその拳を抑えようとしても接した時の感覚はまるで細胞一つ一つが前に進んでいくような、文字では表せない妙な感覚でした。意拳でいう“捲臂(ジュェンビー)”は、“烏龍捲臂(ウーロンジュェンビー)”とも言われますが、龍はオーバーでもこの蛇のような筋肉状態、つまり筋を長くする練習も兼ねています。“捲臂”の試力は、“鉤掛(ゴウグア)”試力の元であるとか、昔の名称であるとか、いろいろな見方がありますが、確かに動作自体は、“捲臂試力”も“鉤掛試力”も、或いは太気拳の“揺り”も基本的にはみなほとんど同じもので、伝承者によって名称に違いがあるだけのようにも見受けられます。故にあえてその動作の違いを追及し、この動作が“捲臂試力”で、この動作が“鉤掛試力(或いは鉤搓試力)”でという考え方は、私にはありません。但し練習の過程において、腕のねじりを利用して力点の虚実の方向変化を目的として練習する場合(捲臂)、また手首や前腕で相手を下から上に引き抜くように引っ掛ける練習を目的とする場合(鉤)、或いは手首や前腕で相手の上から下に布団を物干し竿に掛けるようにする場合(掛)、ヤスリをかけるように相手との接点をこすりつけるように手を出す場合(搓)と、それぞれ異なる要求、要点がありますので、それに合わせ分かりやすいように便宜上言葉を使い分けているだけです。今練習している打拳においては、基本はこの“捲臂”の要求に基づくところも多く、拳(こぶし)を硬め、前腕を棒のように固定しては、蛇のような筋肉は得られません。蛇は柔らかくも力強く、頭が全身を牽引し進んでいきます。この梢節が全身を牽引しそれを中節、根節が時間差なく追っていく、このような力も“硬打硬進、遮るもの無し”の条件の一つとなるかと思います。

 


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“胯(クア、腰の両側と足の付け根、股の部分)”と“肩窩(ジェンウオ、肩のくぼみ部分)”

2015-03-29 | 練習日記
 意拳だけでなく中国武術全般に言えると思いますが、“胯(クア)”つまり股関節や骨盤に対する要求はかなりうるさく言われます。骨盤は人体の中で最も大きな歯車であり、機械と同様に最も大きな動力源になります。同時に胴体と下半身、根節と中節を繋ぐ大切な蝶番です。この関節を有効に活用するために、腰骨を横に大きく広げ、前に包み、腿の付け根を自然と窪ませ、安定した腰を作ります。相手の力もこの大きな関節が捉え、更に腰で受けた力は太腿を通って膝関節へ、また脛を通り足首関節、足の裏、大地へと伝わります。その反発力も同じく各パーツを通って戻ってきます。途中の関節が安定していなければ、相手の力を身体のどこか一部が負担し崩れてしまうし、自分の力も漏れて十分な威力は出せません。いずれも局部に頼るしかなく、機械であれば不合格品です。
 股関節・骨盤をできるだけ広く大きくして網のように前に包んだ形状、いわゆる“収胯(股関節を収める)”とか“掖胯(股関節を押し込む)”にするのは、この形状(骨格構造)が巨大な力を吸収し、発揮させるためであり、《意拳正軌》に描かれた図形3、4のように、アーチ型(U形)になるのは当然のことです。また同時に最も大きな臀部の筋肉群も十分に活用するためです。アーチでは力の方向は正面へ向かい、これが内とか外にぶれるとアーチ(U形)はたちまち崩れ、力が入りません。アーチは物理的に非常に合理的な構造であり、古代から東洋西洋を問わず建築物に利用されてきました。
 上半身にも全く同じことが言えます。肩関節は、胴体と腕を繋ぐ重要な関節であり、また股関節に次ぐ大きな歯車です。故に骨盤・股関節と肩関節部分の要求は基本的には同一のものです。
“肩撑肘横(両肩肘は横に張り支える)”、“両肩扣(両肩をよせ合わせる)”、“心窩微収(みぞおちをわずかに収める)”などは、みな大きなアーチ(U形)を作る為の要求で、武術家がよく言う “含胸抜背”の“含胸”も、勿論一緒です。背中の筋肉群は、自然と“抜背”状態となり、下半身でいえば臀部の筋肉群と同じく大きな力を発揮します。
 さてここで落とし穴ですが、股関節や肩関節を安定させるために、気が付かぬうちについ力んで返って動きを束縛してしまうことが多々あります。故に門派を問わず、“鬆肩墜肘”も同時に要求されます。特に“鬆肩”(肩関節を力ませない)ことは、難しく肩を落とせばそれでOKと思い込みがちですが、肩関節も股関節と同じく複雑で、多くの骨と筋肉、筋膜、腱、靭帯があります。私もよく“肩窩(肩のくぼみ)を緊張させるな”と注意されました。
 実はこの“肩窩(肩のくぼみ)”が曲者で、多くの日本人は肩と腕の付け根の上の位置(肩が凝った時に揉んでもらう辺り)と誤解しますが、一般的には鎖骨の上、つまり首と胴体の付け根のくぼみを言い、更に武術では鎖骨の下のくぼみ、つまり胸と腕の付け根のくぼみをさすことが多いです。これも下半身と全く同じ理屈であり、この“肩窩(肩のくぼみ)”こそが、下半身における“胯(足の付け根)になり、相手の圧力をこのアーチが受け止め、またこちらの力を正確に上腕を経由して肘、更に前腕を経由して手首、指先、更に外部に伝えるのです。立禅(站椿)における正しい形状と筋肉状態は、動きにおける正しい形状と筋肉状態でもあります。単純な一動作でも一方の掌でもう一方の“肩窩”を触りながら動かしてみると、いろいろな個所で緊張してしまうのがよくわかります。この緊張を取り除くのは相当の努力が必要ですが、力みがないときの出力は、骨格構造は合理的でかつ筋肉は伸び伸びし、大変強大なものです。これがいわゆる“筋長力大、骨重筋霊、筋伸骨要縮、骨霊則勁実”などです。



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硬打硬進、遮るもの無し。挎勁について

2015-03-28 | 練習日記
 中国武術ではよく(にくづきの)“胯(注:クア=腰の両側と足の付け根、股の部分)”の大切さが強調されるので、その為か同じ発音である(てへんの)“挎(注:クア=物を腕に掛ける、腕に提げる)”が見逃されがちですが、意拳の前身である形意拳では、この“腕に掛ける、腕に提げる能力‐挎勁(クアジン)”も極めて重視しました。孫禄堂の『拳意述真』では、『挎、崩拳なり(注:この出版本でも、誤字で胯の字を用いている)』とあり、昔の形意拳家は崩拳を練る時は、水の入った重い桶を腕にぶら下げ、例えば右拳を出すときは右肘に桶をぶら下げて前進して打ち、続いて左手をそこに差し込み左肘に桶をぶら下げながら歩を進めて左拳を打ち出す、このように左右交互に重い桶をぶら下げたまま功を練ったと言われます。これが“挎”の練習であり、鍛えられた達人たちの崩拳は相手がその腕を上から抑えても、お構いなしに持っていかれてしまいます。つまり拳が胴体に当たる以前に、接触した腕や肘そのもので弾き返され、構えたまま跳ばされてしまいます。故に一部の武術家が、形意拳は梢節で打つが、心意拳は中節で打つ、という言い方に対し、形意拳家達が、「中節を以て打てなければ、どうして梢節で打てようか?」と反論するのも、この理によるものです。そしてここにも“硬打硬進”“実を以て実を打つ”の要点があります。

 さて我々の練習を顧みると、立禅の際に肘を下に沈め前腕を上に引き上げて、肘が籠をぶら下げるような形状、いわゆる“上兜下墜”を保って長い時間立つのは、骨格構造と筋肉状態を正しく働かせこの“挎”の能力を養うためであり、またその際に指導者が肘を上から力を加えて押え、また下から持ち上げ崩れたりブレたりすることが無いように確認するのは、この“挎”の力を体認させるためでもあります。
 更に王薌斎先生は伝統的な形意拳の基礎の上に、肘を横にも支えるよう改良したことで、横からの圧力に対しても(相手がこちらの拳を横から遮ろうとしても)同じようにそのまま弾きながら拳を打ち出す能力を求められるようになりました。
 よって揺り、練りを行う際にも、このように中節を各方向から圧力を加えそれでも何事もないように、前に動かせるかどうかのテストをするのも、この“硬打硬進、遮るもの無し”の効果を求めるための試力です。正しい骨格で動くことは、故意に運動路線を作らなくても斜面や三角、螺旋を自然に発生させ、相手がこれに触れればその接点には虚実の変化、四方八方の六面力が現れます。これが姚宗勲先生の言われる、いわゆる“不直的直拳”です。故に立禅(站椿)のみを練習しながら空手のような突きを練習することは、全く意味のないこととは言えなくとも、立禅そのものを充分に活かすことはできません。我々は立禅(站椿)と打拳(というか動きそのもの)の関連性をこれからもずっと研究、鍛錬していかなければなりません。

形意拳、傅剣秋の劈拳と崩拳
  

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虚中に実を求め、実中に虚を求める(その3、追風月)

2015-03-27 | 練習日記
(続き)
 またいつも言うことですが、“無遮攔(遮るもの無し)”には、それなりに間合い、空間を奪わなければ、立禅の形状も螺旋も斜面も三角も何の役にも立ちません。“硬進”と言うように、必ず前に出て相手との間合いを制した状態(相手の“実”を捉えて離さない状態)を保ちながら打たなければ(というか、制した状態を保ち続けることが打であり、制することと打つつことは別々ではないのですが)、簡単に遮られてしまいます。これも相撲でよく言われることですが、足が出ていなかったからはたき込まれた、投げられた、と同じことです。横綱でさえ極まれに同じ幕内力士に負けてしまうわけですから、このような技術も一生練っていかなければなりません。しかしまた横綱クラスになれば、幕下力士クラスには負けることなどありえません。それほどレベルが違うのでしょう。我々もちょっと感覚ができたからと言って喜ばず、他を大きく引き離すよう常に努力したいものです。
 澤井先生と実際に手を触れた人は、その感覚が分かるでしょうが、まさに水が流れ込むように空いた空間に(時間差がないので、空きませんが…)身体ごと入ってきます。そのタイミングはまさに絶妙でした。
 昔の中国の武術家達は、“追風月(風が月を追う)”とか“野馬追風(野馬が風を追う)”などと、様々な言葉で間合いの隙を作らず相手を追う(追い抜かしてもだめで、相手の“実”を制しながらも自分の空間を保たなければなりません…)感覚を伝えようとしてきました。
 郭雲深先生の“半歩崩拳打天下(半歩崩拳、天下を打つ)”や、王薌斎先生が言われた“只是一下(ただ手を出すのみ)”とは、まさにこのような境地だったのだと思います。まさに微なるかな!です。



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虚中に実を求め、実中に虚を求める(その2、硬打硬進、無遮攔)

2015-03-26 | 練習日記
 (続きから)
 しかし実戦において、“虚中に実を求める”、或いは“実中に虚を求める”とは、極めて高いレベルが要求されます。意拳の前身である形意拳には“硬打硬進、無遮攔”という言葉があり、この“硬”とは硬さを表すのではなく、“強硬、強引、何が何でも必ず”等と言う意味です。
 近年一部の形意拳家は、詠春拳や白鶴拳などのように非常に早い変化で相手の隙を生み出し、連続して攻撃することを練りますが(これはまた優れた功夫ですが)、“硬打硬進進”は、相手の隙(虚)ではなく、あえて“実”を打ちます。ここでいう“実”とは、相手の実体、即ち中心であり、相手の実体ではないところ、つまり中心を捉えていなければ強い力は与えられず、簡単に流されたり、遮られたりしてしまいます。よって攻撃対象点の変更が必要になります。しかし“硬打”は、相手の実体である中心を捉えることで、攻撃対象点は変わりません。相手の“実”は、こちらの力を明確に伝える点でもあり、よって隙(虚)を見つけるのではなく、如何に実(中心点)を瞬時に捉えるかが要求され、これにより相手と一体化し、自分の力を漏れなく伝えることが、“虚中に実を求める”意味です。
 澤井先生は、「人間の鼻は日本でいえば東京だ、ここを攻撃されればひとたまりもない。」とか、「相手の真ん中を割っていけ。」とよく言われました。姚宗勲先生もまた、「人間の中心は鼻である。軽い打撃でもダメージは大きい。」と言われていました。勿論鼻を専門に打つのではなく、相手の中心にこちらの圧力が働ければ大きな効果になります。相撲では初めからいなす力士は横綱になれないと言われますが、大相撲の解説を聞いていると、横綱や大関は勝ってもいなすような変化であれば、あれでは駄目だ!と言われるのと同じです。
 以前、姚承光先生に、「“頂牛(注:互いに意地を張って正面衝突する様、一般的には悪い意味で使われ、力のぶつかり合った推手を揶揄する時にもよく言われる)”も、初めのうちは大切な練習過程である。」と言われましたが、これも自分の“実”を以て相手の“実”を捉える稽古になります。
 しかし実戦においては、相手の中心に向かってただ打とうとしても簡単に相手の“実”を捉えることは極めて難しく、相手の腕に遮られます。仮にうまく捉えられてもそれは一瞬のことで、すぐに相手に変化されてしまいます。ではどうすれば“無遮攔(遮るもの無し)”になるのか?名人はこの“実”の接点の中に、更に“虚”を見つけ捉えます。達人と言われる人達の拳は、たとえ相手が遮ってもそれを弾いて構えごと吹き飛ばしてしまいます。それは単純な“実対実”ではなく、相手の“実”の中に存在する(というかその極わずかそばにある)“虚”を打つ、或いは更にその“虚”の中のわずかな“実”を打つからです。
 これが接点における“虚実の変化”であり、それは肉眼では捉えられることはできず、相手もその変化には気づくことはなく、更にこちらの“実”の力は常に一定で相手を捉えて離しません。接点における相手の“実”の点と“虚”の点を制すのは、斜面や螺旋による次から次へと生まれて止まない接点とその四方八方に働く力であり、これこそがいわゆる六面力です。それは正しい立禅(站椿)の形がなければ成り立たず、正にドリルの如くです。ドリルにはドリルたる形状が前提にあり、常に回転し中心に進んでいきますが、その力は先端だけにとどまらず、左右上下全ての箇所と方向に働いています。例えば指先、拳(指関節)、或いは手首関節などがドリルの先端なら軸は前腕などです。意拳で言ういわゆる“捲臂”はこの能力を学ぶものです。この感覚は文字にしてもうまく伝えられません。各自がそのレベルのある指導者の元で、ぶつかり稽古や、塔手、推手などの対人練習によって、地道につかんでいくしかありません。(続く)



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虚中に実を求め、実中に虚を求める(その1)

2015-03-25 | 練習日記
 虚と実は、いろいろな意味で使われますが、その一つとして有無の意味があります。
 王薌斎先生の著書《拳道中枢(大成拳論)》には、“抽象虚実有無の体認”の章がありますが、この章はこのことを説明しています。
 立禅(站椿)を正しい姿勢、正しい筋肉状態と意識を持って練習を積めば、自然と空気の抵抗感が出てきます。しかしこれを故意に作ろう(感じよう)とすると、多くの場合は知らず知らずのうちに筋肉を固め、“前に行こうとしても行けず、後ろに行こうとしても動けず、六面すべてに感覚がある。”と思い込んだ偽の感覚に自己満足してしまいます。このことは今まで多くの意拳指導者が指摘しており、意拳学習者における最も陥りやすい病気です。抵抗感は正しい練習によって自然と得られるもので、決して故意に作り出すものではありません。筋肉を強張らせることで作られた抵抗力は気血の流れを妨げ、反射神経を鈍らせ、返って力を放出することはできません。厄介なのは、自分は決して力など入れていない、筋肉を強張らせていない、と実感がないことです。なぜなら強張っている筋肉は腕とか足よりも胴体部分の奥深いところなので、表面上の筋肉が固くなっていないために、力んでいることにも気が付かず、六面力を感じられたと思い込み、やればやるほど益々硬くなってしまうことです。故に必ずや力を用いず正しい形と筋肉状態を以て地道に練習していかなければなりません。
 “虚中に実を求める”とは、何もない“無”から感覚的な“有”を生み出す意味もあり、この場合正しい抵抗感はつまり“有”と言うことができます。空気の抵抗力を感じることは、“虚中に実を求める”初歩段階であり、この感覚は練習とともに自然と全身各部に養われ、その実感も日々強くなっていきます。故に立禅は大気を相手に全身各部をくまなく鍛える方法となり、王先生の言われた“空中遊泳”とかはこのような境地の感覚でしょう。
 実際に相手との攻防において、接触した場所には相手の力の抵抗が次から次へと発生し、こちらの力の進行を阻止します。この“実”の部分から如何に相手の“虚”の部分、つまりこちらの力の進行を阻止する抵抗力が存在しないところを探すのが、“実中に虚を求める”ことで、その練習方法がぶつかり稽古とか、塔手、推手の稽古などになります。合気道などの武術は(私はやったことがないので、正しいかどうかわかりませんが)、この接触時の実の中から虚を見つける、或いは虚の中から実を見つける練習に長けたものではないかと思います。(続く)

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