合気拳法 猿田会

新しく誕生した合気道の拳法
静岡県伊東市にて活動中

万象先生の足跡 その6

2011-10-22 06:57:13 | 一隅を照らす
一隅を照らす 第二節 万象先生の足跡 17ページ

(六) スマトラに進出

万象先生は大正九年富山県に職を奉じ、内務部地方課を振り出しに、財務、土木、河港課を経て東岩瀬港務所長を歴任されていたが、陸軍砲兵少尉でもあったので昭和十二年日支事変勃発以来、軍装一切を新調し、常在戦場、いつでも召集に応ぜられる態勢を整えつつ、益々武道の修行と指導に熱が入った。しかし、望む万象先生には召集はなく若い門人が次々に応召していったのである。

昭和十六年大東亜戦争に突入、昭和十七年に至り戦果の拡大に伴い官吏にも占領地行政のため陸軍司政官が必要となり、先生は陸軍司政官を拝命、矩之氏を師範代として空道館を委ね、自らは同年八月スマトラ島ベンクレーン州に赴任された。万象先生はスマトラ現地においても、占領地行政のかたわらご自身の修行は一日も休まれることはなかった。そして、敗戦となった後は現地住民の襲撃に備えるため政庁員は自然に武道に堪能な先生のもとに空手道・居合術の指導を求めて集って来たのは当然のなりゆきであった。先生は長官を初め、政庁職員に対し、懇切に指導し、自信を与え精神的・肉体的に危機回避の重要な役割を全うされている。後、現地において英国軍に収容されたのであるが、その状況下にあっても武道修行の火種は絶やすことなく、カップ一杯の粥食であったが、昼間の共同作業が終って人の寝静まったあとこっそりジャングルの中の一隅を道場として日夜修練に励まれている。

この間、内地では昭和二十年八月富山市も米軍の空襲によって一面焼ケ野原と化し、その際、留守宅並びに空道館堀川道場は焼失した。

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