合気拳法 猿田会

新しく誕生した合気道の拳法
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万象先生の足跡 その8

2012-04-30 21:12:47 | 一隅を照らす
一隅を照らす 第二節 万象先生の足跡 22ページ

(八) 武道三昧

昭和三十年九月、万象先生は後進に道を譲るため富山県警察技官を勇退され、それから宿願の道場再建にかかられた。翌三十一年六月富山市大町に戦後初めて空道館道場とその傍らに居宅を再建され、かねての念願通り武道三昧の毎日が始まるのである。

昭和三十一年九月協会月報で、日本空手協会が船越義珍先生を高齢の故をもって書類手続上一応協会から削除する旨を知った万象先生は、恩師が協会から削除された以上門人として道義上同会に席を置くことは許されないことであるとして、万象先生を初めとして空道館員全員脱会する旨の通知を発しきっぱり日本空手協会との縁を切られた。古来、武道においては「道義」を最も重んずる。御存命中にも拘らず空手道中興の祖であり、沖縄において一大勇気をもって秘密主義のヴェールを剥がすきっかけを作り、また、内地普及にその生涯をかけられている空手道最大の功労者をいかに御高齢とはいえ削除することは許すべかざる暴挙であるとして、万象先生は自ら名利を顧みず、師弟の道義を貫き進退を明らかにして門人達に身をもって教えられたのである。

万象先生は昭和十七年に夫人を亡くし、太平洋戦争を経て、戦後ともに警察逮捕術指導に協力してきた矩之氏を昭和二十九年海上自衛官として上京させたあとは孤独な生活すべて武道の研鑽と門弟達の育成に没頭されていたのであるが、空道館道場の再建に伴い、自らの修練にさらに磨きがかかった。特に若い頃から独自に開拓されていた手裏剣術も場所を得て、その飛翔距離も三間、四間、五間、五間半と次第に伸び、その精度の向上にも加速度が加わったようである。その練習量の大きさは道場の床板の夫々の距離の足の部分が真白く残っていることで証明されている。先生の手裏剣術は師につくことなく、幼児の遊びから発展して独自で開拓し一派をなされたものであるが、左右の手で、しかも上下から投擲する直打ち手裏剣術であって、正確に的を打ち、先に打った剣の後頭部に、後で打った剣が当り火花と鋭い音を発してはね返り附近の床板を傷つけることも暫々であった。

昭和三十二年四月二十六日恩師船越義珍先生が逝去された旨の報に接し、直ちに門弟二名を随行上京し、青山斉場で行なわれた葬儀に参列された。この頃から、万象先生が多年に亘り研究の結果、積み上げられ編み出されてきた新しい技を次々に発表され、門弟に指導され初めた。その内容は徒手・短刀・釵(サイ)・小太刀・大太刀・居合術・杖術・手裏剣術等武藝百般に及んでいる。昭和三十三年四月先生は学習院大学大講堂において行なわれた船越義珍先生一周忌追悼演武大会に出場され、自ら編み出された万象流抜刀術・同小太刀術を追悼演武されて恩師の御靈前にその精華を供げられた。

万象先生は生涯恩師船越義珍先生を深く敬愛されていたが、船越先生もまた万象先生を信愛することは一通りではなかった。昭和三十一年の空道館の落成式には老齢のため義珍先生に代って長男義英先生が代理出席されたのであるが、懇親会の席上、義珍先生と万象先生のことに及び、「父は今まで三度富山に招聘されたが、富山に行くときはいつも幼児のように楽しそうでした。」、「今回も、どうしても富山へ行くんだと主張して困りました。老齢のため身体の方がとても旅行に堪えられそうにもないので家族会議を開いて、医師の協力もあって漸く私が代理で来ることに決ったのです。父は清水先生を本当に信頼し切って、会いたくて会いたくてたまらないようです。」と述壊されていた。また、船越義珍先生が御危篤の状態のとき、門人の人達がお見舞いに見えて、義英先生が義珍先生の枕もとで「○○さんがお見舞い見えました。」とお伝えすると、「おお、清水さんが見えたか。」と答えるので、「いや違います。○○さんですよ。」というと、「富山の清水さんだろう。」と答え、何
んでも清水さんでしたと一周忌で上京された万象先生に話された由である。

船越義珍先生が内地に伝来された武術としての空手道は、戦後、形修行から自由組手重視、さらに試合中心のスポーツに変身していった。少年時代、古流柔術からスポーツに転身して発達した柔道に対し武術としてのもの足りなさを身をもって体験されている万象先生にとって、空手道転身の危機に直面された訳であるが、戦後の平和期に空手人口の過半数を占める大学空手道として発展させる一つの途であり、やむを得ない現象と判断され、自らは船越義珍先生が伝来された形修行にこそ本当の武術としての価値を認め、これを正しく継続され、門下生にも厳しく武術としての空手道に徹するよう戒められていたのである。その気持ちが、遺稿「空手術について」、「空手術の概略」並びに「空手は武道である」に表れている。この文章については船越義珍先生も認められているところであり、武術としての空手道の真価を知る人として生涯万象先生を信愛された所以でもあろうと推察されるのである。

昭和四十四年九月福井県体育館において全国古流武術大会が開催され、富山県教育委員会の推薦により万象先生に門弟三名が随行、富山藩伝来の多久間流柔術・改心流剣術・同小太刀術・同実手術を演武した。顧みれば昭和五年明治神宮鎮座十周年記念全国古流武術形大会において恩師高岡彌平先生とともに同趣旨の古流武術大会に演武された万象先生の心境はいかばかりであったろうと思われる。

また、昭和四十九年八月には、警察百年記念行事として富山県警察柔剣道大会が富山市体育館において開催されたが、県警察本部の要請により万象先生ほか六名の門弟が随行し、多久間流柔術ほか富山藩伝来の古流武術を模範演武したところ、戦後初めて見る古流武術の演武に観衆は拍手喝采し、しばし鳴りやまなかった。

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