合気拳法 猿田会

新しく誕生した合気道の拳法
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改心流剣術の沿革 その1

2011-08-09 21:27:11 | 一隅を照らす
一隅を照らす 第四節 遺稿 99ページ

六、改心流剣術の沿革

永禄六年箕輪城が武田信玄に攻め滅ぼされた時、上泉秀綱(新陰流剣術の祖)は箕輪城裏門の主将であったが、多勢に無勢時に利非らず、城主業盛は切腹し家臣の多数主に殉じたが、上泉秀綱は武田信玄の使者に説得されて降伏した。

この上泉秀綱を不忠な裏切者としてその首級を狙って、臥薪嘗胆の結果目的を達したのが旧箕輪城の忠臣で改心流剣術を創始した駒川太郎左衛門慰国吉である。

国吉は箕輪城が落城するや城主業盛の妻松姫を救い出して逃れ、密かに剣技を磨いたが、この間松姫は業盛の遺子を出生した。この遺子は程無く夭折したが、遺子を守護している時のこと、松姫が児を愛撫しながら流れる涎れを拭う有様を傍らで見ていて、ハッと閃くものを感受し精励刻苦、遂に祕剣を悟得し『涎賺(ヨダレスカシ)』と名附け流名を改心流と号したのである。この流儀の表の形に

 涎賺(二本) 目附(三本) 龍段返(一本)

の六本であり、その最初の『涎賺』の二本が流儀を代表するものである。

この一本目は打太刀は左上段に構え、仕太刀は右片手脇構えで三間の間合で向い合うや、互に三歩宛進み出で打太刀はそのまま左上段の構え、仕太刀は下段に構え替えて互に隙を伺う内、打太刀機を見て仕太刀の頭上に打卸す。仕太刀右へ(仕太刀の右方)受け流しながら太刀の下を潜り抜けて打太刀の頭上を打つを打太刀は己の頭上で太刀一文字にこれを受け止めながら進み出るはなを仕太刀は両腕と共に顎を斬りながら左へ(仕太刀の左方)抜けるものである。

二本目は一本目に同じく三間の間合から互に三歩進み出で、打太刀上段に仕太刀下段に夫々構え、打太刀が機を見て仕太刀の頭上に打卸す。仕太刀は右へ(仕太刀の右方)受け流しながら太刀の下を潜り抜けて打太刀の頭上を打つを打太刀己の頭上で太刀一文字にこれを受け止めながら進み出るはなを仕太刀は一歩踏み込み仕太刀の太刀の鍔で打太刀の刀の峰を打ち払って払い上げ間髪を入れず、その柄頭で打太刀の顎を打ち上げて太刀を上段に振り被り、その反動で打太刀の頭上を打つものである。

勿論上述の二本は流儀を代表するもので、これを応用した裏手祕奥とするもの多数あることはいうまでもない。

上泉秀綱が虎伯と共に柳生家に滞在して居た時に偶々駒川太郎左衛門慰国吉は故箕輪城主業盛の妻松姫と共に詐って柳生家に召使いの下男下女として住み込んでいたが、下男になっていた国吉が裏山に薪採りに行って狼の群れに襲われ、持合せのまさかり(原文漢字)を振って群がって襲いかかる狼を悉く打退治したことがあるが、その狼は悉く顎を斬り砕かれて打殺された。国吉悟得の祕剣『涎賺』の術であったのである。秀綱は虎伯と共に散歩中に偶然この有様を認めその尋常でない剣技から人物を洞察するに到り、病臥中両人を呼び寄せ故意に試合を求め国吉の祕剣に顎を斬られて歯をぼろぼろ地上にこぼして討たれた。秀綱は遺言を以て無益の殺生を避けるため敢えて裏切者の悪名を甘受して降伏したということを明かにしたという。国吉は思慮深い秀綱の真意を了解し、その高邁な人格を痛く尊崇しその時の歯の一つを形見として貰い受け、剣術の神と崇め朝夕礼拝怠らなかったが年老いて病篤くなり、いまわの際にその歯を口中に含んで息を引きとったと言い伝えられている


駒川太郎左衛門慰国吉は甲州の産であるが、幼少の頃から剣術と兵学の二道を学んで何れもその蘊奥を極めてその名声が諸国に喧伝されたので、道を求める士はその麾下に集まり或は剣術を学び或は兵法を聞くもの数千に及んだということである。

門弟の一人は桜田次郎左衛門慰貞国は、若年ではあったが人格技量兼ね備わった非凡の秀才であったので師一流の口訣悉くを印可された。貞国は甲州の産であるが、二十二歳から四十二歳迄の二十年間諸国を武者修行して業を研鑽し、実手・小太刀・鎖鎌・三つ道具・しころ・薙刀等の術を加え特に短兵(短い武器)で剣術の勝負に利ある祕法を悟得し駒川改心流と称した。

桜田次郎左衛門慰貞国の末孫は後龍王新村の郷士となり藤井三右衛門と称し駒川改心流剣術の指南をしていた。

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