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外国人のための『みんなの日本語学校』

このブログでは学習者からの様々な日本語に関する質問をとりあげ、分かり安く解説をしました。

「私」と「我」の違いについて

2008年07月16日 | Weblog
本日の参加者(7月10日木曜日)
韓国  25
中国  8
台湾  1
米国  1
豪州  1
ペルー 1
ミャンマー 1
ネパール  2
ベトナム  1
計 41名

 中国人学習者からの質問 「私と我はどう違う」
1級日本語試験の読解問題に中村雄二郎著『哲学の現在』の文章が出た。当然この文章を読むと「私と我は同じか否か」の質問がくる。
 この質問に、ある直樹賞作家の話を思い出した。詳しくは覚えていないが要旨は以下の内容だった。

 
 集団で農作業をしていた時代ではコミニティーの一員で「我」も「私」も存在しなかった。そのうち耕した農地に縄張りをして自分の所有地としたことから「私」という字が生まれた。
 「我」という字はノコギリで物を切る音から生まれた。自分と他人を切り離す意味で生まれた。この語源から考えると「私」と「我」の使い方の違いが見えてきておもしろい。
「私的な問題」とはいうが「我的な問題」とはいわない。
「我にかえる」とはいうが「私にかえる」とはいわない、など。

(中村雄二郎“哲学の現在”より)
 人称代名詞われ(私)の複数はわれわれ(私たち)だと通常考えられている。多くの場合それでいいのだし、実際にもそういうふうに使われている。けれども、われわれがいつでも必ずわれの複数といえるかとなると、そうとばかりはいえないだろう。自分を含んだ複数の人間をひとまとめにしてわれわれというとき、ことわるまでもなくそのわれわれのなかで自分と他の人々とは、なんらかの意味で親和的な間柄にある。たとえばグループ、学校、会社、党派、家、国など、性格や規模こそちがえ、一つの同じ集団に属していて、心の、あるいは利害の上で互いに結びついていることが前提になっているわけだ。しかしこの場合、白分と他の人々とは、それぞれの集団の外部に対しては同一の集団に属するものとして結びつきをもっているにしても、それぞれの集団内部を考えてみれば自分と他の人々との間柄が対立を含んでいないとはいえない。自分にとって近い集団から遠い集団へ、自分を含む小さな集団から大きな集団へという方向で、一般的には集団内部の自他の対立は大きいが、たとえ小さな身近かな集団のなかでも自他の対立はなくなるわけではない。それどころか、ときには近親憎悪と呼ばれるような、近い間柄であることがかえって激しい憎しみを相互に惹き起こすことさえあるのだ。このようなわけで集団内部の自他の対立を問題に出すと、われわれということは簡単にはいえなくなる、もっといえば、ありえないことになる。つまり、( 3 )そこにあるのはつねにただ自己と他者たちだ、ということになるのである。

 間1 「自分と他の人々との間柄が対立を含んでいないとはいえない」という筆者の考えから言えることはどれか。 
                    
  1 他の集団に属する人間とは、親和的な間柄になることは難しい。
  2 同じ利害で結びついていない人間同士には、対立関係が生じやすい。
  3 身近な関係以外の人間には、激しい憎しみを持たないとはいえない。
  4 同一の集団にいる身近な人間との間でも、親和的になるとは限らない。



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