
『正しい日本語』とは何だろう
かつては定家の「仮名遣い」に従って
日本語で文章を書いたり、あるいは人前で改まった話をしたりする時には、誰もが「正しい」日本語を使いたいと思う。それは当然のことで、正しい日本語を使いさえすれば、受け手が誤解する可能性は低くなり、自分が伝えたい内容を正確に理解してもらえる。
また、どんな言葉を使うのかは、家柄、職業、学歴などと同じく、人間の属性を決める重要な要因の一つだから、正しい日本語を使える能力を示すことは、人間として望ましい属性を備えていることの証拠となる。
しかし、「正しい日本語とはどんなものなのか」「正しい日本語を使っているのは誰なのか」あるいは「誰の文章が正しい日本語の模範なのか」--ということになると、それは分からないとしか言えない。
現代の日本語には、残念ながら、依拠すべき「手本」のようなものが存在しないのが実情だ。それに、日本語の場合には、規範となる文法が詳しく記された書物もない。
だから、一体何が正しい日本語なのかを誰も知らないのに、正しい日本語を使って自分の考えを表すべきだと誰もが思っているのが、日本という国の言語状況なのである。
現代のアラビア語ならば、少なくとも書き言葉ならば『コーラン』という、従うべき絶対的な規準がある。ローマ時代から中世を通じて、ヨーロッパの文章語として君臨したラテン語についても、散文ならば作家のキケロ、韻文ならば詩人のウェルギリウスという手本があった。
だから、アラビア語やラテン語の書き手は、これらの拠るべき規範にできるだけ近くなるような文章を作るように心がけておけば、それで一応は正しいと判断されることができた。
日本語にしても、鎌倉期以降であれば、藤原定家が定めた「仮名遣い」に従って文章が書かれたのだが、その文章は、いわゆる「擬古文」だった。つまり、室町時代の世阿弥であれ、江戸時代の芭蕉であれ、平安時代の書き言葉を規範として作品を書いたということである。
文章語と口語は一致した方が便利
このような事例を見ると、文章の規範というのは、結局のところ「古典」に求められるということになりそうだ。現代の日本でも、和歌や俳句を作るような場合には、擬古文で書かれることが多いから、平安時代の日本語を規範とすることになる。
書き言葉と話し言葉が非常に違っていても構わないというのであれば、規範を古典に求めることには、何の問題もないだろう。
アラビア語やラテン語、それに現代のギリシア語はまさにそのような状況にある。
しかし現代の日本では、書き言葉と話し言葉は、あまり大きく違わない方がいいというのが、一般に認められている立場である。特別に古典を勉強しなくても、誰もが容易に文章を書くことができるようにしたければ、文章語と口語はできるだけ一致していた方が都合がよい。
しかし、この立場には実に大きな問題がある。それは、日本語は絶えず変化しているという事実である。日本語だけではなく、どんな言語でも必ず時間とともに変化するようになっている。
仮に現代の日本語で、正しい日本語とはNHKのアナウンサーが使っている日本語でこれを規範とすると決めたとしょう。ところが少し時代が経てばこの規範に従っても、誰もが正しいと認める日本語を使っていることには必ずしもならない可能性がどうしても出てくる。
拠るべき「手本」は存在しない
実際的規範は近代文学に求めたい
それに、言語に規範があると言っても、古典語であれ現代語であれ、規範を与える作品や作家などが決まっているだけであって、言語を使うための具体的な規則がどんなものなのかが明示的に書かれているというわけでもないのが普通だ。だとすると、自分が使っている言語が本当に規範の定めるところに従ったものなのかどうかは、大多数の人には判然としないということになる。
このように、規範を古典に求める場合には、そもそもの規範とは一体どんな性質をもった規則群なのかが分からない。また、現代語の話し言葉のどれかに求める場合には、やはり規範の性質が不明だというだけでなく、一度決まった規範がすぐに古くなって、規範としての役割を果たすことはできなくなる。
つまり、正しい日本語とは何かを教えてくれるはずの規範は、実質的には存在することができないということなのである。それでは、私たちはどこに正しい日本語の拠り所を求めればいいのだろうか。言語学者ならば、それぞれの人間の頭の中にあると言うだろう。しかし、それでは実際的ではない。
私ならば、大正期以降の定評ある作家の作品のどれかを選んで、それを自分の日本語の手本にするだろう。現在の近い時期の優れた作家が書いた日本語であれば、それを手本とした日本語を作ったとして、文句を言われることは恐らくない。存在するはずのない規範を、それでも擬似的に求めようとすれば、やはり日本が誇る近代文学の作品、つまり現代の古典にたどり着かざるを得ないのではないだろうか。
名古屋大学大学院教授 町田健
専門は言語学 文の意味と構造の関係、日本語の文法などを研究対象とする。
著書に『言語学が好きになる本』『言語が生まれるとき・死ぬとき』など。
かつては定家の「仮名遣い」に従って
日本語で文章を書いたり、あるいは人前で改まった話をしたりする時には、誰もが「正しい」日本語を使いたいと思う。それは当然のことで、正しい日本語を使いさえすれば、受け手が誤解する可能性は低くなり、自分が伝えたい内容を正確に理解してもらえる。
また、どんな言葉を使うのかは、家柄、職業、学歴などと同じく、人間の属性を決める重要な要因の一つだから、正しい日本語を使える能力を示すことは、人間として望ましい属性を備えていることの証拠となる。
しかし、「正しい日本語とはどんなものなのか」「正しい日本語を使っているのは誰なのか」あるいは「誰の文章が正しい日本語の模範なのか」--ということになると、それは分からないとしか言えない。
現代の日本語には、残念ながら、依拠すべき「手本」のようなものが存在しないのが実情だ。それに、日本語の場合には、規範となる文法が詳しく記された書物もない。
だから、一体何が正しい日本語なのかを誰も知らないのに、正しい日本語を使って自分の考えを表すべきだと誰もが思っているのが、日本という国の言語状況なのである。
現代のアラビア語ならば、少なくとも書き言葉ならば『コーラン』という、従うべき絶対的な規準がある。ローマ時代から中世を通じて、ヨーロッパの文章語として君臨したラテン語についても、散文ならば作家のキケロ、韻文ならば詩人のウェルギリウスという手本があった。
だから、アラビア語やラテン語の書き手は、これらの拠るべき規範にできるだけ近くなるような文章を作るように心がけておけば、それで一応は正しいと判断されることができた。
日本語にしても、鎌倉期以降であれば、藤原定家が定めた「仮名遣い」に従って文章が書かれたのだが、その文章は、いわゆる「擬古文」だった。つまり、室町時代の世阿弥であれ、江戸時代の芭蕉であれ、平安時代の書き言葉を規範として作品を書いたということである。
文章語と口語は一致した方が便利
このような事例を見ると、文章の規範というのは、結局のところ「古典」に求められるということになりそうだ。現代の日本でも、和歌や俳句を作るような場合には、擬古文で書かれることが多いから、平安時代の日本語を規範とすることになる。
書き言葉と話し言葉が非常に違っていても構わないというのであれば、規範を古典に求めることには、何の問題もないだろう。
アラビア語やラテン語、それに現代のギリシア語はまさにそのような状況にある。
しかし現代の日本では、書き言葉と話し言葉は、あまり大きく違わない方がいいというのが、一般に認められている立場である。特別に古典を勉強しなくても、誰もが容易に文章を書くことができるようにしたければ、文章語と口語はできるだけ一致していた方が都合がよい。
しかし、この立場には実に大きな問題がある。それは、日本語は絶えず変化しているという事実である。日本語だけではなく、どんな言語でも必ず時間とともに変化するようになっている。
仮に現代の日本語で、正しい日本語とはNHKのアナウンサーが使っている日本語でこれを規範とすると決めたとしょう。ところが少し時代が経てばこの規範に従っても、誰もが正しいと認める日本語を使っていることには必ずしもならない可能性がどうしても出てくる。
拠るべき「手本」は存在しない
実際的規範は近代文学に求めたい
それに、言語に規範があると言っても、古典語であれ現代語であれ、規範を与える作品や作家などが決まっているだけであって、言語を使うための具体的な規則がどんなものなのかが明示的に書かれているというわけでもないのが普通だ。だとすると、自分が使っている言語が本当に規範の定めるところに従ったものなのかどうかは、大多数の人には判然としないということになる。
このように、規範を古典に求める場合には、そもそもの規範とは一体どんな性質をもった規則群なのかが分からない。また、現代語の話し言葉のどれかに求める場合には、やはり規範の性質が不明だというだけでなく、一度決まった規範がすぐに古くなって、規範としての役割を果たすことはできなくなる。
つまり、正しい日本語とは何かを教えてくれるはずの規範は、実質的には存在することができないということなのである。それでは、私たちはどこに正しい日本語の拠り所を求めればいいのだろうか。言語学者ならば、それぞれの人間の頭の中にあると言うだろう。しかし、それでは実際的ではない。
私ならば、大正期以降の定評ある作家の作品のどれかを選んで、それを自分の日本語の手本にするだろう。現在の近い時期の優れた作家が書いた日本語であれば、それを手本とした日本語を作ったとして、文句を言われることは恐らくない。存在するはずのない規範を、それでも擬似的に求めようとすれば、やはり日本が誇る近代文学の作品、つまり現代の古典にたどり着かざるを得ないのではないだろうか。
名古屋大学大学院教授 町田健
専門は言語学 文の意味と構造の関係、日本語の文法などを研究対象とする。
著書に『言語学が好きになる本』『言語が生まれるとき・死ぬとき』など。