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ゆずりは ~子想~

幼い葉が成長するのを待って、古い葉が譲って落ちることから名付けられた「ゆずり葉の樹」。語りつがれる想いとは・・・

八戸工業大学

2006年10月23日 | これも自分あれも自分
八戸工業大学の学園祭に行ってきた。
目的は、サーヤに大学というところを見せてあげたかったことと、単なる暇つぶしと、工業大学というところでは何をしているのかを自分自身で知りたかったという探究心である。

八戸工業大学には、工学部(機械情報技術学科・電子知能システム学科・環境建設工学科・建築工学科・生物化学環境工学科・システム情報工学科)と、感性デザイン学部とがある。

学園祭では、ブロックのレゴを組み立てコンピューターを取り付けて動くロボットを作るところ、お菓子をつかむロボット(UFOキャッチャーの小型版)で遊べるところ、3D映像を紙に落として立体模型を作っているところ等々、それぞれの研究室で勉強していることの延長線上のワークショップが繰り広げられていた。
男の子は、パパと一緒になって、無我夢中!
パパの方が夢中な場合も多々見えた。童心に返っていたパパたちの目の真剣なこと!

その中で、とても気になったのが「感性デザイン学部」棟で行われていた“高齢者体験室”だ。
よく、パパになる夫にも妊婦体験!という文句で、お産の日イベントなんかに妊婦のおなかや胸に似せた重いベストのようなものを着させられる。
高齢者体験も、まさにそれと同様、体にいろいろなものを装着して、世のおじいちゃん、おばあちゃんの世界を体感するというものだ。
子どもら二人はよそに、私は試してみた。「今からママは、おばあちゃんになりまーす!」

まず、腰がいつも曲がっている状態にするもの。ベストの裾から伸びた紐で両ひざのサポーターがくっついている。これで腰は曲がったままだ。
次に、両腕、両足首に重たいおもりのようなものを取り付ける。体がずっしりし、圧迫されている感じがする。
そして、片腕にはさらに、腕がすこし曲がった状態に固定。
緑内障の人の視界と視力を再現したゴーグルをかけ、耳にはヘッドフォンで外界の音を聞き取りにくくする。
最後に、両手にはめられたぐにゃぐにゃとした手袋。これは、手の感触がなくなり、握力も減っていることを体感するためのもの。

私は杖を渡され、教室の中を歩いてみた。
音がぼわんぼわんとする中、両サイドがよく見えず、さらに緑色にかすんだ世界。長女サーヤの顔すら見えない。目の前20センチに近づいてようやく見えた。
サーヤを触っても、子どもの体温を感じるまでに時間がかかる。
腰が曲がっているのに、足元が見えない。腰を起こそうとしても起き上がれず、一緒にひざが前に曲がってしまう。おばあちゃんの伸びをよく見かけるが、まったく同じ動作だ。
そして、何にも増して、ずっと下を向いたままなのは、孤独だった。
不安だった。寂しかった。
今まで一生懸命生きてきた。つらく悲しい時もあったが、明るく楽しい時もたくさんあった。でも今は、こんなにも体が不自由で、世の中の道路・建物・子どもの騒ぐ声・オトナの会話(ほとんど聴こえないからこそ、嫌な気分がする)がわずらわしく感じる。なんにも分かってくれないくせに!ほっといてくれ!と考えてしまう。本当は、そんな風に感じたくないのに、悪い方へ考えてしまう。なぜ?
優しくしてほしい。ただ、笑顔で親切に、思いやりを持った声をかけてほしい。望むのは、それだけだ。
今まで生きてきた道のりを褒め称えたり、敬ったりするのは必要なくて、そんなことはぜんぜん求めていなくって、ただ、同じ人間として見てほしい。
・・・そう感じた。
高齢者も、障碍者も、そして不慮の事故によって、昨日までの健康体から一変してしまった人も、こう思うのだろうか。もし、そうだとしたら、体のケア・リハビリ、バリアフリーも大切だけど、心のケアと寄り添う気持ちがもっともっと大切なんじゃないかと思った。
いっぱい溢れんばかりの優しさをもらわないと、元気になれない気がしたのだ。どんな時でも、愛を注がれたい。そうじゃなかったら、生きていることがとっても苦しい。そんな風に感じたのだ。
私、きっとお年寄りや障碍者の方への対応が自然と変わる。そんな気がした日曜日。



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