広島城二の丸……1953(昭和28)年に史跡指定された城跡内では、往時の石垣や残された内堀を見ることができます。1989(平成元)年には広島城築城400年を記念して、二の丸の整備が進められ、1991(平成3)年には表御門と御門橋が、1994(平成6)年には平櫓、多聞櫓、太鼓櫓が完成しました。これにより城の中心である本丸を守る機能をはたしていた、本来の二の丸の姿が蘇りました。
広島城二の丸の役割……一般的に二の丸は、天守等がある本丸に次いで重要な曲輪であるため、相当な施設と大きさを持っていることが多いのですが、広島城の二の丸は、他の城郭と比べて規模が小さく、本丸と三の丸から独立した形となっています。このことから、広島城では二の丸そのものに「馬出(うまだし)」の役割があったと考えられます。「馬出」とは、虎口(城の出入口)の外側に半円形もしくは四角形の小規模な曲輪を設けて、虎口の防御とともに、出撃の拠点とする仕掛けです。広島城は二の丸のほかに、三の丸の西側と外郭北東にも馬出が設けられていました。
堀……現在の広島城の堀は、本丸と二の丸を囲む内堀しか残っていませんが、江戸時代は三の丸を囲む中堀と、さらにその周囲に配された四つの外郭を囲む外堀の三重の堀がありました。また、西側の本川も外堀の役割を果たしていました。堀の幅は、かっては100mを超えるところもあり、重い甲冑を身に着けた状態で堀を渡りきることは難しく、城の大きな防御となっていました。
平櫓(木造一重隅櫓 入母屋造 平屋建 延面積約108㎡)……毛利時代の創建と考えられますが二の丸平櫓台は、福島氏の時代の再興と思われています。
1812(文化9)年落電により屋根や壁を破損しており、そのときあるいは1872(明治5)年頃に撤去されたようです。復元には、「安芸国広島城所絵図」に描かれた姿図画が用いられ、江戸時代の姿に戻されています。
多聞櫓…
模型(多聞櫓内に設置)…
太鼓櫓(木造二重隅櫓 入母屋造 二階建)……二の丸唯一の二重櫓で、二階に太鼓を置き、時太鼓を打って城門の開閉の合図を行った重要な櫓です。1620(元和6)年に台座の石垣が崩壊したため再建されました。表御門より建築時代が新しかったので、屋根の反りも少なし年代相応の趣を見せていました。太鼓櫓という特殊性から、二階に高欄付きの廻縁を設けるなど、城内のほかの二重櫓とは全く異なった造りでした。
広島城の二の丸の仕掛け…
①正攻法で、橋から攻める相手には、表御門の櫓の上などから火縄銃や弓矢で攻撃します。
②堀を渡る相手には、櫓や堀にある△や▢の形をした「狭間(さま)」と呼ばれる穴から、火縄銃や弓矢で攻撃します。
③二の丸の西側半分は建物が無く、空き地となっているため、戦時等の際は兵士の集合場所とすることができます。また、南側は石垣が高く、その上に櫓があるため堀の外から二の丸内の兵の動きを窺えないようになっています。反対に、北側は石垣が低くなっており、万が一、二の丸内に相手が侵入しても、本丸から攻撃を仕掛けることが可能です。
広島城再建天守閣の鯱瓦……1958(昭和33)年の広島城天守閣再建時に製作された鯱瓦です。原爆で崩壊した広島城を再建する際には、過去の図面や外観写真などが参考にされました。しかし、鯱瓦については細部が不明であったため、福山城の筋鉄御門の鯱瓦などを参考にし、製作されました。この鯱瓦は1991(平成3)年の台風19号により破損し、二代目と取り換えられたため二の丸にて展示されています。二代目の鯱瓦は、2001(平成13)年の芸予地震により破損し、現在の天守閣の屋根にあるものは三代目の鯱瓦です。
二の丸から広島サッカースタジアムを眺めることができます。
(参考:「広島城 二の丸」案内資料より)
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