「受験生のための『世界史B』」 もくじ
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さて、紀元前5世紀のギリシア。
コリントス、アルゴス、オルコメノス……
たくさんのポリスが栄えていました。
その中でも、ひときわ勢力が強かったのが、
アテネとスパルタです。
BC5~BC4の間、このふたつのポリスが互いにしのぎを削りながら、ギリシアの二大勢力として発展していくのです。
ゾクゾク。
[アテネ:民主化]
アテネは、なんといっても民主化のポリスです。
まず、お金持ちの貴族たちが政治を支配していた紀元前7世紀。
ドラコンという人が現れ、それまで明文化されていなかった法律を、はっきりとした文章に起こしました。
これによって、それまでは
「この町ではおれたちが法律なんだよ~、へっへっへ。」
と北斗の拳みたいなことを言っていた貴族たちが、何も言えなくなっちゃったという。
すばらしい。
そして、そのあとに現れたのがソロン。
彼が行った改革、ソロンの改革は、大きく分けてふたつの内容になります。
(1)債務奴隷の禁止……お金が払えないときは奴隷となって稼がなければならないという慣習を禁止した
(2)財産政治……財産の量によって市民を4段階に分けた
(2)の方は現代人の感覚ではいまいちよくわからないですが、これによって、とりあえず「貴族でないただの市民であっても、お金さえあれば地位を得られる」という民主化への足がかりを作ったことになるわけです。
一歩一歩、そろそろと民主化への道をたどっていった。
というわけで、ソロンの改革が行われた紀元前594年は、「そろそろ594(いくよ)、ソロンの改革」と覚えましょう(笑)
[アテネ:僭主の出現]
さて、民主化が順調に進んでいく中で、民衆の支持を得て非合法に権力を握るものたちが出てくるようになりました。
これを僭主といいます。
独裁者、というのとは少し違う気がするのですが。。。
いずれにしろ、「民衆の支持を得て」リーダーになったわけですから、民主政治を進めるアテネらしい現象ともいえるでしょう。
それを裏付けるかのように、僭主の中にはすごいやつもいました。
ペイシストラトスです。
覚えにくっ。
実はソロンの友人である彼は、貴族の土地を貧しい農民たちに分配して、彼らを援助したのです。
ペイシストラトスのおかげでアテネの民主化はいっそう進み、アテネはますます強いポリスになりました。
この時代をアテネの全盛期だとする見方もあります。
しかし。
そのペイシストラトスの息子はひどいやつで、自分の権力ばかり優先した暴虐な政治を行いました。
僭主の悪い面が出てしまったわけですね。
そんな僭主の出現を防止しようと、クレイステネスという名前の覚えにくい人は、陶片追放(オストラシズム)というシステムを思いつきました。
これはですね、
陶器の破片↓

に、
「こいつは僭主になりそうだから危ないぜ」
という人の名前を書かせ、獲得票数の多かったかわいそうな人を10年間国外追放しちゃう、という画期的なやり方なのです。
何故陶器の破片だったかというと、
おれは知らん。←
以上、アテネの民主化のプロセスを画像でお伝えします。

どらこん
↓

そろそろおじさん
↓

陶器でリサイクル
[スパルタ]
「スパルタ教育」って、今ではあんまり言わないんですかね?
どうですか、おれより年下の世界史受験生のみなさん(笑)
スパルタって言ったら、軍隊のポリスです。
アテネといい感じで対比してとらえられたらいいですね。
まず、スパルタのお母さんたちは、
生まれた子どもが弱そうな体格をしていたら、
山の穴にぶち込みます。
で、成長した子どもは7歳で親元から離されます。
さらに、裸で共同生活。
18歳で軍隊に編入です。
お母さんは、子どもを戦場に送りだす際にこう言いました。
「盾とともに帰るか、
盾に乗って帰れ。」
……サーフィン?
そんなBeach Boys(わかんないよね)なスパルタ。
最初に、その軍国的・鎖国的なスタイルを定めたのはリュクルゴスという伝説上?の人物です。
(ギリシアはこういう「伝説上」で実在したかどうかわからないものが多いんです)
スパルタの人々の構成は、以下の通りでした。
完全市民……9000人:参政権をもち、軍隊の中心となる
ペリオイコイ(不完全市民)……4万~6万人:軍隊に行かなければならないが、参政権はもたない
ヘイロータイ(ヘロット、隷属農民)……14万~20万人:農耕労働を強制される奴隷
それぞれの階級の人口の割合を見ただけでもわかると思いますが、
民主政とは程遠い寡頭政(少数の者が支配する政治)です。
どうです、このアテネとスパルタのちがいはおもしろいでしょ!
対立するのも納得です。
でも、こんなふたつのポリスが手を取り合って戦ったことが一度だけあったのです。
とある強敵を前にして。
次回、乞うご期待!
今回はうまくいったぞ。うわははは。
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さて、紀元前5世紀のギリシア。
コリントス、アルゴス、オルコメノス……
たくさんのポリスが栄えていました。
その中でも、ひときわ勢力が強かったのが、
アテネとスパルタです。
BC5~BC4の間、このふたつのポリスが互いにしのぎを削りながら、ギリシアの二大勢力として発展していくのです。
ゾクゾク。
[アテネ:民主化]
アテネは、なんといっても民主化のポリスです。
まず、お金持ちの貴族たちが政治を支配していた紀元前7世紀。
ドラコンという人が現れ、それまで明文化されていなかった法律を、はっきりとした文章に起こしました。
これによって、それまでは
「この町ではおれたちが法律なんだよ~、へっへっへ。」
と北斗の拳みたいなことを言っていた貴族たちが、何も言えなくなっちゃったという。
すばらしい。
そして、そのあとに現れたのがソロン。
彼が行った改革、ソロンの改革は、大きく分けてふたつの内容になります。
(1)債務奴隷の禁止……お金が払えないときは奴隷となって稼がなければならないという慣習を禁止した
(2)財産政治……財産の量によって市民を4段階に分けた
(2)の方は現代人の感覚ではいまいちよくわからないですが、これによって、とりあえず「貴族でないただの市民であっても、お金さえあれば地位を得られる」という民主化への足がかりを作ったことになるわけです。
一歩一歩、そろそろと民主化への道をたどっていった。
というわけで、ソロンの改革が行われた紀元前594年は、「そろそろ594(いくよ)、ソロンの改革」と覚えましょう(笑)
[アテネ:僭主の出現]
さて、民主化が順調に進んでいく中で、民衆の支持を得て非合法に権力を握るものたちが出てくるようになりました。
これを僭主といいます。
独裁者、というのとは少し違う気がするのですが。。。
いずれにしろ、「民衆の支持を得て」リーダーになったわけですから、民主政治を進めるアテネらしい現象ともいえるでしょう。
それを裏付けるかのように、僭主の中にはすごいやつもいました。
ペイシストラトスです。
覚えにくっ。
実はソロンの友人である彼は、貴族の土地を貧しい農民たちに分配して、彼らを援助したのです。
ペイシストラトスのおかげでアテネの民主化はいっそう進み、アテネはますます強いポリスになりました。
この時代をアテネの全盛期だとする見方もあります。
しかし。
そのペイシストラトスの息子はひどいやつで、自分の権力ばかり優先した暴虐な政治を行いました。
僭主の悪い面が出てしまったわけですね。
そんな僭主の出現を防止しようと、クレイステネスという名前の覚えにくい人は、陶片追放(オストラシズム)というシステムを思いつきました。
これはですね、
陶器の破片↓

に、
「こいつは僭主になりそうだから危ないぜ」
という人の名前を書かせ、獲得票数の多かったかわいそうな人を10年間国外追放しちゃう、という画期的なやり方なのです。
何故陶器の破片だったかというと、
おれは知らん。←
以上、アテネの民主化のプロセスを画像でお伝えします。

どらこん
↓

そろそろおじさん
↓

陶器でリサイクル
[スパルタ]
「スパルタ教育」って、今ではあんまり言わないんですかね?
どうですか、おれより年下の世界史受験生のみなさん(笑)
スパルタって言ったら、軍隊のポリスです。
アテネといい感じで対比してとらえられたらいいですね。
まず、スパルタのお母さんたちは、
生まれた子どもが弱そうな体格をしていたら、
山の穴にぶち込みます。
で、成長した子どもは7歳で親元から離されます。
さらに、裸で共同生活。
18歳で軍隊に編入です。
お母さんは、子どもを戦場に送りだす際にこう言いました。
「盾とともに帰るか、
盾に乗って帰れ。」
……サーフィン?
そんなBeach Boys(わかんないよね)なスパルタ。
最初に、その軍国的・鎖国的なスタイルを定めたのはリュクルゴスという伝説上?の人物です。
(ギリシアはこういう「伝説上」で実在したかどうかわからないものが多いんです)
スパルタの人々の構成は、以下の通りでした。
完全市民……9000人:参政権をもち、軍隊の中心となる
ペリオイコイ(不完全市民)……4万~6万人:軍隊に行かなければならないが、参政権はもたない
ヘイロータイ(ヘロット、隷属農民)……14万~20万人:農耕労働を強制される奴隷
それぞれの階級の人口の割合を見ただけでもわかると思いますが、
民主政とは程遠い寡頭政(少数の者が支配する政治)です。
どうです、このアテネとスパルタのちがいはおもしろいでしょ!
対立するのも納得です。
でも、こんなふたつのポリスが手を取り合って戦ったことが一度だけあったのです。
とある強敵を前にして。
次回、乞うご期待!
今回はうまくいったぞ。うわははは。
映像がきれいなやつ、なんだっけ。
200みたいな・・笑
やっぱり文かくの ウマイネ。ウマイヤ朝。
ローマ月曜までにやってくれませんか・・・←
300(スリーハンドレッド)だった
オシかった・・・。
ローマを今日までにやるのは、物理的に無理でした。笑
これでもペース早い方だし。。。←
ソロンの改革594(ごくよ)ろしくない
なんていうゴロで覚えてたような気がします。
なつかしい・・・・。
陶片追放は、焼くのに失敗した陶器の破片をリサイクルしたみたいです。
紙使うの勿体無くね?って感じで。
それは置いといて報告なんですが、ここの解説のお陰で、歴史が92点取れたんですよ(*´∀`*)!!
本当に助かりました(はぁと
すみません、すみません(涙
ごろ合わせっていろいろあっておもしろいですよね。
1800~なんかは非常に時代が濃いのでだんだんネタがなくなってきて困りました(笑)
へー!!
それはばっきーさんの実力ですよ。
でも、よかったよかった。
好きこそものの上手なれ、ですから、がんばってください。
世界史のテスト93点でしたよ!
苦手だとおもっていた世界史が90点台だなんて・・・!
有難うございました!
2学期も重宝させていただきます!
このぶんじゃすべての範囲が終わるのは何十年後になるやら。。。汗
いえいえ、amuiさんの実力ですよ。
夏休みエンジョイしてください。
遊べるのも今のうち!笑
今は授業と並行しながら、ブログ楽しく読んでいます( *´艸`)
とっても分かりやすいです♪ありがとうございますヾ(*´▽`*)ノ