「受験生のための『世界史B』」 もくじ
↑ここから各項目に入れます。
……とまあ、個人的にはローマVSカルタゴの戦争をじっくり書きたいところなのですが、
この場面、教科書ではわずか6行なので、さっさと終わらせなければならないオーラがはなはだしいです。
というわけで、さっとやります。さっと。
[第一回ポエニ戦争]
ローマ人は、何を食べるかご存知ですか?
ヨーロッパの人というと、ついカロリーの多い肉を中心とした生活をイメージしてしまいがちです。
しかし、ローマ人(イタリアの人々)は、パンと魚で育っていました。
実は、現在のヨーロッパの肉食というのは現在のフランスのほうから広がったものだったりするのです。
というわけでローマ人はパンが大好き(たぶん)なのですが、その原料となる小麦をさかんに栽培している島がありました。
シチリアです。
ローマとカルタゴ、最初の戦争はこのシチリアをめぐって起きました。
第一回ポエニ戦争です。
もちろん、つい最近イタリアを統一したばかりのローマには、地中海最強のカルタゴの海軍に対抗するような力はありませでした。
その力の差は極めて大きかった。
なのに、ローマはカルタゴと互角の戦いを演じます。
フェニキア人と同じく海運力に優れたギリシア人の助けを借りることができたからです。
征服した民族に対して寛容であるローマの姿勢がここでも生きたわけですな。
いろいろありつつも、結果的にローマはシチリアをカルタゴの元から奪います。
しかし、ローマの損害も大きかったので、どちらが勝ったとは言いにくい戦争でした。
ちなみに、このときローマと戦ったカルタゴの武将の名前は、バルカ=ハミルカルといいました。
[第二回ポエニ戦争]
第一回ポエニ戦争で、ローマとカルタゴ、両方ともすごく疲れてました。
「もう戦争なんかごめんだ!」
それがお互いの本音。
だって、ローマは欲しかったシチリアを手に入れることができたのですから、これ以上カルタゴと戦争をする必要もないですし、カルタゴのほうも、一度ローマに負けたとはいえ相変わらず地中海最強の国でしたから、無理にローマとやり合わずとも穏便にやっていけたのです。
しかし、何故か戦争は起こりました。
その原因は、カルタゴの一人の将軍にあるといわれます。

ハンニバル。
フルネームでは、バルカ=ハンニバルといいます。
そう、第一回ポエニ戦争でローマにシチリアを奪われた将軍、バルカ=ハミルカルの息子なのです。
幼いころから、彼は父親のかたき討ちを狙っていました。
第二回ポエニ戦争は、ハンニバルの個人的な憎悪によるものだったと言っても……いいんじゃないかな、と……←
ハンニバルは、天才的な戦略家でした。
第一回ポエニ戦争以来、ローマとカルタゴはいくつか小競り合いをしてきましたが、そのどれもが決定的なものではなかった。
ならば、どうすればローマを屈服させられるのか?
答えはひとつです。
イタリア半島に直接攻め込む。
しかも、その方法は奇襲でなければならない。
カルタゴ本国からローマまでだらだらと軍隊を率いていったのでは、ローマの名だたる重装歩兵部隊に「待ち伏せておいてくれ」と言っているようなものです。
いきなり攻め込んで、ローマに迎撃の隙を与えてはいけないのです。
そこで、ハンニバルは決断しました。
アルプス越えを。

右下に見えるのがイタリア半島ですよね。
白く連なっているのがアルプス山脈です。
この険しい山々を、ハンニバルは軍隊を引き連れて越えたのです。
敵は山脈の横とか海から来るだろー!
と予測していたローマ軍は驚き、慌てふためきました。
お客さんが玄関ではなく、2階の壁を突き破って入ってきたようなもんですから。
ローマの地元であるイタリア半島は、蹂躙されました。
自慢の重装歩兵部隊の活躍もままならず、アレクサンドロス大王を理想像に掲げる策略家ハンニバルの作戦に次から次へとハマっていきます。
その最たるものが、カンネーの戦いです。
この戦いで、ハンニバルの策略によってローマ軍は包囲殲滅させられました。
戦闘というより、虐殺に近いものだったようです。
ハンニバルにずっと負けっぱなしだったローマ。
さすがに国全体の雰囲気が重く、暗くなっていきます。
当時、ハンニバルはまだ30代の若者。
バルカ(=フェニキア語で「雷光」という意味)の姓をもつこの男をローマの市民は大いに恐れ、
今でも親は子どもたちに「悪いことをするとハンニバルが来るぞ」と言ってしつけるそうです。
そんな中、ひとりの若者がローマの執政官に選ばれました。
スキピオ。
ハンニバルにやられっぱなしだったローマは、ハンニバルよりももっと若い彼を、ハンニバルの本拠地であるスペインに送り込みます。
さっきちらっと書きましたが、
ハンニバルはアレクサンドロス大王を師と仰いでいました。
では、スキピオはどうか?
彼は、ハンニバルを戦略家の師匠と見ていたのです。
スキピオの巧みな奇襲と包囲、それこそハンニバルが最も得意としていたやり方で、彼はスペインを瞬時に陥落させます。
根拠地を失ったハンニバルはカルタゴ本国に「お前もうそろそろやめとけや」と呼び戻され、ローマはようやく息を吹き返し、
第二回ポエニ戦争は、かろうじてローマの勝利に終わりました。
↑ここから各項目に入れます。
……とまあ、個人的にはローマVSカルタゴの戦争をじっくり書きたいところなのですが、
この場面、教科書ではわずか6行なので、さっさと終わらせなければならないオーラがはなはだしいです。
というわけで、さっとやります。さっと。
[第一回ポエニ戦争]
ローマ人は、何を食べるかご存知ですか?
ヨーロッパの人というと、ついカロリーの多い肉を中心とした生活をイメージしてしまいがちです。
しかし、ローマ人(イタリアの人々)は、パンと魚で育っていました。
実は、現在のヨーロッパの肉食というのは現在のフランスのほうから広がったものだったりするのです。
というわけでローマ人はパンが大好き(たぶん)なのですが、その原料となる小麦をさかんに栽培している島がありました。
シチリアです。
ローマとカルタゴ、最初の戦争はこのシチリアをめぐって起きました。
第一回ポエニ戦争です。
もちろん、つい最近イタリアを統一したばかりのローマには、地中海最強のカルタゴの海軍に対抗するような力はありませでした。
その力の差は極めて大きかった。
なのに、ローマはカルタゴと互角の戦いを演じます。
フェニキア人と同じく海運力に優れたギリシア人の助けを借りることができたからです。
征服した民族に対して寛容であるローマの姿勢がここでも生きたわけですな。
いろいろありつつも、結果的にローマはシチリアをカルタゴの元から奪います。
しかし、ローマの損害も大きかったので、どちらが勝ったとは言いにくい戦争でした。
ちなみに、このときローマと戦ったカルタゴの武将の名前は、バルカ=ハミルカルといいました。
[第二回ポエニ戦争]
第一回ポエニ戦争で、ローマとカルタゴ、両方ともすごく疲れてました。
「もう戦争なんかごめんだ!」
それがお互いの本音。
だって、ローマは欲しかったシチリアを手に入れることができたのですから、これ以上カルタゴと戦争をする必要もないですし、カルタゴのほうも、一度ローマに負けたとはいえ相変わらず地中海最強の国でしたから、無理にローマとやり合わずとも穏便にやっていけたのです。
しかし、何故か戦争は起こりました。
その原因は、カルタゴの一人の将軍にあるといわれます。

ハンニバル。
フルネームでは、バルカ=ハンニバルといいます。
そう、第一回ポエニ戦争でローマにシチリアを奪われた将軍、バルカ=ハミルカルの息子なのです。
幼いころから、彼は父親のかたき討ちを狙っていました。
第二回ポエニ戦争は、ハンニバルの個人的な憎悪によるものだったと言っても……いいんじゃないかな、と……←
ハンニバルは、天才的な戦略家でした。
第一回ポエニ戦争以来、ローマとカルタゴはいくつか小競り合いをしてきましたが、そのどれもが決定的なものではなかった。
ならば、どうすればローマを屈服させられるのか?
答えはひとつです。
イタリア半島に直接攻め込む。
しかも、その方法は奇襲でなければならない。
カルタゴ本国からローマまでだらだらと軍隊を率いていったのでは、ローマの名だたる重装歩兵部隊に「待ち伏せておいてくれ」と言っているようなものです。
いきなり攻め込んで、ローマに迎撃の隙を与えてはいけないのです。
そこで、ハンニバルは決断しました。
アルプス越えを。

右下に見えるのがイタリア半島ですよね。
白く連なっているのがアルプス山脈です。
この険しい山々を、ハンニバルは軍隊を引き連れて越えたのです。
敵は山脈の横とか海から来るだろー!
と予測していたローマ軍は驚き、慌てふためきました。
お客さんが玄関ではなく、2階の壁を突き破って入ってきたようなもんですから。
ローマの地元であるイタリア半島は、蹂躙されました。
自慢の重装歩兵部隊の活躍もままならず、アレクサンドロス大王を理想像に掲げる策略家ハンニバルの作戦に次から次へとハマっていきます。
その最たるものが、カンネーの戦いです。
この戦いで、ハンニバルの策略によってローマ軍は包囲殲滅させられました。
戦闘というより、虐殺に近いものだったようです。
ハンニバルにずっと負けっぱなしだったローマ。
さすがに国全体の雰囲気が重く、暗くなっていきます。
当時、ハンニバルはまだ30代の若者。
バルカ(=フェニキア語で「雷光」という意味)の姓をもつこの男をローマの市民は大いに恐れ、
今でも親は子どもたちに「悪いことをするとハンニバルが来るぞ」と言ってしつけるそうです。
そんな中、ひとりの若者がローマの執政官に選ばれました。
スキピオ。
ハンニバルにやられっぱなしだったローマは、ハンニバルよりももっと若い彼を、ハンニバルの本拠地であるスペインに送り込みます。
さっきちらっと書きましたが、
ハンニバルはアレクサンドロス大王を師と仰いでいました。
では、スキピオはどうか?
彼は、ハンニバルを戦略家の師匠と見ていたのです。
スキピオの巧みな奇襲と包囲、それこそハンニバルが最も得意としていたやり方で、彼はスペインを瞬時に陥落させます。
根拠地を失ったハンニバルはカルタゴ本国に「お前もうそろそろやめとけや」と呼び戻され、ローマはようやく息を吹き返し、
第二回ポエニ戦争は、かろうじてローマの勝利に終わりました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます