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大学生の世界横断!!若者が行くバックパッカーの旅!

この世で何ができるか
そんなことを本気で考え旅へ
基本陸路だけで駆け抜けます!

動画と写真を沢山載せま~す♪

『アウシュビッツの悲劇を私の目線でお届けします』

2012-11-14 04:30:49 | 東ヨーロッパ

アウシュビッツへ――

人がしてきた非道な行為を自分もするかもしれない

他人事のように言うのではなく、弱さを認めるように

自分の隠れた残虐さ凶暴さ

それを自覚することが大切である

 

現在26か国目!!

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クラコフからアウシュビッツ(オシフェンチム)まで、列車を使っていきます
私かケンシロウのどちらかが雨男なのかもしれません(笑)

  

駅近くにいくと、なんか鳩がいっぱい同じ場所に並んでいて、圧巻

何してんねんお前ら(笑)

クラコフ中央駅からOswlecim(オシフェンチム)まで
もちろん、ユーレイルなので無料^^

  

列車はとてもレトロな感じです
列車の窓にユダヤの紋章が

なんかサイレントヒルを思い出す雰囲気の風景が流れていきます


霧がかかっていてさらになんか気味の悪い雰囲気を漂わせています
その風景を窓から眺めて、1時間40分

Oswlecim(オシフェンチム)へ到着
駅前のバス停からアウシュビッツ行(museum)に向かいます
15分ほど歩いて行ける距離ですが最初はバスを使った方がいいです^^

そして到着したのがここアウシュビッツ博物館
アウシュビッツに収容された人々は監禁され、飢え、重労働、医学実験、死刑執行の手段で虐殺されていったことはみなさんご存じだと思います。
それは、1942年からで、この収容所はヨーロッパにおけるユダヤ人の最も大きな絶滅センターになったのです。

  

アウシュビッツの入場は無料。私たちはなぜかシアターも無料でした(笑)
ただ、ツアーじゃないとオーディオガイドは付かないのでパンフレットを5zfで買ってみて周ります

アウシュビッツ収容所正門にはドイツ語でArbeit Macht Frei「働けば自由になる」という皮肉なプレートが掲げられています。しかし、この門をくぐったユダヤ人の80%以上は帰らぬ人となりました。

その門をくぐった囚人たちは毎日労働に出かけ、そして数時間後に帰ってきました。中庭の小さな広場では、SS隊員が何千人もの囚人の数をよりスムーズに数えることが出来るようにするため、そして囚人たちがおりスムーズに行進出来るように、収容所の音楽隊が行進曲を演奏していたそうです。

2重に張られた頑丈な鉄格子が当時の様子を鮮明にイメージすることが出来ます
これには交流で400V近い電圧の有刺鉄線が張り巡らされています。高圧電気が通じている有刺鉄線が幾重にも細かく張られているのです。これでは、よじ登って脱走するのは無理でしょう。よじ登った人々は射殺とは別に、高圧電線により感電死しました

全体の様子をビデオで撮影したのでどうぞ


全体はこんな感じ
この収容施設は「バラック」と呼ばれていて、そのバラックが展示場となっているようです
アウシュビッツ収容所は第2次世界大戦中5年間にも及びナチ・ドイツによって占領された国の国民に恐怖感を与え続けた。この収容所は1940年にポーランド人政治犯を収容するために設立されました。

ユダヤ人の大虐殺で有名ですが、当初はポーランド人の虐殺の場として利用する予定であったが、時間が経つとともにナチスは全ヨーロッパの人間、主にそれぞれの国籍をもったユダヤ人、そしてジプシーとソ連軍の捕虜をここに送り始めました。囚人にはチェコ人・ユーゴスラビア人・フランス人・オーストリア人・そしてドイツ人もいました。収容所が解放されるまでポーランド人の政治犯もここに送り続けられていました。

上の写真は下の写真は、アウシュビッツ強制収容施設に収容された人の数、犠牲者数です。

アウシュビッツ強制収容所は、1940年から1945年の間に少なくとも130万人の人々が送り込まれ、110万人、すなわち85%が犠牲者となっており、犠牲者の90%がユダヤ人であるとされています。

ハンガリーから送り込まれたユダヤ人が一番多く43万人、次に地元ポーランドが30万人で2番目、3番目がフランスで6万9千人、4番目がオランダからで6万人、5番目がギリシャで5万5千人、6番目がチェコで4万6千人、7番目がスロバキアで2万7千人、8番目がベルギーで2万5千人、9番目がオーストリアとドイツで2万3千人、10番目がユーゴスラビアで1万人、11番目がイタリアで7千500人、12番目がノルウェーで690人、その他として他の強制収容所から3万4千人がアウシュビッツに送り込まれたとされていることになります。

つまり、欧州全域でユダヤ人の迫害と虐殺を行っていたことが分かるのです。

不当逮捕・強制連行されて移送されてきた人々の様子

下はアウシュビッツ強制収容所の特別積み下ろし場に到着したひとたちです。

強制移送されたひとのなかには、アウシュビッツ収容所から2000km以上離れた場所から満員の貨物車で送られてきた人もいました。貨車では食事もトイレもなく、ぎっしりと押し込まれたのです。アウシュビッツに到着するまで一週間から10日間……この中でほとんどの老人と子供は死んでいて、生き残った人々も衰弱していたそうです。

貨車は1943年までは貨物用の引き込み線駅に降ろされました。下車すると直ぐに、ナチス・ドイツのSS将校とSSの医師による人間の選別が行われたそうです。
労働が可能なものと、できそうもないもの2つに選別され、労働ができそうもないとSSに判断されたひとは、ガス室野原焼かれて殺害されたといいます

ルドルフ・ヘス元所長ののちの証言によると、到着したひとびとの70から75%がガス室かその他で殺害されたという。
さらに収容所に到着したひとたちは、自分の財産のなかで最も価値の高いものを持参したのですがそれも没収され、さらに服や靴さえも全て剥ぎ取れました

櫛の一本までも……

靴さえも……
そして着せられた囚人服。殆ど洗われず死ぬまで着ることとなる服です。

さて、選別時に労働に耐えうると判断された収容されたユダヤ人などはどうなったのか。アウシュビッツに移送されてきた囚人の大部分の人々は飢餓、死刑執行、重労働、拷問、不衛生などの理由で死んでいきました。

囚人達は管理局長から「おまえ達に出口はひとつしかない。焼却炉の煙突だ!」と言われたといいます
新しく着いた囚人達は洋服などを取り上げられ、髪の毛を切られ、消毒を受けて囚人番号が付けられ登録されました

これが刺青で、さらにこの写真と同じところにある2階には大量の女性の髪の毛が置いてありました。

本当に悍ましいほどの量です。
アウシュビッツに送還された女性の囚人は髪を切られ、それらは、布などを作るのに使われたそうです

女性の髪で編まれた布も展示されていたのですが、普通の布と変わらず、これが普通に使われていることを容易に想像できるものでした。
さて、どうにか最初の死を逃れ収容所内に入れたとしても、そこは酷いものでした。

収容所の居住状況はいつも悲惨なものであった。最初の囚人達はコンクリートの上に置いてあった藁の上に寝ていました。

その後マットレスが配給されたそうですが、40人から50人用の部屋には、通常200人の囚人が入れられてた。その後につくられた3段ベッドも居住状況を改善したわけではなかったのです。

その所為で、収容所内は不衛生で伝染病が蔓延していたのです。とくにチフス、カイセンが流行していました。これらも命を落とす原因のひとつでした。
さらに病気を蔓延した原因があります、それは食事囚人の一日の摂取カロリーは1300~1700カロリーに過ぎず、体力を維持できなかったのです。

朝食は500CCのコーヒーと呼ばれた液体、昼食として1リットルのほとんど水のような腐った野菜で作られたスープしか与えられませんでした。夕食は300から350グラムの黒いパン、3グラムのマーガリンと薬草の飲み物などだったそうです。
重労働と飢えにより体力は完全に衰弱し、多くの囚人達は栄養失調となり死んでいきました。
解放後に発見された女性は体重が23から35キログラムにまでやせ衰えていたそうです。

飢餓の子供たちの写真
さらに当たり前のように囚人を虐げる行為も行われていました。

これはieczyslaw Koscielniak氏が描いたアウシュビッツ収容所における点呼の様子です。囚人にとってこれが一番の苦しみだったと言います。囚人を確認するための点呼ですが、点呼は時に数時間、または十数時間も続きました。
収容所当局は、懲罰のために点呼を行い、その時には囚人たちは屈んだ状態や手を挙げたまま点呼を受けさせられたそうです。
このようなことをさぞ当たり前に行っていたのだから恐ろしいものです。

さらに犯罪的な医学実験も行われていて、カール・クラウベルグ教授とホルスト。シューマン博士は、スラブ民族の生物学的な雑滅の方法研究の為に、男女の断種実験を行っていたそうだ。

それだけではないのです。双子や身体障碍者を使った実験。新薬の投与、皮膚に有害な物質を塗布する、移植する実験と様々な実験が行われていました。
実験中に死亡した人は、数百人にのぼり、生き残った人々にも当たり前のことながら色々な障害が残りました。
これによりドイツの医学が発展したともいわれていて、それが沢山の人を救っているというのは皮肉なものです……

さて、次にここが「死の壁」「黒い壁」と呼ばれる場所です

この「死の壁」あるいは「黒い壁」(Black Wall)と呼ばれる壁は、SS隊員が数千人規模の囚人、とくにポーランド人を銃殺するために使われました。
死刑執行(虐殺)のための使用された壁であり、現在もほぼ原型のまま残っています。

ご覧のように10号棟と11号棟の間にある中庭は、両側から高い壁で仕切られています。10号棟の窓に取り付けられている木製の窓枠は、中庭で行われていた死刑執行を見られないための細工であったとされています。
アウシュビッツ強制収容所視察で最後に訪れたのは、有名な人体焼却炉。
アウシュビッツの人体焼却炉は収容所を取り囲む有刺鉄線のすぐ外側にあります。

その入り口の前には絞首台がありました。
終戦後の1947年4月16日に、アウシュビッツ収容所の元所長、ルドルフ・ヘスが死刑執行がこの絞首台で行われています。

その側にあるのが焼却炉とガス室です

アウシュビッツ第1収容所(基幹収容所)にある焼却炉は、1940年8月15日~1943年7月までの間稼動しています。1日当たりの焼却数は約340名と推定されていて、単純に計算するとその間の焼却人体数は、約37万人……

1941年秋、アウシュビッツ収容所に試験的にガス室が作られ、サイクロンZyklon Bを用いてソ連軍の捕虜の殺戮を行い、その後、労働不能者やポーランド人死刑囚もここで殺害されていきました

これが使われた毒ガス、サイクロン
これを取りに行かせた命令書も一緒に置かれていました

どのような気持ちでこの毒ガスの元になる薬物をとり行っていたのでしょうか?
いや何も感じず取りに行ってたのでしょうか? 

動画でどうぞ


1台の炉には同時に2-3人の死体が入れられたとされています。囚人の多くは飢餓状態にあり、しかも重労働を強いられた飢えでの虐殺、病死者であり、体重もそうとう減少していたことから一度に2~3人同時にひとつのオーブンに入れ燃やしたという説は現実性があると実物を見て感じました。

戦争末期

アウシュビッツにソ連軍が近づいてくるとともに、倉庫から価値に高いものがドイツ本国に運び込まれる速度が高くなりました。そしてソ連による施設解放の直前には犯罪の後を消す目的でSSは倉庫に火を放ったのです。
それは『この行為が下劣な非人道的な行為で隠すべき犯罪である』と彼らは自覚していたということを示しているのではないでしょうか

もう一つ行きたかったところがあったのですが時間がなかったため行けませんでした。

それは第2のアウシュビッツと呼ばれるビルケナウ強制収容所です。ここから無料のシャトルバスで行けます。

世界的に有名なアウシュビッツ2、ビルケナウ強制収容所の「死の門」
映画『シンドラーのリスト』でも有名ですね
この引き込み線によって100万人以上の人々が強制収容所に連れ込まれ大部分は帰らぬ人となっています。

 


次は私の考察です。この先は読まれなくても結構です。しかし、あなた自身がこのホロコーストについてどう感じ何を思ったのかだけ考えてください。
お願いします。

 

では私の目線

アウシュビッツを周っていて、ぼそっと私はある言葉を発しました。
「人間の出来ることじゃない」
しかし、私はこの発した言葉をすぐさま首を振って取り消しました。
それは違う思ったからです。

これは人間がしたことなのです。もっと言えば、人間じゃないとできなかったことなのです

それも特別な人間ではなく私たちと同じ人間がしたことなのです!!

もし同じ状況下に置かれたら、私は殺すし殺されるのだと思います。
「私は絶対にしない!!」
と誰が言いきれるのでしょうか?これは人間というものの本質が引き起こしたことであり、それを行ってしまう可能性があるのではないでしょうか?

それはさまざまなところで行われた虐殺が物語っていると思います。
例えば、この強者が弱者を甚振る構図は身近でも起きているんです。
虐めとかまさにそうですよね。集団による排他的な行為と暴力。
これが違うと思いますか?縮図は一緒なんですよ

全員が自分たちがしていることを正当かし、人を傷つけ、もしその人が死んだとしても責任を押し付け合い。

これが集団の怖さで、自分がしてるかもしれない、するかもしれない、されるかもしれないということを忘れないようにしなければならないと思います。

ホロコーストの犠牲者に
もう2度とこのようなことが起こらないように祈りを捧げ
また2度とこのようなことを起こさないように誓い
今回の記事の末筆とさせていただきます


≪アウシュビッツへの行き方情報≫
●バスの場合
ターミナル:クラクフ本駅東口→アウシュビッツ(バス) 
      クラクフ本駅東口・ローカルバスターミナル
      regionalny dworzec autobusowy PKS 
乗り場:G1またはG2番乗り場
行き先:OSWIECIM 又はOSWIECIM博物館行き
所要時間:約1時間30分
バス運賃:約10zl
到着地:アウシュビッツミュージアム内の駐車場

●鉄道の場合 
ターミナル駅:クラクフ中央駅(Krakow Glowny)
行き先:Oswiecim方面行き
列車のオシフィエンチム駅からアウシュヴィッツ博物館まで徒歩で約20分
駅前のタクシーを利用すると約3分(料金は10から15zl)

帰途のバスと列車の時刻表。
●バス
KRAKOW(クラクフ)行きアウシュビッツ博物館内の駐車場から出発。

●鉄道
SWIECIM(オシフィエンチム駅)よりKrakow Glowny(クラクフ本駅)行き  

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『ルート66を走り アメリカ大陸を一緒に横断する旅仲間を募集しています!!』

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